どうしてそんな極端な意見が目立つの?
極端な意見が目立つのは極端だから。というのがまあ答えではあるとは思うのですが一旦置いておいて。もう少し色々考えてみましょう。
極端な人についてです。1つ前の話では話のできる人って少ないよね。と言った話でしたが、同様にどこかで誰かの意見を聞く時ってものすごく極端ですよね。誰も中間的な位置の人がいないことも多いのではないでしょうか。極端にものを言わないと、絶対に崩したくない、通したい意見が弱く見えたり、とかはあるとは思うのですが、それとは別に、相手の意見を最初から受け入れないつもりで議論するのは如何なものか。それって議論の意味ないと思うんですけど……
それはそれとして、ツイッターや今僕がエッセイを書いている立場のようになんとなく自分はこう思ってるんだけどね。って何も考えずに書いてる人でも多少別の人がひょっこり現れて僕はここは共感するけどここってこういうこともあると思うんですよね。なんて意見交換をしようとする。もしかしたらツイッターではお前の意見なんか聞きたくないねん俺の話を聞け。なんて考え方の人も少なくなく、それもまたツイッターではあるのですが、基本それくらい聞いてあげてもいいとは思うんですよね。人によります。問題なことは、たくさんの人が寄ってたかって馬鹿にしてスッキリした顔で立ち去ることですよね。ただただ誰が見てもひどいやつだよ。これ話する気全くないですよね。もちろん超論理的に馬鹿にした人を論破するとかがあったとしても彼らには全く問題がありません。なぜなら意見を通したいのではなく馬鹿にしてスッキリすることが目的なのですから。これには私もイライラ。まあSNSは本当に残酷だ。
話を戻しますが、なぜそんなに極端な意見を出すのか。あれこれに不満があるからお前は辞めろ。コロナウイルスはただの風邪で何も問題が無い!とか。(コロナに関してはネット上のデマやら大騒ぎやらいろいろ思うことがあるのですがなろうのエッセイで書くのってどうなんでしょうか。)みたいな感じに。
そして意見を通さないと俺は死ぬんだ。 この意見が通らないと世界は滅亡に向かうんだ!!!なんてタイムスリップ系の小説の主人公なんてことでもなければただのツイッターやらSNSでしか無い全く関係のなかったはずのお目立ちになる少数のお方。
なんでかなあ。極端であることすら認識していない。一見子供のわがままと同じに見えるし、実際にそうなのかもしれない。
極端であることが必要なのかもしれないけれど、だからといってヤダヤダと駄々をこねるような議論をしていて、それは果たして「俺はこの議論を通してこれをより良いものにするんだ☆」みたいに胸張って言えるのかい? 自分が正しいって言えるのかい? あとは最初に極端にして徐々に擦り寄っていくのが大切というのもまあ事実。でもなんか恥ずかしいな笑
必要なことではあるかもしれませんが、ただのSNS上で知らない人に向かって極端な意見を押し付けることはやっぱり見ていて複雑な気持ちになりますね。
文章が以前書いて色々あれこれ考えていた短編よりももっとぐちゃぐちゃになっている気がする……