deep×deep×fake
迷作、ただひたすらに迷作
「このままって選択肢もあるけれども、どうしたい?」
「本当にそれは僕の自由にしていいことなの?」
「勿論。そのために用意したこの現実だから。」
「じゃあ・・・」
「…ぜの、尾瀬野!」
えっ!!あっ…また寝てた。
「着いたぞ。荷物全部運び終わり次第、ここまでの分の編集やりながらミーティングだからな。早いこと回復しろよ~」
寝起きの顔があまりに酷かったのだろうか、「再起動まで時間かかりそうだな」と言わんばかりに苦笑いをされた。
もともと僕は乗り物がそんなに得意じゃない。
車酔いするわけではないのだが、いつも閉塞感に耐えられなくなって最終的には眠るという行為に逃げてしまう。
前にいた営業二部でもその事で一度部長からやんわりと注意を受けたことがあった、「運転している人間に失礼だ」と。
やんわりとしていたのは部長がハラスメントに関するガイドラインに従順であったからというだけで、内にこもる苛立ちは十分に伝わっていた。
対して今所属している広報部はそんな僕の性質に比較的寛容で正直助かっている。
例えば出発前も、
「バスの方の撮影は俺らで割り振ってやるから、サービスエリアの方は拓海に任せるぜ。」
と同期入社の三好が言ってくれた(僕は一度転属しているため、広報部において三好は僕の先輩兼指導役にあたる)。
また今回の社員旅行は観光バス三台も貸し切っているが、そもそも僕は三台のうちのどれにも乗らなかった。大きい荷物や機材のために追加でチャーターされたマイクロバスに乗ったのだ。
「貨客混載とはいえ基本的にこのマイクロバスは旅客用ではないらしいが、どこの団体にも一定数存在する尾瀬野や玉井みたいな人向けの座席は数席空けられるらしい。」
「そうなんですね。」と玉井。
「どうする?今のうちなら希望通せるぞ?」
「あの…他の部署からはその希望は…?」
「出てない。色白で痩せ気味なやつばっかの総務部ですら全員『観光バスで大丈夫』と回答したんだとさ。」
「そうですか…」
「心配か?」
「えっ?」
「自分や広報部が『特別扱いされてる』とか『足引っ張ってる』って他の部署から白い目で見られるかもとでも考えてるのか?」
「…はい。一部からの風当たりが強くなるかもしれないじゃないですか。」
「例えば、営業一部と二部か?」
僕と玉井は同時に頷く。
「いいか二人とも。今回の社員旅行で量・質ともに最も大きい仕事をしているのは広報部だ。向こうで営業部や商品開発部のやるミーティングなんてポーズに過ぎないだろうよ。だからな、我々広報部がマイクロバス二席分のワガママ言ったところで誰も非難できやしないさ。」
久藤部長や三好の計らいのおかげでトータル三時間弱に及んだ走行時間中は無理に仕事をせずに済んだ。
「里帆、着いたらしいよ。大丈夫?」
返事がない。完全にやられている。
玉井里帆は僕の転属と同じタイミングで営業一部から広報部に異動してきた。
入社自体は彼女の方が一年上の先輩なのだが、「フランクに行こう」とのことで今の距離感に至る。
そして彼女は僕と違い、シンプルに乗り物酔いがひどい。
本人曰く、「昔メリーゴーランドで失神して担架で運ばれたことがある」ほどの筋金入りらしい。
この移動でも実際に彼女は東京を出てすぐ、僕が寝入るよりも前の段階で思いっきり袋に吐いた。
僕は女の子が思いっきり吐くところを人生で初めて見た。
サービスエリアでも、即座に復活して撮影に走る僕に対して彼女はずっと屍のようだった。
「大丈夫?」
「うーん、ちょっと、まだ、ムリかも。」
「本当に乗り物ダメなんだね。」
「そっか。拓海と車に乗るの初めてだったね。」
「人生で初めてだよ、女の子が思いっきり吐くところ見たの。」
その瞬間マイクロバスの運転手さんが気まずそうに咳をした。
モノローグで済ませばいい事を口に出してしまうのが悪い癖なのは自覚している。自覚しているが性分だから直しようがない。
「安心しきっちゃったのかな。運転手さんが女の人だし、一緒に乗ってるの拓海しかいないから。」
「歩ける?」
里帆はゆっくり首を横に振った。
「あの、このままここで休んでもらってもいいですよ。」
先ほど咳をした運転手さんが優しく僕に言った。
「いいんですか?ずっとここに停めてるわけにはいかないんじゃ?」
「いえいえ、だってそもそも下ろして運ぶのに結構時間もかかるでしょう?」
そう言う運転手さんの視線の指す大量の大荷物を見て僕は「そうでした」と返す。
「幸いこのマイクロバスは冷房の効きがいいですから熱中症の心配もないでしょうから。」
仕事柄こういう状況に慣れているのだろうか、運転手の女性の対応はとても頼もしかった。
そのせいなのかはわからないが、改めて見ると彼女がすごく美人に見えた。
やや切れ長な目の割に瞳は奥深さ、少しだけ見えている透明なデコルテ、服の上からでもわかる腕の細長さ。
どこかの雑誌の専属モデルと言われても信じてしまうかもしれない。
「ありがとうございます。」
僕がペコリと頭を下げてバスを降りようとした時、里帆が僕の手首を掴んだ。
「どうしたの?」
「いや…私のカバン、持ってっといて。」
「玉井は?」
「まだちょっとダウンしていて…」
「そうか。じゃあ、お前は連帯責任ってことで玉井に付き添っとけ。」
「え?」
「大所帯で来てる上に新設となると想定以上にゴタゴタしててな。俺も三好もここを離れられない。人手が要るようなら連絡くれ。」
若干の口の悪さはあれだが、久藤部長はこういう時の配慮が上手い。
もしも営業二部で同じようなシチュエーションになった場合、おそらく里帆を放置して手伝いに回るよう指示されたことだろう。
組織人としてどっちが正しいのかは僕にはわからないが、上手いと感じるのは久藤部長の方である。
「わかりました。あっ、これだけ部屋に運んどきます。」
僕はまず急いで自分の部屋を探す。ついさっき渡されたルームキーを頼りに階段を上り廊下を進む。
三○五号室、三好と相部屋だった。ルームキーでドアを開ける。当然三好はいない。既に手荷物だけが向かって左のベッドの上にあった。
僕は自分の荷物を右のベッドに置いて、今度はすぐに里帆の部屋を探した。
とにかく広い、そして入り組んでいる。なんというか、らしくない。
この保養所は先月完成した。新しい保養所の設置は会長の肝いりの企画だった。
今回の社員旅行はこの保養所のお披露目を兼ねている。兼ねているというよりむしろ社員旅行の方がついでだ。
さらにはこの社員旅行の様子を社内外にPRすることで、社員のモチベーションの向上&社外に対する福利厚生のイメージアップを狙っているのだ。
今の会社にとって「クリーン」だとか「ホワイト」とかいった要素を見せることはもはや急務であった。
というのも、文房具メーカーとしては自社よりも好業績だったA社が内部告発によってこの一年で評判がガタ落ちしたのだ。
上司からの多種多様なハラスメント、形ばかりの相談窓口とそこへ来た相談を揉み消す企業体質、そういったものが明るみに出たという。
そこにさらに追い討ちをかけたのは四ヶ月前にあがったある動画であった。
とある文学賞の運営サイドが毎年企画するイベントがある。このイベントには書店や印刷メーカーなど多くの関連企業が参加する。A社はもちろん僕の勤める会社も参加していて、僕自身もイベントの様子を社内誌に載せるために社のお偉いさんに同行していた。
既にA社の内部告発のニュースが出回りだした頃だったため、A社の社長はその場で記者たちに取り囲まれた。その際に彼はこう話した。
「今回報道されている内容に嘘偽りはございません。社長である私の管理力、統制力の至らなさが社の悪しき体制の変化を止められなかったことも事実であります。しかし!ただ一つだけ、この場をお借りして申し上げたい!改めて厳重な監査を行った結果、ハラスメントは一部の社員たちの間にあったことがわかりました。一二○○人もの従業員数を率いる我が社の中のほんの数名なんです。A社という巨大な船の片っぽの舷のほんの一部の損壊なんです。真面目に、清廉に、そして正しく業務にあたっている他の社員を『A社の人間だから』という理由で冷たく評価するということは決してしないでいただきたい!彼らもまた自分達の真面目さ、清廉さ、正しさを裏切られた被害者なのです。どうか皆様、彼らを支えてください!そして私が彼らとともに社の体制を建て直し名実共に健全な企業へと返り咲いた暁には、支えてくださったステークホルダーの皆様への多大なる還元と社会貢献を致すことをお約束いたします。何卒よろしくお願いいたします!」
この様子が撮影された映像は各媒体に拡散された。
内容に対する賛否こそあったが、懸命に話す社長のその姿に好感を持つという声もまた多かった。
問題はここからだ。
この数日後、「拡散された映像は生成AI によるディープフェイクであることが判明した」というネット記事が乱発されたのだ。
僕を含めてイベント会場にいた者はA社社長の発言を生で聞いている。
当然、「確かにあれは社長がイベントの場で発言していた」「証人は大勢いる」「これこそフェイクニュースだ」という反論は出た。
しかし世間からすれば事の真偽など既にどうでもよく、「ディープフェイク」という言葉の効果がA社のイメージダウンに拍車をかけた。
それから城が落ちるのはあっという間だった。分かりやすいほどウチへの取引が増えた。それは即ちA社を離れた取引先の数を示している。
株価の下落はもちろん、就職希望企業ランキングも首位から陥落。うちの会計部の見立てでは近いうちにどこぞの外資系の異業種他社に吸収される説が濃厚らしい。
