獣人ナンバー② 九重ナナ
とある教室にて。
「あのさ、悪いんだけど昨日の塾の宿題範囲教えてくれない?」
僕と同じ塾に通っている深津涼に声をかけた。無口の涼は、登校して席に座ってからずっと漫画を読んでいる。漫画から目を離さないで、カバンの中から一冊のノートを取り出すと器用にスラスラと宿題のページを書き連ねていく。僕は、急いで自分のノートにそれをメモする。
「ありがと、涼。助かったよ」
優しい学友の存在に感謝、感謝。まぁ、無口過ぎるのが玉に瑕だけど。僕は、気分よく自分の席に着こうとした。すると、この学校の生徒会長である前園サキが、ズンズンと大股で僕の前まで来た。
「また、塾休んだでしょ。最近、生田たるんでるんじゃない? もっと、しっかりしなさいよ! だいたい」
それから数十分、先生が教室に入ってくるまでの間、僕は延々と前園に説教された。前園は、クラスでもリーダー格の存在なので誰もその行為を止めることが出来ない。苦手なタイプだった。唯一、前園と正面から堂々とケンカ出来るのが、隣のクラスのナナだった。ナナは、前園と廊下ですれ違っただけで口喧嘩を始める。その声は、扉を閉めた教室の中にまでうるさく響くほど大音量だ。
犬猿の仲と辞書で引けば、二人の顔写真が載ってるぐらい二人は仲が悪かった。
「朝からついてなかったね」
「うん。まぁ、塾をサボった僕も悪いから何にも言えないけどさ。でも、あんな大声で説教することないって。ほんと恥ずかしいよ」
僕の隣の席に座っている田中未来は、頬杖をついて僕を見ていた。
「なぁ、未来。今日は、一日起きていられそう? 一時間目から国語だけどさ」
「……」
「未来、聞いてる?」
「……」
「おいって!」
腕を枕にして、既に寝息をたてている。彼の前世は、ナマケモノに違いないと確信する。それにしても、未来は異常なほど良く寝る。学校にいる時も大抵寝ている。教室にいない時は、学校の屋上で寝ている。三度の飯より睡眠をとる男だ。
ほんと、どうしようもない奴。しかし、こんな奴だが女子にはモテる。彼の顔は、モデルのように整っているし、背も高い。極めつけは、普段寝てばっかいるくせに学校のテストでは学年一位と信じられないような好成績を連発している。悔しいが、僕の頭では彼の足元にも及ばない。未来は、僕とは違い、塾にすら行っていないのに。
昼休みになって、隣のクラスのナナが昼食を持って僕の席に来た。最近、昼飯はナナと一緒に食べるようになっていた。正直、クラスの冷ややかな視線もあるし、僕は一人で食べたいのだが。勿論、そんなことは本人には言えない。
「ねぇ、ナオ。今日、一緒に帰らない? 帰りにさ、ゲーセン行こう。私さ、欲しいヌイグルミがあったんだよ。また、ナオに取ってもらいたいしさ」
はぁ、また小遣いがなくなる。ナナの家は金持ちなんだから、自分でお金出せばいいのに。毎回、僕がなけなしの金を使い、ナナの欲しいものを取っている。僕たちは、週に二回のペースで近所のゲーセンでUFOキャッチャーをしていた。
「放課後になっても先に帰らないでね。もし、いなかったらナオの家まで行くから。逃げるなよ」
「うん……」
はぁ。ほぼ脅迫だし。
隣の席では、まだ未来が寝ていた。さすがに、昼飯抜きは可哀想だ。体を激しく揺すった。
「う~ん、うん? あぁ良く寝たぁ。おはよう、ナナちゃん。今日も可愛いね」
「朝から寝てたのか、お前は。相変わらず、どうしようもない男だな。まったく」
「ハハ、そうだよ。僕は、どうしようもなくバカで一途な男さ」
「一途?」
「ナナちゃんに惚れてるってこと。あぁ、恥ずかしい」
自分で言ってて、何が恥ずかしいだ。はぁ、こんな男よりバカだなんて。世の中不公平だ。間違ってる。
「何度言ったら分かるんだ。私は、ナオしか好きにならない。お前じゃ、ダメなんだよ」
「そんな悲しいこと言わないでよ。はぁ、悲しいな。そして……眠ぃ」
「どこ行くの?」
「この悲しみが消えるまで、屋上で寝てくるよ。ナオ、僕は君が心底羨ましいよ。ナナちゃんの心を独占してさ」
独占するつもりは、全くないんだけどね。ナナ自身、好きって感情がイマイチ分かってないんじゃないかな。肩を落として、教室を出て行く未来。その背中が、ひどく小さく見えた。
