子爵令嬢ソフィア・ロンバルディの話
ソフィア・ロンバルディには、年上の妹がいる。マルティーナ・ロンバルディだ。
ソフィアは、ロンバルディ子爵家の長女として生まれたが、5歳の時に母親アリーチェを病気で亡くした。
それから二ヶ月もしないうちに、父親はレベッカという平民の女性と再婚した。彼女には6歳になる連れ子がいた。それがマルティーナだ。
6歳というのは、本人から聞いた。
「私は6歳だから、あんたは妹。妹は姉の言うことを聞くものよ」
そう言って、偉そうにソフィアを見下ろした。
するとレベッカが慌てたように、
「あら、いやね、マルティーナったら。あなたは4歳じゃないの。ごめんなさいね、まだ何も習ってないから、ちょっと勘違いしてるみたい」
と、娘の腕を掴んだ。
「あ、そうだった。あたし、妹になるんだった」
そんなことがあるだろうか。
こんなに体が大きくて、自分の歳が分からないなんて。
初対面の印象は、その強い違和感だった。
最初の頃、継母のレベッカはソフィアに優しかった。
妹のマルティーナとも、特に争うこともなく過ごした。
ソフィアが7歳になると、家庭教師がつけられた。どうせならと、妹のマルティーナも一緒に勉強することになった。
そこでソフィアの優秀さが教師から褒められた。文字も計算も難なく覚え、隣国の言葉も学ぶことになった。一方のマルティーナは覚えが悪く、簡単な足し算もできなくて癇癪を起こした。
「マルティーナは、まだ小さいんだから仕方ないわ。来年になって、私と同じ歳になる頃には、簡単にできるようになるわよ」
ソフィアがそう言って慰めると、マルティーナは、
「偉そうに言わないで。あんたなんか、あんたなんか嫌い」
と、泣き出した。
家庭教師は、ソフィアとマルティーナを同じカリキュラムで進めるのは無理がある、年齢相応の学びを与えないと、苦手意識を植え付けて逆効果だと母親のレベッカに提言した。
それでマルティーナには、別の家庭教師がつくことになった。マルティーナも落ち着いて勉強するようになった。
この頃から、継母レベッカのソフィアに対する態度が冷たくなった。
まず、ソフィアに声をかけなくなった。ソフィアから話しかけても、聞こえないふりをして別の人に話しかける。ソフィアのドレスがマルティーナのお下がりばかりになった。マルティーナの方が背が高いのでお下がりにするのは不自然なことではないが、マルティーナの方がふくよかなので、ソフィアが着ると丈は合っていても、ブカブカでずんぐりして見えた。サイズ直しもしてくれなかった。
ある時、ソフィアが中庭に面した廊下を通りがかると、中庭で父とレベッカとマルティーナがお茶をしているのが見えた。
楽しそうに笑い合っていた。その父の笑った顔と、マルティーナの笑顔がそっくりだった。父はマルティーナの頭をくしゃくしゃと撫で、マルティーナは頬を膨らませて父の腕を掴んで抗議した。
幸せそうな家族の団欒だった。そこにソフィアはいない。いないことが、むしろ自然に見えた。
あれ?
急に、マルティーナたちとの出会いが思い出された。あの違和感。マルティーナは自分が6歳だと言った。レベッカが慌てて訂正した。父が何か言った覚えはない。
よく見ると、笑った顔だけでなく、眉の形も似ているように思う。
もしかしたら、マルティーナは、レベッカの連れ子と言うより、父とレベッカの間に生まれた庶子なのではないか。そしてソフィアより先に生まれていたのだとすると、父は結婚前から母を裏切っていたことになる。
その夜、ソフィアは部屋に来た古参のメイドに、
「ねえ、マルティーナって、本当に私の一つ年下だと思う?」
と、聞いてみた。
メイドはピクリと眉をしかめ、静かに言った。
「ソフィアお嬢様、そのことは決して口にしない方がよろしいかと。リサもマリアも、それで暇を出されました。あの子たちは、ただ身長のことを話していただけなのです。気づかないふりをしてください。ソフィアお嬢様が、ますます冷遇されることになります」
それで分かってしまった。やはりマルティーナは、父とレベッカの子だと。ソフィアより先に生まれていたのだと。だって、本当にただの連れ子なら、年齢をごまかす必要なんてないはずだ。
「そうね、気づかなかったことにするわ」
メイドにはそう答えたが、まだ子どものソフィアには、感情をすべて隠すことは難しかった。
父にもレベッカにも、態度がぎこちなくなってしまった。
よく観察すると、いつも父は、まずマルティーナに話を振った。ニコニコと聞いて、ソフィアはどうだ、とついでのように聞いた。短く答えると、すぐに話題は次に移った。そのうちソフィアには聞きもしなくなった。
