08-リナリアの回想④
次第に病院内でも私と斗真が付き合っていることが知れ渡って来た。人気者の斗真と付き合っている事もあって、やっかむ人もいるかも知れないと思っていたが、意外に周りは温かく見守ってくれていた。
私より二年先輩の看護師の一人は、ある日こう言ってきた。
「貴方みたいな普通の人でも、あんなハイスペックの人と付き合えるなんて、勇気が出るわ」
もしかしたら、ちょっとした嫌味も混じっていたのかもしれないけれど、それすらも今の私には軽口にしか聞こえなかった。私はただ素直に、応援の言葉として受け取ることにした。
斗真と付き合い始めて半年以上が経った頃だった。
その日、仕事を終えて帰ろうとしていた私に、斗真が声をかけてきた。
「莉奈、これを持っていて欲しい」
そう言って渡されたのは、黒くてシンプルなカードキー。手に取った瞬間、それが何を意味するのか、すぐに理解できた。
合い鍵――恋人同士の親密さを示す、ある種の証。
「斗真……」
思わず名前を呼んでしまった私に、彼は柔らかく微笑んだ。
「ほら、俺たち宿直とかシフトでなかなか会えないじゃん? 本当は一緒に住みたいくらいなんだけど……。とりあえず、いつでも俺のマンションに来て良いから」
一緒に……。
その言葉に一瞬だけ戸惑ったけれど、胸の奥からじわっと温かいものが込み上げてくるのを感じた。
「……ありがとう。大切にするね」
通い慣れた彼の部屋。そこにもう一人の居場所として受け入れられた気がして、嬉しくて、胸が高鳴った。いつかは一緒に暮らして、やがて結婚して――。そんな未来を思い描くようになっていた。
病院では女性看護師とのやりとりが多い斗真だけれど、彼が私に向ける眼差しと他の誰かに向ける視線が違うことにも気づいていた。最初は不安だったけれど、次第に信頼に変わっていった。
彼が隣にいるのが、当たり前の日々。
それがこのままずっと続いていくものだと、疑いもしなかった。
――あの日までは。
その日は斗真の誕生日だった。
彼は遅番、私は早番。すれ違いのシフトだったけれど、だからこそ、私は彼の帰宅をサプライズで迎えたかった。
ケーキは帰り道のパティスリーで奮発して買った。彼の大好物のチョコレートムースがのったホールケーキ。冷凍されていない生の苺を使った、ちょっと高級なものだ。
夕飯には、前に一度作って好評だったビーフシチューを。特別な日に相応しい料理を作ろうと、帰り際にスーパーで材料を買い揃え、両手に袋を下げて斗真のマンションへと向かった。
ところが――。
マンションのエントランスに着き、カードキーを取り出して玄関のドアを押そうとしたその瞬間、扉はあっさりと開いた。
「あれ……?」
鍵、かけ忘れたのかな? そう思いながら中に足を踏み入れた私の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
玄関マットの上に、真っ赤なパンプス。
女性物。それも、いかにも若くて洒落たデザイン。斗真の母親……? いや、面識はないけど、あまりにも若すぎる。むしろ恋人の部屋に訪ねてきた“特別な女性”のそれにしか見えなかった。
混乱しながらリビングへと向かうと、さらに追い討ちをかけるように、見知らぬ女性が立っていた。
エプロン姿の彼女は、私と年齢が近いか、もしかしたら少し年下だろうか。ハーフアップにした柔らかな髪、華やかな化粧、育ちの良さそうな立ち居振る舞い。
「あら? あなたが、斗真の“遊び相手”の人かしら?」
その第一声に、頭が真っ白になった。
「え……?」
「私は斗真の婚約者なの。ごめんなさいね、今日は彼の誕生日で特別な日なのよ。悪いけれど、帰ってもらえるかしら?」
婚約者――?
私が、遊び相手――?
なにかの冗談?
これは、夢? 現実?
目の前が歪んで見えた。
私の手からケーキの箱が落ちる音がやけに大きく響いた。
ビニール袋も滑り落ち、買ってきた食材が床に転がった。
私は何も言えず、その場から逃げるように外へ駆け出していた。
涙が止まらなかった。
どうして?
あんなに優しくて、真っ直ぐで、信じていたのに。
婚約者がいたのなら、どうして隠していたの?
私の未来は、何だったの?
一緒に暮らしたい、結婚したい、子どもが欲しい――そんな淡い夢は全部、私の幻想だったの?
歩きながら、何度も涙が溢れてきた。街灯の明かりが滲んで見えた。
いつの間にか、家に帰り着いていた。
そしてそのまま、泣き疲れてベッドに倒れ込み、朝まで眠った。
翌朝、瞼が腫れて目が開かないほどになっていたけれど、それでも仕事に行く気にはなれなかった。
幸いその日は休みだった。
でも、問題はその翌日からだった。
同じ職場という現実が、心に重くのしかかった。
顔を合わせるのが怖くて、斗真のことを避けるようになった。病院ですれ違いそうになると目を逸らし、食事の時間をずらし、メールでは一方的に別れを告げ、電話は着信拒否にした。
斗真は何度も話したそうにしていたけれど、私はそれを受け止める勇気が持てなかった。
だから、逃げるように休暇を取った。
せめて心を整理するために、旅に出よう。
引き継ぎを終え、夜遅くに病院を出た。駅に向かって早足で歩く。
もうすぐ、旅立てる。
そう思った矢先、突然、誰かに腕を掴まれた。
驚いて振り返ると、そこには斗真がいた。
真剣な眼差しで私を見据え、決して逃がさないというような強さを宿していた。
「斗真……なぜ……」
「莉奈、誤解なんだ! あれは、違うんだよ!」
「話して! もう言い訳なんて聞きたくない。どうぞ、婚約者とお幸せに!」
「婚約者? ちょっと待って、何のことだ?」
「貴方のマンションにいた女のことよ!」
「……違う。あれは――」
その時だった。
すぐ近くで怒鳴り声が響いた。
「危ない、避けろ!」
咄嗟に反応するも遅く、目の前に光が迫ってきた。ヘッドライトの強烈な光。
次の瞬間、斗真が私を抱き寄せた――
そして、私の意識は、闇の中へと落ちていった――。