「なんなんだ、アイツは。良く分からん。私の苦手なタイプ」
「でもさ、未来は顔も頭もいいよ。女として、惹かれないの?」
「全ッ然! 冗談でしょ。ミジンコほども惹かれないね」
「そうなんだ」
そのミジンコより成績悪いのか、僕は。
米粒を一つも残さず自分の弁当を食べ終わったナナが、買ってきたお茶と一緒にいつものように茶瓶から取り出した『赤いカプセル』を一粒飲み込んだ。僕は、何気なく教室を見渡す。ナナと同じように茶瓶から赤いカプセルを取り出して飲んでいる生徒が五人はいた。この中学に入学してからほぼ毎日僕は、この光景を目の当たりにしている。
「あのさ、その赤いカプセルって健康サプリなんだよね。ずいぶん長い間流行ってるよね。僕さ、気になって薬局やコンビニとかで同じものを探したんだけど、全然見つからなくてさ」
「これは、ナオには関係ないものだよ。だから、ナオは気にしなくていい。すっごく、苦くてマズイしさ」
「ふ~ん。それ飲むと体調良くなるんでしょ?」
「これについては、もうおしまいっ!」
「えっ、でも。みんな飲んでるし、僕も一度ぐらい試してみたい。一粒ちょうだいよ」
「何度も同じこと言わせるなっ! お尻ひっぱたくよ、いい加減にしないと」
ナナは、立ち上がると左手をブンブン鞭のように左右に振っている。この歳で、しかも教室でお尻叩かれたんじゃ、洒落にならない。本当にやりかねない、その行動力が恐いのだ。
「分かった。もう言わないよ」
僕は、仕方なく頭の隅にこの関心を封印した。
放課後。
午後の授業を軽く受け流した僕は、教室で一人ナナが来るのを待っていた。
「遅いな、何してるんだ?」
隣の空いた席を見た。今度は、窓の外を見る。雲行きが大分あやしくなっている。雨が降るのも時間の問題だろう。一度気になり出すと、もう自分ではその悪い予感を追い出すことが出来なかった。今も学校の屋上で寝ているであろう友達が、雨に濡れた姿を想像する。
「仕方ないな。起こしに行くか」
生徒は、立ち入り禁止となっている学校の屋上。そこへ続く階段は、薄く埃が積もっていた。未来の歩いた跡をなぞって僕も静かに歩いていく。
カツッ、カツッ、カツッ。
カツッ、カツッ。ギィィィィ……。
ガッシャンッ!
鉄扉を静かに閉めたつもりだが、驚くほど大きな音が出た。小走りで未来の姿を探す。すぐに寝ている未来の姿を発見した。背を丸くして寝ている。時折、体が痙攣していた。夢でも見ているのだろうか。
「未来っ! いつまで寝てんだよ。そろそろ起きろって」
「……」
近づいていく。
「もうすぐ、雨が降る。早く起きないとびしょ濡れになるよ。なぁ、未来」
さらに一歩。
もう一歩。徐々に僕と未来との距離が近づく。それに伴い、ある違和感が僕の中で生まれた。さっき見たよりも未来の背中が大きくなった? ような気がする。目の錯覚かな。
「さっさと起きろって」
緊張と焦り。僕は、何を恐れているんだ。
「ナオ……僕から離れて」
えっ。
「何言ってんだ。ワケ分からないこと言ってないで、早く起きなよ」
「カプセルを飲むのを忘れてたんだ。もう時間がない。理性があるうちに早くこの場から逃げて。早くっ!」
未来の顔を見て絶句した。
理科準備室にある狼の剥製。未来は、それと同じような目をしている。口からは、牙のようなものも確認できる。さっきからずっと未来は、重苦しい息を吐き続けていた。小さな雨粒が、僕の頬を流れる。とうとう降ってきた。
「なっ! なんだよ、それは。悪い冗談はやめてくれ」
冗談なんかじゃないこと。僕は、分かっていた。
『獣人』
その言葉が真っ先に僕の頭に浮かんだ。以前、ナナの母親(この学校の校長)から聞いた話。未来も獣人に違いない。とにかく今は、この場から逃げよう。ようやく、正常な判断を下せるようになった僕の頭が、止まっていた両足に指令を出す。
「!?」
しかし、僕の意思とは裏腹に左足しか動かなかった。その原因は、僕の右足を未来の巨木のような手が掴んでいるからだった。信じられない速さで、未来は僕との距離を詰めていた。
