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02-リナリアの失態

 キョロキョロ……サササッ……サササッ……キョロキョロ……

 まるで忍者のように壁伝いに身を隠しながら、私は自室を目指して宮殿内を移動していた。


 ――どうしてこうなったのか。

 いや、わかっている。昨夜のあの失態に尽きる。

 気配を殺しながら回廊の角を曲がった瞬間、目の前に広がる光景に私は思わず立ち止まった。


 ……ここ、どこ?



 嫌な予感が背筋を這い上がる。見慣れぬ壁の装飾、違和感のある天井の高さ。ここは……西の離宮ではない。

 そして、ようやく思い至った。


 ここは、第三王子――トーマス・ジルベルト・ガラティア殿下が居住する、東の離宮。

 私が侍女としてお仕えする第二王女セレーナ・マイカ・ガラティア殿下が住まう西の離宮の反対側である。


 ……やばい。やばい、やばい!


 第三王子の部屋で目覚めたのならそれは当然のことなのだが、その重大な事態に今更ながら慄く私。

 もし誰かに見つかったらただでは済まない。第三王子の居住区に、身分の低い侍女が、しかも夜明け前にうろついていたなどと知れたら――それだけで処罰は免れないだろう。最悪、即刻、宮仕えから追放されてもおかしくない。

 冷や汗を拭う余裕もなく、私は再びサササッと身を低くして壁際に移動し、人気のない廊下を足早に通り抜けた。

 幸いにも早朝であるこの時間、まだ人の往来は少なかった。朝の空気がひんやりと肌を撫でるなか、私は心から神に感謝した。


 なんとか自室に辿り着いたとき、全身から力が抜けた。扉を閉め、背中を預けるようにしてずるずると床に崩れ落ちる。


 ふぅ……助かった……


 いや、助かってなんていない。これからが本番だ。誰にも見られずに戻ってこられたことだけが唯一の救い。それ以上でも以下でもない。

 深呼吸をしてから、私はようやく部屋の奥へ進んだ。侍女用の部屋としては広めで、ささやかながらも品の良い調度品に囲まれている。



 私の場合、侍女と言っても下っ端なので直接セレーナ王女殿下に関わる事は少ない。十五才から侍女として勤めて二年になるが、王女様に声をかけられたのは片手で数えるほどしかない。


 それでも、ここは居心地のいい空間だった。私はベッドの縁に腰を下ろし、ゆっくりと昨夜の出来事を思い出そうとした。



 ガラティア王国第三王子、トーマス・ジルベルト・ガラティア。


 金髪碧眼、誰が見ても完璧な王子様――まるで絵本から抜け出してきたかのような容姿を持つ第三王子。


 さっき目にしたばかりの王子様の麗しい寝顔が頭を過ぎった瞬間、その記憶を振り払う。


 いや、見ているだけならいいのよ。見ているだけなら……


 でも、あれは絶対に関わってはいけない人物だ。前世でも痛い目を見たではないか。

 学ばなかったのか、私。


 思わず両手で顔を覆い、うずくまった。


 ことの発端は昨夜、メリッサと別れた後だ。彼女が「明日は早いから」と席を立ったあと、私はまだ飲み足りない思いを抱えて中庭へと向かった。

 ワインボトルを片手に。


 ……いや、だってまだ半分残ってたし。勿体ないじゃない?

 そんな言い訳が脳内をよぎる。前世の庶民感覚、ここに極まれり。

 それがこんな事態を引き起こすなんて誰が予想できるだろうか?


 今世では子爵家の娘に生まれ、それなりに裕福に育ったはずなのに、根っこの部分はどうにも変わらないらしい。

 メリッサの家は伯爵領で、ワインの産地としても名高い。そのため彼女は幼い頃からアルコールに親しんでいて、私と同様に酒には強かった。そんな彼女と二人で時折、こうして内緒の飲み会を開いていた。


他の侍女たちはお酒に弱く、毎回この密会に参加するのは私たちだけ。秘密の楽しみだった。


 私は前世でもお酒が好きで結構飲める方だった。どうやらその体質は転生後も変わらなかったらしい。

 今世では、父親ばかりか母親も結構ワインを嗜んでいたし、私自身も十二歳の頃には台所からワインをこっそり拝借していた。


 バレたときはこっぴどく叱られたけれど、飲酒そのものを禁じられたわけではなかった。一日一杯まで、という妙に寛大なルールが設けられただけだった。


 ……今思えばあのときから、私は調子に乗ってたのかもしれない。


 昨夜もそうだった。中庭のベンチに腰を下ろし、星空を仰ぎながらワインを一口、また一口。

 花壇の薔薇が月光に照らされ、夢のように輝いていた。そんな幻想的な空間に酔いしれながら、私はうっかりワインの残りを飲み干してしまった。


 ……そして、声をかけられたのだ。

「よかったら、俺の部屋で飲み直さないか? 極上のワインとチーズがあるんだけど」

 低く、落ち着いた声。その響きは今も耳に残っている。


 あれ、夢じゃ……ないよね?


 記憶を手繰るたび、ぼんやりとした映像が浮かんでは消えていく。けれど、確かにその言葉を聞いた記憶がある。

 私は、うなずいたのだろう。千鳥足で彼について行ったのだろう。


 だって、「極上のワインとチーズ」――それは、前世の私がこよなく愛していた組み合わせだった。

 誘惑に勝てるわけがない。判断能力を失った酔っぱらいが、どうしてそんな甘い罠を見抜けようか。


 ……また、やってしまった。


 前世でも同じような経緯で、私は“あの人”と付き合い始めたのだった。

 そして最後には――裏切られた。


 私はベッドに顔を埋め、思わず呻いた。

 ほんとに、懲りてない……

 情けなさと自己嫌悪が渦を巻く。でも、嘆いてばかりもいられない。


 切り替えの早さこそ、私の長所だ。前世からの、ね。


 いいわ。誰にも見つからずに戻ってこられたのなら、なかったことにしてしまえばいい。第三王子も酔っていたし、私のことなんて覚えていないかもしれないし……


 もちろん、それが甘い考えだということもわかっている。でも、そうでも思わなければやっていけない。

 同じ城に住んでいる以上、完全に顔を合わせないようにするのは難しい。けれど、なるべく視線を合わせず、そっと距離を置くようにすれば――なんとかなるかもしれない。


 私は、そんなに目立つ顔立ちじゃない。普通。地味。王子様の記憶に残るような存在じゃ、絶対にないはず。あんなモテモテの王子様にとって私なんて眼中にないに違いない。


 だが、その淡い期待は――あっけなく、裏切られることになるのだった。



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