世界関数値1
WRでの世界の移動は何回目になるのだろう。考えてみれば、いろんな世界で何度も埃の死を見てきた。それは悲劇的なものであったり、あっという間、知らぬ間に起こったものであったりしたけど。
僕はこれからの移動のことを考え、すでにWRに改良を加えていた。それは、代入した値から世界関数値を出すのではなく、世界関数値を直接指定できるようにしたことだ。昔の僕が天才的だったのは、世界関数値が整数になるようにコンピュータに関数を組み込んでいたことだ。このおかげで僕は埃を救う手段を思いついた。どの世界の埃にも怒られそうではあるけれど。きっと妥協点として認めてもらえるはずだ。
世界関数値が直接指定できるようになったことで、僕は始まりの世界、世界関数値1の世界へと飛ぶことにした。この世界の僕には申し訳ないが、埃が背負うはずの悲劇的な運命を背負ってもらうことになる。
世界関数値がマイナスにはならないのか?そう疑問に思う人も多いだろう。まぁでもそこはそういうものなんだという説明にとどまらせておいてくれ。
僕は画面の青い光を見ながらWRを起動させると意識が薄まっていった。
【世界関数1−−4月】
彼女が転入してきた日。僕は彼女に会いに学校にもいかず、自宅に引きこもって難解な公式と向き合っていた。
プルルルル、プルルルル、プルルルル。
電話の着信を知らせる音が何度も鳴り響いたが、気にせずに僕は埃が証明するはずだった公式の証明を書き起こしていた。それは彼女の尊厳を奪う行為であるということは理解していたつもりだ。数学者にとって自分が証明するはずだった公式を奪われるということがどんな意味を持つのかについても。
わかっていてもなお、彼女には生きていて欲しかった。数学者としての四ノ宮埃だけでなく、僕の同級生のただの女の子の四ノ宮埃に生きていて欲しかった。だから僕は彼女を辱める行為を行なっているのだ。一心不乱にペンを走らせている間、僕は彼女を一発一発丁寧に殴っている感触を味わっていた。
尊厳と、命。どちらが大切か、そんな議論にはきっと答えなんて出ない。でも、僕自身の答えは決まっているのだ。だからやることをやる。それだけだ。
未来で見た彼女の証明を必死に理解し、暗記し、この世界の4月に戻ってきた僕は、引きこもってペンを走らせ続けたおかげで、4月中には公式の証明を書き記すことができた。もちろん論文調に書き記されたその紙は、まさに世界の運命を変える一枚だった。
一つの公式の証明が世界の運命を変えるというのは、大げさな話だろうか。たとえこのような突飛な状況でなくとも、それは十分にあり得る話だろう。これまで数学者たちが必死に証明してきた一つ一つの公式が今の数学界、ないしは全世界の運命を変えてきたのだ。
そして僕は今、四ノ宮埃が命をかけてでも生み出したかった、我が子のように大切にしていた公式を、奪い取って、辱めて……全世界に公表しようとしていた。
「腹が減ったな」
僕はそう独り言をいうとリビングにある冷蔵庫に向かっていた。冷蔵庫にはたくさんのエナジードリンクと10秒で飲めるエネルギー補給のゼリー、瓶の牛乳が置かれていた。僕は牛乳を一気に飲み干すと机の上に空の瓶を置いた。それから伏し目がちだった僕はようやく顔を上げてリビングを見渡すと、そこには千夏が黙って立っていた。
「は!? なんでいるの!?」
「なんでじゃないわよ!何日も勝手に学校休んで!!」
千夏は怒り心頭といった感じで、相当怒っている様子だった。これは昔てっちゃんと二人で千夏の靴にダンゴムシを大量に入れたとき並みに怒っていることは確かだ。
「いや、まぁ休んではいるけど。千夏には関係ないだろ!」
その時の僕はもうすでに埃の尊厳を奪っている感触とともに何日もほぼ寝ずに作業をしていた疲れからか、余裕をなくし苛立っていた。それゆえの失言だった。
「関係ない?関係なくないよ!」
「関係ないだろ! どこが関係してるって言うんだよ!! 僕は今忙しいんだよ! 必死なんだよ!!」
僕のその言葉で、一気に千夏を傷つけてしまったようで、千夏は黙って歯を食いしばり、手を握りしめた。そして耐えきれずに涙を流したと同時に、必死に声を絞り出した。
「関係あるよ……てっちゃんも私も有の友達でしょ……? 心配するんだよ……昔みたいに遊ぼうよ……違う。そんなことじゃない。私が言いたいのは……」
「……なんだよ」
千夏の迫力に押されてそんな答えしか出なかった。
「好きなんだよ……!! 有が大好きだから心配なんだよ。急に学校来なくなって……それで心配できてみれば関係ないだなんて……どうしたの? ……前みたいな優しい有に戻ってよ……それでまた三人で集まろうよ……!!」