A社のおこぼれによって業績の上がった我が社だが、上役たちは戦々恐々としていた。
ライバル社の脱落による好機よりも「次はウチかもしれない」という危機感の方が勝ったのだ。
そこで社内では緊急で意識改革と称した対策が講じられた。
かえって業務に支障をきたすんじゃないかと思うほど親身なヒアリング。減給と賞与という飴と鞭によるセクハラ上司の懐柔。そして決定打として会長が打ち出したのがかねてより進めていた新たな保養所の設立と社内旅行であった。
「いかにこの保養所が素晴らしいものか、いかに本社の福利厚生が充実しているか、ひいてはいかにウチの社が正真正銘のホワイト・アットホームか、それを伝えてほしい」という広報部へのお達し。
そう、これは社員旅行である。
久藤部長が広報部のことを「今回の社員旅行で量・質ともに最も大きい仕事をしている」と表現したのはそういうことだ。
先ほどの僕の「らしくない」という言葉は、「手が込みすぎていて逆に保養所らしくない」という意味だ。
男性社員と女性社員とでフロアどころか棟が違うことに気付いて僕は渡り廊下を急ぐ。
里帆の部屋も三○五号室だった。
自分のと一緒に貰っておいたルームキーをドアのカードリーダーにかざそうとした時、部屋から物音が聞こえて僕は「そうか、しまった」となってルームキーを引っ込める。
コンコン。
「はい?」
「すいません、尾瀬野です。玉井さんがまだ来れないんで代わりに手荷物だけ置きに来ました。」
「あー、ちょっと待ってくださいねー。」
出てきた人を見て僕は少し戸惑った。てっきり里帆と同部屋なのは広報部の誰かだと思っていたが、出てきたのはどうやら他所の部署の女性だった。
「えーと、」
「あれですよね、たぶん同部屋ですよね。三○…五、確かにここで合ってますよ。」
ルームキーの番号を確認した彼女は「お預かりしておきます」といって僕から荷物を受けとると、
「ちょっと休んできます?」と尋ねてきた。
「里帆やっぱりダウンしちゃいましたか?」
「はい。…え?」
「私、営業一部の来栖って言います。里帆の同期です。」
「そうなんですか。」
来栖さんというその人はもうTシャツと短パンに着替えていた。Tシャツのサイズが合っていない。ブカブカすぎる。
「里帆、広報部で上手くやれてますか?」
「どうでしょう、やれてる方だと思いますよ。」
僕は一人掛けのソファに座り、対になってる一人掛けのソファだけを見ながら答えた。
よくよく考えてみたら、こういうシチュエーションにおける「ちょっと休んできます?」は大抵休まらない。
欲しい。この場面におけるくつろぎ方のお手本が欲しい。
とはいえさっきの返答は決してテキトーに言ったわけではない。僕から見た里帆に対する正確な評価だ。
里帆は頭がすごくいい。学歴だけでいえば例のA社の内定だってもらえたはずなくらいに。
十分に内定のとれる可能性のあったリーディングカンパニーを見逃して業界二位の会社に彼女は自らの意志で入社した。
“自身のキャリアにおける戦略”か“単なるうつけ者”か、社内での評価は二分される。
そして里帆は人付き合いが上手い。正直コミュニケーション能力にかけては営業二部部長よりも里帆の方が高いと僕は認識している。
彼女のことを“単なるうつけ者”と評価する連中もいつの間にかその術中にいる、そんな能力者、玉井里帆。
「仲良かったんですか?」
僕は正直に来栖さんに聞いてみた。
「え?」
「いや、玉井さんに対して深い親しみを持っている一方でさっきの僕への質問のトーンは本当に彼女の近況を知らないから尋ねたように聞こえました。もしかしてここ最近は会ってないんですか?」
彼女の目の色が少し変わった。
「お名前何て言いましたっけ?」
「尾瀬野です。尾瀬野拓海。」
「尾瀬野さんって妙に鋭いんですね、探偵の人みたいw」
この瞬間になって僕は初めて僕と来栖さんの物理的距離の近さに気付いた。
ついさっきまで対に置かれていたはずの椅子が僕の隣に来ている。
来栖さんは構わず話を続ける。
「メッセージのラリーの間隔がね、ゆっくり広がっていってるんですよ。ボレーボレーが乱打になっていく感じ?」
「あの、」
「ああっ、私中高テニス部だったの。ボレーボレーっていうのはね、」
ごめんなさい、そこじゃない。
大体ボレーボレーくらい知っている。中学の時に隣の席の女子がソフトテニス部でよくテニスの話をされた。こっちは興味ないのに。
僕は不自然に視線を落とさぬようにした。だって膝が触れ…
ガチャン。
「会議室もう押さえてるか?」
「コミュニケーションルームならもう必要な什器の運び込み終わってますよ。」
「チッ。会議室でいいだろ。そうでないならせめてミーティングルームでいいだろうが。」
「そういうの専務の耳にでも入ったらヤバいっすよ。」
「いいんだよ、どうせ皆思ってることなんだから。」
「だからこそ言動に出しちゃいけないからタブーなんじゃないっすか?それとコレは今回使いどころあるんですか?」
「リングライト?使うに決まってんだろ。最近始めたライブ配信、業界内じゃ比較的後発のくせして結構好評だからな。保養所でやらなくていつやるんだよ、」
「十四台も使うんすか?」
「玉井のやつが『絶対必要になります!』って言って聞かなかったんだよ。それでも少なく抑えた方だよ。」
「へ~。前から思ってたんですけど玉井先輩ってウチじゃもったいなくないですか?」
「なんだ、部長“様”相手に広報部の悪口かぁ~?」
「そうじゃないっスよ。ぶっちゃけ玉井先輩って今頃部長クラスになっててもおかしくない人だって思ってたんですよ。」
「確かにポテンシャルは同期たちの中じゃ抜きん出てるな。」
「そうです。でもそれは営業部という環境でこそ発揮されるポテンシャルであって、正直広報部じゃ業務内容的に先輩のそのポテンシャルが十分に生かされない。そして…」
「『そしてそのことは本人が一番自覚しているはず』か?」
「そうです。」
「三好、要するにお前玉井が広報部に転属したのが気に入らないんだな?」
「別に、そういうわけじゃ、」
「そうかそうか。じゃあ部長“様”も一つぶっちゃけようかな。あのな……」
ガチャン。
「里帆!もう大丈夫なの?」
「うん。だいぶ楽になったからもう平気。」
そう言った直後に里帆は前方に倒れた。
「って全然平気じゃないじゃん!」
来栖さんの動きは速かった。一瞬で僕や椅子の間をすり抜けて里帆を支えると、そのまま二人してベッドになだれ込んだ。体格は来栖さんの方が小さいはずなのに。
里帆は意識こそあるものの、とてもベッドから起き上がれる状態ではなかった。
「ほんとに乗り物酔いすごいんだな。」僕はボソッと言った。
「昔から彼女そうなんだよ。メリーゴーランドの話聞いた?」
「ええ、前に一度。」
「まさか、あんなことになっちゃうなんてね。」
来栖さんは里帆の顔を見ながらそう言った。だけどこの時来栖さんは里帆を見ていなかったように僕には感じられた。
すると突っ立っていた僕を見た里帆が右腕をまるで蚊の飛んだ軌跡を指でなぞっているかのようにふらふらと持ち上げると左右に振った。
「荷物、ありがとう、もう、行って、大丈夫だよ、」
スヌーズ機能を使ってなお起きようとしない姉と同じ話し方だった。
「ああ、大丈夫ですよ。私が責任持って看とくんで。」
今度は僕の気持ちを瞬時に汲み取った来栖さんがこちらを向いて言った。
「すいません、お願いします。」僕はやや早足で部屋を後にした。
連絡通路を渡って男性社員が泊まる棟に戻ると階下から大勢による賑やかな声が聞こえてきた。
この棟にはステージショーのできる、体育館ほどの広さの部屋がある。
どうせ今夜には宴会場になるのであろうそのスペースには既にかなりの数の社員が集まっていて、各々おしゃべりを楽しみながら座席や食事の準備を進めていた。
部屋の両サイドにはビュッフェスタイルで料理がズラリと並んでいた。
全ての年齢、職業、国籍、セクシャリティ、思想の人間の胃袋を満足させられるほどに思えた。そんなわけないのに。
三段階の層に分かれているように見えた。
既にせっせと動き回っている社員、手こそ動かしているがお喋りも楽しんでいる社員、完全にお喋りしかしていない社員、の三段層。交わされている会話の層はその何十倍。
「へぇ~、開発部も大変なんだな~」
「この前の出張の時、美味い餃子の店見つけちゃってさ、」
「『A社アグレッション』って知ってるか?例の件でA社辞めて他の会社に転職した人間に対して『A社出身なのに優しいんですね。』って言ったりする人が増えてんだって。」
「お前気付かなかったのかよ!さっきのサービスエリアにいたんだよ、女優の一ノ谷うらら!しかもドラマの台本の書き込みにウチのカスタマイズボールペン使ってくれてたんだぜ!『ネタバレになるから台本は写さないでよ~』なんて言いながら写真とかムービーに笑顔で応えてくれたし、会社の広報へのアップにも快くオーケーしてくれたし、やっぱ芸能人たるものああいう神対応ができるっていうのは必須条件なんだろうな~」
落ち着き抱えた騒がしさの中、僕は首を可動域いっぱいに動かした。広報部の姿が数人確認できる。
「すいません、遅れました。」
「あれ尾瀬野君?玉井さんはもう大丈夫なの?しばらく付き添ってるって聞いたけど、」
寄田先輩がヘアゴムで髪を結び直しながら聞いてきた。
この短時間でもう広報部全員にちゃんと伝達が行き届いているのか。
目の前には段ボールが二つ。うち開けてある一つには大量の三脚。
「大丈夫です。なんか同部屋の人が代わりに介抱してくれることになって」
「そうなんだ。」
先輩の指先と目線は部屋全体と段ボールの中の三脚とを往復しだした。数合わないのかな?