「痛っ」
無理に動かすと激痛がした。足の骨が折れそうだ。
お前を絶対に逃がさない! 言葉を発しなくてもその手からは、嫌というほど未来の意志を感じた。未来の鋭い爪が足に食い込むと、頭がチカチカと明滅するような痛みが全身に走った。
ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。
このままじゃ、未来に喰われる。ここで死ぬ。両者の力の差を感じ、すでに逃げる気すら失せていた。口を開けた未来が、僕に覆い被さる。一瞬で殺してくれ。せめてもの願いだった。
ヒュゥウオッッ。
谷間風のような音。
何かが、僕の顔の前を横切った。数秒遅れで、それが手だと分かった。その両手は、顔の半分まで裂けている未来の口を強引に押し広げた。呻き、必死に暴れて抵抗を続ける未来だったが、その手には抗えなかった。白く透き通った右腕が、未来の口の中に関節までズッポリと入っている。細枝のようなこの手のどこに、変化した未来に対抗できる力を備えているのか不思議だった。この手の主。雨に濡れた短いスカートが、風に優雅になびいている。
白銀の髪。こんな神々しい髪を持っている人物を僕は一人しか知らない。
「ナナ?」
ジュポッ。
未来の口から手を抜いたナナは、僕をゆっくりと見た。ナナの目。血が溶けたような真っ赤な目の中にゴマのような細い瞳だけが浮かんでいた。その目を見て、僕は再度、死を覚悟した。未来の姿も恐ろしいが、ナナの目はそれ以上に僕に恐怖と絶望を与えた。自分が、喰われる存在であるとはっきりと分かった。
「もう大丈夫だよ。カプセルを無理矢理飲ませたから」
ナナは、一度目を閉じた。次に目を開けると元の人間の目に戻っていた。その顔を見て安心した僕は、口を微かに動かした。
「ありがと……」
自分でも聞き取れないほど声が小さい。
もし、ナナの登場があと数秒遅れていたら、僕の頭は砕かれ、未来の腹の中に収まっていただろう。確実に殺されていた。今もナナの側で倒れている未来。その体は、次第に縮小し、元の姿に戻りつつあった。
「未来は、大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。何の問題もない。私の手が汚れた以外は」
そう言ったナナは、僕にあの『赤いカプセル』を見せた。
「その薬は、獣人に効くの?」
「効くよ。この薬を飲むことが、私たちの発作を抑える唯一の手段なの。でも未来って、本当にマヌケだね~。薬を飲むのは、私達には空気を吸うのと同じくらい自然な行動なのに。それを忘れるなんて信じられないよ」
「ナナも獣人なの?」
「変なこと聞くんだね。さっき、見たじゃない。私の変化。まぁ……さっきのは、目しか変化しなかったけどね。それでもかなりビビったでしょ? フフ」
僕は、以前から気になっていたことをナナに質問した。
「あのさ、前に言ってたナナの話って実話なの? 確か、話に出てきた女の人の名前って九重霊華だったよね。うちの校長、ナナのおばさんも同じ名前だし」
「うん。あれは、実話だよ。まぁ全部をママから聞いてたわけじゃないから、少しは脚色したけどね」
「やっぱり、そうか」
話の最後で死んでしまった男の人は、ナナのお父さんになるのか。
「ねぇ、ナオ。寒いから、中で話そうよ」
「そうだね。未来は、どうする?」
さすがに、服も破れてほぼ全裸に近いあの姿じゃ風邪を引くかもしれない。
「あのままにしておけばいいよ。罰よ、罰」
「いやっ、あの姿じゃさすがに可哀想だよ」
僕は、鉄扉を開けると階段を駆け下り、教室に戻った。僕の体操着が入っている袋を持って、また屋上に行く。走る途中、多少足は痛んだが、特に問題はなかった。手形はくっきりと足についているが、すぐに消えるだろう。
僕は、赤ちゃんのように安らかに寝ている未来の頬を軽く平手打ちし、起こした。
「風邪引くから、これ着なよ」
「な……お? ごめん。襲ったりして。僕、なんて君に謝ったらいいか」
「いいよ、別に。覚醒している時は、理性がないんでしょ? なら、仕方ないよ。未来のせいじゃない。でも、かなり命の危険を感じたからさ、ジュース三本でチャラにするよ」
