n回目の恋
【世界関数値2−−4月】
僕が目を覚ましたのはとある日の明け方だった。それは新学期が始まる日でもあったし、埃と僕が初めて会話を交わすはずの日でもあった。
僕はその日から、再び埃との仲の再構築を行い始めた。何回も同じ話をしてきた僕は、とっくに数学の知識であふれていた。僕が知らない知識を彼女が知っていると、彼女はあからさまに喜んだものだが、徐々にそんな様子を見ることも少なくなった。
5月になり少しは埃と喋れるようになった頃、昼休み、例の場所で僕と埃は数学話に花を咲かせていた。
「古代ギリシャ、ローマで有名な数学者って言われると誰を思い出す?」
夕暮れの図書館で埃は僕の隣で机の上にグダッと上半身を乗せながら僕に問いかけた。
「ピタゴラスとかアルキメデスとか、かな? タレス、ユークリッド、エラストテネスなんかもそうか」
僕が何度も聞いた知識を答え、スラスラとそれらの数学者についての軽い説明をする。そんな僕を見て彼女は少し残念そうな顔をした。
「正解。だけど……君、数学私より好きなんじゃないのってぐらいいろんな知識がスラスラと出て来るよね。今日だけの話じゃないけど」
その言葉から察するに彼女が残念そうだったのは僕が漏れなく知識を披露してしまい、彼女の解説する余地がなかったかららしい。
「いや、そんなことないよ。たまたまそこらへんの数学者が好きだっただけだよ」
僕は慌ててフォローする。数学を知りすぎたから仲良くなれませんでしたなんて結末になってはたまらなかったからだ。
「ふーん?」
明らかに機嫌を損ねた様子の彼女をなんとかなだめたくて、他の話にしようと試みる。
「あ、そういえばさ、四ノ宮貴章教授の論文読んだよ」
「そうなんだ。それで?」
僕の意図に反して彼女はあまり嬉しそうじゃなさそうだ。
「ABC予想の証明、凄まじかったよ。あれは歴史に残る論文だよ」
「そうだよね……」
「どうしたの? 元気ないけど」
「いや、お父さんにはいつまでも追いつけないなぁって思うとなんだか悲しくなってきちゃって」
「埃でもそんなこと思うんだ」
「思うよ。もともと私はお父さんに認められたくて数学を始めたんだし」
「でもなんとなく埃はお父さんとかより数学そのものにしか興味がないんじゃないのかと勝手に勘違いしてた」
「そんなことないよ。私は……」
埃はそこで言葉を止めると、しばらく黙っていた。ちょうど昼休みが終わる五分前の予鈴のチャイムがなったので僕たちは教室に帰ることになった。
それ以来彼女が父親について語ることはなかったが、数学の話題なら彼女はいくらでも喋ってくれたので、だんだんと彼女と仲良くなることはできた。
そして6月に入る前のこと。僕は昼休み、埃を屋上へと誘うことに成功した。その目的はもちろん、彼女を説得することだ。未来で見た情報では埃は6月に定理Iを証明したことを父に告げ、それがきっかけとなり定理Iは世間に広まることとなった。だから、6月に入る前に埃に定理Iの証明を父親にも公表しないもらうことができれば、彼女は死ぬことなく、僕も命を狙われることなく、平和的な解決ができるだろうと踏んだのだ。
ちょうど過ごしやすい気温の屋上だったが、授業が終わってすぐに来たのでまだ人はいなかった。人がいると話しにくい内容だったので、誰かが来る前に終わらせておきたい。
「で? 話って何?」
埃は屋上の転落防止用の柵に手をかけながらグラウンドの方を見ながら言った。屋上はやや強い風が吹き埃の髪はゆらゆらと揺れている。
「えっと……」
覚悟は決めていたものの、うまく言葉にできない。言葉が喉まで出かかっているのに、見えない何かに邪魔をされてそこから先に出すことができないような感じだ。
「言いにくいこと? あ、もしかして愛の告白とか?」
彼女は振り返ると艶のある黒髪をなびかせ、クスクスと笑いながら言った。その表情はかつて自身の死を予言した時の彼女の表情とは全く異なっていた。