「営業一部の同期らしいです。」
「それってもしかして来栖さんのこと?」
「はい、そうです。ご存じなんですね。」
往復がピタリと止まった。
先輩は少し体を捻ってこちらを見た。逆鱗に触れたわけでも顰蹙を買ったわけでもない、単純に戸惑われている。
「知らないんだ、そっか、まぁ知ってるわけもないよね、」
ちょっと蓋を開けてしまったけれど相手にわざわざ中身を見せるべきではないような箱、もとい話、もといゴシップ、そんな感じがした。
おそらく次に先輩の口から出てくるセリフは、
「ゴメン、この話は聞かなかったことにして。ハハハ」
でしょうね。
「え~、そんなこと言われたら気になっちゃうじゃないですか~。あの来栖さんって人なんかあったんですk」
ステージ上のマイクがハウリングを起こしたのはちょうどその時だった。
いやいやタイミングっ!中学時代さながらのツッコミを発しそうになるのを僕は引っ込めた。
ステージ袖のあたりで屈んで機材を調整していた黒いパーカーの女子社員に皆の視線が集まる。今のアイツがやったのか、と。
当の本人はそんな周囲の目など意にも介さず作業を続けている。すると一人の男性が壇上に上がるとドカドカと彼女の方に向かっていった。かなりの細身に白髪とメガネ、総務部長だ。
「おい!何やってんだよ!そんな風にスピーカー置いたら今みたいなことになっちゃうだろ。」
「あっ…そうか、すいません。」
「大体マイクとかのセッティングは時間的にまだしなくて大丈夫だから。椅子とかテーブルの移動の手伝いに回りなさい。」
「はい。」
社員旅行には似つかわしくないちょっとした公開説教。ハウリングの時よりも空間は静まり返った。
総務部長が降壇すると次第にひそひそと沈黙が崩されていく。
「イラついてんな~総務部長。」
「今回の社員旅行にあたっての費用のことで会計と未だにすり合わせが続いてるらしいからな。ピリピリお仕事モードが抜けないんだろうよ。」
「ていうかあの子誰?どこの子?」
「知らな~い。広報とかじゃない?」
この会話を耳にした寄田先輩がステージの方を向いたままこちらに体を傾けた。
「ウチにあんなかわいい子いたっけ?」
「いや、広報部の人ではないでしょ。でも社員であることは間違いないと思います。今日どっかで見た顔なんで。というかその言い方、広報部に〈あんなかわいい子〉っていうのがいないみたいじゃないですか?」
「あっ、ホントだね~。じゃあ今のも聞かなかったってことで、」
「先輩も〈あんなかわいい子〉のうちに入らないんスか?」
「もう~揚げ足取ってないで手伝って!」
「は~い。」
揚げ足ついでにさっきの話を蒸し返してやろうとも思ったが、目の前の三脚の数が僕のその気を萎えさせた。
作業量こそなかなかのものだったが、撮影機材のセッティング自体はとてもスピーディーに完了した。
「さっ、部長たちに合流しないとね。」
先輩のこの発言を聞くまで、僕はミーティングのことをすっかり忘れてしまっていた。
「里帆はどうしますか?」
「場所はあの子も知ってるはずだから回復してたら直接来てると思う。逆に来てないってことは未だダウンしてると考えられるから彼女抜きで一旦進めよう。」
いささかドライな気もしたが至極適切な判断だった。僕たちは羽化寸前の宴会場をあとにした。
「やっと来たかって、玉井は?」
「来てませんか?」
「ああ。そうか、しょうがないな。先に始めるぞ~」
ミーティングらしいミーティングはものの五分程度で終わり、そこからはここまで撮影した写真と動画の編集と記事作成に各自手分けして取り掛かった。
これが中々に大変な作業になった。さっきの撮影機材のセッティングの方がまだ楽だったかもしれないほどだ。
というのもこの保養所への移動中に”イイ感じの素材”が揃いすぎたのである。
例えば一ノ谷うらら。神対応は結構だが、あちらこちらに長いこと映っている。どこを切ってどんな風にテロップやらSEやらを入れるか、慎重さとセンスが問われる。偶然の遭遇とはいえ有名人の扱いには細心の注意を要する。
「事務所に許可取りいるんじゃないっすか?」
「わざわざいらんだろう。ましてあれだろ、その子ってそのあたりオープンな感じでしょ?」
「尾瀬野、これお前頑張りすぎだよ。どこ使うべきか迷っちゃうじゃないか~」
先輩が伸びをしながら音を上げた声を出すと、部屋は一時爆笑に包まれた。
「すいません。全部の部署を撮るようにしないとと思いまして。一ノ谷うららの映ってる動画については営業部の社員が彼女の使ってるカスタマイズボールペンに気付いて有頂天になってる部分とかがアップするには丁度いいと思います。」
「お前に言われなくてもそこはもうあげてるよ!ありがとう!」
わざと変な声でそう返すことでまた一笑いとると先輩は再びパソコンに向かい合った。
一方の寄田先輩は、「ホントよく撮れてるよね、このクジラ!」
「マジでビックリしたよ。っていうかあんな陸に近いところで泳いでることってあるんだな。」
それはそれは大きく美しいクジラだったらしい。当然僕は見ていない。
「にしても拓海はインサート撮るの上手いよな。」と三好。
「そうかなぁ?」
「単にインスタ映えするとかとはまた違ってちゃんと美味そうじゃん、このラーメンとかパフェとか。グルメ番組のカメラマンとかすぐなれるんじゃない?」
「そんな簡単じゃないでしょ。それにそのサービスエリアでパフェなんて撮ってないよ。」
「え?」
「ああ、それ私でーす。」
隣のテーブルの島で作業してる誰かが少し海老反るように手を挙げて言った。
「あ、そうなんだ。ホントだ、奥のほうに拓海映ってた。」
「違いのワカラナイ男、三好朋臣」
「豚しゃぶを牛だと思って食ってた部長に言われたくないっすよ。」
また一笑い。僕は思わず隣でゲラゲラ笑う三好の肩を軽く叩いた。
例の宴会場に社員全員が集められるギリギリまで編集作業は続いた。
バス移動の憂鬱さも忘れて腹ペコだった。
サービスエリアでも撮影に集中しすぎて何か食べることを忘れていた。
途端にあの、全ての年齢、職業、国籍、セクシャリティ、思想の人間の胃袋を満足させられるほどのビュッフェがシンプルに美味しそうに見えるのは顕著な反応だと思った。
壇上で楽しそうに乾杯の挨拶をする社長の話が長ったらしく感じるのも顕著な反応だと思った。
「明るくそして高らかに邁進する我が社の仲間達に、乾杯!」
「「「「乾杯!!」」」」
談笑がかえってミュートの機能を果たすのを確認してから久藤部長が、
「経済ジャーナルに取り上げられるようなお方があんな歯の浮くような乾杯の音頭とるもんかね。」
とこぼしたのが聞こえた。まぁ確かに、と同意しながら僕は長い長いビュッフェの列に並んだ。
列は折り返し地点を設けるほどに伸びた。この会社ってこんな人数働いてたんだと視覚的に突きつけられている感じがした。
〈ハラスメントは一部の社員たちの間にあったことがわかりました。一二○○人もの従業員数を率いる我が社の中のほんの数名なんです。A社という巨大な船の片っぽの舷のほんの一部の損壊なんです。〉
なぜA社社長の言葉を思い出したのか自分でもわからなかった。だがしかし彼のこの発言も決して間違っていたとは思えない。仮にこの列の中の一人、例えば僕が何かしらのルール違反・不適切行為・犯罪をやらかした場合、皆あの社長と同じことを言うはずだ。「犯した人間は一人であって一群ではない。反省と改善こそすれ解体させられるいわれはない」と。皆きっとそう言うはずだ。前で並ぶ会計の彼も、後ろに並ぶ商品開発部の彼女も、なんなら僕自身も。
列が所々ザワザワし出したのは、ようやく僕がトレーとサラダ用の小皿を取った時だった。
状況をすぐに理解できなかった。どうやら近くの誰かが「おいこれ見ろよ」とかいって自分のスマホを見せたり相手にスマホを確認するよう促している。ネットニュースかな?こんなにザワザワするほどの?
