3)薬師オルン
あくる朝。
目覚めて食堂に行ってみたが、若先生の姿はなかった。
念の為にとあちこち探してみたがどこにもいなかった。
まあ、……そういうことだ。
彼女は俺を持て余し、勝手にしろと捨て置き旅立っていったのだろう。
「ははは……ホントにひとりで置いて行かれたなぁ」
十歳の子どもをひとり置き去りにするとか、王都までひとりで行けとか言っていたが……ああして駄々をこね続けていれば、なんとか考え直して一緒に残ってくれるんじゃないかと期待してはいたのだが。
それは俺の勝手なわがままだったのだろう。
まあ、いつまでも駄々っ子の相手はしていられないものな。
彼女に抱いていた淡い期待や甘えは、今このときで捨て去ろう。
机の上に置きっぱなしの封筒は、意地でも持っていくものか。
少ない身の回りの品は、とっくに荷造りを終えていた。
若先生には反抗したが、ここを出てゆく覚悟がなかったわけではないんだよ。
いつもはコソコソ忍び込んでいた院長先生の部屋に、今朝は堂々と入る。
古くて小さな書架。
その最下段の左端。
真っ黒な革の表紙を取り出した。
本が拔けた隙間のその奥を、手探りでゴソゴソやる。
──指先に、小さな布の感触。
引っ張り出した掌大のそれは、よれよれに潰れた小さな布袋。
俺は、本と布袋を無理やり肩掛け鞄に詰め込んで入口の扉を抜ける。
大好きだった居場所を目に焼き付けるようにしてゆっくりと外へと進む。
建て付けの悪い扉をギギーっと開けて、いざ出発。
戸締まりの必要は……うん。
……もう、いいか。
────もう、二度とここに来ることはないのだろう。
ふと、孤児院の庭先を眺めると見慣れない奴がいる。
村長に頼まれた役人が立ち退きの確認に来たのかと思ったが、見た目はそんなご立派な人物ではなさそうだ。
ひょろりとノッポな身体に、くすんだ緑色のローブを羽織っている。
大きな黒い肩掛け鞄と背中に背負った細長い布の包みが目を引いた。
通りすがりの旅人だろうか。
院長先生が元気な頃には、宿泊場所に困った旅人を泊めたりしたこともあったっけ。
無人となってしまった今ではろくなもてなしができないが、勝手に上がり込んでもらって夜の闇や雨風を凌ぐくらいはできるだろう。
「……えっと、旅の人ですか?」
「やあ、はじめまして。んっと、そうだね……オレは旅の者だよ」
意外と若い声が返ってきた。
ぱさりとおろされたローブのフードから出てきた表情は、友好的で好感のもてるものだった。
深い茶色のボサボサな髪の毛を後ろで束ね、焦げ茶色の瞳は縁無しの丸眼鏡で飾られている。
「ええと、宿屋をお探しですか? あいにく村の宿屋はいっぱいで宿泊は難しいかと思います。村長が遠くの街から大工を呼んでいるので、その人達が占領しちゃってるんで……ここは元孤児院なんですが、今は無人です。良かったら勝手に使っちゃってください。この建物はもうすぐ壊すらしいんですけれど、工事が始まるまでの数日くらいなら問題ないはずですよ」
「……えっ!? 無人なのかい? 君以外は誰もいないの?」
遅かったか……と、旅人ががっくりと俯いた。
「はい。おれも、これから出るところです」
鍵は開いてますからご自由にどうぞと言いおいて門口をぬけて行こうとすると、ちょっと待てと引き止められる。
「いやいや、急いで隣町の乗合馬車乗り場へ行かないと昼過ぎの便に間に合わなくなっちゃうんで。ではごきげんよう、失礼しますー」
「おいおい、少年。君ひとりで、いったいどこへ行こうっていうんだい? 他の人たちは? 保護者っていうか、責任者はどこへ行った?」
「若先生なら、親戚を頼って今朝旅立ったみたいですよ? 先生に会いにいらしたのなら、たしかに一足ちがいで遅かったですね」
「若先生……ああ、院長の孫娘かな。たしかに彼女にも用事があったのだが、保護するべき子どもをひとりだけ残して行ってしまうなんて、無責任にもほどがある」
「いえ、おれは勝手に今日まで残っていただけなので。他の子どもたちは紹介された孤児院へと引き取られていきましたし、若先生はちゃんとおれのことも考えてくれていましたよ。……ただ、おれが彼女の言いなりになりたくなかったんです」
「ほう、なにか事情があるようだね」
「いえ、大したことでは。引取先の孤児院が村長の紹介だったのが気に入らなかっただけですから」
「村長殿は、ずいぶんと君に嫌われたものだね」
「うーん。たぶん、あちらもおれのことを嫌っていますから、おあいこです」
「ははは。君って見たところ十歳くらいのくせに生意気な子だなぁ」
「かわいげがないってよく言われます」
はははっと愉快そうに笑う旅人さん。
白々しい愛想笑いで応じる俺。
徐に、大きな手が差し出される。
目の前のそれをしげしげ見つめていると、さっと利き手を取られてブンブン振られた。
えっと、なぜ握手? こんな生意気な子どもに構っていても何の得にもならないだろうに。
旅人は、ニコリと笑顔を深くして話し出す。
「オレは行商をして各地を旅して回っている薬師で、オルフェインという者だ。オルンと呼んでくれ」
薬師とは、治療師や医者とは違った方法で怪我や病を治す仕事をするという。
治療魔術ではなく、様々な材料を調合して作った薬で人々を救う。
彼はそういう仕事をしているらしい。
気さくな薬師は、握手しつつ自己紹介をしてくれたというわけだった。