奪い取った命
ドキドキしながら私服で大学生に扮して京都大学の敷地内に足を踏み入れた僕は、案内板と研究室のサイト情報を照らしあわせ、なんとか四ノ宮教授のいる部屋に辿り着いた。
重そうなダークブラウンの扉。
ノックする。返事がないので中に入ってみた。きっと学生なら考えられない行為だろう。
中には四ノ宮貴章教授が高そうな椅子に座ってパソコンに向かいながら何か作業をしていた。
「あの、すいません」
「ん? ああ、君が白波瀬さんの所の。久しぶりだね。有くん。いやあ、随分と大きくなったものだね」
四ノ宮教授は思ったより物腰が柔らかで、優しそうな人だった。カジュアルなジャケット姿で、髪には白髪が混じっていたが、まだまだ元気そうだった。埃の話を聞いている限りでは、厳しく数学にしか興味がないといった感じの人だと思っていたのだけど。
「お久しぶりです。四ノ宮教授」
「君に教授と言われるのはなんだか変な気分だな。まぁ座りたまえよ」
「じゃあお言葉に甘えさせていただいて」
四ノ宮教授に言われるまま近くのソファに腰掛けると対面のソファに四ノ宮教授も腰を下ろした。
「それで? 話というのは? 数年ぶりに白波瀬君から連絡が入ったと思ったら有くんが私に話があると言われて心底驚いたものだよ」
「そうですよね……いきなりすいません。ちょっと見て欲しいものがありまして」
僕はそう言うと愛娘から奪ったとは知らない定理Iの証明を記した論文を目の前の教授に見せた。
「ほう。これは……」
読み進めて行くうちに、四ノ宮教授は真剣な表情になっていき、ついには片手を顔に当てブツブツと何かを言いながら目の前の紙に書かれた内容に没頭していった。しばらくそんな時間が続いた後、四ノ宮教授はバッと顔をあげると僕の方を見た。
「素晴らしい。君にはやはり天性のものがあるらしいな。昔君の発明を見してもらった時に既にその片鱗は見せてもらっていたのだけどね」
「ありがとうございます」
その賛辞は心に痛かった。まぁでもその後の運命を思えば許されるだろうと割り切り次の言葉を待った。
「それで? 君はこれをどうしたいんだ?」
「発表したいんです。できれば全世界に」
「ふむ……。なんとかしよう。全世界に……と言うのはおそらく必然的にそうなるだろうと思う。問題は君が学会に属していないことだが……」
「無理ですか……?」
「いや、特別研究員という体にして私の研究室から発表しよう。しかし、論文の筆頭筆者は君にする」
「ありがとうございます!」
筆頭筆者にしてくれるのはありがたかった。なんせ他の人に迷惑をかけてしまうことになるのも申し訳なかったからだ。埃から運命を削ぎとった訳だから、僕に対しなんらかの組織の手が伸びることは間違いないだろうし、僕1人で運命を背負いたかったし、そうするしかなかったのだ。
これで埃を救うことができただろうとホッとし、思わず安堵の息が漏れた。あとは、このあと埃が死なないことを確かめ、また自分も死なないようにすることだ。
僕はその日を境にちゃんと学校に復帰し、また埃との仲も再築した。高校数学の話から、いろんな数学の話をして、7月になる頃にはこれまでと変わらぬほど仲良くなることができたし、彼女が定理Iを証明することもなくなった。
そして僕は7月を過ぎようとした頃、一人WRを持って姿を消した。
それは、埃が死なないことを確認してから世界の移動を行おうという試みであり、埃の様子をてっちゃんに逐一伝えてもらうようにしながら、僕はこれまで仕事で稼いだ貯金を切り崩して身を潜めた。なるべく目立たないように生きた。各地を転々としたが、海外は余計に危ない気がしたので、一応日本国内で細々と暮らした。
それからまたさらに時が過ぎ8月になった。結果として埃は死ななかったが、スーツにサングラスをしたいかにも怪しいやつらが周りをうろつくようになった。僕はその度に住む場所を移し、ネット上でソフトウェア関連の仕事を受け付けることで生計を立てた。
これは潮時だな、そう思ったのは9月。埃の周りには一切異変は起きず、代わりに僕が逃げるスピードに黒服の奴らが追いつくスピードが速くなってきたのだ。
僕は死ぬわけには行かない僕(の意識)は、次の世界移動を行うことに決めた。落ち着ける場所が必要だったので、前に住んでいた土地から大きく離れた場所に移動し、あるビジネスホテルに泊まった。黒服の連中がいないことを確認し、僕はWRを組み立てパソコンとつなげて使う準備をした。
しかし、世界移動をする前に強烈な眠気が襲ってきた。おそらくここ最近ほぼ寝ずに気を貼って周りを警戒していたからだろう。ここなら、大丈夫だろう、いや、そもそもこの眠気自体黒服達の作戦でもう僕は死ぬ運命にあるのか……。そう頭の中で自問自答しながら意識はまどろみの中に落ちていった。
【 】
「やぁ」
そこは真っ白な世界で、前にも見た人物が立っていた。それは自分と瓜二つな外見をした男である。
「またお前か」
「また? 君はおかしなことを言う僕だなぁ」
「前のやつとは違うのか?」