さらなる異変に気付いた時、僕は思わず小皿を乗せたトレーをテーブルに戻した。
二、三人だが明らかに僕の方を指差している。そこそこ距離があるため差してきてる人たちの顔まではっきりとは識別できない。しかし人間とは不思議なもので、表情がわからなくてもその指差しが決して好意的なものではないことは一瞬でわかった。あれは間違いなく「犯人はアイツだ!」の指だ!
次の瞬間には僕は誰かに両腕を握られて列から引きずり出されていた。
さらに次の瞬間には列どころか宴会場の外に出されていた。
そこまで来てようやく僕は今両腕を掴んでいるのが誰なのか確認した。
「里帆?朋臣?」
「説明は後だ!一旦逃げるぞ!」
この平凡で歪曲しきった人生の中でそんな台詞を投げられるとは思ってもみなかった。曲がり角の向こうから宴会場の別の出入口の扉が開く音がした。追っ手だということは容易に理解できた。僕はとりあえず二人に言われるがまま保養所の館内を全力疾走することにした。
「ハァ、ハァ、ひとまずここに居れば大丈夫じゃないかな。」
息を荒くしたままそう言うと、里帆は閉めたドアの前で座り込んだ。つられるように僕と三好もその場で腰を下ろした。
結局僕らは別館まで走った。別に狙って別館まで走ったわけではないと思う。
当然のことながら三人とも職場の人間から冗談抜きで逃げなければならないという経験は初めてだった。
後方から大人数の足音と怒号が聞こえるが、誰も振り返ることができなかった。
目的地も定まらないまま逃げた結果、僕らは渡り廊下を駆け抜けていたのだ。
最初に冷静になったのは里帆だった。追っ手を振り切れていることを確認するとエレベーターに乗ってこうして僕が数時間前にいた里帆の部屋に逃げ込んだ。
「ホントに誰も追って来てないか?」
三好がそう言うと里帆はゆっくりと立ち上がってドアスコープを覗いた。
「人の姿はないよ。とりあえず大丈夫みたい。」
僕はポケットからスマホを取り出した。先輩からの着信。ずっとかかりっぱなしだったようだ。
「出るな!」三好は慌てて僕からスマホを取り上げた。
「状況考えろ!皆で拓海を捕まえようとしてるんだぞ!」
「待って、そもそもどうして僕が捕まるんだよ?何が起きてるんだよ?」
真っ暗な部屋、ほんの少しの月明かりとブルーライトの中で僕は尋ねた。
里帆はルームキーをそばにあるスロットに挿した。照明の暖色に若干目がやられる。
彼女は僕と三好と正三角形をつくるように座るとスマホの画面を僕に見せてきた。
「端的に言うと、拓海の撮った動画が炎上し始めてるの。」
SNSのコメントの至る所に【噓つき】【フェイク】の文字が散乱している。
「どういうこと?」
「ここまで俺ら広報部がアップした社員旅行の動画が生成AIによるディープフェイクだったって情報がどこからともなく拡散されてる。」
「んな馬鹿な、」
「これ、拓海が撮影した動画だよね。」
次に里帆に見せられたのは例の一ノ谷うららと営業部の社員とのカラミの動画だった。
「うん。」
「ちゃんとはまだ確認できてないけど、最初にフェイク動画だって引用されたのがこの動画。出てる人が出てる人だからリアクション数が倍々ゲームで増えていって、後を追うように他の動画の信憑性も疑われていって…」
里帆は画面をSNSに戻してスクロールしていく。サービスエリアで社員が楽しく食事している動画や社員が食べていたご当地ソフトクリームのインサート写真。挙句の果てには保養所の外観を撮影した動画も「実際ここには何も建っておらずAIで上手く貼り付けただけのもの」と言われてしまっている。
「あり得ないじゃん!事実この保養所に僕らがいるんだから!」
三好はゆっくりと僕の肩に手を置いた。
「事実はこの際問題じゃないと思う。問題なのはウチであげたものが急に集中砲火されたことだ。人為的なものとしか考えられない。」
「その『フェイクだ』って言い出した人間が犯人でしょ。特定出来ないかな?」
「アカウントの持ち主の特定なんてそんな簡単じゃないよ。それに今頑張ってみてるんだけどさ、それぞれの動画や写真にフェイク発言してるアカウントが見事にバラバラなんだよね。」
「一人でいくつもアカウントを作成・運用してるだけじゃない?なんなら単独犯とも限らないわけだし。」
「この短時間で一人でここまで回せるとは正直思えないし、」と里帆。
「仮に複数人でやってたとして、明らかにこの会社を攻撃しようという意図が感じられるよな。」と三好。
「話ちょっと戻すようで悪いんだけど、どうして僕が追いかけられることになるんだよ。」
「自分たちが映ってた動画がフェイク扱いされたら拓海ならまず誰を疑う?」
「…そうか、撮影した人間か。」
コンコン。
乾いたノック音は部屋によく響く。僕たち三人は同時に背筋を凍らせた。
最初に動いたのは里帆だった。ドアまで忍び足で近づいてスコープを覗く。鍵を回す。
「おいっ、」
三好の制止も待たずに里帆はドアを開けた。
「来栖さん?」僕の声はうめき声のようだった。
来栖さんは無言で部屋に入って鍵をかけた。
「安心して、私は味方よ。ていっても何の安心材料もないだろうけど。」
「誰?」
「来栖さんはこの部屋で里帆と相部屋で営業一部時代の同期でもある…んでしたっけ?」
「そう。」
「下の名前なんでしたっけ?」
「”かよ”です。香る葉と書いて香葉。」
「今聞くことじゃないでしょ。」
「そうだね。そういえば里帆はもう体調大丈夫なの?」
「遅いよ!遅いしそれも今じゃない!」
キョトンとする僕を見て三好が思わず吹き出した。つられ笑いをするあとの三人。
混乱と緊張がやっと一時的に和らいだ。
「それで、やっぱりみんな拓海を探してるの?」
「うん。もう一部じゃあなたのことを『他社に買収された』とかいって産業スパイみたいに扱う人までいる。」
「染められるのが急速すぎるな。さすがにもう俺ら部屋に戻れないよなぁ。」三好は深くため息をついた。僕は自分が三好と同部屋だったことをすっかり忘れていた。
来栖さんは話を続けた。
「元々A社のこともあって全体的に疑心暗鬼になってたから、この会社。その上〈全部の動画がフェイク扱いされていない〉ことがかえって尾瀬野さん一人の犯行という見方を助長させているみたい。」
「フェイクの指摘自体がデマだっていう声は出てないの?」
「今もう一度SNS確認してみて。『#ディープフェイクである証拠』っていう動画が今度はあちこちから拡散されてる。フェイク動画を安価で簡単に作れるのなら、それを見破る手段も安価で簡単なものになってるんだね。」
しかしやっぱりそれはおかしな話だと思った。撮っていた僕はもちろん、撮られていた社員も〈動画を撮影している〉という認識が確かにあるではないか。
「昼間は撮影しているふりをしていると思われたか、もしくは撮った上でフェイク加工をした動画の方を流したと皆は考えているみたい。」
僕の思考を先回りするように来栖さんが説明を加える。
「どの道このままの状態で皆の前に姿見せたら何されるかわかんないぞ、お前。」
「尾瀬野さんだけじゃなくて、あなたたち二人もだよ。」
三好と里帆はお互いに顔を見合わせた。
「既に二人が尾瀬野さんを逃がしたことは知れ渡ってる。部長さんがそれで重役から事情聴取を受けてるみたい。」
「久藤さんが?!」三好はいよいよ頭を抱えた。
それにしたって「事情聴取を受けている」だなんていよいよ本当に僕(正確には僕ら)は逃亡犯じゃないか。
「社会人としてで考えるなら誤解を解くのが最適解なんでしょうけど、事態の把握もままならない中でそれは困難。ここはひとまずこの保養所から脱出するのが一番だと私は思います。」
「このままこの部屋に匿ってもらうってことは可能かな?」三好は不用意にリスクを冒したくないようだった。
「残念ながらそんな悠長なことを言ってられないんです。もうすでに各部屋への見回りが始まってるの。」
僕と三好と里帆の脳内にさっきの乾いたノック音が再生される。もうこちらの棟に来ているんだろうか?
