【- 熾火 -】
【9】- 熾火 -
総合病院に隣接する細長い2階建て建屋が、東特区の委員会司令部だ。そのやけにこじんまりとした風体は特殊な成り立ちによるもの。病棟として建設が開始されて間もなく危機管理委員会によって買い取られ、上層階を作る予算で建屋内外の設備強化改修が為されたことで今の形と成った。そのため、骨格は病院としての面影を薄っすらと残してはいるものの、窓や扉に後付けされた耐火シャッターが、まるで要塞のような物々しさを放っていた。
その内部の一画、施設の玄関口にある待合スペースに三人が降り立つと、すぐさま颯は辺りを注意深く観察した。
消灯されたままの室内は暗く、立ち並ぶ自販機からの乏しい光が周辺をぼんやりと照らす。降ろされたシャッターに遮光された部屋は、足元の隙間から僅かに朝日を取り入れるのみで、外側からの何者かの進入を固く拒んでいた。
――いや。拒んでいたのは外側からでなく、内側からの"脱出"。颯はそのことに一早く気が付いたようで、忌々しげに声を漏らす。
「どこでもいい、とにかく景色の見える隙間を見付けて。
外の景色さえ見えれば、ここから出られるから…!」
そこは実働部隊の拠点でもあり、緊急出動の準備が整えられた第一線。その施設が、明かりを消してシャッターを下ろしているなど、通常は有り得ない。しかも、部屋を取り囲むように設置された電子制御式のシャッターは、制御盤か外部の遠隔操作でしか開錠できない。
つまり状況証拠的に言えば、"誰か"が施設を"敢えて閉ざした"ということだ。空間転移の超才幹を見越した対策であることは、颯にとって疑いようがなかった。
三人が手分けして脱出口を模索するも、鉄格子に守られた曇りガラスと、それを外側から囲うシャッターの前には成す術はなく。唯一見付けた手掛かりはと言えば、長い廊下を遮る耐火扉の通用口のみが開いているという、あまりに不自然な事実のみだった。
颯が舌打ちをし、蓮が目を閉じて考え込む。その間に樟葉はスマホを取り出し、"機内モード"のオンオフスイッチに指をかけた。それを見るとすぐに止めようとした颯だったが、その目つきはすぐに、確かめるように細まった。
「解除したらアタシ達の位置がバレることくらい、分かってる。けどまずは、こっから出なきゃなんねぇ。
どっか適当な景色の画像を調べて見せりゃ、アンタの超才幹でそこに跳べるんだろ?」
「適当じゃだめ。思い浮かべた景色と、実際のその場所との一致率が低いと、跳べない。だからなるべく新しくて、変化の少ない場所がいい。
…けど、大丈夫なの?」
それは樟葉ではなく、廓大感覚に向けられた言葉だ。
実働部隊は不知火の管轄だけではないし、他の部隊がこの近くにいない保証もない。もし居場所がバレたとして、時間内に逃げ場所を探して脱出できなければ、一巻の終わりだ。
「ヤバい感じはしねぇ」
樟葉はそう返し、スマホに視線を戻した。一呼吸の後、意を決して機内モードを解除したが、画面の電波表示は『圏外』から動かない。それどころか、間もなく鳴り響くと予想されたはずの超才幹警報すら発されることもなかった。
「…電波が戻んねーぞ」
続いて蓮もネットブラウザを立ち上げてみるが、画面はキャッシュの残るページを表示するのみで、直後には電波の接続がないことを示す表示に切り替わってしまった。
「…これも想定してたってことだよ、最悪なことにね」
当施設には、対超才幹保持者用の設備が揃えられている。その一つ、屋上に設置された通信機能抑止装置が正に今、東特区一帯の携帯通信帯域に干渉し、妨害していた。直接的な危険が及ぶ訳ではないから、樟葉の廓大感覚が反応しないのも当然だった。
残された道は、薄暗い廊下へと続く扉のみ。三人の視線の先では、重々しい耐火扉に設けられた人一人分の隙間が、怪しげに口を開けていた。
その怪しさを飲み込めず二人が足踏みしていると、蓮が先行してその扉をくぐった。颯が慌ててその後ろをついていき、樟葉もそこに続く。しかし樟葉が声をかけようとしたところで、蓮の歩調は不意に早まった。
