定理I
僕が目をさますと、そこは病院だった。医者曰く、肋骨を骨折したらしい。あのバスの事故は新聞でも取り上げられるほど大きな事故で、この程度の怪我で済んだのは奇跡らしかった。
僕は病院のベッドに横になりながら、次の世界のことを考えていた。
「僕はやり直す。何度だって。彼女を救うまで」
僕がそうひとりごちていたとき、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい。どうぞ」
僕が返事をすると、入って来たのはてっちゃんと千夏だった。
「よっ」
てっちゃんはそうとだけ言うと黙って僕のベッドの近くにあった椅子に座った。千夏はと言うと、黙っててっちゃんの後をついて来て、てっちゃんの横に立った。
「ほれ、お見舞い」
てっちゃんはそう言うと定番のお見舞いセット、フルーツ盛り合わせを差し入れてくれた。
「ありがと。そこらへん置いといて」
僕は沈んだ心でそう返事をした。
「ね、元気出して。有。あ、りんご剥くね」
千夏はそう言うとりんごの皮を器用にフルーツナイフでむき出した。持ってきた皿に盛り付けてくれたが、あいにく今は食欲はない。でも断る気力も湧かずに僕は窓の外の景色を眺めていた。
「なぁ、有。退院したらさ、映画見に行こうぜ」
「そ、そうよ。この前誘ったけどいけなかったじゃない」
二人とも僕の変わり果てた姿を見て気を使ってくれているらしい。いつもの距離感じゃなかった。
「そうだね」
僕は口だけで返事をしていた。もうこんな世界どうだっていい。またやり直せばいいだけの話だ。
「ね、また三人で仲良くやろうよ。映画行ったり遊びに行ったりしてさ」
「そうだな、退院したらたんと遊んでやろうぜ」
「そうだね」
僕はぼーっと窓の外を見ながらそう生返事をした。
「ね、あんまり気にしすぎないで。こんな有の姿。見てられないよ。忘れてとは言えないけど……乗り越えて。有」
千夏の言葉は明らかに僕を励ましたい一心でのそれだったのだろうが、彼女の死をすでに受け入れたかのような発言に僕はイラっとした。そりゃ、千夏からしたら埃はただのクラスメイトなのかもしれないが、彼女はまだ助けることができる。僕さえいれば。
「乗り越えて? 彼女の死を? ふざけるな!! そんなのできるはずもないしする気もない!!」
突然出した僕の大きな声に千夏は驚いたようで、りんごの乗っていた皿を落としてしまい、皿が割れる。
「ごめん……そんなつもりじゃなかったんだけど……」
「……いや、僕の方こそ大きな声を出してごめん。でも、もう帰ってくれないかな」
僕の拒否の意思を受け取ったようで、てっちゃんと千夏は来てそう時間も経ってないが帰ることになった。
てっちゃんは帰り際、「有、今はショックなのはわかる。でもさ、また時間が経ったら、三人で仲良く遊ぼうぜ」と言うと千夏を励ましながら帰っていった。
僕は千夏に当たってしまったことを少し反省したが、この世界に用がないことにはかわりない。
僕は夜になると病院を抜け出して家に帰った。
体の節々が痛む中、倉庫からWRを取り出し、パソコンに繋ぐ。ヘルメット型の装置をかぶり、再び意識を飛ばす。今度はもっとうまくやる。ちゃんと4月からやり直す。そう思い画面に数値を打ち込んだ。世界関数値2567。次の世界はそこだ。僕は画面のはいと言うボタンを押した……。
【世界関数値2567】
交通事故で死ぬ君。なんてことない。交通事故。埃じゃなくたってよかったはずなんだ。でも車は確かに埃めがけて突っ込んで来た。もはや偶然とは思えるはずもなかった。
……
【世界関数値11438】
工事中のビルから鉄骨が落ちて来て死ぬ君。危うく僕まで死ぬところだったけど、都合よく世界は回る。君だけが鉄骨の下敷きになった。原因は工事の設備のネジが緩んでいたことらしい。そんなのどうしたらいいっていうんだ。
……
【世界関数値3895938】
通り魔に刺されて死ぬ君。僕は埃を守れない。でも僕は諦めない。何度だって。何度だって。
……
幾度も幾度も僕はやり直した。でも、何度やり直しても現実は彼女の死へと収束していく。どうやっても千夏が映画に誘ってくれた日の前後で彼女は死ぬ。
……
【世界関数値3290864】
通算幾回目かの死、彼女が僕の目の前で落ちて来た植木鉢に頭を砕かれたところで、僕の立ち上がる力はほぼ失われてしまった。もはや何をやっても埃を救うことはできない。
いっそ自分も死んでしまおうか。そんなことまで考えるようになった。
それでも僕は最後の力を振り絞って最後の世界の移動を試みた。