「…渡り廊下、崩落しないかな。」
「ホントにちょっと望んじゃうからやめてくんない。」
「それから、」と来栖さんはより一層に険しい表情をした。
「常務がここの警備室に押しかけようとしてた。今はどうかわからないけど。」
この情報の意味するところを僕らは数秒理解することができなかった。
「…ああ!監視カメラか!」
ひとまず僕ら四人はグループLINEを作り、簡易的な作戦を組んだ。
「俺も行くよ。」
「陽動なら私一人の方が安全かつ確実じゃない?里帆と拓海さんの二人だけにする方がリスキーな気もするし。」
来栖さんは強めの口調で異を唱えた。いつの間にか「拓海さん」呼びになっている。
三好は僕の顔を少し見つめてからこう返した。
「俺は俺で確認したいことがある。それにさ、俺が皆に見つかったり捕まったりしたほうがかえって拓海が逃げる隙を上手く作れるじゃんか。」
「スキ?」
「単純な陽動だけじゃそんなに時間も稼げないだろ?俺や里帆ならもし捕まっても『尾瀬野に無理矢理協力させられて』っていう言い訳も効くし偽の情報を言えばかなりの時間稼ぎになると思う。その点で言えば先輩相手に申し訳ないですけど、里帆より俺の方が弁が立つ。」
現に今の説明が饒舌であると僕は思った。里帆はどう思っているのか知らないけど。
「ついてもいない噓のために別の噓をつくなんて皮肉だけど、」
来栖さん、いや香葉さんのジョークは半分ばかり笑えなかった。
先発隊の二人が部屋を出てから三分後、里帆がドアスコープをチェックする。
「大丈夫、誰もいないみたい。」
通路と他の部屋のドアを注意深く観察しながらゆっくりと部屋を出る。ホテルの通路ってやつは思った以上に足音のする瞬間がある。警戒心がその度にガラガラって鳴く。
「警備室はこの棟の一階って言ってたよね。」
「うん。でも今思ったんだけど一人は警備室に残るんじゃない?」
「大丈夫。一人だったらどうにかなると思う。」
「どういうこと?」
「とにかく下階目指そ。」
何の抵抗もなく頼ってしまっている。たまにこうして思い出す。彼女は一年先輩なんだ。
非常階段が手薄だったのは少し意外だった。ビュッフェの列に折り返しができるほどの組織でもこういう間抜けなところもあるのか。いや、それくらいの組織だからこそか。なんにせよ監視を搔い潜るのは割と容易であった。
「なんとか着いたね。」
掃除用具用のスペースに二人で隠れる。警備室は突き当たりにある。距離にしておよそ十数メートル。
「警備室の中、見える?」
香葉さんはこの旅行に双眼鏡を持ってきていた。僕は拝借したそれを使って警備室のガラスの向こうを見る。
「多分だけど三人いる。三人ともここの警備の人みたい。」
「常務は追い返されたのかな?」
「かもね。」
里帆はグループLINEに〈着いた〉〈準備オッケー〉と送る。〈既読3〉。十秒後。
ジリリリリ!火事です、火事です、ジリリリリ!火事です、火事です、
「場所は?」
「向こうの棟の最上階です。」
「品田と俺が行く。堀江はここで待機。」
「了解。」
警備員の男が二人、駆け足でこちらに向かってきて左折、非常階段を駆け上がっていった。
「やっぱり一人残ったよ。ホリエさんはどうするの?」
「拓海はここでちょっと待ってて。」
そう言うと里帆は急に小走りで警備室の方へ入っていった。
情けないことに足が固まって動けなかった僕はもう一度双眼鏡を覗いた。
ぴんと伸びきった右腕が弧を描くその残像が見えたかと思うと、直後の視界の端に捉えていたホリエさんが崩れるのが見えた。
今度は逆に足が勝手に警備室へと吸い込まれていった。
「何したの?」倒れているホリエさんに近づこうとした僕を里帆が制止する。
「気絶してるだけだから安心して。」
「安心はできても困惑はするよ。里帆ってもしかして…」
「古武道やってたの。最近はあんまりやってなかったけど。」
「知らなかった。」
「わざわざ言う事もないでしょ。それより早く!」
僕と里帆は急いで監視カメラ映像を漁りだす。あの警備員二人が戻って来るまでにここを離れなければいよいよ僕らは犯罪者。時間との勝負だ。
「あった!」「シッ!」思わず大きな声が出てしまった。
数十分前のB7モニター。映っているのは鬼の形相でエレベーターを待つ僕と三好と里帆。
「転送できそう?」
「ここは見事すぎるほど端子揃ってるよ、多分いける。」
「オッケー」
隣では里帆が別のモニターの映像を転送ではなくスマホで直接撮影している。たった今現在のこの警備室の映像である。ひとしきり撮影を終えると里帆はそのままそのモニターの録画モードをオフにして、ここまでの録画データの方を削除した。抜かりがない。
狙っていたかのようなタイミングで転送が完了する。
「よし!すぐにここを離れよう!」
既読がついてから返信が来るまでには割と時間を要した。
「・・・当たってたってことでいいのかな?」
何度も検算を繰り返すように画面をスクロールしながら里帆は言った。
僕ははっきりと返事ができない。当事者としてはこの実験結果をどう捉えたらいいのかわからない。
「大丈夫?」
「大丈夫。大丈夫なんだけどさ。わかんなくない?結局原因は僕なのかな?僕が悪いのかな?」
「そんなわけないでしょ。」即答。
扉の向こうはずっと無音である。グループLINEも微動だにしていない。
「星、見とかない?」
「え、」
落ち着けるためにしても励ますためにしても少し唐突で整合性に欠けていた。
え、の先も聞かずに彼女は窓を開けた。部屋の電気をつけていないためバルコニーの方が明るく照らされている。
「待って、見つかっちゃうよ。」
「その時はまたここから逃げ出せばいい。」
そう言ったきり里帆は無言で夜空を眺めている。彼女の言葉はどこか違うニュアンスを含んでいるようにしか聞こえない。
ゆっくりと彼女の隣まで近寄ってその顔を覗く。視点が一点に固定されている。眺めてなんていない。
それだけ確認できると僕も遥か上空に目をやる。とても視線を隣に戻せない。
この保養所以外に星の光を遮ような建物は辺り一帯にはない。そのため本社ビルの屋上から見るのとは比べものにならないものが頭上に広がっている。綺麗だ。綺麗すぎる。フェイクに思えてくる。
「アルタイルとかオリオン座とかはどれかな?」
「里帆、あのさ、」
「二人はここには来ないよ。」
里帆の右手が僕の左手の上に乗る。
「ここに二人が来ないってどういうこと?」
「拓海は自分が入社した日のことって覚えてる?」
「質問に答えて、」
「私は覚えてない、自分のはね。でも次の年、拓海が入社した日のことは今でも覚えてるよ。」
「ねぇ里帆、聞いてる?」
「拓海もやったでしょ?午前の入社式からその後の各部署案内までの諸々は入社二年目が主体になってやるのがウチの風習で私もあの日会場にいた。」
乗っていただけの右手が左手を人差し指を包むように握りしめてくる。
「ボールペン、拾ってくれたよね。ただのちょっとした親切。その親切の瞬間とその瞬間の拓海の顔が忘れられなくってさ。いつもつい目で追いかけてて、そのうちもっと近くで見ていてたくなって、支離滅裂な理由を久藤部長を押し通して強引な異動してもらって、そうして今こうしてここには二人しかいなくってさ、」
「里帆さん!!」
僕はいつの間にかその右手を振り払って彼女の両肩を掴み揺らしていた。
さながら催眠術の解除であった。里帆の瞳のピントがようやく僕の顔に合わさる。
「ゴメン。わかってるよ。拓海にその気がないってことくらい、わかってるよ。この話さ、最初っから最後まで聞かなかったことにして。ワガママ以上の何物でもないだろうけど。」
何時間も前に同じようなことを言われたような気がする。
その時と同じくらいフラットなトーンで応えたらよいのだろうか、いやきっとよくない。
泣いてるわけでも笑ってるわけでもない微笑みのままの彼女。
直視の限界を迎えて僕は見つけられっこないベガやデネブを黙って探した。
静かすぎた。
何分経っただろうか。
「もう落ち着いたよね」と互いにアイコンタクトで確認をとる。
そこで僕は拾い損ねていた情報を思い出す。
「二人がここに来ないってどういうこと?」
里帆も「あ、忘れてた」というリアクションをした。
「この場所グループLINEで知らせてるよね。」
「うん。でもそのちょっと前に朋臣にこれ送ったの。」
そう言って里帆はトーク画面をこちらに向けた。
グループLINEと並行するように三好と里帆の細かいラリーが繰り広げられていた。しかし僕にはその内容がイマイチ飲み込めない。とりあえず画面の一番下、最後のメッセージを見る。
里帆から三好への送信。彼女の言う“これ”のことだろう。
〈交渉決裂したらすぐにここ出るから〉
「正確に言えば、二人でここには来ないっていう意味だったの。」
「ごめん、まだ状況つかめてない。」
里帆は「だよね、そんな顔してる」と少し笑ってからすぐに真剣な表情に戻ると部屋のドアに向かって真っ直ぐ進み出した。
「香葉のこと、拓海にはどう見えてる?」
問いの意味はよくわからないが、僕は正直に答える。
「・・・こう言っちゃなんだけど、ちょっと怖い瞬間があるからあんまり近づけない。」
ドアノブに手をかけたまま里帆は振り返って僕の目を見た。
その目は驚いているようではあるが、なぜか口角は少し上向きになっている。
「里帆さ、もしかして来栖さんに何かされたことあるの?」
僕が質問を切り返したと同時に彼女はドアをガチャリと開ける。廊下はおそらく無人である。
「強引にキスされたの。営業一部時代、二人で残業している時に」
淀みのない返答。里帆の後頭部は動かない。さっきバルコニーにいた時以上に彼女の顔を覗けない。
「私の性格だしさ、飲みの席だったり皆がいる前でされたら冗談で済ませられたかもしれない。でもあの時のあの状況下の香葉の顔、本気だった。」
「もしかして里帆が異動してきた本当の理由って、」
「今となっては本当の理由なんて自分でももうわかんないよ。ただ確かなのはそういう拒絶と隔離は逆効果だったってこと。」
「逆効果?」
「例えば帰宅する時とか。」
「あ」
僕はホリエさんを一撃で無力化させたあの姿を思い出した。必要に迫られた護身術だったのか。
「その双眼鏡もあの子のじゃないよ。」
「えっ?」
「そもそも香葉と私は同部屋じゃないよ。」
順当に背筋がヒヤッとする。だるんだるんの襟元で部屋に招き入れて、やれ探偵みたいだのボレーボレーだの言われていたあの時間の何かしらがぐるんと裏返しになる。
あれ?ちょっと待って?