「うぅ、ありがとう。君は、なんて優しい心の持ち主なんだ」
まるで、舞台で演じているかのようなオーバーアクションで(全裸で)抱きつこうとする未来を初めてやったバックステップで避けた。
ベシャッと雨で濡れた地面に全身を強打する未来。頭を両手で抱え、ジタバタと暴れていた。
「あれだけ、元気なら大丈夫だろ。行くよ」
「うん」
僕とナナは、未来を残し、屋上を後にした。
二人で、教室前の廊下を歩く。生徒の大半は、すでに帰宅したり、部活動の為に外に出ている。廊下には、僕たち以外誰もいなかった。
「教室で話す? 今は誰もいないだろうから」
「もしかして、誰もいない教室でエッチなことするつもりじゃないよね? いやっ、私はいいんだけどね。……でも、あれかな。まだ、心の準備が出来てなぃかも」
また、暴走してる。
漫画の読み過ぎじゃないか?
「そんなことするつもりはないよ。ただ、僕は知りたいだけ。全てを」
「ふ~ん。まぁいいけどさ。なら、ママに聞いたほうが早いかもね。まだ、校長室にいるだろうし」
僕の手を引き、走り出すナナ。
「ちょっと待って。いきなり、校長室に行ったら失礼だよ」
僕の言葉は、ナナには届いていなかった。いつものことだけど。校長室の前で立ち止まったナナは、元気良く叫んだ。
「ママァ! ママァ! ここ開けてぇ。ナオがね、話したいことがあるんだってさ」
正気か。
家ならともかく、ここは学校だ。こんな大声で叫ぶのは非常識すぎる。しかも自分からママって言っちゃってるし。たしか、ナナは学校の皆に校長と親子だって知られたくないんだよな。
明らかな矛盾。
「入りなさい」
中から、校長の声がした。少し怒気を含んだ声色をしているのは気のせいかな。
ナナが、思い切り扉を開け、僕は静かにその扉を閉めた。校長室に入るのは、初めての経験なので、内心かなりドキドキしていた。部屋に入った瞬間、古紙の匂いがした。小学生の頃、何度か利用した視聴覚室の雰囲気に似ている。歴代校長の写真が、天井近くの壁に飾られていた。その下に、分厚い本がびっしりと入っている書棚がある。
大きな窓は、少し開いており、外から湿気を帯びた風が部屋に入りこんでいた。どうやら雨は止んだらしい。その窓の前で、執務机に座っている女性。
眼鏡をかけて、髪を後ろで束ねている。昨夜見たナナのお母さんであり、この学校の校長が僕たちの目の前にいた。やっぱり、威厳がある。雰囲気が、家にお邪魔した時とだいぶ違う。
「ママ、あのね。ナオが、ママに聞きたい事があるんだってさ」
「ナナちゃん。学校では、ママではなく校長先生って言いなさい。前にも注意したでしょ?」
「うん。ごめんなさい……」
「ナオ君。話って何かな?」
ダークグレーの回転椅子から立った校長が、僕の前まで来て微笑んだ。相変わらず、童顔だった。応接時に使用するためのソファーに腰掛けた校長は、僕たちにも座るように促した。座った瞬間、お尻が予想以上に深く沈んで驚いたが、慣れてくるととてもリラックスできた。僕の前のセンターテーブルには、見たことのない外国のチョコがあり、ナナは無言でそれを食べていた。遠慮という言葉は、ナナの辞書にはないらしい。
「お忙しいところすみません。仕事の邪魔をしてしまって。どうしても気になったことがあったので来ました」
「早く聞きなよ。これから、ゲーセンに行くんだからさ。時間がなくなっちゃう」
僕は、軽くナナを睨むと話を続けた。
「な、なんだよぉ。ナオが怒っても恐くないんだから」
「ナナちゃん。少し静かにしなさい。ごめんね、ナオ君。話を続けてちょうだい」
「あ、はい。今さっき、学校の屋上で僕の友達が変異したんです。彼も獣人でした。最初は、悪い冗談かと思ったんですけど。あれが、獣人の姿なんですね。ナナが助けてくれなかったら、今頃喰われていました」
「ナオ君のお友達は、薬を飲むのを忘れていたのね。あれは、発作を抑える薬だから。一日一回は必ず飲まなくちゃダメなのよ」
僕は、手の平にかいた汗をズボンで拭った。部屋は適温のはずなのに、額にも汗が浮かんでいた。