千夏は泣きながら必死にそう声を絞り出した。僕はその光景を見て初めて、埃の後を追うばかりだった自分にも、心配してくれる人がいたことに気づいた。そこで僕は先ほどの自分の言葉を恥じた。
「……わかったよ。さっきのは悪かったよ。でも、本当に僕は大丈夫だから」
「本当?」
千夏は心配そうに僕の方を見つめたが、僕は千夏の泣いて赤く腫れた目が面白くてなんだか笑ってしまった。
「ちょっと、なんで笑うのよ! あ……後、思わず言っちゃったんだけど返事は……?」
急に赤くなる千夏もまたおかしくて、また笑いそうになる。
「返事って? あ、もしかしてさっきの大好きって友達の意味じゃなかったの?」
「……」
僕がからかおうとして放ったセリフを受けて千夏は人でも殺しそうな形相で僕の方を見た。
「怒るよ」トドメの一言。
「冗談だって。返事は……まぁ、考えとくよ」
「そっか……うん。じゃあ、とりあえず、帰るね。あ、これ差し入れだから、ちゃんと食べてよね」
千夏が差し出したのは手作りの料理の数々だった。昔っから千夏はお母さんと一緒に料理してたっけな。
その料理を受け取ると千夏はそそくさと帰って行き、また帰ったと同時に携帯の着信音が鳴った。誰からの着信だろうと思い画面を見てみるとそこにはてっちゃんの名前が書いてあった。
「おう、どした」
「どしたじゃねーよ、千夏泣かせやがって」
「おう、そうだよな。悪りぃ。って見てたのかよ!」
「千夏が行って有の大親友の俺が行かないわけないだろ!」
「はは、そうだよな」
「これまでいくらピンポンしてもお前でねぇしさぁ。親御さんも仕事で家にいないしさぁ。電話にも出ねぇしさぁ。心配するだろ。死んでんじゃねぇのかと思ったぜ」
「はは、ごめんごめん、ちょっと仕事が立て込んでてさ」
「仕事も大事だろうけど、学校にも来いよ。俺たち待ってるからさ」
「うん。ありがとな」
「んじゃ、明日は学校来いよ、電話切るぞ」
「おう」
そこで電話は切れた。僕は大事な友達二人を心配させてしまったことを反省したが、これから行うことによってさらに心配させてしまうことになることには目をつぶった。
ふとチャイムが鳴った。
僕は二人以外にも心配してくれる人がいるのかと思ったが、外の様子を覗いてみると、そこにはてっちゃんが立っていた。ドアを開けるとてっちゃんは決まりが悪そうにこちらを見ていた。
「よう」
「いたのかよ」
僕は思わず笑いながらそう言った。
「いや、ちょっと気になることがあってさ」
「なんだよ、かしこまって」
「千夏お前になんて言ったんだ?なんかあいつ入る時覚悟決めたみたいな表情してたから」
必死になってそう尋ねるてっちゃん。そんな様子のてっちゃんは珍しかった。なんでも颯爽とこなし、笑いもとって場を盛り上げもする。そんなてっちゃんが必死になっている姿は本当に久しぶりに見た気がする。
「ははは、秘密」
「おい!! 有! お前なぁ……!」
てっちゃんの必死な表情を見ててっちゃんが誰のことを思ってここにいるのかを理解した。もちろん僕のことを心配してくれていたのは表情を見ていれば伝わってきたし、それは本当なのだろうが、今はそれよりもっと気になることが心を占めているのだろう。
「千夏、僕のこと好きなんだってさ」
「……やっぱりか」
「知ってたの?」
「なんとなく、だけどな」
「てかてっちゃん千夏のこと好きだったんだね、全然気づかなかった」
「そりゃあな、千夏がお前のこと好きなのはわかりきってたし」
「えぇ!? そうなの!?」
僕は本心から驚いたのだが、てっちゃんには呆れた顔をされた。
「有……」
頼むから可哀想な子を見るような目で見ないでくれ。
「千夏はてっちゃんが千夏のこと好きだってこと知らないの?」
「俺がそんなヘマするはずないだろ。あいつは俺のこと女好きの幼馴染ぐらいにしか思ってねーよ」
「そっか……」
沈黙が気まずかった。てっちゃんに対して気まずいと思うなんて久しぶりのことで対処法がわからずに立ちすくんでしまった。
「まぁ、いいこと聞けたし、もう帰るな。明日は本当に学校に来いよ」
「おう、わかったよ。んじゃな」
嘘をついた後に見送る背中を見るのはなんとも辛い思いだった。明日も学校に行くわけには行かない。定理Iを発表する準備を整えなければ。
てっちゃんを見送ると、僕は仕事部屋の両親と話をした。話とは、四ノ宮貴章教授に連絡を取ってもらうことだ。公式を発表するとは言っても、勝手に公表できるものではない。それなりのツテがなければ論文を発表することすらままならない。
幸い僕の親と四ノ宮貴章教授は知り合いだったので、なんとか無理やりアポを取ることができた。僕が何としても早く話したいことがある旨を伝えると、そこまで言うならと時間を取ってくれた。
そして翌日、僕は一応朝には学校に顔を出したものの、自主休講という名の早退をして四ノ宮貴章教授が勤める京都大学へと足を運んだ。