「離婚しよう」と軽く言われ了承した。わたくしはいいけど、アナタ、どうなると思っていたの?
誤字報告ありがとうございます! 助かります!
「未練はないのかと、お尋ねになられましても閣下。
突然、王都からお戻りになったダンナ様が、午後のお茶を楽しんでいたわたくしの目の前に座って、こう言いましたのよ。『離婚しよう』と。
もうね。青天の霹靂と申しましょうか、寝耳に水と申しましょうか。
ダンナ様がそうほざきやがりましたらね。ダンナ様のお側で待機していた執事長も、わたくしの側でサーブしようとしていたメイド頭も、みんな目ん玉ひん剥いてダンナ様を凝視していましたわ。当然ですわね。今、離婚しても良いこと無いって、みんな分かっていましたもの。
結婚してから5年。
最初の1年で邸内外の使用人と仲良くなりましたわ。
2年~3年で、領内の主だった人間たちと気心が知れるまでになりました。それと共に財政難だった領地を見回り、なんとかよい種子を入手し、品種改良に着手し。良き耕作機器を開発し農夫たちに持たせ、効率よく作物が育ち収穫出来るよう手筈を整えましたのよ? 荒れ果てていた河川の修復もし、街道を整え自警団を集い、自治運営できるまで育て上げましたわ。
4年~5年かけてようやくその苦労が実って領内の景気が上向いてきました。
これからだと思ってやってきましたのよ?
それもこれも全部、わたくしの持参金を使ってやった事です。閣下もご存じのとおり、わたくしの年の離れた兄は、なかなかに過保護でしてね。たっぷりの持参金をわたくしに持たせてくれましたから。『お前の好きに使いなさい』と。
だからイディオータ伯爵家の財政は痛んでいませんの。
むしろ、潤い始めましたわ。
その、今?
離婚しようと?
正気ですか? ダンナ様、と胸倉掴んで頭をぐらぐらと揺らしながら問い詰めたい衝動と戦いましてよ?
わたくしは淑女でしたから、そんなはしたない真似はいたしませんでしたが。
今思うと……やっておくべきでしたわ。
それはともかく。
ダンナ様は王宮内のパワーゲームはお得意かもしれません。王太子殿下のご学友で、学園で競い合った皆様方と共に殿下の側近であられると自慢していましたもの。クルス・イディオータという名前はご存じありません? そうですか……ご存じありませんのね。閣下の年代の方には無名ということは、まだまだということでしょうか。
ですが。
今。
ご自身の領地内で実り始めた麦の品種、言えないのですよ。
ブドウはワイン用だけではなく、生食用も改良し始めているのも……ご存じないはずです。
だって、領地にちっともお帰りにならないのですから。
それらはわたくしが居なくなると頓挫すると思いましたが、もうどうでも良くなりまして。
商業ギルドに顔の利くわたくしなど居ないほうがよいと判断されたからこそ、離婚の提案ですものね。あぁ、そうです。商業ギルドのギルド長はわたくしの2番目の兄ですから。顔が利いて当たり前なのですよ。侯爵閣下はよくご承知の上でございましょうが。
そしてなによりね。
離婚の主だった理由が、こどもが出来ないって、アナタ。
『結婚してから5年、ちっともこどもが出来る気配がないではないか!』
などと、鬼の首を獲ったように宣いますのよ?
これ、笑いどころでしてよ?
ちゃんちゃら可笑しいとお思いになりませんこと?
わたくしたち、白い結婚でしたのよ?
17歳で政略結婚して、いまは22歳の女盛り。確かにこどものひとりやふたり居てもおかしくはありませんね。
はぁ。ため息のひとつやふたつ、吐きたくもなりますわ。
なんでもね、昨年ご結婚なさったダンナ様の同僚は、双子ちゃんのパパにおなりだとか。
一昨年、結婚した隣の課の後輩も、今や1男1女のお父上なのですって。
なのに。自分には、なぜこどもが出来ないのかって……
わたくしに文句を言いますのよ?
呆れて口がきけなくなるとはこの事です。
おしべとめしべのお話からすべきだったのでしょうか。
この5年、ダンナ様と床を共にしてきました。そう言うと語弊がありますね。ダンナ様が王都にいる間は同衾してませんものね。
それにですね。領地の本邸宅の、広い広い夫婦のベッドで、ただただ並んで眠る日々でしたのよ!
結婚初夜から。
清く正しく美しく。
お顔のよろしいダンナ様は、寝相もたいそうおよろしかったのでね。わたくしの方まで転がってきたり、手が触れちゃった、きゃ♡、なんてこともありませんでしたわ。手も触れない男女にこどもが出来たら、むしろ大問題ですわよね?