「僕のクラスでも五人は、あの赤いカプセルを飲んでいました。ってことは、つまり彼らも獣人ってことですよね。以前聞いた校長の話だと、獣人は世界に数千人しかいないってことですけど。あまりにもこの学校には、獣人が多い気がするんです」
いつの間に用意したのか。ナナは、冷たい麦茶の入ったグラスを僕に手渡した。僕は、それをナナから受け取ると一気に飲み干した。
「美味しい? この部屋乾燥してるから喉渇くよね」
「うん。ありがとう」
ナナは、嬉しそうに笑っていた。髪を手の甲で撫でている。とても落ち着きがなく、足をバタつかせていた。ナナの無邪気な姿に思わず、口がにやけた。
「この学校はね、日本中から獣人の子供たちを集めた特別な学校なの。現在、全生徒の半分ぐらいは、獣人よ。普通の学校では、馴染めない子供たちを監視付きで保護、教育してるの」
「そうだったんですね……。確かに同じ仲間がいたほうが安心でしょうし」
たしか、生徒会長の前園さんも赤いカプセルを飲んでいた。彼女も獣人だったのか。
今以上に怒らせるとリアルに死ぬな……。
「他に何か聞きたいことある? 時間ならあるから気にしなくて大丈夫よ」
「ないってば! ねぇ、ナオ。早く帰ろうよ。ゲーセン、ゲーセン」
駄々をこねだしたナナを無視して僕はさらに質問した。
「その獣人たちが飲んでいる赤いカプセルって、どこで入手しているんですか? もちろん市販はされていないでしょうし、毎日飲むなら相当数の確保が必要になると思うんですけど」
「なかなか鋭い質問ね。赤いカプセルは、私たちの仲間が秘密の場所で大量に製造しているの。私たちは、あの薬を『ブラックモンキー』って呼んでる。まぁ、薬の原料となる動物の名前がそのまま薬の名前になっているんだけどね」
ブラックモンキー?
そんな動物がこの世の中にいるのか。聞いたことのない名前。
「興味あるって顔してるわね。ナオ君は特別だから、見せてもいいわよ。どうする?」
「見たいです、すごく」
「じゃあ、ちょっと待っててね。今、準備するから」
校長は、鍵のついた金庫から、重量感のあるメタリック塗装の箱を取り出した。その箱にも暗証番号を入力する画面がついていた。厳重に保管されているのは分かったが、この箱の中じゃ、中の動物は息が出来ないんじゃないかな。
「これよ。これが、私たち獣人を救う希望『ブラックモンキー』」
校長は、黒い毛の塊のようなものを握っていた。強く握っているらしく、手には軽く血管が浮かんでいる。
「死んでいるんですか? 毛だらけで、中の様子がまるで分からないですけど」
「生きてるよ。ナオ君の持っている動物のイメージからは、かなりかけ離れていると思うけどね。手に持てば、ちゃんと体温を感じることも出来るし」
「そうなんですか。あんな密閉された箱の中でコイツ、息は出来てるんですか?」
「このブラックモンキーはね、あまり息をしないのよ。無呼吸状態で一週間は生きられるの」
「無呼吸で一週間。凄ぇっ!」
こんな不思議な動物が、この世界にいたのか。
僕は、興奮していた。そして、この動物を欲しいとすら思っていた。触りたい、そんな僕の心を見透かしたように校長は忠告した。
「あぁ、でもナオ君には飼ったり、触ったりすることは難しいかな。こうやって握ってないとすぐに逃げちゃうし。逃げ足が速いのよ、この子」
そう言うと校長は、ゆっくりと手を広げた。さっきまで、瓢箪のように潰れていたブラックモンキー。解放された瞬間、僕の前から姿を消した。別によそ見をしていたわけじゃない。さっきまで校長の手の中に確かにいた。でも今はいない。煙のように消えてしまった。
「えっ?」
僕は、校長の足下や辺りを探した。
いない、どこにも。
「ママ、ナオをあまり困らせないで」
ナナは、立ち上がるとキョロキョロと目を動かし、手を伸ばした。一瞬、ハンマーを振り回した時のようなブンッ! と言う音が聞こえた。その音の後、僕がナナの手を見るとブラックモンキーがすでに手の中に収まっていた。一瞬の出来事。突然、消えたり現れたり、マジックのようだ。
「普通の人間の動体視力では、ブラモンの動きは速すぎて見えないんだよ。だから、私たちみたいな獣人の異常な眼力と俊敏な動きがないと捕獲も出来ない。そもそも常に握ってないとすぐ逃げちゃうしね。とっても面倒な動物だよ」
