05-リナリアの回想①
私の前世の名前は倉橋莉奈。この世界に転生する前は、看護師として慌ただしい毎日を過ごしていた。
看護師になったのは、高校入学後まもなく、シングルマザーだった母を病気で亡くしたことがきっかけだ。日々やせ細っていく母に、私は何もしてあげられなかった。ただ見守るしかない自分が、悔しくてたまらなかった。
結局、母は病気が発覚してから一年ほどで天に召された。心にぽっかりと穴が開いたまま、私はその喪失感を抱えて生きることになった。
医師がどんなに尽力しても救えなかった命に、自分が何かできたとは思っていない。でも、それでも——せめて、もう少しだけでも母の力になれたなら。そんな思いが、私を看護師という道へ導いた。
あのとき、無力だった私でも、誰かの役に立てるかもしれない。少しでも苦しむ人の助けになれたなら——そんな思いが、看護師という仕事への決意となったのだ。
斗真と初めて出会ったのは、看護師になって二年目の春のことだった。
「ねぇ、聞いた? 今度、心臓外科に新しい先生が赴任してくるんですって」
「聞いたわ。留学してて、海外で腕を磨いたらしいの。若いのにすごく優秀なんですって」
「しかも容姿端麗らしいよ」
「「「楽しみ〜!」」」
先輩看護師たちが口々に噂するその新しい医師に、私は正直まったく興味がなかった。職場での人間関係は、あくまで仕事を円滑に進めるためのもの。それ以上でも、それ以下でもない。
それに、医者と付き合うなんて私には恐れ多すぎるし、そもそも仕事をしに来ているのだ。男を探すためにここにいるわけじゃない。
別の病院で働いていた看護学校の友人もこんなことを言っていた。
「世間じゃさ、結婚するなら医者とか弁護士とか言うけど、私は遠慮したいな。モテる人って浮気の心配もあるし、医者って性格に難ありの人が多いのよね〜」
私もまったくの同意見だった。
それから数日後、噂のイケメン医師が私たちの心臓外科病棟のナースステーションに挨拶に来た。
「初めまして。井上斗真です。皆さんの協力なくしては病院は成り立ちません。今後ともよろしくお願いします」
その丁寧で誠実そうな挨拶は、看護師たちの心を一気に掴んだ。
まったく彼に興味がなかった私でさえ、「あれ? 意外といい人かも」と思ってしまったくらいだ。
「井上先生、分かってるわよね」
「そうそう。看護師の協力がどれだけ大切かって。他の医師には私たちを見下すような人もいるのに、ちゃんと言ってくれるなんて」
「言葉にしてくれるだけでも嬉しいよね」
「「「しかもイケメン!」」」
先輩たちは、それからというもの、ことあるごとに斗真の話題で盛り上がっていた。
イケメンで、医者で、腕もいい——性格が本当にいいのかはさておき、モテる要素をこれでもかと備えていた斗真に、私は……まったく興味がなかった。
……いや、正確に言えば、「興味を持たないようにしていた」のかもしれない。どうせ自分なんて相手にされるわけがない。そんな思いが、私の心に蓋をしていたのだ。
そんな中、斗真が赴任して間もなく、先輩たちは歓迎会の計画を立て始めた。もちろん、斗真の宿直日と自分たちのシフトをうまく避けて。
歓迎会の日は、みんなシフトに入りたくない。そんなわけで、その日の夜勤は後輩たちに回ってきた。
私も、その中に含まれていることは最初から分かっていた。もともと参加するつもりなんてなかったし、むしろ静かに働ける夜勤は歓迎だった。
歓迎会当日の夜勤は、私のほかに、新人の男性看護師と既婚女性の看護師が担当することになっていた。斗真と親しくなろうなんて考えるような人はいなかったはずだ。
それなのに——その夜は急患が立て続けに入り、斗真を呼び出す事態になってしまった。
心臓外科病棟で発作を起こした患者がいた上、救急搬送も重なり、宿直の医師は処置室から動けない。 結果、私たちは斗真に連絡を取らざるを得なかった。
他の医師にも連絡を試みたのだが、すでに飲酒してしまっていたため、唯一まだ飲んでいなかった斗真に連絡が繋がったのだ。
私にとっては、これが斗真の診療を見る初めての機会だった。
彼は現れるなり、的確な指示を出し、迷いのない処置で患者を安定させた。
「この人、本物だ……」
思わず感嘆の声が漏れた。
「井上先生って、イケメンなだけじゃなくて、本当に腕も一流なんですね」
その言葉に、斗真は一瞬、動きを止めた。
「えっ? イケメンって……」
そう言ったきり、彼は数秒固まっていたが、
「ふっ、ふははははっ」
急に笑い出した。
「……え? 私、何か変なこと言いました?」
戸惑って首をかしげる私に、斗真は笑いながら言った。
「君って、面白いね」
そのあとも彼は、何度となく私に話しかけてくるようになった。私はそのたびに当たり障りのない返事をして、必要以上に接点を持たないようにしていた。
なぜ、そんなに避けようとしていたのか——それは、次第に彼に惹かれていく自分自身を、どこかで恐れていたからかもしれない。
それに、先輩たちの目も気になっていた。だから、なるべく顔を合わせないようにしていたのだ。それが一番無難だと思っていた。
……なのに。
ある日、斗真はそんな空気をものともせず、私を食事に誘ってきた。
すれ違いざま、そっと手渡された一枚のメモ。
「○月○日、19時。駅前の喫茶店で。待ってる」
その場で私は固まった。
「あら、倉橋さん? こんなところで何してるの?」
斗真ファンの先輩看護師の声に、思わず肩をすくめた。
「い、いえ、何でもないです。ただちょっと……考え事をしていただけで」
そう言って笑顔でごまかし、すぐにその場を離れた。
——もしこのメモのことが知られたら?
そう思うだけで冷や汗が出た。
でも、メモには「来るまで待ってる」と書いてあった。無視するのも、何だか申し訳なくてできなかった。
このときの私は、まさかこの食事の誘いが、自分の運命を大きく変えることになるなんて、夢にも思っていなかった——。