父とレベッカとマルティーナ、その三人で世界が完結しているようだった。
特に目立った意地悪をされるわけではない。食事も一緒に同じものを食べた。衣類もおさがりでサイズが合わないとはいえ与えられた。ソフィアの趣味ではないし、ソフィアの髪色には似合わないのに、それは考慮されなかった。
茶会には、マルティーナだけが連れて行かれた。マルティーナはまだ小さいから、連れて行かないと泣くのと言って。本当はソフィアの方が年下なのに。
けれど、それに対して不満はなかった。レベッカとマルティーナがいない家の中は、楽に息ができた。好きなだけ本を読んで、ピアノを弾いて、歌を口ずさんだ。中庭で一人でお茶をした。青空の下、綺麗に手入れされた花に囲まれて、あとここに母が生きていてくれたら。そのことだけが寂しかった。
12歳になって、ソフィアは王立学園に入学した。
同じ学年に第二王子がいると知って、マルティーナも入学したいと騒ぎ出した。さすがにそれは叶わず、しばらく不機嫌さを隠そうともしなかった。
学園の一年目は、何事もなく過ごした。まだ卒業後の進路に合わせたクラス編成になっていないので、単純に親の爵位によってクラス分けされていた。
ソフィアはそこで子爵家のジュリアと男爵家のアンナと親しくなった。二人には兄や姉がいるので、家を継ぐ必要はない。嫁に行くにも持参金がないから、王宮の文官を目指しているという。
自分の場合はどうなのだろうと、ソフィアは考えた。
両親とマルティーナの様子を見るに、自分が家に残るより、マルティーナが家を継いで自分が家を出た方が、丸く収まる気がする。この国の法では下位貴族の子爵・男爵家は、庶子でも家が継げる。マルティーナが、ソフィアが想像する通り父の子であれば、家を継ぐのに問題はない。父はどうするつもりだろう。
その答えは、二年次からのクラス選択の際に明らかになった。
クラスは、領主科、騎士科、淑女科、文官科の四つだ。親の承諾がいるのでソフィアが父に相談に行くと、
「お前は賢いのだから、文官科だ」
と、言われた。
意外だった。順当に領主科か、貴族の駒として縁を結ぶなら淑女科のどちらかだと思っていたのだ。長女だし、マルティーナより賢いという自負もあった。
「子爵家はマルティーナが継ぐということですか」
「そうだ。マルティーナは、私とレベッカの子どもだ。最初にはっきり言わなかったのは、母親を亡くしたばかりのお前に、それを言うのは酷だと思ったのだ。アリーチェは身体が弱く、二人目の子は望めなかった。貴族家として、子どもが一人というのは心許ない。できれば男児もほしくて、余所に子をもうけたのだ」
「そうでしたか」
ソフィアの心は冷えていった。今さらショックは受けないと思っていたが、母とでは二人目を望めないからと、母のせいにされるとは思っていなかった。だって、マルティーナは、私より先に生まれているではないか。母のアリーチェと結婚する前からずっと、あの三人は家族だったのだ。
口に出せない言葉が、どんどん胸の奥に溜まってゆく。
マルティーナの方が先に生まれているのに?と聞いたら、父は何と答えるだろう。我慢していたものをぶちまけたい衝動にかられたが、そんなことをして何になると、冷静な自分が水を差す。分かっている。どうにもならない。
その夜、ソフィアが眠れなくて階下に水を飲みに行くと、居間から両親の話し声が聞こえた。
そっと近づいて聞き耳を立てると、
「あれには文官科を勧めた」
「優秀なのだから、結婚相手も自分で探せばよろしいわね」
「そうだな、持参金もいらない相手なら許可しよう」
「あの子、昔のこと、覚えているかしら」
「お前たちを紹介した時のことか?」
「ええ、マルティーナがうっかり6歳と言ってしまって焦ったわ」
「ソフィアはまだ5歳になったばかりだったろう、忘れているさ。今日だって、何も言わなかったからな」
「5歳の記憶なんて、そんなものよね」
そうか。
そんなものなのか。彼らにとっての私なんて。
ソフィアは部屋に戻って、先ほど聞いた話を反芻した。
賢いから、などというのは方便だ。自分には持参金を持たせるほどの価値もないのだ。結婚相手も自分で探せと。あまりに薄情だが、それも今さらか。この家にソフィアの居場所など、とっくになくなっていたではないか。
だけど、ものは考えようだ。この気まずい家族から解放されるなら、それも悪くない。勉強は好きだ。好きなことをしろと言われたのだ。むしろ喜ぶべきなのでは。そう思い直して、ソフィアは今度こそ眠りに落ちた。