「おい、蓮! もっと慎重に行けって!」
一定間隔で設けられた室内灯が、物体の通過を感知して一つ灯る。また一つ、もう一つ、明かりが灯る度、壁に埋まる扉が照らされて、真っ暗な一本道に色を与えていく。
蓮は臆すことなく、淡々黙々と長い廊下を突き進む。その歩調が点灯速度を追い越す頃にようやく、その足は一つの扉の前で立ち止まった。
遅れて電灯が照らし出したその扉は、それまで通り過ぎたものと違い、入口を遮るようにして幾本もの黄色と黒のテープが張られていた。
その扉に心当たりがあったのは颯で、蓮が規制線に手をかけると、思わず声を上げた。
「…待って。だめだよ、そこは」
その制止はあまりにも弱々しく。颯は縋るような声色で、宥めるように言い聞かす。しかし蓮はドアノブに視線を落としたまま、振り向かずに首を振る。
「違う。そんなん、間違ってる」
やがて、蓮の身体から炎が溢れた。蓮の手を引こうとした、颯の手を退けたのだ。
行く手を阻む規制線が焼け落ち、開きかけの扉が熱風によって開け放たれた。熱から逃れようと顔を逸らした二人が再度目を向けると、蓮は既に扉の奥で部屋を見渡していた。
室内は、酷く荒れていた。机や椅子が無造作に転がり、床には筆記具やファイルが散らばる。しかしそれ以上に目に飛び込んできたのは色彩で、その荒れたオフィスは、大量の赤黒い液体で彩られていた。
その光景は、雑に、あるいはぞんざいに塗料をぶちまけて散らかした芸術のようで、壁や床、更には天井から、余すところなく視覚を刺激する。
ただそれが芸術ではないということを、後からついて来る鉄の臭いが鼻腔に訴えた。それどころか、咽返る程の無機質で有機的な臭気はやがて吐き気となって喉奥から込み上げ、眩暈さえ引き連れて、見る者の視界を内側から汚した。
「…………アンタが、やったのか?」
颯は応えなかった。しかしその沈黙の意味は、火を見るよりも明らかだ。
『ここには何人いただろうか』、『それらの人間は死んだだろうか』、そんな思考を塗って潰すほど多くの血が流れていて、その光景は殺人と言うより、虐殺に近い。
それは自分のすぐ近くで行われていたことなのだと、きっと樟葉は悟った。彼女の視線の先にある、蓮が踏む大きな血溜まりはまだ、乾いていなかったからだ。
蓮は目の前の光景を見据えて、立ち尽くしたまま瞬きもせず、再度「間違ってんだよ」と呟いた。
「オクルスの奴言ってたよな。ベルタは、あたし達がこうなることを全部分かってたって。
けどやろうと思えば、もっと上手く颯を助けられたんじゃねぇのか? 樟葉だって、ずっと普通の人間として過ごすこともできたんじゃねぇのか?
あたしだって、ずっと、何もかも忘れたまま普通に過ごせたはずだろ…!」
蓮が、開かれたままのノートPCを地面に叩きつける。机上の書類を腕で乱暴に押し退けて、ディスプレイを窓の方へと投げ捨てた。その直後、突如頭を押さえてうずくまったが、変わらずに鋭い目付きで天井を仰いだ。
「"こんな結末"が、あたしに見せたかった未来だってのかよ!!」
歯を食い縛り、力の限りで机を叩く。そのまま覆いかぶさるように顔を埋めようとして、卓上の小さなカレンダーに目を留めた。
蓮はそれを手に取ると、今日の日付を囲う赤い丸を悔しそうに見つめて、鉄柵のかかる窓へと放り投げた。
「…もう少し日が昇ったら、"今日"が始まる。そしたら『普通』の奴らは、何でもない休日を普通に過ごすんだ」
その赤丸は、ずっと前から予定されていた『人類の永続繁栄に関する国際会議』の開催日――それに伴う、特別な休暇を示すもの。
「クラスのギャル共がさ、どこも混むからってファミレスに行くって言ってたんだ。勿体ねぇよなぁ。特別休みだってのに、いつもと同じことして潰すんだぜ?
けどあたし達は、ファミレスにすら行けねぇ。こんな意味分かんねーとこで、生きるか死ぬかみてーなこと考えてる。ありえねぇよ、こんなの。どう考えたって間違ってる…!