「僕が出ていった後は大丈夫だったの?あんなグロッキーな状態じゃ抵抗できないんじゃ」
「ゴメン、あれは酔ってるフリしてた。」
「そうなの?!」
「拓海に迷惑かけたくない一心だったから。」
里帆はこちらに不自然な笑みを見せた。今の「迷惑かけたくない」という言葉とバルコニーでの自身の言動の矛盾が彼女にそんな顔をさせたのだろうか。
「それなのにどうしてあの時は部屋にすんなり入れたの?」
「今回の騒動、あの子が引き起こしたんじゃないかと私は思ってる。なんならあの部屋に拓海たちを匿えたら私一人で香葉を説得しに行くつもりだったんだもん。ところが香葉の方からやって来た。迷ったけど拓海には朋臣がついててくれるから大丈夫かなって思ってそれで」
「探りを入れるためにわざと仲間に引き入れたってこと?」
一度捜索をやめて撤収でもしたのだろうか、人の気配がまるでしない。警戒しながらも里帆は話を続けた。
「そのつもりだったんだけどね。私の思惑に朋臣が先に気付いた。やっぱスゴいよねアイツのああいう察しの良さ。」
わざわざ陽動に朋臣が名乗り出たことに僕はようやく合点がいった。
それと同時に不安が大きくなっていく。
「朋臣、無事に戻ってくるよね?」
「…わかんない」
里帆も同じ不安に駆られていた。
その瞬間だった。
背後から伸びた誰かの手に襟首をつかまれて物凄い勢いで部屋へと引っ張られる。
本日二度目の経験であった。
僕と里帆の抵抗は殊の外すんなりと収まった。部屋の明かりが点く。
「落ち着いたかバカヤロー」
「・・・久藤部長?」
自分たち二人を取り押さえていたのは広報部の皆だった。
「部長、尾瀬野君は何も悪くないんです。だかr」
僕以上に僕の無実を訴える里帆を久藤部長は片手で制した。
「そう思うんならちょっとは静かにしなよ。」
「私たちはあなたたちを保護しに来たんだよ。」
両手両足のロックが解除される。久藤部長の目は真っ直ぐこちらを見ていた。
「重役どもからの尋問に近い事情聴取を頑張ってのらりくらりと交わして広報部総出でお前ら助けに来たこの俺の部下を思う気持ちがこうも伝わっていないとは」
部長は「シクシク」とわざとらしいジェスチャーを見せるが、次の瞬間には真面目な表情に切り替わった。
「確かに部長という役職としてならお前を白洲の場に突き出して然るべきだと思う。」
「はい、僕自身もそう思います。」
「だからこれは俺個人の判断だ。」
「僕の無実を信じてくれてたんですね。」
「いいや。どっちかというとお前や玉井はやらかしそうなタイプだと思う。」
「え~」
「ただここまでの規模の悪さをやれるだけの機動力や手段を持ち合わせているとは到底思えなかった。」
「信じてたポイントそこですか~」
緊張が解けた里帆が思わずツッコむ。
「ただし、」部長の顔が今度は苦悶の表情に変わる。
「玉井からはあとで事情を聞かないといけないことがある。」
「…ああ、もうバレちゃいましたか。」
「正確に言えばまだ誰の犯行なのかは明らかになってない。だけどさっきとは逆の理屈で言えば、警備員をオトすことが可能な人間は限られてくるだろ。」
「せっかく警備室の映像消してまで証拠隠滅したっていうのになぁ。」
「余計な罪重ねるべきじゃなかったな。」
僕はようやくハッとなった。
「ホリエさんはもう意識戻ったんですか?」
「見事なまでの短時間の気絶だったらしい。俺も見たが痣一つなかったよ。」
「よかった~」
「転属以来口を酸っぱくして言ってることだが、お前がすべきは自分の心配なんだぞ尾瀬野。わざわざリスクを冒してまで警備室に侵入したってことは無実の証拠を見つけられたんだろうな?」
「いいえ、残念ながら。」
「そうか…」
「でもわかったことがあります。これ見てもらえますか。」
「監視カメラ映像だな。エレベーター前だな。」
「そうです。ちょうど僕らがあの宴会場から猛ダッシュで逃げてた時の映像です。」
「ふん、それで?」
「実は三好の知り合いにディープフェイクに詳しい人がいるそうで、」
里帆が「ショート動画でかわいい動物の映像をあげたりしたことあるそうで、」と補足説明をする。
「その知り合いにこの映像送ったのか?」
「はい。他にもいくつかの監視カメラ映像、それと念のためモニターそのものを撮影した動画も送って調べてもらいました。」
「結果は?」
「AIによる加工が検知されたものとそうでないものがありました。」
「お前が撮影した動画がディープフェイクってわけじゃないんだな。じゃあ違いはなんだ?」
自分からその質問に答えるのには若干の勇気が要った。
「僕が映っているかどうかみたいです。少しでも僕の姿が確認される映像の中では何かしらのフェイク加工がされていることになってしまうみたいです。」
「広報部から発信した社員旅行の映像にも違いが現れたのはそういうことか。」
「でも待って」里帆と並んで立っていた寄田先輩が手を挙げる。
「撮影者が尾瀬野君の動画にもフェイク扱いされてるのがあるよ。撮ってる本人だから映ってないじゃん。」
「おそらく鏡やガラス面に反射した僕の姿でもエフェクトかかるみたいなんです。」
里帆が再び補足を入れる。
「モニターをスマホで撮っても尾瀬野君の姿が入ってたらフェイクになりました。実像である必要はないみたいです。」
一連の説明を聞き終えてから久藤部長は手近にあった椅子を自分の方に引き寄せて座ると左手で頭を支える形でうなだれた。
「発見こそあったみたいだが原因究明には直結しなそうだな。」
残念ながらその通りだった。確かに次に打つ手をまだ決められずにいた。なんなら一旦朋臣と合流してから再度作戦を練り直そうと・・・
「あっ、」
「どうした尾瀬野?」
「朋臣は、三好はどうなりましたかまだ捕まったりしてないですよね?」
来栖さんの名前も出しそうになったが里帆の視線を感じたためとりあえず引っ込めた。
「今のところ何も連絡はない。非常ベル鳴らしたのはアイツか?」
「はい。でも僕のためにやってくれただけなんです。巻き込まれただけみたいなもんなんです。」
「社内の人間でさえそんな風に納得してくれるかどうかわからない状況だからな。まずは身柄確保が先決だろう。」
部長のその言葉に返事をするように二種類の着信音が鳴った。
全員が自分のスマホを見る。うち一つは僕と里帆のスマホに細かく連続した通知音。臨時作成したグループLINEだった。
もう一つは部長だった。人差し指を立てて全員に「静かにしろ」と合図すると電話に応答した。
僕は自分のスマホの通知を確認する。直後里帆と目を見合わせた。
ほぼ同時に電話を終えた部長がより一層険しい顔つきでこちらに振り返った。
「向かいの棟の三階廊下で騒ぎがあったらしい。」
〈今、まだ宴会場ある方の棟にいるんだけど〉
「近くにいた社員が言うには男女の揉める声を聞いたらしい。」
〈急に三好さんが変なこと言い出して掴みかかってきた〉
「それで社員たちが駆けつけてみたら」
〈抵抗したら三好さん、隠し持っていたナイフ出してきて〉
「誰もいなかったらしいんだが、床に血痕があったそうだ。」
〈腕を切りつけられた 痛い〉
「それとな、」
〈なんとか逃げて今隠れてる 助けて〉
ガチャン。
「里帆?」
「残念ながら僕です。」
「あ、拓海さんでしたか。助けに来てくれたんですね。」
「・・・ええ。」
窓のない部屋。開けっ放しのドアから入る光だけが奥にいる人影をぼんやりと照らしている。
「どうしてずっとそこに立ったままなんですか?誰か来ちゃいますよ!」
「グループLINEのトーク画面、もう一回見てみてください。」
黒い影がゴソゴソと動くと、スマホの明かりが彼女の顔を照らす。
「どうしてグループの方で助けを求めたんですか?三好も見れるのに?」
「え?」
「里帆や僕を友達追加して個人LINEを送ればよかったというのに。」
「それは単純にパニックでそこまで頭が回らなかったから、」
「既読見てください。いくつになってますか?」
「・・・2」
僕はわざとらしく声色を変えて迫った。
「そうなんです。さっきからずっと〈既読2〉のままなんです。あなたの送信に対して僕も里帆も既読済み。つまり三好がずっと未読状態ということです。」
「追っ手から逃げてる真っ最中だから既読できてないだけでしょ!」
「果たしてそうでしょうか?もっと根本的な理由で未読なんじゃないでしょうか?つまり今アイツの手元にスマホがないから。」
その瞬間ほんの少しだけ空気が震えた。間違いなくスマホのバイブ音。
僕はすぐさまドアを閉めた。真っ暗闇の中でスマホの光は二つ。一つは人影が持っている。そしてもう一つは人影の後ろ。そこを目がけて飛び込む。
「やめて!」
相手の抵抗を振りほどきながらスマホを掴むと僕はそのスマホのライトを点けてドアの方に戻る。
パチッ。
部屋の照明を点けるとそこには両手でナイフを握りしめた来栖さんがもうすぐそこまで迫ってきていた。
「やっぱり逆だったんですね。あなたが三好を襲った!あの血は三好のなんですね!彼は今どこですか!」
「知らないわよ、仕留め損ねちゃったから。」
「殺す気だったんですか!?」
「もちろん。だってアイツ『これ以上里帆や拓海が苦しむようなことしないでくれ』って言ってきたんだよ?見当違いもいいとこよね。私里帆を苦しめるようなことしてない、守ってあげてるだけ。」
目線を微動だにさせないまま彼女は肩を揺らして笑う。
「付け回したり勝手に相部屋のフリしたりするのが"守ってあげてる”っていうんですか?」
「いいよねぇ、好意を独り占めしてる側の人間はさぁ、」
一歩ずつ間合いを詰めてきながら口角は怒りのその角度へと曲がっていく。
「入社してから営業二部にいる時もたいして成績も出してないくせに、広報部でもほどほどに里帆の足引っ張ってる冴えない人間のくせに、当のあなた自身の好意は里帆に向いてないくせに!」
「今回の騒動を引き起こしたのもあなたなんですか?」
怒りの顔が一瞬で満面の笑みに変わる。恐怖度がぐんと高まる。
「まさかこんなに大きい事態になってくれるとはね~不思議なほどに楽しかったわ~、こんな事したところで確実に尾瀬野拓海を消せるわけでもないのに。」
完全に頭がイカれている中に数粒ばかり理性だの冷静さだのが垣間見えている。それはそれで恐怖度が二段階は上がる。だって、
「尾瀬野拓海消すんならこうした方が手っ取り早かったよね。」
やっぱりそうなるよな。段々とナイフの輪郭にしか目がいかなくなってくる。
ギリギリまで耐えたつもりだがそろそろ限界だ。
「お願いします!」
僕の合図から間髪入れずに広報部のメンバーと警備員がぞろぞろと部屋に入ってくる。
「えっ?はっ?何っ?」
罠にかかった事に対する驚きよりも入ってきた人数そのものに驚いたような表情で来栖さんは思わずナイフを落とした。丸腰にはなったが念のため警備員二人が彼女の両腕を取り押さえる。
「ちょっと考えればわかることだよね・・・」
来栖さんはどこでもないところを見ながら誰に対してでもない言葉を吐いた。
逆に自分はどんな言葉を彼女にかけるべきかわからなかった。
ストーカーへの説教?逆恨みに対する文句?
