東京某駅
曇り空の下、ビルから出てきた私を出迎えたのは、肌寒く薄暗い灰色の夕暮れ時だった。五反田駅の西口、頭上のホームと、駅の入り口から聞こえてくるのは、山手線の運転見合わせを告げるアナウンス。
何時から止まっているのだろうか。急用のある人たちは早々に見切りをつけて、もう地下鉄にでも乗って、どこかに行ってしまったのか、それとも今日がたまたまそうであるだけなのか、とにかく今の五反田駅のひと気はまばらだ。
私の行く先は目黒、たった1駅。別に線路に沿って、途中の坂を登れば、20分、いや15分程度の道のりである。ただ、今日は歩きたくない。そこに特段の理由はない。急いでいるわけでもない。単に電車で行きたいのだ。
しかし、そうは言っても電車は来ない。いや、来た。たった今、外回りの電車が滑り込んできた。動いていないと案内しておきながら、実際には電車が動いているということは、よくあることだ。仮にこの1本を逃しても、今来たのなら次もすぐ来るんだろう。
でも、せっかくなら今来た電車に乗ってしまいたい。見上げるホームに間に合うはずもないのに、私はすぐさま駆け出した。
何だか今日は体が軽い。足も軽い。
「走らないでください!」
駅員が止めに声をかけてくるほどに速い。ついつい、改札まで抜けきってしまった私は、一度戻って正規の入場を果たすと、再びダッシュで、ホームに向けた階段を一気に駆け上っていった。
ホームの上では、電車がドアを開けて停まっていた。まもなく運転再開だそうだ。ラッキーだ。
乗り込んだ車内はピカピカだ。まだ落成したばかりの編成だろうか、銀色の手すりが輝いている。直前、駅前も人は少なかったが、しばらく電車が止まっていたと言うのに、混雑どころかガラガラだ。この階段沿いの車内、ロングシートの端っこだけに、4人ぐらいしか乗客はいない。まるで田舎のローカル線のようだ。
ほどなくホームに、発車メロディーが3回、しつこく流れた。そうしてドアは閉まり、電車はゆっくりと進み始めた。
私は空いた電車で立ったまま、内回り、東の方の窓から外を見ながら、ぼんやりしていた。もっと言うと、ぼんやりしすぎていた。
だから異変に気付くのが遅れた。
「The next station is Tokyo………。」
今、たしかに自動音声の英語のアナウンスが、東京に続いて、なんとかと言った。東京なんとか、東京テレポートぐらいしか思い当たる駅はない。私が乗っているのは、五反田から乗った山手線だ。どうやったって五反田の隣に東京テレポートがあるはずはない。
壊れているのだろうか。そのせいで電車が止まっていたのであろうか。せっかくこんな珍しいアナウンスをしているのなら、日本語の部分もしっかりと聞いておくべきだった。
電車が大きく揺れる。とっさにつり革を掴んだ私が、手元からまた窓の外に目を向ける。
なんだ、これは。
知らない光景だ。意味がわからない。薄暗くてあまり見えないが、建物がほとんどないようだ。そもそも何かあれば、明かりが灯っているはずだ。
呆気にとられる私などさておいて、電車は徐々に減速していく。まさか本当に東京なんたらに来たのか。それにしては、外の雰囲気は東京らしくない。
「この先、この電車、本日に限りまして、歌舞伎町に停車いたします…。」
肉声だが抑揚もなければ生気もないアナウンスを、私は今度は全て聞き届けた。歌舞伎町に駅はない。駅と線路があるのは新宿だし、目黒よりもっと先だ。
まもなく、電車は完全に停止し、目の前のドアが開いた。ドアの先、縁が石ででき、舗装はされているものの黄色い点字ブロックのないホームを見て、私は直感した。
これは、降りたらとんでもないことになる。ここは、絶対に目黒ではない。
なんと胸の躍る出来事であろうか。信じられない出来事が起きている。馬鹿な私はロクに考えもせずに、電車から降りてしまった。
降りたホームはホームドアどころか、屋根もなかった。ただ1本、朽ちた白地の柱に、同じく白地の年季の入った板が横向きに取り付けられており、綺麗な手書きで東京と記してあった。東京の先は、字のところの木が剥がれてしまっていて読めない。
このほか、ホームには広告もない。だから、これが駅名標であって、先ほど電車の中で、東京なんたらとアナウンスしたのだろう。あとに何が続くかは不明とは言え、まずもって東京とは結びつかないホーム上、電車が真後ろで走り始める中、唖然としたままの私がひとまず駅の外に出ようと、五反田であったはずの来た方、右手に目をやった瞬間であった。
私は息を飲んだ。
雲一つない中、地平線近くの赤から、天に向かって青くなりゆくグラデーション、私が過去生きてきた中で、最も美しい空が広がっている。朝焼けだ。自分でも頬がゆるんでいくのが分かる。昔、写真で見たカナダの空のようだ。
私は少しの間、その場で空を見上げていた。そして空からほとんど視線を落とさないまま、ほかにもここで電車を降りた数名が向かっていくホームの真ん中のあたりへと進んでいった。
さて、この東京某駅の駅舎は、ひどい有様だ。駅舎というよりも、木造のただの戸口に、申し訳程度の屋根がついているだけに過ぎない。当然、無人駅である。私はここで律儀に、改札代わりと思われる古びた機械に一度触れて、外へと出た。