13歳のソフィアは、王立学園文官科の2年生になった。
文官科には、友人のジュリアとアンナがいた。
ソフィアの家庭の事情は二人に話してあったので、ソフィアが領主科でないことは、さほど驚かれなかった。
文官試験合格を目指して、一緒に頑張りましょうと決意も新たにした。
自称12歳のマルティーナも入学してきた。本当は14歳なので、見た目は大人びている。勉強はあまりできないが、要領よく切り抜けることは年々上手くなってきたように思う。マルティーナは、母親のレベッカとよくお茶会に出かけていたので、入学前から知り合いも多く、新入生の中では、比較的賑やかな集団を形成していた。
マルティーナは、下位貴族のクラスの中で、男女の区別なく積極的に話しかけ、特待生として入った平民の生徒にも分け隔てなく声をかけた。そのことでマルティーナを慕う者もいた。
そんな学園生活に満足しているのか、入学してからのマルティーナはいつも機嫌が良かった。ソフィアが文官科に進んだことで、自分が家を継ぐことがはっきりしたことも嬉しかったのだろう。
いずれにせよ、家でソフィアに難癖をつけることが少なくなったので、ソフィアも穏やかな日々を過ごした。
一年次の終わる頃には、マルティーナは翌年からの領主科について家で語ることが多くなった。領主科といっても、領主になる者ばかりでなく、侍従など領主を補佐する立場の者たちもいる。総じて賢く、淑女科に進むマルティーナの取り巻きたちより優秀なイメージがあることも、彼女の自尊心を満たしているようだった。
「領主科はね、学年の枠を取り払った学習もあるのですって。将来の領主同士、顔を繋いでおくのも大事よね。それに、領主科には、一学年上のサミュエル殿下がいらっしゃるでしょう。一緒のグループで活動することもあるかもしれないわ。どうしましょう」
マルティーナは、両手を頬に当てて恥じらっている。
それを両親は、微笑ましそうに見つめている。
どうしましょうもないのだが、どうするつもりなのだ、とソフィアは思う。
お見合いパーティでもあるまいし、恥じらってどうするのだ。まともな意見を持てないことを恥じらいなさいよ。
ソフィアが白々とした気分で食事を進めていると、
「共同学習のテーマが決まったら、ソフィアにあらかじめ調べてもらって、意見もまとめてもらっておくといいわ」
と、レベッカがとんでもないことを言い出した。
「なぜ、私が?」
「あら、貴族家として王族の覚えがめでたいのは結構なことじゃない。家族として協力するのは当然のことでしょう」
家族なんですか、という言葉を、ソフィアはかろうじて呑み込んだ。
「そうですね」
とだけ言って、協力するともしないとも明言しなかった。
学年が一つ上がり、ソフィアは3年生に、マルティーナは領主科の2年生になった。
文官科は持ち上がりなので、顔ぶれは昨年とまったく同じだ。
ただ一つ意外なことに、第二王子のサミュエル殿下が、今年から文官科に在籍することになった。どうやら王族として早くから教育を受け、王立学園で学ぶべきことはあらかた履修済みらしい。それで一年ごとに、領主、文官、騎士の各科に在籍し、学んだことの復習と知識のアップデート、さらに人脈を広げるという意図があるらしい。
マルティーナの『どうしましょう』は、なにも心配がなくなって、ソフィアもほっとした。
同じ教室に王族がいることに、最初のうちは皆、緊張していたが、サミュエル殿下が気さくに声をかけたり議論を戦わせたりしてくるので、優秀な者ほど早く殿下に慣れた。
文官科には、貴族家を継がない男女と、とても優秀で領主から推薦された平民がいる。皆、将来がかかっているので、真面目な者ばかりだ。切磋琢磨して、とても良い雰囲気だった。
ソフィアも、家で口を閉ざしている分、学園で気分発散するとばかりに、意見は積極的に述べた。グループに分かれ、この国の問題点を探し出し、その解決策を考えるという、14、15歳にしてはスケールの大きい課題もあった。おそらく第二王子がいたからだろう、いずれ解決につながる一助になればと教師も考えたのかもしれない。
ソフィアのグループには、王国西部に大きな領地を持つ伯爵家の次男がいた。豊かな領地で小麦や果実を栽培しているほか、牧羊も盛んだという。ところが、近年その領地の一部が砂漠化してきており、その対処法が分からず困っているというのだ。ソフィアたちはこの問題を調べることにした。
