狩人の記憶②
緊迫したこの場に不釣り合いな軽快な音が鳴ると、店から小さな悪魔が出てきた。
気絶している女をおんぶしている。背丈が全然違うから、子供が大人をおんぶしているような違和感があった。
俺は、物陰から出ると歩道の真ん中に立った。俺の存在には、気づいているはず。それでも真っ直ぐ、こっちに向かって歩いてくる。
一歩。
また、一歩…………。
俺は、注射針を肌に突き刺した。後は、中の液体を押し込むだけ。
一歩。
また、一歩………。
コイツは、悪魔。俺の娘を殺した男たちと何ら変わらない。いや、それ以上の魔物に違いないっ!
今、ここでコイツを止めないと新たな犠牲者が出る。俺のような血の涙を流す親が増える。
一歩………。
「そこ、通りたいんだけど?」
「………………」
結局、無言で道を開けた。
一体何をしてる?
復讐するんだろ?
娘の無念を晴らすんだろ?
そうだ。復讐が、俺のすべて。
ビュッッ。
今度は、躊躇なく薬を体内に注入した。
前を歩いていた小娘の姿が、だんだんと小さくなっていく。早くしないと逃げられる。
まだ体に変化は…………ない。何も起こらない。
しばらく待つが、やはり何も起こらない。
「ハハ……ハ………。はぁ……くだらねぇ」
騙された。全財産つぎ込んだのに。
カモにされただけか………。
向きを変え、歩き始める。全てを失った俺には、この世界にもう居場所がない。
なるべく早く自殺できる場所を探した。
廃墟と化したラブホテル。おばけ屋敷のよう。何年も放置され、今では巨大すぎるゴミでしかない。そんな場所に俺は、引き寄せられた。埃だらけのホテルの一室で、安い酒を浴びるように何時間も飲む。
時間の感覚がひどく曖昧で、今が夜なのか、朝なのかさえ分からない。
まぁ何時だろうが、これから死ぬ自分には関係ないが。
ガシャッッ!!
目の前に積んだカラフルな空き缶やビンのタワーが、崩れた。
「……………」
終わりにしよう。
俺は、ふらっと立ち上がる。
おぼつかない足。吐き気。体は、確かに酔っているが、頭は妙に冴えていた。
酔った自分を、もう一人の自分が側で冷静に見ているような……。そんな奇妙な感覚。
その感覚を無視するように俺は、割れたガラス片の中から無造作に一つ選び、躊躇なく喉元をかき切った。
首から下に流れ続ける赤い液体は、腹を通過し、足から床へ。
温かい……。
俺は、赤い床に横になる。
昔の記憶がよみがえってきた。まだ幸せだった頃。大切な人がそばにいて。俺が、一番笑っていた時期。
マナ……。ごめんな。こんな不甲斐ないパパを許してくれ。
天国でさ、ママと三人で今度こそ幸せになろう。
……………………………。
……………………。
……………。
………。
一時間後。
俺は、血だらけの服でホテルを出た。朝日が、眩しい。
俺は、神に死ぬことを拒否されたーーー。
こんなこと、まるでマンガの世界。馬鹿馬鹿しいが、現実だから仕方ない。
『俺は、不死身になった』
理由は、分かっている。
さっき注射した、あの薬が原因だろう。
それ以外に考えられない。切りつけた首筋を指先でゆっくり触る。
「ハハ……マジか」
傷は完治され、跡形もない。あんなに大量の血を失ったはずなのに、体に異常は一切感じなかった。むしろ、調子が良いくらい。
これが、獣人……なのか?
今のところ、体に外見上の変化はない。人を襲う前の奴等のように、獣の姿にもなっていない。
俺は、公園まで走り、血まみれの服をゴミ箱に捨てた。次に、若いホームレスが着ていた服と帽子を財布の中身と交換した。
現金に免許証、保険証、クレジットカード……今の俺には必要ない。
産まれ変わったような気分。
最高の気分。今なら、何でもできそうだった。
若い頃のようにエネルギーが、体から溢れている。俺は、歩き続けた。
何時間も。休むことなく。
太陽が、真上を少し過ぎた頃。俺は、知らない街に立っていた。疲れ知らずのこの体。
駅前広場。人、人、人。それを見て、初めて今日が祝日だということを思い出した。
細い路地に入った。薄暗く、湿っぽい。カビと埃の臭い。
「?」
一瞬、誰かの笑い声が聞こえた気がした。