初夜から、あれぇ? おかしくない? と、思ってはおりました。夫婦間でナニかがあるはずだと、この鈍いわたくしでも思っておりましたもの。
なんの知識もありませんでしたが、自分から意見申し上げるのははしたないことだという認識はありましたからね。ダンナ様の出方を待っていたら5年も経ってしまいました。
こう、来ましたか……ですよ。びっくりでしてよ。
しかもね、傾きかけていた伯爵家の財政を立て直していた新妻を放置し、手もつけないまま離婚を申し立てるという、なかなか鬼畜な所業をしようとしながらもね、自分は鬼や悪魔ではない、悪魔ではないから、離婚後のわたくしの心配をしている、などと寝言を宣いやがりましたのよ?
その秀麗なお顔を痛まし気に歪めながらね。
今更ながらに、いい人アピールをしたかったようですわ。
美麗な殿方の絵になる光景? とでもいうのでしょうか?
わたくしの心の琴線には小指の爪の先ほどにも掠りませんでしたから、痛くも痒くも感じませんでしたが。
お陰様でこう申し上げてしまいましたわ。
『いえ。わたくしの心配などなさらずとも、よくてよ? 子爵とはいえ、きちんとした実家がございますし、有能な兄夫婦が常にわたくしの心配をしておりますから。
はい。
了解しました。離婚致しましょう。
ですが……サインの前に、婚姻契約書を持ってきてくださいまし。
当然でしょう? これには離婚する際、財産分与をどうするかなどの取り決めがなされておりますもの。確認しましょう?』とね。
そうしましたら、なんとも……ダンナ様の秀麗なお顔が苦い物でも召し上がったかのように歪みましてね。
随分と赤いお顔になっていらっしゃいましたのは、激昂したのかも判りませんわ。
わたくしが泣いて縋るとでもお思いだったのかも判りません。
でもわたくし、生憎とそんな非生産的な行動が出来ない女なのです。端的に申せば可愛げがない、ということでしょうかね。
テーブルの上に置かれていたお食事がすべて片付けられ、ダンナ様のご用意した離婚届が眼前に展開されましたわ。びっくり致しましたよ? 立会人のお名前欄、既に記名済なのですもの。勿論、ダンナ様のお名前も記名済でしたわ。どれだけ早急に離婚したいのか、そのお心内が推察できるというものですわ。
わたくしがサインしたら、すぐにでも貴族院に提出されて離婚成立ですもの。
それでですね。婚姻契約書を検分いたしましたところ、ダンナ様から言い出した離婚の場合、イディオータ伯爵家財産の半分をわたくしに贈与、となっておりまして。破格でございましょう? これ、わたくしの身を案じた上の兄がゴリッゴリに捻じ込んだ離婚時の条件なのですよ。王家肝煎りの縁談でございましたから断り切れずお受けいたしました。わたくしの能力的には大丈夫だろうと急かされるように嫁ぎましたの。そして『これだけ無茶な条件をつければ簡単に離婚などないだろう』と、兄は申しておりましたが……。
まぁ、そういうわけで。
ありがとうございます、すぐにでも離婚成立なさりたいのならば現金化してお渡しくださいましね。
そう申し上げましたらね、せっかくの美男だというのに、なんともまぁ……お顔を歪めて、
『お前のような冷酷な女と縁が切れて清々する、こんな嬉しいことはない、財産分与の方法は任せるから好きにしろ』
と言い捨てて、席を立って退室してしまいましたの。
随分、お顔の色が赤くなったり青くなったりしてらしたから……心理的に負担がかかったのでしょうね。
イディオータ伯爵家の財政、把握してらしたのかしらねぇ……。
どうやらダンナ様はその足で王都へ戻ってしまったようで。そのあとはお顔も拝んでおりませんわ。執事と弁護士とのやり取りで離婚が成立致しました。
ダンナ様は鬼でも悪魔でもないらしいですが、蔑ろにされた女性は、鬼にも悪魔にもなれますわ。
利益を出し始めた、先祖伝来由緒正しい土地を売りました。売って現金化し、きっちり伯爵家の財産分与として頂きました。残った土地はなんの収益も上げないところばかりですが、もうわたくしの与り知らぬことですわね。
売却した先は……隣の領地のサビオ侯爵家。つまり、閣下のところですからその辺りの内情はよくご存じでしょう?
……という、わたくしの5年間の結婚生活の顛末ですわ。
如何ですか? 少しでも無聊が癒されました?