ほかのグループでは、王都から離れた地方までの道路事情についてや、冬季に雪に閉ざされる地方の新たな産業を考えるなど、出身地にならではの視点から問題を見つけるものが多かった。平民の生徒からは、貧民地区の衛生状況の改善という切実な問題が提起された。
ソフィアたちは、図書館で砂漠化について調べたり、伯爵領の小麦などの収穫量の推移を確認したり、近隣の農地との比較、離れた領地で産業が似ているところとの比較など、次々手分けをして動き出した。
「いやあ、サミュエル殿下がいると便利だな」
「おーい、便利ってなんだよ」
「だって、殿下が国中の領地の気候と産業を把握してるから、すごく助かるよ」
「うん、一家に一台欲しいよね」
「いや、単位おかしいから」
「家にいられても困るだろ」
そんな軽口を合間に挟みつつも、調べを進めていった。
サミュエル殿下は、ソフィアたちのグループだけでなく、他も回って、そこの生徒たちがまだ知らない領地や産業などを紹介したり、視察にくっついて国のあちこちを回った経験から気付いたことを、ヒントになればと教えたりした。
クラスの皆が、殿下の優秀さと為人に敬服していた。
ある日の放課後、ソフィアが図書館で本を読んでいると、サミュエル殿下が話しかけてきた。
「ソフィア嬢は、ロンバルディ子爵家を継がないのか?」
前置きもなく、突然聞かれて驚いた。隠すこともないので、正直に答えた。
「はい、妹のマルティーナが継ぐことになっています」
「へえ、なぜ妹の方なの、君より優秀?」
「いいえ」
「はっきり言ったね」
「私は、優秀だから文官になれと、父に言われました」
「はっ、それを素直に聞いたのか」
「むしろ、望むところでしたし」
ソフィアは、真顔で答えた。
「これまで家で受けてきた領主教育だって、無駄になるだろう?」
「いいえ、領主教育は受けていません」
「そうなのか?グループ学習で述べる意見が、領主の視点だと思ったんだが、元々の資質か」
「そして妹も、領主教育を受けていません」
「ロンバルディ子爵は、何を考えているんだ」
「妹は、今年から領主科で学んでいますし、学園で優秀な婿を捕まえてくることを期待してるんじゃないでしょうか」
「人脈作りに力を入れているようだしな」
サミュエル殿下は、意外なことに、マルティーナを知っているようだった。
「あの、妹が何か失礼なことをしましたでしょうか」
「いや、まだだ」
「まだ、ということは、何かしらの兆候があるということではありませんか」
ソフィアは、不安になった。マルティーナは自分に甘い。そうやって育てられてきたからだ。
去年までのクラスには、子爵家、男爵家、平民しかいなかったので、子爵家のマルティーナは、上から目線で皆を引っ張って、頼られたりもしていたらしい。クラスメイトたちが心の中ではどう思っていたか分からないが、せいぜい一年の我慢と、子爵家のマルティーナを立ててくれていたのかもしれない。
ところが、今年からの領主科には、侯爵家や伯爵家の優秀な嫡男たちがいるのだ。すでに各家で、ある程度の領主教育もなされてきただろう。その彼らと机を並べて、これまで通り優位に立てるわけがない。
マルティーナは、学園から戻ってくると、毎日のように愚痴をこぼすようになった。
「なんでサミュエル殿下が、今年は領主科じゃないのよ。楽しみにしていたのに。それに、侯爵家だの伯爵家だのって偉そうに。学園の生徒は平等のはずじゃない」
マルティーナによれば、学園に入る前に領主教育を実地で学んできただなんてズルい、ということらしい。大きな領地を治める領主が、きちんと次代を教育することの何がズルいのか。
マルティーナは、去年まで取り巻きのように連れていた者たちが、今年から淑女科に進んでしまったので、同調してくれる者もいなくなった。なんとかクラス内での立場を築きたいと、一人でいる生徒に声をかけているが、なかなかうまくいかないようだ。
そこで目を付けたのが留学生らしい。
サミュエル殿下がソフィアに話しかけてきたのは、その件だった。
「今年の留学生の中に、隣国の公爵家の息女がいる。王の姪だ。身分を隠して子爵家令嬢ということにして、領主科に在籍している。そこで取り巻きをなくした君の妹が、同じ子爵家だから仲良くしましょうと近づいている」
「マルティーナのことだから、仲良くしましょうじゃなくて、仲良くしてあげるわ、という態度ではありませんか」
「その通りだ。もう一つ厄介なことに、私が彼女と会話をしているところを見られてしまった。内緒にしてほしいのだが、彼女は私の従兄の婚約者なのだ。つまり、いずれ我が国の公爵夫人となる」