駅舎を出ると、空の色は打って変わって秋口の真っ青な、明るい晴れ色へと変貌していた。相変わらず、雲だけはない。
駅の前は少し砂利がひかれていて、そのすぐ先には車が1台分ぐらい通れる幅の、舗装された道が伸びている。駅前であるというのに、駅の向かい側は藪と林である。これで東京を名乗っているのだから、何か由緒があるのだろう。
どこに行ってしまったのか、さっきわずかに降りてきた人たちも、もうほとんどいない。まだ右手、その道を半袖の白いセーラー服に紺のスカート、黒い大きなリュックサックを背負った女生徒が1人、歩いていているのと、後ろからもう1人誰か来る気配があるだけだ。
私に行く当てはない。目黒に行く用事は、一体何だったか。もう今は良い。私はただ目に入った女生徒が向かう先に、なんとなくついて行ってみることにした。
怪しい者だと誤解されないよう、ある程度距離を持ちながら進むと、大きくS字を描くような坂道があり、そのSの下部にあたる位置には、草のない耕されたばかりの土の傾斜があった。こんな斜面に、畑でも作ろうとしている人がいるらしい。女生徒はその畑に、何のためらいもなく入って突き進み、ショートカットをしていた。女生徒が登り切った後、私も同じように土のエリアに足を踏み入れたが、2歩進んだところで、靴に土が入ってくるのを感じて、すぐさま引き返し、正しい道筋を追っていった。
S字の中ほどまで上って、一旦後ろに目もやると、もう1人、別の若い女が私の後に続いていた。駅で気配のあった人物は、この女であったようだ。こちらも当てなく、私を追っているのだろうか。
坂の上まで来ると、両手は林となり、アスファルトで舗装された狭い道はまだ奥へと伸びていた。青い空に緑、清々しい場所だ。女生徒も道の奥へと進んでいる。私も黙々と追いかける。
そうして林を抜けた先、少し開けた場所があり、そこに平屋の家が1軒、北向きに建っていた。この家は、誰かが暮らしている様子もなければ、暮らしが営まれていた様子もない。玄関の前の庭のようなところには、何か小さな屋根のついた、弱々しい東屋のようなものも建っている。
寄合所のように使われているのであろうか。それとも元は寺か。鳥居がないから、神社ではないのだろう。
建物に気を取られていた私が、再び女生徒の方に向き直ると、さらに続く砂利道を、女生徒が走って行っていた。いつ降ろしたのか、その背にリュックはない。
まずいことになった。きっと私が追ってきていることを、あの子は知っていたのだ。だから、ここで撒いて逃げているのだ。
私は不審ではない。そのことを伝えねばならない。
私も白いセーラー服を追いかける。やはり体は軽い。足も軽い。そういえばさっき五反田の駅で、私は改札を抜けるのに一度失敗して、そのまま駅の壁にまでぶつかりそうになったのだ。あの時、なんだか体中が浮かんでいるような、いや、ホームまでの階段を上る時、どうだったか。
気づけば、私は地面に沿って、飛んでいた。
先を走るあの子まで、あっという間だ。
「待って!」
声をかける私が伸ばした右手は、あちらから掴まれた。そのまま私は、女生徒に抱きかかえられてしまった。初めて正面から目にしたこの子の顔は、笑っていた。
逃げていたのに、笑っていた。
私は飛ぶのをやめられなかった。地面に降りようとしながら、彼女とともに、高く上った。眼下には、林のほかに草原も広がっている。
彼女は語ってくれた。あの家に住んでいること、過去のこと、きょうだいのこと。
やっと私は地に降りる。毛布のように、柔らかい草の生えた場所に、ゆっくり降りる。
彼女の顔が、ぐっと私に近づいた。
「仕事。」
自らつぶやいた一言が脳裏をよぎった次の瞬間、私は自宅の寝室に外から差し込む月明かりに照らされていた。時計の針は、4時前だ。ここからはもう、寝付けなかった。
結局、私はその日、仕事を休んだ。夕方になって、用もないのに五反田まで行って、わざわざ改札の外に出た。私はなぜ、あの時ここが五反田であると思ったんだろう。見れば全くと言って良いほど違う場所だ。
今にでも雨が降りだしてきそうなほど、今日の空はどんよりしている。私が昨晩見た時より、もっと暗く、寒い。
5分も経たないうちに、私は改札まで走った。当然、軽くもなんともない。走るだけだ。改札も失敗せずに入れた。階段を駆け上がると、さすがに全身から汗が噴き出して、息が切れる。
山手線の外回りが、ちょうどドアを開けて待っている。帰りは反対なのに、私はその電車に飛び乗る。肩で息をしながら、見渡す車中はいつもの山手線、混んではいないが座れない。銀色の手すりは輝いているようで、無数の細かい傷と、誰かの残した指紋がついている。1回分も流し切らず、発車メロディーは途中で忙しく打ち切られ、ドアは閉まり、電車が動き出していく。
立ったまま、ぼんやり外を見る。高架の線路は、さらに上を走る首都高をくぐり、そのうちまわりの地面の方が線路の方へと迫ってくる。この前来た時と同じ、変わりはない。
「次は、目黒、目黒、お出口は右側です。」
次は目黒だ。馬鹿な1日だった。小さくため息を吐いて、私が目を閉じた時、突然、電車が大きく揺れた。
私はとっさに、つり革を掴んだ。