紫の薔薇
ルナにとって、その不思議な感覚は嫌な感覚ではない。しかし、自分が自分でなくなってしまうように思えた。
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ルナ・マリレーヌ・ルイーズ・カトリーヌはナルフェック王国の女王である。十八歳の誕生日を迎えた後も、いつも通り公務や改革に励んでいたが、ルナの心には少し変化があった。
時は少し遡り、ラファイエット侯爵領で起きた事故で昏睡状態になってから目覚めた時のこと。政略結婚で結ばれた夫のシャルル・イヴォン・ピエールへの愛を自覚したのだ。それからは、何故かルナにとってシャルルはキラキラと輝いて見えた。シャルルを前にすると、胸の鼓動が高鳴ることが多くなっている。
(どうしてかしら? シャルル様を見ていると……胸が騒ぐわ。これは……愛とは少し違うこの感じ……。私が私でなくなってしまうような、乱されるようなこの感覚……)
今もルナはシャルルに対する気持ちに戸惑っていた。
「ルナ様?」
シャルルの声で、ルナはハッと我に返る。
「次はルナ様の番ですよ。どうかなさったのですか?」
シャルルはきょとんとした表情だ。
現在、ルナはシャルルとチェスをしている最中だった。
「いいえ、何でもありませんわ」
ルナは何事もなかったかのように、いつも通りの上品な笑みを浮かべた。
(いけないわ、チェスの途中で別のことを考えてしまうなんて。私らしくないわ)
ルナは黒のルークを動かし、弧を描くように口角を上げた。
「チェックメイトですわ」
何とかいつも通りのルナに戻ることが出来た。
「今回も負けてしまいましたか。ルナ様は嫌なところに駒を置きますね」
シャルルは苦笑する。
「それがチェスのルールですわ。外交においては、わざと負けて相手がこちらを侮るように仕向けて、相手から情報を引き出す手段もありますわ。しかし、もし私が手加減をしたら、シャルル様は怒るでしょう?」
ルナは悪戯っぽく笑った。
「ええ。確かに、ルナ様に負けることよりも、手を抜かれることの方が悔しいですね」
シャルルはサファイアの目を細めた。情熱的な赤い薔薇のようなその笑顔と、瑞々しく爽やかで弾けるような、柑橘系の香りにルナは思わず魅了されてしまう。思わず鼓動が早まる。
(本当に、この感情は何なのかしら? 好意と少しの恐怖が入り混じって、逃げ出したくなるような感覚だわ。自分で何とかこの感情を制御出来るかしら?)
ルナはシャルルから目を逸らし、必死に考えていた。
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「ルナ、その感情は恋だよ」
数日後、ルナは自身の感情について幼馴染で同い年のヌムール公爵令嬢であるキトリーに相談した。すると笑いながらキトリーがそう答えたのだ。
「恋……? 恋なんて、王族や貴族には不必要な感情ではないかしら? 我々王族貴族は、国や領地を栄えさせ、民を富ませる義務があるわ。その為の政略結婚なんて当たり前。恋をするなど言語道断よ」
ルナはそう否定した。キトリーの前では砕けた口調になっている。
「感情に流されず義務を果たそうとするなんて、王族や貴族の鑑だ。流石女王陛下」
キトリーは少しわざとらしい口調になった。この国の女王に対して些か、いや、かなり不敬だが、ルナはキトリーのその態度を認めている。
キトリーはルナと同じ年に生まれたということで、四歳くらいの頃からルナの遊び相手として王宮に連れて来られることが多かった。ヌムール公爵領は医学が盛んであり、そんな環境で生まれたキトリーが医学に興味を持つのは自然なことだ。キトリーは僅か四歳ながら、簡単な医学書を読んでいた令嬢らしくない令嬢だった。ルナも自由時間に王宮の図書館で医学や薬学や化学や技術系などの理系分野の本をよく読んでいたので、キトリーとはとても気が合った。それだけではない。ルナはキトリーからこう言われたことがある。
『君は王女である前に、一人の人間だよ。だって他の人と同じ臓器をちゃんと持っているじゃないか』
何とも微妙な例えだったが、当時は周囲から王女として接されていたルナにとっては新鮮な言葉だった。それ以降、ルナはキトリーに気を許している。