ソフィアは頭の中で、王家の家系図を思い浮かべた。サミュエル殿下の従兄で、年恰好が釣り合う方と言えば、あの方だ。
「つまりその留学生は、バルベリーニ公のご子息の婚約者ということですね」
「だから私とも面識があり、廊下で会った時に声をかけたんだ。それを見て、彼女といれば私と親しくなれると考えたのか、やたらと彼女にすり寄ってくるらしい。身分を明かせないから無下にすることもできないし、かといって下手に関わって、婚約を発表した時に、親しいアピールをされても困る」
「ご迷惑をおかけします」
ソフィアは深々と頭を下げた。
「いや、すまない、君に謝罪を要求しているわけではないんだ。どうしたものかと思ってな」
「マルティーナを諫める方法はありません。留学生のご令嬢を、領主科から淑女科もしくは文官科に変更する方がよろしいかと思います」
「それが現実的で手っ取り早いか」
「問題もあります。文官科にした場合、私経由でしつこくコンタクトを取りたがるかもしれません。学年が違うと言って突っぱねますが。また、淑女科にした場合も、去年までの取り巻きがいますから、そちらから近づくかもしれません」
「いっそ、騎士科にするか。運動神経はかなりいいぞ」
「ご本人がよろしければ」
「いや、本気で良い案かもしれん。提案してみる」
そう言ってサミュエル殿下は去っていった。
「さすが、マルティーナね。王家の覚えがめでたくなるどころか、要注意人物扱いじゃないの。巻き込まれるのは御免なんだけど」
残されたソフィアは、ひとり呟いた。
結局、隣国の公爵家のご息女は、マルティーナのいる領主科から、騎士科に転科した。
「ねえ、聞いてよ。うちのクラスの留学生なんだけど、女のクセに騎士科に移ったのよ。領主科の勉強が難しいからって、途中で移るだなんて。同じ子爵家だから面倒をみてあげようと思ったのに。男に囲まれてちやほやされたいのかしら」
夕食時に、マルティーナが不満をこぼした。騎士科にはさすがに伝手がなく、近づけないことを怒っている。
「あの子、前にサミュエル殿下と親しげに話をしていたのよ。子爵家の娘があんなに気安げにしてるだなんて、不敬じゃない?それとも、殿下は爵位なんか気にしないとか?私も今度、声をかけてみようかしら」
「やめなさい。それこそ不敬よ」
「なんでよ、お姉さま、同じ教室にいるのに親しくできないからって、私のすることに口を出さないで」
「あのね、その留学生って、隣国の国費で来ている子でしょう。それだけ優秀なのよ。殿下も王族としての対応でしょう。同じ子爵家だから、というのは通用しないわよ」
「なんなの、偉そうに。私は子爵を継ぐのよ。お姉さまはただの文官でしょう。分をわきまえなさい」
「そうね、あなたが立派な領主になることを祈っているわ」
ソフィアは彼女に期待していない、できるのはせいぜい神頼みだ、という意味を込めた。それは正しくマルティーナに伝わったらしく、成績が振るわない自覚のある彼女は、羞恥と怒りで真っ赤になった。
「ソフィア、言葉を慎め。いずれ身分はお前の方が下になる」
父親がその場を収めた。
マルティーナが勝ち誇った顔をしたが、ソフィアは何も感じなかった。
「時にお父様、ロンバルディ子爵家の、ここ数年の小麦などの収穫量の記録を見たいのですが、よろしいですか」
「何のためだ」
「文官科の今年のグループ学習の課題の参考にと思いまして」
「よかろう」
「それから、ロンバルディ子爵領の耕作地で、近年問題となっていることはありませんか」
「何なの、お姉さま。領主になるのは私なのよ。お姉さまが考えることじゃないわ」
「文官科の課題だと言ったでしょう。あなたはあなたで領主科の勉強をきちんとすることね」
「お父さまも、お姉さまに大きな顔をさせないでよ」
「いや、これは大事なことだ。国を挙げての農業改革の端緒となるなら、協力しておいて損はない。第二王子殿下がいるのだろう。心象を良くしておくべきだ。殿下のことは抜きにしても、いずれ収量の増加が見込めるとあれば、協力すべきだ。マルティーナも、そこにつまらぬ見栄を持ち込むな」
「そんな、お父さま・・・」
「いいか、マルティーナ、貴族たるもの、文官など手足として上手に使えばいいのだ。うまく働かせて、実りはこちらが頂く。領主として正しい人の使い方を学ぶのだ」
それを文官を目指す私の前で言いますか、とソフィアは思ったが、マルティーナが気分よく黙るならそれで良いだろうと思い直した。
夕食後、ソフィアは執務室でロンバルディ領の過去十年に渡る記録を見せてもらった。