「もうこれで最後にしよう」と何度も思いながら、彼女の死を受け入れられずに繰り返した時間は無駄だったんだ。そう思いながら半ば諦めた気持ちで、でも諦められない僕は再び世界の移動を繰り返す。
僕は自宅に戻ると真っ先に倉庫からWRを取り出し、自分の部屋へ急いだ。そして慣れた手つきでWRを起動させ、僕の意識は再び世界をまたいだ。
【世界関数値38937】
結論を言えば、この世界でも僕は彼女、四ノ宮埃を救うことはできなかった。僕のこれまでの努力をあざ笑うかのように、なんてことのない交通事故で彼女の命は失われた。
その事故から数ヶ月。とうとう立ち上がる力をなくした僕は廃人のようになって自分の部屋に閉じこもった。何をするでもなく、ただただ時間を消費し続けた。
最初は頻繁に来てくれていたてっちゃんと千夏も、僕が拒否し続けるとだんだんと寄り付かなくなっていった。
そうして自分の部屋で廃人になり果てていたある日。
時間の消費に丁度いいと、カーテンを閉め切った真っ暗な部屋で僕はテレビを見ていた。僕は普段テレビはあまり見ないのだが、これは確かに頭を空っぽにするのには丁度いい。
「ーーーーーってなんでやねん!」
僕はとあるお笑い芸人のネタを見ていた。派手な衣装を着た芸人が相方にツッコミを入れていた。しかし、僕が見ていたその番組もすぐに終わってしまい、たまたま番組と番組の間のニュースが流れた。興味はないので聞き流していたが、ふと聞き覚えのある名前が画面に映っていることに気がついた。
「今年の7月に交通事故で亡くなった帝都大学の四ノ宮貴章教授の娘である、四ノ宮埃さんが交通事故で亡くなる前の6月に新しい公式を証明していたことが今日、四ノ宮貴章教授の発表で明らかになりました」
テレビに映るキャスターはそう口にしていた。僕は何事だと思い、急いでネットでそのことについて調べてみた。
とある掲示板サイトにこの話題に関するスレが立っていた。
「1.天才高校生、死の間際に天才的証明! →URL」
「2.やばくね?」
「3.蛙の子は蛙」
「4.>>3 使い方間違ってね?」
「5.惜しい人材をなくした」
「652.この証明は文明を1世紀早めてしまった」
「653.>>652 いいじゃん」
「654.>>653 文明の無理な進退は崩壊を招く」
「655.保守派現るwwwwww」
「656.スレ違いですよっと」
「755.四ノ宮娘、超絶美人だったらしいゾ」
「756.惜しい人材をなくした」
「757.>>756 お前それしか言ってねぇwww」
「くそ。勝手ばっか言いやがって。人ごとだからって」
僕はそう一人で悪態をつきながら、そのURLが安全かどうか確かめた後クリックした。飛ばされたページには埃が証明した公式の情報がまとめられていた。
通称、定理I。四ノ宮埃の埃からその名をとったのだろうと思われるその安易な名前とは裏腹に、その公式の内容は複雑なものだった。定理と聞くと数学の公式のように思われるが、それは数学だけに関する公式ではなく、物理的な要素も含んでいた。そう、それは電波という要素である。
それは僕が昔発明した装置に使われた理論と深く関わる公式であり、どう考えても僕と出会ってから思いついたであろう公式だった。しかも、ちゃんと証明までつけて。
「フェルマーとは違うって、言いたそうだな。埃」
僕はその公式を見ながらいつのまにか涙を流していた。僕はまるでそこに埃が入るような気さえした。真っ暗な部屋にうっすらと光っている画面に映し出された文字列は、僕にとって天国へと繋がる一筋の蜘蛛の糸のように見えた。
「埃はなんでこんなに嫌という程死ぬ運命にあるんだ……?」
予定調和だと言わんばかりのこの埃の死にっぷりは、一般人としては以上だった。いや、それとも、そもそもこの世界には人の死ぬ時期といったものが決まっていて、それはどうやっても覆しようがないのかもしれない。でも僕はそんなふうに埃の死を受け入れるほど大人ではなかった。
「本当の死の原因は、滑り止めが緩んでいたとか事故のあるバスに乗ってしまったとかいうことじゃないのか……? 本質は別にある……?」
僕は暗い部屋で一人思考を凝らしていたが、判断できる材料が少なすぎてまだ何もわからない。変わらない事実は僕が埃と会うと結ばれるところまで行くこと、これは時間指定はない。仲良くなる速さは僕次第だ。一方、千夏に映画に誘われる日は絶対に同じ日だ。しかし、それが何か関係しているかと言われると疑問が残る。
悩んでいても仕方ないと僕は何度目かの遡行の準備をした。まだ諦めるのは早い。
僕はもはや見慣れた装置をパソコンにつなぎ、いつも通りに装置を起動した。そして、僕は再びまたあの長い意識の旅へと、出かけるのだ。