これから僕は、普通の人なら絶対に信じないような話を彼女にする。それで頭のおかしいやつとして認識され、今後彼女と関係のない暮らしを送ることになるかもしれないし、冗談のように捉えられる可能性だってあった。でも、これはすべての世界の埃を救うために必要なことだ。だから迷うな。
「違う。でもそれよりもっと大事なこと」
僕は埃の目をまっすぐ見て言った。埃も真剣度を図るように僕の目をまっすぐと見て、二人は3秒程見つめあった。
「そ。いいわ、聞かせて」
「突拍子のない話をするけど、いい?」
「うん。信じるか信じないかはわからないけど」
それは埃らしいセリフだった。自分が正しいと思うことを正しいとする。それは当たり前のことのように思えるが、誰にでもできることではなかった。
人は普通、周りの人々に、世間に流される。それは意識するにしろ、意識しないにしろ絶対的に避けられないことであり、多くの人々は程度に多少の差異はあれど周りに流されて生きている。自分が正しいと判断したことでも他の100人が間違っていると言ってくれば、ほとんどの人はそれが間違っていると判断してしまうものだ。
でも、埃は違う。
自分が正しいと思ったことは、たとえ他の一万人に間違っていると言われても正しいと信じることができる人だ。
もちろんそれが本当に間違っていることなら、間違っていると認めることのできる人でもあったのだけど。
「……僕は、君の未来を知っている」
覚悟を決めて言葉に出すと、埃は興味深いと言ったような表情で僕を見た。
「それは、未来を見ることができると言った意味のこと?」
「それは少し違う。僕は……いわば未来から来たに等しい」
「等しい……というのは?」
「それを説明するには少し違う話をしなければならないんだけど、いい?」
「うん」
彼女は迷いなくそう答えた。
「こんな話、信じられないと思わないの?」
「それは話を聞き終わってから判断する。だから続きを話して」
彼女は強い眼差しで僕の目をまっすぐ見ながらそう言った。
「……わかった。僕が12歳の頃に発明した装置について埃は知っているよね?」
「……うん。それは会ってすぐの頃に話したよね」
「それで、寿命を測る装置があったのは覚えてる?」
「うん。理論書を読んでびっくりしたのを覚えてる。最初は子供のお遊びとばかり思ってたんだけど。理論書を読んで、目の前の子が天才だということを思い知らされたのを未だに覚えてるわ」
「はは、そこまで褒めてもらえるのは光栄だけど、話を進めるね。その理論書に電波の話が載っていたと思うんだ」
「うん。印象的だったから今でも覚えてる」
「それで……ここからが信じられる話か分かれると思うんだけれど。端的にいうと、僕は人の放つ電波の波形を故意に変形させることで異なる波形の電波を放つ異なる世界への意識の移動を可能にしたんだ」
「……続けて」彼女は腕組みをして話を聞いていた。
「僕は最近何回もその装置を使って世界の移動を繰り返した」
「……その理由は?」
「……君が、どうやっても夏を超える前に死を迎えることになるから」
僕がその事実を彼女自身に伝えると、予想とは違い、悲しむでもなく、悲観するでもなく、彼女は何かを考え出した。そしてしばらく俯いて何かを考え続けた後、ふと顔をあげるとこう言った。
「面白いわね」
「はぁぁぁ!?」
「ごめんなさい、別に私が死ぬことに対して面白いと言ってるわけではないし、気を悪くしないで」
「え、じゃあ何が面白いっていうのさ?」
「世界を移動するという理論そのものと、その実践を成功させたという点かな?それで有は、ここにいる私も救うためにここに来てくれたってわけね」
「……それはそうだけど」