作物ごとの収穫量とその年の天候、自然災害の内容と対処、耕作の仕方や肥料の変更点など、事細かに記載されていた。代官が優秀なのだろう。ソフィアの知らない専門用語もあったが、質問すれば意外にも父親は分かり易く教えてくれた。
ソフィアが数字を書き写していると、父親が話しかけてきた。
「文官科はどうだ」
「楽しいです。将来に何の覚悟もないお気楽な者はいませんから、共に学ぶことで充実した毎日です」
「そうか」
父親はしばらく黙り込んだ後、
「マルティーナに、領主は務まると思うか」
そんなことを聞いてきた。
思わずソフィアは、
「それを私に聞いてどうするのですか。務まるように鍛えるのはお父様の仕事です。私は自分の力で生きていきます。嫁に出す持参金も惜しいのでしょう。どうぞご心配なく」
と言ってしまった。
「あれを聞いていたのか」
ソフィアは答えなかった。これ以上口を開けば、マルティーナの年齢のことを仄めかしていたことも聞いたと言ってしまいそうだ。そんな今さらな話を蒸し返したくなかった。
「ともかく、優秀な婿をとるなり、私の関係ない所で子爵家を盛り立ててください」
「そうだな」
それからソフィアは、黙って記録を写し取った。
オスカー・ロンバルディは、後悔していた。
まさか可愛いマルティーナが、あそこまで勉強ができないとは思っていなかった。
小さい頃から気が利いて、会話も楽しく、オスカーに甘える仕草も愛しかった。6歳になるまで日陰に置いてしまったことが不憫で、屋敷に連れてきてからはことさらに甘やかした。レベッカが茶会に連れて行けば、たくさんの子どもたちの中心にいて、リーダーシップを発揮していたと報告を受けた。それを聞くたび誇らしく、領主の器だと思ってしまった。考えてみれば、2つも年をごまかしていたのだ。子どもの頃の2歳差は大きい。色々なことができて当たり前だった。
茶会にソフィアを連れて行かなかったのは、どう見てもマルティーナの方が年上に見えるという理由のほかに、妻のレベッカがソフィアを疎ましく思っているのが傍から見ても分かるから、そんなことでレベッカの評判を落としたくなかったのだ。
家庭教師からソフィアの優秀さを褒められても、どうせお世辞だろうと思っていた。自分に懐かず、陰気に本ばかり読んでいるソフィアには、マルティーナほど人としての魅力を感じなかった。
ソフィアが王立学園の一年次を終えた時、予想外に良い成績を持ち帰ってきたが、勉強だけの融通が利かない頭だろうと高をくくっていた。そういう賢さは、文官の方が向いていると思ったのだ。そこでソフィアには文官科に行くよう指示した。
二年次からは文官科で、ここでもソフィアは高い評価を得てきた。
反対に、領主科に進んだマルティーナは、未来の領主たちの中で苦戦を強いられているようだ。知識も見識も足りず、交友関係を築くこともできずにいるらしい。完全に見誤った。
今さらソフィアに後を継げというわけにもいかない。そんなことをすれば、マルティーナが癇癪を起す。小さい頃は、その癇癪さえ可愛く思えたものだ。
ソフィアの言う通り、優秀な婿を見つけるしか道はなさそうだ。
オスカーはこの日から、マルティーナの我がままを上手にいなしてくれる優秀な婿を探すべく、あちこちに声をかけ始めた。
文官科のソフィアたちのグループの課題は、皆がそれぞれに調べたことを持ち寄って話し合った。
件の伯爵領の降水量や気温に大きな変化はなく、自然災害も目立ったものはここ十年以上なかった。小麦や果樹の収獲も年ごとに波はあるものの、安定していた。増えたのは羊毛だ。
「ずいぶん羊毛の収穫量が増えたんだな」
「父が良質な羊毛を求めて、交配を進めているんだ。いろんな種類の羊を取り寄せては、新しい品種を作ろうとしてるから、どんどん増えちゃって、放牧地もそれに合わせて広げているところなんだ」
「放牧地にする前、そこは何だったの?」
「林だったよ。木を切り倒して根っこを掘り起こすのが重労働で、余所からずいぶん人を雇ったよ」
「放牧地を広げてから羊を増やしたのか?」
「いや、どんどん交配を試すもんだから、食べる牧草がなくなって、慌てて開墾したって聞いた」
「食用として出せば良かったのに」
似たような地形と気候で小麦や果樹を栽培している他領地では、特に砂漠化が始まっている様子もなかった。耕作方法も、施肥の仕方も内容も大差ないように見えた。
伯爵領はもともと乾燥地帯でもないし、大きな川も流れていて、水不足に悩んだこともないらしい。