「へぇ………そうなんだ。飼うのは、無理だね。でもせめて少しだけでも触りたかったなぁ」
「今度、触らせてあげるね。コイツが冷たくなったら」
生きているうちにお願いします。
今もナナの手の中で窮屈そうに暴れているブラックモンキー。苦しそうだ。
「話は戻るけど、このブラックモンキーの血液を原料としてあの薬を製造しているの。もし、この動物がいなかったら、私たちは今でも人間を襲っていたに違いない。しかも、獣人の正体を知る手がかりを教えてくれたしね」
「正体?」
獣人の正体とは一体なんだ。
「なっ、何してるんですか!!」
校長は、いつの間にか自分の手をナイフで切りつけていた。右手首からは、少量ではあるが鮮血が滴っている。突然の校長の理解不能な行動に戸惑っていると、ナナが「心配しなくても大丈夫」とそっと僕に耳打ちした。数分もするとテーブルの上に、血の水溜まりが出来ていた。
「この虫は、火が大好きなのよ」
虫? 何のことだ。
校長は、ライターの火を溜まった血に近づける。僕は、黙ってこの儀式めいた行動を見ていた。ジュッという音。その後、少し焦げた臭いがした。炙られた血からは、黒い煙が発生した。その煙は、いつまでたっても消えることなく、むしろ濃くなっていく。
「!?」
黒い煙は、意志を持ったかのように部屋をぐるぐると回り始めた。ブラックモンキーは、ナナの手から逃げ出してテーブルの上に乗り、大きな口を開けて何かを待っていた。歯や舌はなく、口の中まで真っ黒だった。部屋を回っていた黒い煙が、ブラックモンキーの正面にくると、どんどんとその口に吸い込まれていく。ケラケラと機械じみた不気味な声がブラックモンキーから聞こえた。
「あの黒い煙の正体はね、目に見えないほど小さくて、モンキーレベルの素早い動きをする虫の大群なの。たまぁにニュースとかでもあるでしょ? 鳥や虫が群れて空を覆い尽くす現象。ブラックモンキーは、その虫を補食して生きているの。見て分かったと思うけど、私たち獣人はその虫に寄生されているのよ。この虫は、普段は大人しく血液の中で眠っているんだけど、たまに体内で暴れるの。そうすると私たちは発作を起こす。体が変異して、最終的に人間を襲うようになるの」
「それじゃあ、この虫は人間を選別しているってことですか?」
「う~ん。私にもその辺のことはまだ良く分からないのよ。確かに、人間の好き嫌いはあるみたいだけど、どんな条件でそれを判断しているのかは分からない。性別や年齢、体格、趣味や行動範囲。選ばれた人間は、みんなバラバラだしね」
この獣人の正体を知っているのは、まだ一握りの人しかいないと校長は言った。獣人が狙われる理由が、僕には何となく分かった。その命に高額な値段が付けられ、僕の両親のように追われるのは、きっとこの黒い虫を体に宿しているからに違いない。あの覚醒時の爆発的な身体能力に興味を持つ金持ちや研究者は大勢いるだろう。
町は、うっすらと夜に染まっていた。どこか寂しく、僕が最も嫌いな時間になっていた。思いの外、校長室に長居してしまった。
「そろそろ帰ろうか」
「うん! 帰ろう」
「ナオ君。一つだけ、お願いがあるんだけど。おばさんのお願い、聞いてくれない?」
両手を合わせ、上目遣いで僕にお願いする校長。その仕草が、餌をねだるアライグマのようでなんとも愛らしかった。
「えっと、なんでしょうか? 僕にできることならなんだってしますけど」
「上着を脱いで欲しいの。ダメ?」
「うわぎ……ですか? えっと、まぁ、いいですけど」
僕は、多少戸惑いながらも制服のボタンに手をかけた。
すると、
「ダメッ! 絶対にダメ。ナオの体を見ていいのは、私だけなの! ママでも許さないんだから」
立ち上がったナナが、猛烈な抗議をしている。
「そう。残念ね」
肩を落としてションボリしている校長。その姿は、僕までも悲しい気分にさせた。
「ママは、ナオの胸の痣が見たいの。確かめたいんだよ、パパの生まれ変わりだってことを」
「はっ?」
今、なんて言ったんだ。
ウマレカワリ?