「……それにしても、理解できないのは有がなんで私をそんなに必死に救おうとしてくれるかということかな。あ!これも気を悪くしないで。本当に興味の話だから。だって私たちまだ会って2ヶ月も立たないばかりじゃない。だから……その、気になって」
「……僕と君は7月に付き合うことになるはずだった。そしてそれとほぼ同時に君は死ぬ。だから僕は君を救うんだ」
「そっ……か。残酷な事実だ。でも、この時期に有が私にそれを告げるってことは、何かわかったんだよね? だって普通7月に死ぬ人間に5月末にいうことなんてないはずだし」
「そうだよ。僕は何回も何回も、過去に飛び、未来にさえ飛ぶことで君の死因を突き止めた。君の死因は、ある公式を証明してしまったことだった。そしてそれが君のお父さんに伝わるのが6月。だから僕は君にとあるお願いをしにやってきた」
僕の言葉を聞くと彼女はため息をついた後、再び僕の方を見た。
「もう言いたいことはわかるけど一応そのお願いを聞くね」
「定理Iを証明しないでくれ」
「……未来ではそんな風に呼ばれてるんだ。埃と虚数iをかけてるんだね。くだらないけど、素敵な名前」
「数学者はロマンチストだから」
「そんな俗説、あったかしら?」
彼女は笑っていうが、数学が大好きな彼女がその言葉を知らないとも思えなかった。
「昔誰かが言ったんだってさ」
「有名な話よね」
やっぱり知ってた。
「それで、答えを聞かせて」
「嫌よ」
即答だった。断固として断ると言った目で彼女は僕を見た。でもこれは予想できた答えだ。まだ交渉はこれから。
「やっぱり。そう言うと思った。でも、ごめんだけど、これはお願いの域を超えている」
「それは……命令という意味? でもそんなのに従う理由はないわよ。私は自分が正しいと信じたことしかしない。それは有も十分知ってるはずのことでしょ?」
「もちろん。でも、僕は君を脅してでも君を守るよ。僕は前の世界で君を救った。それは、君が証明するはずの定理Iを僕が証明して、死の運命を君から僕に移したからだ。僕はこの世界でもそうする準備はできている。だから、君が証明をやめないというのなら、この世界でも僕が定理Iを証明する。また死の運命は僕に移るだろうけど、しょうがない。この世界の僕にも悪いけど、運命を背負ってもらうことにするよ」
「……私が嘘をついたとしたら? 私が有を騙して証明を公表したら? どうするの?」
「また遡って僕が君より先に証明するだけの話さ」
「……」
彼女は苦虫を噛み潰したような顔をした。それは彼女にしては珍しい表情で、僕が彼女を説得できた瞬間だった。
「わかったわよ。降参。証明しません。約束する」
彼女は半ば投げやりな態度でそう言った。
「本当?」
「嘘でも構わないんでしょ」
彼女はそういうが、その諦めた態度から証明しないという言葉が真実だと判断できた。
「それもそうだ」
ちょうど話が終わったところで、まるで計ったかのようにわらわらと生徒たちが屋上に上がってきた。その人混みの中にてっちゃんを見つけた。てっちゃんは僕に見つかったとわかると、そそくさと退散していった。おそらく僕と埃が二人で屋上にいるのを見て話が終わるまで二人きりになるように生徒を引き止めてくれていたのだろう。食えないやつだ。
ま、僕が埃とくっついた方が千夏を好きなてっちゃんからしたら都合がいいんだろうけど。
「人多くなったし帰ろっか」
「……そうね」
僕と埃は人が増えたのを理由に屋上を去った。
その日授業が終わり家に帰ると、僕は久しぶりに安心した気持ちで眠りについた。すでに1世界での埃の存在は証明され、またn世界での彼女の存在を仮定しn+1世界での彼女の存在を証明することができた。これで証明は完成する。全ての自然数n世界で、彼女は存在する。
でもまだまだやるべきことはたくさんある。なんせ全ての自然数n世界で彼女を救わなければならないのだから。……でも、今ならそれも悪くない気がしている。
だって僕は、n回同じ人に恋をすることができるのだから。