「揶揄わないでちょうだい、キトリー」
ルナは少し不満そうな表情だ。
「アハハ、ごめんごめん、ルナ。だけどさ、王配殿下に対するその感情はおかしいものではないさ」
ルナを真っ直ぐ見てヘーゼルの目を細めるキトリー。その姿はまるでルドベキアのようだった。スッキリと清涼感あるミントの香りが、ルナを平常心に戻した。
「そう、おかしなものではないのね」
「ああ。私も恋はしたことがある」
へへっと令嬢らしくない笑みを浮かべるキトリー。
「あら、そうなの? キトリーが恋……全く想像出来ないわ。相手は貴女の婚約者のマルセルかしら?」
ルナは意外そうに少し身を乗り出した。
「いや、マルセルはないさ。彼のことは尊敬しているし、好意はあるけれど恋ではないかな。私はランベールのお父上に恋していたんだよ」
悪戯っぽく笑うキトリー。だがその昔を懐かしむようなヘーゼルの目は真剣だった。
「そう、ブノワに」
「ブノワ様を見ていたら、ルナが王配殿下に抱く感情と同じようになったよ。胸の鼓動が速くなったり、もっと話したいのに逃げ出したくなったり。それと、少しの憧れもあったかな。今は単なる憧れだけどね。当時の恋心を上手く昇華出来たからさ」
ルナは黙ってキトリーの話を聞きながら、紅茶を飲んだ。
「温厚できちんと民のことを考えているんだけど、その為には狡猾にな手段を使ったり、悪役になることを厭わないところが凄くいいなって思った」
「つまり、キトリーはそういった方が好みと」
「まあね。つまりさ、もし私が男だったら、あるいはルナが男だったら、きっと私はルナに恋したかもしれないね。ルナも普段は落ち着きがあって、民のことを考える優しさがあるけれど、目的の為なら手段を選ばない苛烈さや狡猾さがあるから。美しい薔薇には棘があるんだよね」
キトリーはニヤリと笑った。
「清廉潔白なだけでは政治は出来ないもの」
ルナはナルフェックの女王として国を治めている。国を豊かに、国民を富ませる為に、国の得意分野だけでなく教育、医学、科学技術の発展に力を入れた政策を行っているが、政敵はどうしても現れる。ルナは密かに政敵を狡猾な手段で破滅させることもあった。更に、政敵や敵対しそうな近隣の国の動向を探る為に、密かに諜報部隊も立ち上げていた。
「まあ、キトリーに好意を持ってもらえるのは嬉しいかもしれないわね」
ふふっと肩の力を抜いて微笑むルナ。
「ありがとう。じゃあ王配殿下からの好意は?」
キトリーは悪戯っぽく微笑む。
「それは……」
ルナはほんのり頬を赤らめる。
「とても嬉しいわ」
キトリーから少し視線を逸らした。
「ルナは王配殿下に恋してるからね。自分の気持ちに気付いたんだ。後は素直になってみることだね。王配殿下の趣味は遠乗りだと聞いている。折角だから、王配殿下と一緒に遠乗りに行ってみたらいい」
フッと笑うキトリー。スッキリと清涼感あるミントの香りが、ルナを勇気付けた。
「そうしてみるわ。ありがとう、キトリー」
ルナは迷いが消えたような笑みだった。
紫の薔薇は、棘を隠しながら咲いていた。
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お待たせしました!ルナ編開始です!他作品では完璧な女王として振る舞っている(小説書くのがまだ下手なのであまり完璧な女王感が出ていないかもしれませんが)ルナですが、この章では恋する乙女になってもらいます。甘めの話が書けたらと思っています。次回更新も少し開きますが、お楽しみにお待ちいただけたら幸いです。
紫の薔薇の花言葉は「高貴」、「気品」です。
この話でチラッと出た諜報部隊ですが、ほとんどのメンバーが女性の設定です。悪役令嬢ものや婚約破棄ものに登場するざまぁされる側の可愛らしい顔立ちの男爵令嬢や平民ヒロインみたいな人が大半な部隊です。敵対しそうな国の王や王太子、有力貴族などに言い寄って上手く情報を引き出します。諜報部隊は訓練されていますので。本文にこの設定も書きたかったのですが、本筋とは関係ないのでここに書きました。
『その国を滅ぼしたのは誰?』で諜報部隊が活躍しています。