「生まれ変わりなんてあるわけないよ」
「ママは、ナオがパパの生まれ変わりだって信じてるの」
胸の痣。あんな痣は、珍しくもない。産まれる過程で偶然出来たものだろう。
「おばさん。僕は、違います。すみません」
後頭部に何か柔らかいものが当たっている。
なんだ? 僕の耳元で、ナナが囁いている。
「ナオは、ナオだよ」
その言葉はとても優しくて、僕は安心した。
「胸が、頭に当たってる」
「!?」
ナナは、飛び上がると僕から離れた。視界が、パッと明るくなる。やはり、ナナは僕を後ろから抱きしめていたようだ。今考えるとかなり恥ずかしい状況。しかも目の前には、ナナの母親もいるし。
「ナナちゃんって意外と胸あるのよ。母親似でね。フフ、将来楽しみでしょ? 色んな意味で」
校長は、エロ親父のような目で僕を見ていた。肯定も否定も出来ず、僕はただ黙ってうな垂れていた。それから、すぐに僕とナナは校長室を出た。なんだか、居心地が悪くなったから。
「また今度、夕飯一緒に食べましょうね。今度は、板前さん呼んで美味しいお刺身を用意して待ってるから。ナオ君。これからもナナちゃんのこと宜しくね。校長としてではなく、一人の母親としてお願いします」
校長は、ナナのことをこんなにも心配している。当の本人は、そんな母の愛に気付いているのかな。
僕が、正面玄関で靴を履き替えていると、僕の横に復活した未来が来た。走ってきたのか、はぁはぁと息遣いが荒い。
「今、帰り? 偶然だね、僕もだよ」
「なんか、わざとらしいね。その言い方」
何か企んでいるな。
「そ、そんなことないよ。偶然、帰りが一緒になっただけ。用心深いなぁ、ナオは」
そう言うと、未来は靴箱を開けた。バサッ、バサバサバサ。少なく見積もっても十通以上のラブレターが、簀の子の上に雪崩式に落ちてきた。僕は、それを無言で拾った。
「はい。相変わらず、おモテなようで。羨ましい限りですよ、全く」
「はぁ……彼女らには悪いけど、僕にはナナちゃんがいるしなぁ。こういうラブレターってさ、処分するのに困るんだよね」
贅沢な悩みだな。僕なんか、今まで一度もラブレターなど貰ったことはないのに。不幸の手紙ぐらいだ、僕に届いたのは。
「そういえば、ナナちゃんの姿が見えないけど。これから、ゲーセンに行くんでしょ? もちろん、僕もついていっていいよね。ナオの親友なわけだし」
昼休み。ナナとの会話中、未来は寝ていたはずだが。どうして、ゲーセンに行くことを知っているんだろう。恐ろしいほどの地獄耳だな。
「三人で行こう」
仕方ないな。まぁ、僕としては二人でも三人でもさほど変わらない。
「やったぁ! ありがとう、ナオ。やっぱり、君は素晴らしいよ」
鼻歌交じりでスキップしている未来。僕たちは、校門前で待っていたナナに声をかけた。
「却下っ!」
「まだ、何も言ってないよ」
「未来も連れて行くって言うんだろ。そんなのダメだ」
「そんなこと言わないでよぉ、ナナちゃん。お願いだからさ、僕も連れていってよ」
土下座する勢いの未来。その姿に同情すら覚える。
「ナナ。三人で行こう。きっと、楽しいから。ね?」
「……ふぅ。仕方ないな。その代わり、今日はヌイグルミ三個だからな! 忘れるなよ」
自分で自分の首を絞めてしまった。はぁ。僕たちは、三人並んで歩き出した。
未来は、相変わらずナナの機嫌をとろうと必死に話題を振っていた。それを無視するか、適当に返事を繰り返すナナ。僕は、二人の後姿を見ていた。
(こうやって見ても普通の人間と変わらないな)
ナナや未来、校長や僕の両親までも獣人。今でも信じられないが、この目で見てしまった以上、もはや現実逃避は出来ない。