でも……そうですね。端的に申してもわたくしは悪女の部類に入ると思いますわ。
なんせ、別れた男の悪口をこうまであしざまに他者に喧伝しているのですから。本当に賢く貞淑な淑女ならば、前の男の恥になるような事実、黙して語らず……なのが正しい姿なのでしょう?
でもおあいにく様。わたくしに、そんな淑女はお求めにならないでくださいまし。こんな冷酷な悪女、どなたさまにも貰い手などつきませんわ。
ですから侯爵閣下。兄に、商業ギルド長に懇願されたからと言って、その妹を娶る必要などございません。例え後妻とはいえ、こんな悪女を娶ったら閣下のお名に傷がついてしまいますわ」
わたくしはそう結んで長い長いひとり語りを終えると、紅茶で喉を湿らせました。薫り高いお茶も冷めてしまえば賞味に足るものではなくなります。
ちょうど離婚された今のわたくしのように、ね。
おせっかいで心配性の兄がセッティングしたわたくしの二度目の嫁ぎ先は、なんとサビオ侯爵閣下の後添えでした。サビオ侯爵家と言えば、建国当初からの賢臣で、王家の姫君が降嫁された事もあるという由緒正しい家門です。
そうね。
先方の都合と王家の肝煎りということで断れなかったとはいえ、父を早くに亡くしたせいもあって、少々ファザコンの気があるわたくしならば丁度いいだろうと思われた結婚が、あんな形で終わりを迎えましたもの。次は更に年上の方になってしまうのは、致し方ないのでしょう。
そもそも離婚歴がある女性なんて、後添えにはうってつけですものね。
でも無理に結婚など、もうしたくないのです。
前の結婚では、結婚式当日が初顔合わせ日、などという暴挙でしたからね。まぁ……あちらは財政難を解消する為。裕福な子爵家の小娘と結婚したのですが。
ダンナ様……いえ、もう離婚したからお名前でお呼びしないと失礼ですわね。クルス・イディオータ伯爵様は、熟女趣味の方でしたからねぇ……。遠く離れた領地にいても、噂くらい届くもの。彼が常に夜会に同席させていた女性の傾向くらい、把握しておりましたわ。
10も下のわたくしは『小娘』だし、食指も動かないってものでしょう。
こちらもね。5年も放置されたら淡い憧れ(お顔だけはよろしかったからねぇ)も醒めるってものですよ。末永く添い遂げます、なんて誓ったあの日を返せってもんです。
まぁそんな訳で。再婚になるならせめてお相手と話してから! と兄に直訴したら設けて貰えた面会の場で。
君は私の後添えという事になるが、前の夫に未練はないのか、と尋ねられたので答えました。
ぶっちゃけ過ぎて、引かれてしまったかもしれません。
でもそれで丁度いいと思います。
わたくし、こういう女ですもの。
もう猫を被る必要もありません。
淑女でいる必要もありません。
わたくしという女の性格を知って頂いて、そのせいで再婚話が立ち消えになっても構いません。いえ、むしろその線を狙っている感がなきにしも非ず……。
サビオ侯爵閣下は50になったばかり。そう言えば、正確には『前侯爵』閣下なのだわ。侯爵位は既にご子息に譲られているのだとか。
目尻の皺が好ましく感じるのは、亡き父を思い出させるからでしょうか。
にこにこと人当たりのいい閣下。わたくしの話を、その穏やかな瞳で、優しい表情で、興味深いご様子で、全部聞いてくださいました。
「君が悪女? 出来の悪い冗談だね」
なんて仰って穏やかに笑うお顔が、とってもダンディで素敵……。
……彼となら穏やかに暮らせそうです。
あらいやだ。もう結婚なんてしたくないと思っていたのに、閣下ご本人を拝見したらとても好ましいお方でいらっしゃる……。
「色々と苦労したのだね。これから先、君の希望はあるかい? やりたい事、行きたい場所。なにかあるだろう? 出来うる限り、叶えてあげよう」
まぁ。
閣下はスマートなのに、太っ腹なことを仰います。長い脚を組み替えるさまがさり気なくて嫌みがない。逆に凄いわ。
これは、あれですか。破談ではなく、再婚話は恙なく、というやつですかね。