「それは君が考えなよ。幸いにも君の頭は賢いんだから。っと、これじゃあ自分で自分を賢いっていってしまってることになるのかな? それはまずい」
目の前の自分は若干偉そうに僕に語りかけてくる。
「お前は……なんなんだ? ……それにこの真っ白な世界は? 僕は眠ったんじゃなかったの? 僕は死んだの?」
「ちょっとちょっと質問ぜめはやめてよ。一つ一つ質問しなよ」
なんだか目の前の奴は答えてくれそうな雰囲気を出したので、正直に一つ一つ質問することにする。
「お前はなんなんだ?」
「僕は君だよ」
目の前の奴はニコッと笑って答えた。自分の笑顔を真正面から見るのはなんだかおかしな気分だった。
「……この真っ白な世界は?」
「それは君が考えなよ」
目の前の奴はクスクスと笑って答えた。イラっとくるな。
「……僕は眠ったんじゃなかったのか?」
「それは君が考えなよ」
また目の前の奴はクスクスと笑って答えた。イライラを我慢する。
「……僕は死んだのか?」
「それは君が考えなよ」
クスクスクスクスとやかましい。お前は僕を舐めているのか、とイライラが頂点に達する。ただでさえこちとら寝不足でイライラしていたんだ。
「お前!! 答える気ないなら言うなよ!!」
僕の怒号にも相手の馬鹿にする態度は変わらない。
「ごめんごめん……ははは。でも君が考えればわかるはずなんだ。ほらほら、考えてみて。時間はそんなに残されてないよ」
目の前の奴の言葉に渋々従い、自分でこの状況について考えてみることにした。
まず、目の前の奴が一つだけ答えたのは、奴が僕ということ。これだけだと意味がわからない。しかし、今の状況を考えるとなんとなくわかる気がする。まず、僕はさっきWRを起動する前に眠ってしまった。これは確定事実であり、今眠りの中にいると言うのも正しい気がする。ということは僕は死んだわけではない……という可能性が高い。今僕が眠りの中にいると仮定すると、今のこの状況はどういうことなのか。
僕が今他と異なっている条件は、ただ一つ。世界移動ないし時間移動をしているということ。そしてそれは意識の移動である。ということを考えれば自ずと答えは見えてくる。
目の前の男は、本当に僕なのだ。
ずっと意識して考えないようにしてきたことがある。それは意識の移動をした際に、僕が入ることとなった他の世界の僕の意識はどうなるのか、ということだ。
僕の意識が他の世界の僕の体を乗っ取るわけだから、当然前の意識はどこへ行くのかという問題は発生する。意識は消えてしまうのか、他の世界の僕を殺して僕は世界移動をしているのかという発想に最初は至ったが、それだと僕が再び世界移動をしたら僕の体はどうなるのかに説明がつかない。
そう、なら結論は一つしかない。他の世界の僕の体にあった意識は、僕が乗っ取ってからも依然としてこの体に居続けているのだ。つまり目の前にいる自分は僕がこの世界に来るまでこの体にいた僕の意識なのだ。
それならこの男が前にこの空間で会った奴とは別の人物だということにも説明がつく。
「どうやらその表情をみるとわかったようだね」
「……ああ。だいたいな」
「何か言いたいことはある? もうすぐお別れみたいだ」
「ああ。迷惑かけて悪かったな」
「はは、そんなの、僕らの仲じゃないか」
「はは、そうだな」
思わず目の前の自分と同じような喋り方をしてしまう。いや、それも仕方のない話か。
「僕はこれから何をすればいいんだい?」
「殺されないようになんとか立ち回ってくれ」
「難しいことをさらっと言うな、君は」
「でも、できるだろ? お前は僕なんだから」
「はは、言うようになったね」
僕たちはその後無言でグータッチをした。そしてそれと同時に僕はうたかたの世界から現実へと戻ってきた。
「さて。頼んだぜ僕」
眠りから覚めた僕はそうこの世界に残る自分に語りかけ、WRを起動させた。行く先は世界関数値2の世界。するべきことは決まっていた。もちろん自分が犠牲になれば埃は救えることは世界関数値1の世界ですでに証明された。だが他の世界の全ての自分に運命を背負ってもらうのは少々心が傷んだ。だから僕は次なる作戦に出る。それはこの前埃との会話を思い出した時に閃いた作戦だった。
埃の存在を証明したのは世界関数値1の世界。なら、世界関数値がnの世界での彼女の存在を仮定し、世界関数値n+1での彼女の存在を証明すれば数学的帰納法は完成する。示すのは彼女の存在。なら世界関数値が異なる世界で成り立つ等式はなんだ?導き出される方程式は?
そう考えた時、一つの答えが頭の中にポツンと浮かんできた。
共通点は僕。異なる世界関数値の世界に接続することができるのは僕だけ。
長ったらしく説明したが、要するに僕はn世界(世界観数値nの世界)の埃の存在を仮定し、n+1世界でその仮定を用いて埃を救う。これができれば、1世界での埃の存在はすでに示されたことから数学的帰納法は完成し、すべての世界の埃は救うことができると言うことが証明できる。
そう、数学的帰納法がすべての世界の彼女を救えると証明してくれたのだ。
だから僕は再び世界を移動するのだ。
そこから意識は遠のいていき、そして次の目覚めは……。