だってあたし達、『ただの女子高生』だぞ…!!」
「蓮ちゃん…」
颯が手を伸ばしかけて、引っ込めた。その行動はきっと、『自分にはその資格がない』という気持ちの表れだ。
彼女は、オクルスに唆されたその日から、もはや蓮の手を握ることはないと覚悟して、その手を汚してきたのだ。故にその手は既に赤黒く濡れていて、そんな手で蓮の手を取ることはできないと、自分の気持ちを押し殺していたのだろう。
すると不意に、蓮が颯の手を取った。それから部屋の外へと手を引くと、廊下の壁に埋め込まれた非常ベルが唐突に静寂を破った。
鳴り響くのは超才幹警報ではなく、消火設備の報知器。樟葉が遅れて廊下に出ると、来た道の奥から順々にシャッターが降り始める様子が確認できた。
「設備が稼働してる…?! まずい、委員会に気付かれた!」
「オイオイオイ…! アタシ達マジで閉じ込められっぞ!」
三人が、迫り来るシャッターと反対方向へと走り出す。先導するのは颯で、その足は上階への階段を目指す。
「どこかに制御盤があるはず! 外部から操作されてても、そこなら解除できる!」
「あぁ、けど、もしそこに委員会の部隊がいたら、アンタどうすんだ…?」
颯の手には、既にナイフが握られていた。その目付きは狩人のように凍てつき、"どう切り抜けるか"ではなく、"どう殺すか"を見据える。その覚悟を口にしようとしたところで、蓮が握る手に力が込められた。
「ここには不知火しかいない。"視た"んだ」
蓮のその言葉は、未来視による"確定した事実"。だが颯は、未だ固くナイフの柄を握る。
「じゃあ…、オクルスがここに行けって言ったのは、不知火を殺すため?
部隊の指揮を握る不知火さえ殺せば、ぼく達は逃げ回る必要がなくなるってこと…?」
「…いや、どうせ他の部隊がいる。それにアイツ一人いなくなっても、委員会にとっちゃ駒が一つ減って、アタシ達を処分する理由が増えるだけだ」
「そうだとしても…、もう殺すしかないよ。
委員会はぼく達を正式に敵とみなした。ぼく達が生き残るには…、殺される前に一人でも多くの敵を殺すしか、ない」
樟葉が沈黙する。言葉を詰まらせた訳ではないはずだった。
ただ、颯の言葉を否定できるほどに、彼女は楽観的な性格ではない。
「…蓮。こっから先の未来が、アンタには視えるんだろ?
アタシ達はどうなる?」
いつの間にか颯を追い越して走る蓮は、背を向けたまま、振り返らない。しばらく何も答えず、やがて足を止めた。
「――――――お前らは絶対、あたしが守る」
蓮が足を止めたのは階段前でなく、その手前にある部屋の前。その部屋へ入ろうとする蓮を颯が止めるが、「ここでいいんだ」と返した。
自分達を追い込むような行動に樟葉も耳を疑ったが、その部屋からは先ほどまで樟葉が感じていた"警告"はなく。そのことを理解すると、蓮の後をついていくように自らも部屋へと入った。
「ここは…」
その部屋の特徴と、"地面に転がった耐熱容器"に、そこが『自分が拘束されていた部屋』だと樟葉はすぐに気が付く。床に拡がったコーヒーのシミはそのまま残り、部屋は未だ、片付けられていない様子だった。
颯もその部屋に入ると、扉は独りでに閉じた。正確には、廊下と部屋を隔絶するシャッターが勢いよく降り、三人をその場へと完全に閉じ込めた。それから間もなく、マイクを叩いたような音の後にスピーカーが開通した。
「可愛い可愛い実験動物が三匹。皆仲良く袋のネズミだなんて、気の毒ねぇ」
「不知火…っ!」
「あら~、そんなに顔を歪めちゃって。
この状況で空間転移も意識遡行もしないのは、全ての退路が塞がれてるのを確認したってことでしょう? つまり貴方はどこにも"跳べない"。
そういうことよねぇ、"ジャンパー"?」
部屋の対角に設置されたスピーカー、そのすぐ隣にある監視カメラが三人を覗く。それを壊そうと、颯がナイフを握り締めると、不知火が舌を三回鳴らした。
「駄目。そんなことされたら、最後のスイッチを押さなきゃいけなくなる。
この施設はね、水じゃなくて不活性ガスで消火するの。
この意味、分かる? 私がスイッチを押したらその部屋の酸素濃度は急速に低下する。そしたら貴方達は十数秒で気を失う。
貴方達には"解体許可"が出てるから、次に意識が戻る頃には脳みそと主要臓器だけになってるでしょうね」
颯が歯を食い縛る。その様を楽しそうに味わい噛み締めるように、不知火はくつくつと笑いを溢す。
「そのナイフ。私の肩を抉った、上等なナイフ。
それを使って遊びましょうか。貴方の大好きな皇さんを使って、黒ひげ危機一髪でもやりましょう。
私が身体の部位を一つ思い浮かべるから、他の二人はそれを探し当てるまで、交互に皇さんを刺し続けるの。
ちゃあんと言うことが聞けたら、一人ぐらいは助けてあげる」
「そんなキチガイじみた提案、乗る訳ないだろ!」
「はぁ? これは命令よ。助けてあげるっていうのは、ただの恩情。ご褒美あった方がモチベーションになるでしょう?