猫をとっぱらったわたくしの話を聞いても顔色を変えることなく、むしろ最初にご挨拶した時より親し気な雰囲気になってしまった感が、なきにしも……。
どうしましょう。この際、閣下のお手を取ってしまった方が、後々のわたくしの為になるのかもしれません。
折角なので。わたくしはふたつ、ドン引き覚悟でお願いごとをしました。
ひとつはイディオータ伯爵家から買い上げた旧領地の領民たちの今後。
彼らとは一緒に苦労したのですもの、今以上の税率にならないよう配慮して欲しいと。売却条件として領民の税率は変えないよう提示しましたが、閣下がその約束をいつまで守ってくださるか、わたくしには未知。割と平民相手には血も涙もない、そんな領主の方が多いのです。しかも女のくせに意見などして生意気だ! と仰せでもおかしくはないのです。
ですが……閣下は鷹揚に頷いて「心得た」と仰っただけ。なんてお心の広いお方なのでしょうか……。
そして、もうひとつは……。
◇◇◇◇
(クルス・イディオータ伯爵 視点)
僕が妻との離婚を決意したのは、憧れの未亡人ベアトリーチェに『もう待てない』と催促されたからだ。
妻という人間は、10も年下のガリガリに痩せたこどもだった。
結婚してから何年か経ったがいつまでも小娘のままだし、王都で疲れた僕がせっかく領地に戻ったところで、華やかな衣装をまとったりもせず地味なまま。
主人を癒そうとか労おうなどという思考はないらしい。
抱く気にもならない。
昨今の小娘は、放置したらさっさとよその男に股を開くと聞いていたのに、妊娠する気配すらない。
これは石女というやつに違いない。これでは彼女の有責での離婚に持ち込めないではないか。
だがもういい。こんな妻、置いておくだけ時間と金の無駄だと離婚を提案すれば、すぐに離婚条件を持ち出し涙のひとつも見せない。
こんな可愛げのない、心のない冷たい女なんてうんざりだ。
僕の憧れの未亡人、美しきベアトリーチェだったら! 彼女なら子どもを生んだ実績がある。間違いなく僕の子も生んでくれるはずだ。離婚条件など喜んで飲んでやるさ! それであれと縁が切れるのだからな!
王都に戻り、数日すれば領地の執事から連絡が入った。元妻のサイン入り離婚届。きちんとサインされたそれを確認した僕はそれを貴族院に提出し、その足で憧れの未亡人の元へ赴きプロポーズした。
プロポーズの言葉は、『ボクの子を生んでください』だった。
願いは叶い、僕、クルス・イディオータは長年の憧れだったベアトリーチェと再婚した。
◇◇◇
(サビオ前侯爵 視点)
侯爵位は息子に譲ったから、あとは楽隠居だ。
そう思って領地の片隅に引き籠った。平穏無事で、だが退屈な毎日が続きそのまま私は朽ち果てるのだろう。
そう思っていたのだが、隣領のイディオータ伯爵家が領地を売りに出すだなんて情報を得た。
驚天動地とはこのことか。
財政難だと聞いていたがそこまでひっ迫していたのかと調べたら、離婚の際、奥方に財産分与する為の措置だと言う。そして売却を積極的に動いているのがその奥方本人だという。
なんとまぁ。
しかも子どもが出来ないせいでの離婚だと聞いた。昔はそんな女性はひっそり修道院に行ったりしたのだが、元伯爵夫人はしっかりしている。自分の権利を行使する知恵と術を持っている。たいしたものだ。
下手な相手に渡るより私が管理した方が、先代イディオータ伯爵への友情と鎮魂にもなるだろうと、その土地を購入した。かの伯爵夫人の為にもなるし、と。
彼女はこれからの時代を担う、世の女性の鑑となるべき存在だと思っていたらその本人との再婚話が持ち上がった。
なんとまぁ。
彼女本人の話を聞けば、こんな若い娘がなんという苦労をしたのだろう。
彼女は『苦労』というひとことで済ませたが、よくよく考えれば17歳の少女が味方もいない初めての土地でたったひとり、領地を見回り改善点をあげ、領民たちと力を合わせて対策していたと?
どんな奇跡だ?