「ということは、やっぱり原因は羊の放牧のし過ぎか。羊たちが牧草を食べ尽くしたからだな。緩やかな傾斜地だし、雨が降るたび、むき出しの地面の土が流れてしまったのか」
「木を切れば土地の保水力もなくなるし、雨水で土が流れ続ければ、やがて岩肌が現れて、植物が育たない不毛の土地になる、と」
「水食ってやつですね」
「雨だけじゃなくて風でも土壌侵食は進むから、早くそれを食い止めないとだな」
その後、灌漑について調べてきた者たちが、それぞれの方式について詳しく説明した。国土の3割が砂漠という国から来た留学生がいて、彼は自国の最新灌漑技術を紹介してくれた。
伯爵領にとってどれが適切かは分からないので、その選択は委ねることにした。
「灌漑はともかく、今すぐやるべきことは、木々の伐採の中止と同時に植林、それと牧草が食べ尽くされない程度まで羊の頭数を減らすことだな」
「俺が食って協力しようか」
「一頭だって無理だろ」
「じゃあ、宣伝も兼ねて、羊肉焼いて羊祭りやろう。ついでに高品質の羊毛の宣伝もする」
おお、と男性陣は乗り気になった。
「却下!上品なウール製品を売り出すのに、頭の中で焼肉に紐づけられてたら一気に庶民的イメージになるわよ」
女生徒からは、反対の声が上がった。
「そこはもう私たちの考えることではないからね」
サミュエル殿下の冷静な声で、焼肉の話は終わった。
「ほかにこの件で話しておきたい人はいる?」
ソフィアは手を上げて、ロンバルディ領について話した。領地はそれほど広くなく、灌漑用の水路もある。けれど、雨量が少ない年などは、水路を通ってくる間に水が目減りし、満足な水を確保できないことがある。水のロスを減らせる灌漑方式を試したいが、敷設にかかる費用や耐用年数から見て、その価値があるのか知りたいということを述べた。
「そうだな、これは耕作地の規模や水源からの距離、作物の種類にもよるから、やってみないと何ともいえないな」
「モデル地区としてロンバルディ領を指定していただけるなら、全力で取り組みますよ。父が」
「なるほど、ちゃっかりしているな。これは私が持ち帰って検討させよう」
「ありがとうございます。良き回答を期待しています」
そんなふうにして、最初のグループ課題はなんとか形になり、良い評価も貰えた。
ほかのグループの発表も興味深く、お互い大いに刺激になった。
後日、サミュエル殿下から、国の農業や治水関係部署で話し合った結果、例の伯爵家とロンバルディ領をはじめとしたいくつかの領で、それぞれの地区で最善と思われる新しい灌漑設備を試してみることになった。モデル地区ということで国からの補助金も多く出るらしい。
そのことをソフィアが父伯爵に報告すると、
「ソフィアを文官にするのは間違っていなかったな」
と、満足そうに言った。
ソフィアは、手柄を半分横取りされたような、初めて認められて嬉しいような、複雑な気分になった。
こうして、サミュエル殿下が在籍した文官科3年は、濃く、充実した一年となった。
文官科4年も、気心の知れた仲間たちと課題を決めて研究し、最低3つの外国語をマスターするのに四苦八苦し、諸外国との関わり方を学び、貿易や福祉、教育などについても現場を訪れ、理想だけでなく現実を見ることを叩き込まれた。
「卒業、おめでとう!」
学園長が、長い長い挨拶の最後にそう言うと、ワッという歓声と盛大な拍手が沸き起こった。
「頑張ったねえ、お互いに」
ソフィアは、1年生から共に学んできたジュリアとアンナに向き合って言った。
「ソフィアは特に、成績優秀者として表彰されたものね、友人として鼻が高いわ」
「どうしても文官試験に合格しなくてはいけなかったから、必死だったのよ」
「そういえば、ソフィアとジュリア、文官試験合格おめでとう!」
「ありがとう、アンナ。あなたも受けていたらきっと合格してたわよ。それなのに、4年の途中で、プロポーズを受けて、未来の子爵夫人になることが決まるなんてね」
「本当に驚いたわ。でもきっと、文官科で学んだことは、領地経営に活かせると思うから、頑張って」
「そうね、文官の考えそうなことは分かったから、上手くやっていくわ。子爵領が遠いから滅多に会えなくなるけど、王都に来た時は仕事が忙しくても会ってね。その後残業すればいいから」
そんなことを言って、笑い合った。
それから一度自宅に戻って、卒業パーティのために着替えることになった。
ソフィアも自宅で自分のために誂えてもらったドレスを着て、父親の元に向かった。