それとも慰めだろうか?「里帆からの好意を受けていながらそれに応えなかった」という来栖さんの言い分は決して間違っていないと思う。その点で言えば僕には逆恨みだと彼女を責める資格はない。
迷った挙句、僕は業務連絡をすることにした。
「お伝えしてませんでしたが、三好は無事保護されました。」
「え?」
すると久藤部長が前に出て来栖さんの正面に立った。
「探し出すの苦労したよ。」
「この短時間でどうやって?」
「監視カメラ映像が大変助けになったが、あとはただの人海戦術だ。おたくら他の部署はご存知ないだろうがウチら広報部はチームワークが売りなんだよ。」
警備室に向かう時の非常階段の手薄な感じは部長の計算なんじゃないかと一瞬思う。多分たまたまだ。
部長はただカッコイイ台詞を言いたかっただけだろうと察した里帆が話のバトンを強引に奪う。
「ここまで早いのはさすがに計算外だったにせよ、遅かれ早かれ朋臣が発見・保護されるのは時間の問題であることはあなたもわかってたでしょ。」
来栖さんは返事もしなければ彼女と目も合わせない。
「最初から拓海を殺すつもりだった?…私のことも?」
里帆がそう尋ねた途端、来栖さんは里帆に飛びかかった。慌てて警備員がロックしている腕と肩を後方に押し込む。
「一緒に死のうよ!そうすれば里帆も私のこと愛してくれるでしょう?」
「あんたイカれてんのか!」僕は彼女の胸ぐらを掴んでいた。今度は広報部の皆が僕を抑えようとする。
「失礼な言い方しないで!狂おしいほど愛しただけよ!」
「お前ぇ!!」
制止を振りほどこうとする僕の胸元に里帆はそっと手を添えた。一気に闘争心が鎮まっていく。
僕が落ち着いたのをゆっくりと確認した里帆はそのままゆっくりと振り返ると来栖さんをグーで殴り飛ばした。
「今の発言も全部スマホで撮影させてもらった。法廷で思う存分後悔して。」
「殺意の立証のために私にカマかけたんだ。抜かりのない感じが里帆っぽいね。そういう所が大好き。」
警備員二人は解除してしまった彼女をもう一度掴みあげると無言のまま連行、部屋から出ていった。
「……まぁ、何はともあれこれで一件落着かな?」久藤部長は半笑いで言った。場を和ませたいのだろう。いや、さすがに部長も里帆の拳骨に引いてしまったのだろう。
しかし里帆はやや深刻そうな顔で僕と部長を見た。
「部長、さっきの彼女のリアクション見ましたか?」
「あぁ、まさかウチの会社にあんな常軌を逸した子がいたなんてなぁ。」
「いやそうじゃなくて、彼女は私が『今の発言をスマホで撮ってる』って伝えたときに言い返しませんでしたね、『その映像には尾瀬野君が映ってるでしょ?フェイク扱いされるだけだよ』って。」
「確かに、すんなり受け入れてたな。」
「実はさっき皆に説明した<フェイク動画になる条件>の話は彼女にはしてないんです。」
「それってつまり?」
「彼女はこの一件におけるフェイクの仕組みを本当に知らなかった。だから私のブラフに反論しなかった。」
「一連の事件全てが来栖さんの仕業なら反論したはず、……彼女は動画を拡散しただけだった?」
「おそらくフェイク動画を作った人間は別にいる。」
「よっ、顔付き以外は元気そうだなっ」
空元気なのが丸わかりなトーン。応急処置の包帯がとても痛々しく見えた。
「ここ医務室もあったんだな。」
真っ先に聞くべきは怪我の容態なはずなのに一つ余計なことを挟んでしまった。何に及び腰になっているのだろうか。
「彼女どうなった?」
「来栖さん?」
「うん。」
「ひとまず地元の警察署に身柄引き渡されるって。多分今頃はパトカーで下ってるところだと思う。」
「そうか。里帆は?」
「事情聴取中。警備員への暴行の経緯についてで。」
「警備員への暴行ってどういうこと!?」
そっか。里帆がホリエさんをオトしたことは彼に詳しく話してなかった。
「違う違う!気絶させただけだよ!それに警備員本人含めて警備会社さんの方でもこの件について被害届は出さない方向で話進めてるらしいから。」
「そうなのか?」
「事情を鑑みてってことなんだけど。とは言っても少し重めの謹慎処分、それから警備員さんの治療費や慰謝料なんかは免れないみたい。」
「そうか…」
「本当にすごい迷惑かけちゃってるよね……」
「お前のせいじゃないよ。」
三好は真っ直ぐこちらを見ていた。こんなに近くでお互いに顔をつき合わせたのはいつ以来だろうか。
「なっ、ちょっと外歩こうぜ。」
保養所の裏手の林道は人の気配もなく霧が立ち込めていた。
徐々に空が白けて来ていて真っ黒なシルエットの森の輪郭が光で綺麗に縁取られている。
時折生暖かい風が吹き、その度に三好の肩が少し浮く。やっぱり痛むのだろう。
「里帆のこと、前から知ってたの?」
傾斜のゆるい坂を二人並んで下りながら僕は三好に尋ねた。
「ああ、『ずっと誰かに見られてる気がする』って相談とも言えないレベルで話されたのが最初だったな。実は異動の理由知ったのはここに来てからなんだけど。でもまさかここまでの執着だったなんて、正直ホントにビビったよ。」
「うん、そのこともそうなんだけど、いや、なんでもない、」
「里帆が拓海にそういう感情持ってたってことか?」
枝が折れて大量の鳥が飛び立つような感覚だった。実際飛び立ってたのかもしれない。
何も言えないでいる僕に三好も何も言わない。何も言わないまま、道が平らになったところでベンチを見つけて座った。僕も座るようにと促す彼に二の腕を軽く引っ張られる。
景色がいいとかそういうのはない、正面はただガードレールとその奥の木々のみ。歩き疲れた人を休ませるためだけにあるペンキのはげたベンチ。数時間前に頭上に広がっていた満天の星空にはないものを秘めているシチュエーション。
「・・・その感じ、受け入れられなかったんだな。」
「・・・うん。」
なんというか「フッたんだ」とか「断ったんだ」ではなく、「受け入れられなかった」というその言い回しに三好なりの優しさを勝手に感じてしまっていた。
「ヒドイ奴だよな。里帆が平静を保てていたのは非常時だったからに過ぎない。普通にあんな拒絶されてたら、もしかしたら今度は里帆が来栖さんのようになってたかもしれない。僕がそうさせてしまっていたかもしれない。」
「里帆はそんな人間じゃないよ。それにもしそうなっても拓海に責任があるわけじゃない。『里帆とはその距離、その関係性ではない』って自分の気持ちに正直になって、その上で里帆を傷つけないように言動したんだろ?見てないけどなんとなく分かるよ。」
僕は右隣の三好をチラッと見た。なぜか「見てないけど」という言葉につられて今なら目が合わないかなと思ってしまった。
残念ながら目は合った。さっきからこんなに真っ直ぐ見られてたのだろうか。体が石化する。そして段々とその両目の瞳孔や虹彩がハッキリと見えてくる。
「拓海はさ、人に優しいのはいいけど正直になれない分不親切だよ。」
至近距離で見ると本当に肌白い、まつ毛長い、髪サラサラ。前から知ってはいたけど。
「もっと正直な方がいいよ、マジで。」
「朋臣・・・」
プシュン。
少し離れた場所から聞き慣れない音がした。
その直後、三好はゆっくりと目を閉じて僕に倒れてかかった。
「おい、朋臣!しっかりしろ!」
全く力の入っていない人間の重さに焦りを覚える。呼びかけ揺さぶっても反応はない。よりにもよってスマホは今押収されている。
どうしよう、一人引き返して助けを呼びに行くべきか、
黒いパーカーの人影が近づいてきていたことには全く気付けなかった。
「あ、あー、騒がないでくれると話がしやすくて助かるなー」
長身の女性だった。口調こそ穏やかではあるが右手に拳銃らしきものを持っている。
僕の視線が手元にきているのを見た女性は「ご心配なく」と続けた。
「これ麻酔銃だから。」
「麻酔…銃…」