あの赤いカプセルがあるおかげで、彼らは普通に生活できる。ブラックモンキー様々だな、ほんと。
「どうした? ナオ。やけに静かだね」
「お腹でも痛いんじゃないかなぁ。下痢だよ、きっと。そんなことより、ナナちゃん! ゲーセン行った後でさ、二人だけでカラオケ行かない?」
『二人だけ』そこを強調する未来。彼の目には、もはや僕の姿は映っていなかった。
「現世でも来世でも行かない」
「そんなぁ。はぁ、ショックだなぁ」
「行ってきなよ、ナナ。未来が、可哀想だし。あんなに涙まで流してるんだから」
「い・や・だ。私が、二人きりになるのはナオとだけだよ。他の男なんて虫けら以下の存在なんだから。虫と一緒にカラオケ行っても仕方ないでしょ」
相変わらず、ナナは口が悪い。面接とか絶対に受からないだろう。
「ナオ……。明日、もし僕が学校に来なかったら、双子山を警察と一緒に捜索してね。きっとそこには、以前僕だったモノが小便等の体液まき散らして、ぶら下がっているだろうから」
ハハ、と元気なく笑う未来。危険な状態だった。不安になった僕は、未来の耳元で囁く。
「ナナはさ、照れてるんだよ。未来が、あまりにもいい男だから」
薄っぺらーい嘘。
「本当っ、それ! やったぁ」
「声のボリューム。みんな、見てるよ」
すれ違う人たちが、みんなクスクスと笑っていた。かなり恥ずかしい。
「仲がいいよね、二人って」
ナナは、羨ましそうに僕たちを見ていた。
ゲーセンに着いた僕たちは、対戦ゲームやUFOキャッチャーをして遊んだ。
「ねぇねぇ、ナオ。三人でプリクラ撮ろうよ!」
何故か、興奮している未来。プリクラなど興味なかったが、未来が眩しいぐらいの笑顔で誘うもんだから僕もナナも渋々参加した。
カシャッ。
僕は、出来上がったばかりのプリクラを見ながらぼんやりと考えていた。
「ナオ! 未来の部分だけマジックで消したこのプリクラさ、財布にでも貼っておいてよ」
学校で一緒に勉強し、学校帰りには時間を忘れるぐらい夢中で遊ぶ。いつまで、こんな生活が出来るんだろう。
「ナオ? どうした」
もし、あの薬で発作を抑えることが出来なくなったら?
彼らは、躊躇なく僕を襲うだろう。恐いというよりも、なんだか凄く悲しくて。
「本当にお腹痛いの? 僕、近くの薬局で薬買ってくるよ」
「大丈夫だよ。少し考え事してただけ」
「何を考えていたの? もしかして」
『私達が、化け物になってナオを襲うことかな』
ドキッとした。ナナの勘の鋭さに驚く。
「その可能性は……ないと思うよ」
下を向き、自信なさげに言うナナ。変な間が気になるな。
「まぁ、そのときは諦めてよ。僕の血となり肉となって、僕の中で永遠に生きてくれ! 他の獣人に喰わせるぐらいなら僕が食べる。髪の毛一本も残さないよ」
コイツに至っては、もはや喰う前提で考えている。友達解消しようと本気で思った。
「綺麗な夜空だねぇ」
「明日、晴れるねぇ」
「なに、その棒読みは。僕は、ナナや未来のこと信じてるよ。覚醒しても絶対に僕を襲わないって信じてる」
友達を信じられなくなったら、終わりだ。
まぁさっきは、さっそく喰われそうになったけど。今度は、きっと大丈夫。僕たちの絆は、獣人の呪いの運命をも凌駕するはず。
「そろそろ夏も終わるねぇ」
「ほら、秋の足音がすぐそこまで来ているよ」
「だから、その棒読みは何っ!! 自信ないの? 襲うの? 信じていいだろ」
「文化祭の準備が始まるねぇ」
「今年の出し物は何かねぇ」
「…………」
心臓近くにある青い痣が、ギリギリと痛んだ。