「お父様、無事学園を卒業しました。卒業パーティに出かけてきます。これまで育ててくださって、ありがとうございました。これからは文官として生きていきます」
「あ、ああ、卒業おめでとう、ソフィア。こうして見ると、アリーチェにそっくりだな」
オスカー・ロンバルディは、初めて成長した娘の顔を正面から見た。いつの間にか、出会った頃のアリーチェと同じ年になっていた。その頃にはもう、オスカーは平民のレベッカと付き合っていた。後ろめたさがあり、アリーチェの顔をまともに見た覚えがあまりない。
だが、ソフィアに対しては、親として最低限のことはしてきたつもりだし、立派にここまで育ったのだから自分は間違っていなかったと思う。
ソフィアが部屋から出ていった時、オスカーが、
「あの何を着ても似合わなかったソフィアが、ずいぶんとキレイになったものだ。ドレスも似合っていたな」
と、感慨深く呟いた。
すると、後ろに立っていた執事が、
「それはそうでしょう。ソフィア様の好みに合わせ、ソフィア様のために作られたドレスですからね。旦那様はお気づきでしたか。ソフィアお嬢様は7歳の頃から、ドレスはすべてマルティーナ様のおさがりでした。マルティーナ様の体格や髪色に合わせたドレスが、ソフィアお嬢様に似合うわけがないとお思いになりませんか。丈しか合っていないドレスを、お嬢様はどんな思いで着ていたのでしょうね」
と、冷たく返した。
オスカー・ロンバルディは打ちのめされた。気づかなかった自分に、妻レベッカのやり様に、ソフィアを笑うマルティーナに、腹が立って仕方なかった。
自分たちに懐かない陰気な娘だと思っていた。可愛くないと。懐くわけがなかった、陽気に笑えるはずがなかった。だから、邪険にしていた記憶がある。
立派に育ったのは、ソフィアだけの力だ。
オスカーはまだどこかで、子爵家を継ぐためにソフィアを呼び戻せるかもしれないと思っていた。だが、戻るはずがない。こんな家族のいる家に。
執事はさらに続けた。
「ソフィアお嬢様は、公平なお方ですから、私怨でロンバルディ家を陥れるようなことはしないでしょう。けれど、領主が無能なら、何らかの働きかけをするかもしれませんね。旦那様、マルティーナ様を女子爵にするのは、よくよくお考えいただければと思います。差し出がましい口を利いている自覚はありますが、使用人一同、そのように感じております」
マルティーナの領主としての教育は一向に進んでいなかった。基礎学力がないうえに、領地のこともまるで頭に入らない。付き合いのある領地についても無知だ。一度意見をしたら、泣きわめいて大変だった。そんな者が領主になれるか。
せめてここまで気位が高くなければ、婿を迎えて子爵夫人としてなら、やっていけるだろうに。
「そうだな。ここは腹を括らねばなるまい。弟たちのところから誰かを養子に迎えて爵位を継がせる。それが気に入らぬようなら嫁に出す」
オスカー・ロンバルディは、もうマルティーナでは無理だと諦めた。
優秀なソフィアを逃したことは悔やまれるが、もうソフィアは巣立っていった。二度と鳥籠には戻るまい。
ソフィアはその後、件の伯爵家の嫡男から、灌漑工事の件で話をするうちに気に入られ、求婚された。しかし、クラスメイトだった次男から、自分と一緒になれば伯爵夫人などやらずに、学園で学んだことを生かせる文官でいられるとアピールされ、結局どちらもお断りした。
まだソフィアは、結婚というものを信用していなかった。誰かに必要とされることも、誰かに頼りたいと思うこともなかった。
これまでで一番信用できると思った異性は、第二王子のサミュエル殿下だが、身分が違い過ぎて、それはないと思っている。
ところが、それをジュリアにふと漏らしてしまい、サミュエル殿下の耳まで届いてしまった。
俄然張り切りだしたサミュエル殿下が、ソフィアの有能さを盾に、4年の歳月をかけて周りを説得し、協力を仰ぎ、とうとう陛下の許可をもぎ取ってしまった。ソフィアもさすがにその包囲網からは逃れられなくて、首を縦に振った。ただし、文官は辞めないことを条件に出すと、
「もちろん、有能な文官は失いたくないからね」
と、サミュエル殿下は二つ返事で了承した。
サミュエル殿下は、公爵位を授けられたので、ソフィアは公爵夫人となったが、3人目の子どもを授かるまでは、文官として働き続けた。一男二女の子どもたちを、ソフィアとサミュエルは公平に愛し、かつて顧みられなかった小さなソフィアの心を癒したのだった。
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