確かに、彼女の実家を考えれば可能かもしれないが、彼女の実家が大々的に乗り込んで着手したという話は聞いていない。
すべて、彼女の人柄とその叡智のなせる業だろう。
彼女の第一印象は質素で清楚。立ち居振る舞いは優雅。
そして話せば英邁なことがよく解った。その話術は優れ、人を惹きつける。なによりも、話すときの姿勢と、その瞳の輝きがいい。
しかも領主夫人として、たったの数年で領民の心を掴むなんて素晴らしい! こんな理想的な『貴族の夫人』になれる逸材をポイと放り出すとは、クルス・イディオータ伯爵は女を見る目がない。
先代の伯爵夫妻が早世したせいか、その辺の人を見る目は養われなかったのだろう。哀れな事だ。
花も愛でる者が居なければ、寂しく枯れるばかりだろうに。
この花は、手を加えて愛でればどれだけ美しく咲き誇るだろう。
わざわざ自分を悪女などと悪し様に形容するのも愛らしいばかりだ。
これから先の希望はないかと問えば、元の領地の領民の未来を真っ先にあげた。
自分のことは二の次だなんて、幸せのハードルが低いと言わざるを得ない。もっと自分のことにお金も時間も使うといいのに。
この子本人がそれをしないと言うなら、私がしようかな。
お金も時間も、愛も。
この子にかけたらどうなるのだろう。
この飾り気のない、自分のことより領民を思い遣るような聡明な女性に、降り積もるような愛を。
単調で退屈な日々の中、もう枯れ果てたはずの心の奥にちいさく火が灯るように明るく色付いた。
そして、彼女のもうひとつの『要望』が。
頬を染め、視線を逸らし(今までまっすぐに私を見据えていたのに!)少しだけ躊躇ったあと、
『女としての、悦びを、教えて頂ければ』
なんて、目尻をはんなりと染めながら言うから。
なんとまぁ。
彼女は小悪魔の才能がある。
「君を、名前で呼んでもいいかい?」
そう問い掛ければ、恥じらいながらも頷いてくれた。
余生など退屈だと、ひっそりと朽ち果てるのだと思っていた私が後妻を娶るに至った理由。
きっと『老いらくの恋』とやらをしたせいだろう。
10年前に亡くなった妻も、彼女なら許してくれる。
そんな気がした。
◇◇
一年後。
王宮での新年を祝うパーティーにクルスは出席して驚いた。
元妻が、いるのだ。
それも社交界でいまだ絶大な影響力を持つサビオ前侯爵の隣で、笑顔で寄り添って。
笑顔!
それもあんなに美しい顔で!
きちんと着飾り、美しく輝くばかりの笑顔を見せている。
彼女はあのような美貌の君だっただろうか。クルスには見せたことのなかった顔で幸せそうに微笑む元妻。……名前、なんといったか。
そう言えば、クルスは元妻の名を呼んだことがなかった。
だが、思い出したところでどう見てもサビオ前侯爵の後添いだと解る彼女に、伯爵家の身分でこちらから話しかけることは出来ない。
しかも。
あのウエストのゆったりとした形のドレスは、妊婦特有のものだ。
妊娠、しているのか……。
背が高く逞しい前侯爵が寄り添い、片時も傍から離そうとしない。溺愛のさまが判るなぁ、懐妊中だというから当然かと隣の同僚がいう。
誰も彼女がクルスの元妻だと判らない。それもそうだろう。クルスは公式の場に妻を伴って出席した事がなかった。
10も年下の、子どものような妻を人前に晒すのが恥ずかしくて帯同しなかったのだ。
だが、今の彼女ならば。
堂々と優雅に振舞い艶やかに微笑む、今の彼女ならば……あるいは。
呆然と見つめ続けたクルスの存在に、彼女は最後まで気がつかなかった。
だが、隣に立ち満遍なく周囲を睥睨していたサビオ前侯爵は、彼の存在に気がついた。
視線を合わせ、わずかに目を見張らせたが。――ふっと笑った。
左の口の端だけをあげて笑うそのさまは、間違いなくクルスを嘲笑っていた。そしてさり気なく妻をエスコートして、クルスの視線から隠したのだった。
のちに。
クルス・イディオータ伯爵と再婚した後妻ベアトリーチェは、前妻より金使いが荒く(身の回りを飾る物を購入していただけだが)、ちょっぴり潤っていた伯爵家の財産をあっという間に食いつぶし、彼より早く病で死んだ。
『あなた様より20も年上のワタクシには……やっぱり無理そうです』
そう言い残して。
もちろん、子どもなど生んでいない。
クルスは妻の高額な医療費を賄うために、公金に手をつけ王宮仕官の職を頸になった。
彼は損失補填と日々の生活のために、先祖伝来の土地と家屋敷、それと伯爵位を売り払った。
買いあげたのはサビオ前侯爵だった。
元々イディオータ伯爵家の所有地だった場所や伯爵位は、溺愛する後妻が生んだ息子に譲られた。彼女は息子が成人するまで後見人として、彼の地を守った。
領民たちは『あの賢夫人のご子息が新しい領主さまなら、今後は安泰だろう』と安堵したのだった。
【おしまい】
ちゃんとざまぁ、出来たかしら。
実は、クルスと同じような立場(若い嫁を貰ったが本命は年上)の男が実在します。
GBRの国家元首の令息。彼には先見の明があったのだと思います。
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つづきはムーンライト