「二時間弱もすれば起きるよ。それに溶ける針使ってるから後遺症も残らないし当然麻酔薬自体の副作用もないし。」
イマイチ説明が頭に入ってこない。
「聞きたいこといっぱいありそうな顔してるけど、とりあえず『あなたは何者ですか』って質問は抜きにしてね、答えるの面倒臭いから。」
麻酔銃をポケットにしまうと彼女はパーカーのフードを脱いだ。
「あっ」
やや切れ長な目の割に奥深い瞳、見覚えのある顔だった。
「運転手さん?」
しかし今の「運転手さん?」と聞いた瞬間に僕は黒いパーカーの方についてもようやく思い出した。
「あの時ステージにいた社員もあなただったんですか!?あの機材トラブル起こしてた!?」
「私はハウリングさせただけで機材トラブルは起こしてないからね。」
「あなた一体何m、」
「だからそれは聞かない約束でしょ。」
約束した覚えはないが今ここで眠らされるわけにもいかないので僕は言い返すのをやめた。
「・・・で、どうだった?」
「はい?」
「フェイク動画だよ。今回はお試し版みたいなものだったけど、楽しんでもらえた?」
「あの動画あなたが作ったんですか?」
「厳密に言うと違う。で、感想は?」
「楽しいわけないじゃないですか。こうして負傷者まで出たんですよ!」
怒鳴り声に近い声をあげる僕にまるで怯むことなくその人は首を左右に揺らしながら言った。
「確かにそういう不測の事態は考慮すべきだったし、彼女をオペレーションに利用するっていうのもちょっと間違いだったかもしれない。でも効果と結果は概ね満足いくものになってると思うんだけどな~」
「効果と結果?」
「今回の騒動はSNSでちゃんとバズってる。これで会社名を知ったっていう人きっと多いよ。」
「ネガティブキャンペーンじゃないか。」
「先を見てないな~『本物の映像にさもフェイク動画に見えるような加工が施されていました』って正直に言ってその証拠を提示できればオーディエンスはどう考えると思う?『世間を騙した加害者じゃなくて実は被害者だったんだ』、『やっぱりあの会社は噓ついてなかったんだ』ってなるんじゃない?もしかしたら『清廉潔白な企業だ』なんて考えてくれる人たちも現れるかもよ?」
「そんな都合のいい話、」
「ありはしないっていうの?でも今回の一件であなたの周りは都合のいい展開になったんじゃない?同僚のストーカーを撃退して、その同僚の報われない恋をより深い友情へと昇華して、会社の宣伝にも貢献、そして、」
彼女は横目で眠る三好を見つめる。
「君の望む展開、もとい事実になってるんじゃないかな。」
「さっき『お試し版』って言ってたけど、あなたの目的は何?」
「ようやく乗り気になってくれた?」
ここでイエスと言ってしまうとさっき言われた〈君の望む展開〉を肯定しているような気がした。
「乗り気なわけじゃない。」
「あ、そう。」
対して相手は態度を崩さない。ずっとどこかヘラヘラしている。
「目的はセールスだよ。この技術のリース契約のセールス。」
やっぱりイマイチ説明が入ってこない。
「さっき『厳密に言うと違う』って言ったでしょ。私たちが開発したのは〈フェイク動画の生成技術〉じゃなくて〈フェイク加工を勝手にやってくれるAI〉だから。」
「余計にわかんないよ。」
「つまりはね、対象となる被写体とプラットフォームを設定しておけば、その人が映りこんだ映像が自動的に検出されてミリ単位でわざと引っかかるディープフェイクの加工が施される。本当の情報を噓にすることができる!」
「………」
「さらにそこから、フェイクが第三者による人為的なものだとわかれば情報は噓から一転、〈より本当の情報〉へとシフトされる!」
どうしてこの人はこんなに楽しそうに喋れるのだろうか。僕は目の前の黒パーカーが未来人に見えてきた。技術革新と環境の変化につられて思想が変わりきって体内にデバイスを埋め込むようになった何十年後かの人間。
「アインシュタインのいう石と棍棒による第四次世界大戦は本当は第五次。核兵器による第四次世界大戦のさらに手前にAIによる情報戦が第三次世界大戦として既に開戦してしまっている。私たち日本はもう敗戦するわけにはいかないの。だからこの技術は開発された、列強どもを内蔵から喰い破るために。」
「そんな壮大かつ滑稽な話がどうやって僕らに帰着するんだよ。」
「今私たちはこの技術の水面下での普及と暗躍を進めているけれど運用資金が不足している。もっと簡潔に言えばお金が足りないの。そこで普及と資金調達の両方を兼ねてランダムに人を選んでこうして実演も行った上でセールスしてるの。」
「そんな金僕にはない。」
「慌てないでよ~あなたから払ってもらうなんて言ってないでしょ。あなたはこの技術のいわばゲームテスターになってくれるだけでいいんだよ。自分や自分以外の誰かをこの技術の対象にして過ごしてもらうだけ。それによって生じるニュースにもならない経済効果による利益が私たちのもとに回ってくる。きっとまだ信じてくれないだろうけど、おたくの社長より上の方々には既に話は通ってるから。」
鳥肌が立った。
A社社長が騒動についての釈明をしたあのイベントに僕が連れていかれたのは社内誌のためじゃなかったのか。あの時既にこの訳の分からない技術の話が上層部にもたらされていたとしたら、僕をフレームインさせることでライバル企業を蹴落としたのか。今回の社員旅行もこの保養所という舞台もこのために用意されたのか。
「ゾクゾクっとした?フフフ。」
完全に心を読まれている。
しかし絶頂を迎えた恐怖はみるみるうちに消滅していっている。
会社公認であるという僅かな安心感、まだどこか認めたくはないが確かに望んだ現実をもたらしてくれたこの技術の実用性、そして今まで考えたこともなかった「情報を操作する側」の全能性と優越感。
「あくまでセールスではあるし、断られたら代わりを探すまでだけど、」
そう言って彼女はどこからともなく契約書を僕の前に差し出した。
「このままって選択肢もあるけれども、どうしたい?」
「本当にそれは僕の自由にしていいことなの?」
「勿論。そのために用意したこの現実だから。」
「じゃあ・・・」
「社長、この度は新たな自社ブランドの設立おめでとうございます。」
「ありがとうございます。これもユーザーの皆様が弊社と弊社の文具について広く知り深く愛していただいている賜物と思っております。」
「先日のフェイク動画騒動により社名がトレンド入りしたことがBtoC事業強化の大きな足掛かりになったと思われるのですが、そのあたりいかがでしょうか。」
「騒動の直後は弊社にとって大変な局面でありました。騒動の起こる少し前に同業他社社長の発言に対してのフェイク動画の一件がありましたから、弊社も同じようにステークホルダーの皆様からの信頼を失ってしまうのではないかという恐怖に苛まれました。しかし第三者介入による厳正な調査の結果、件の同業他社社長のフェイク動画を見た何者かによる作為的な加工が見られ、動画自体は本物であったことが証明されました。改めて弊社の「噓偽りのない社の姿勢」というものを再認識することができましたし、騒動がかえって弊社の存在を広く周知していただく機会となったことも事実であります。まさに怪我の功名!災い転じて福となす!弊社を信じ支えてくださった皆様には大変感謝しております。」
「こうしたフェイク動画による被害について一言お願いします。」
「生成AI、ディープフェイク、こうしたものは確かに脅威であります。しかし見方を変えればそれらもただの一つの時代の変容に過ぎません。情報リテラシーは社会を正しい自然淘汰へと導いてくれます。企業はもちろん地域・国のコミュニティや個人においてもそう、長く生き続けるのは強き者でも賢き者でもない、実直な者なのです。弊社はその実直さを常に胸に・・・」
次回(予定) 『或りし日の乙女と秤』