それでもできないとかやらないとか喚くなら、全員意識があるままで解体してあげてもいいのよ。
脳を取り出す時、お互いの様子がよく分かるように、きちんとセッティングもしてあげる。それもそれで楽しみねぇ?」
スピーカーから湧き上がる笑い声は狂気に満ちていて、吐き気を催す。その狂気の中身は憎悪と、純粋な歓喜。
楽しそうに嗤う彼女の声を聞いて、蓮が監視カメラの一つを睨んだ。
「五月女も、そうやって痛めつけたのかよ」
「えぇ、それが? 何か気に障ったかしら?」
「あたしは、何で自分と同じ保持者にそんなことできるのかって聞いてんだ。
委員会は、研究所の活動を最大化するためにある。その研究所は、あたし達と同じ保持者を壊れるまで研究に使い潰す。
鬼畜のクソ共じゃねーか。何が楽しくてこんな奴らの言いなりになってんだよ、お前」
蓮は静かに、しかし燃えるように怒っていた。それは力強く握り締めた両の拳からも分かることだ。対してスピーカーの奥で不知火は、呆れを含む吐息を漏らす。
「うんざりするほど無知ねぇ。世の中ってものを何も分かってない。
無い頭で少しは考えてもみなさい?
"時間も空間も超えられる人間"、
"他人の意識に干渉できて、未然に危険を察知できる人間"、
"目の届く範囲の何にでも発火できる人間"。
こんな"危険動物"が何か悪さしたら、どうやって捕まえればいいのかしら? じゃあ、手遅れになる前に管理しましょう。対策のために"解体"して分析もしましょう。
これが危機管理委員会と研究所の仕事。
自然な流れよねぇ、"放火魔"の皇さん?」
「あれは親が原因で起こった事故だ! 蓮ちゃんのせいじゃない!」
声を荒げてカメラへ強い視線を送る颯だが、不知火は「ふん」と鼻を鳴らして、ただ呆れた様子で視線を返す。
「真実なんてどうでもいい。重要なのは、『保持者が放火した』という事実だけ。
貴方達が何を考えているかなんて世間は一分たりとも汲んでくれない。何故なら? 私達みたいな保持者は、潜在的に"悪者"だから。
だったら悪者扱いされないためにはどうする? どうやって自分の正当性を証明する?」
「それでアンタは委員会に尻尾を振った。後ろ指さされる前に、隠れ蓑にしたってか?」
樟葉の言葉に不知火が噴き出す。喉の奥から込み上げる笑いを抑えようとするが、その勢いは止められず、終いには溢れ出した。
一頻り声を上げて笑い、また喉の奥で笑うと、不知火は大きく息を吸って「あーあ」と呼吸を整えた。
「おめでたいわぁ…。ほんとに何にも分かってない。
この世界で保持者に人権を与えているのは、委員会でも研究所でもない、その元締めの国連なのよ?
つまり貴方達が牙を向けている相手は、この世界を動かす要人達。何にも知らないガキが、世界中の権力者を相手に何ができるって言うの?
いいわ、何でも言ってみなさい? できることがあるなら、私に教えて頂戴?」
やけに優しい声音で不知火が発言を誘う。だが三人はただ悔しそうに睨むだけで、返す言葉はない。その様子を満足そうに眺めて、不知火は鼻で嗤った。
「『ただの女子高生』だもの。何もないわよねぇ。
そう、保持者にできることなんてない。できるとすれば、権力に目を付けられないよう精一杯従うことだけなの。
いい? この世界は何の躊躇いもなく、好きなだけ保持者を分解して、知識を貪ってる。
人道も、倫理も、道徳もない。けど誰も止めない、止められない。それは世界中の権力者が「やれ」と言ってるから。貴方達は、誰かの好奇心だけで身体の隅々までバラバラにされたい?
私は、絶対に、嫌。"人類の永続繁栄"とかいう、大き過ぎて実感の沸かない、解けもしない問題のために無駄死にするなんて、真っ平ごめんなのよ」
スピーカーが沈黙してしばらくすると、溜め息にも似た吐息が聞こえた。それは不知火が煙草に火を着けて一服したからであって、吐いた紫炎には有害物質と、どうしようもなく呆れを含んでいた。
不知火の言い分は尤もで、一保持者がこの世界に抗う術などはない。しかしそれは、誰かを犠牲にして良いという理由には、決して成らない。決まった答えのない、難しい問題であることは確かでも、逃げ道として使っていい結論ではないのだ。
不知火が一服を終え、煙草の火をもみ消そうとしたその時を狙ったかのように、蓮はいつの間にか降ろしていた視線を再びカメラへと向けた。
「お前、友達いねーだろ」
不知火が呆気に取られた。予想外の言葉に驚いた様子で、耳を疑う。
「何を言ってるのかしら?」
「お前は昔、同級生を委員会に告発した。良い保持者も悪い保持者も巻き込んで、善良な人間のフリをして委員会に入ったんだ」
「……何故貴方が、そのことを」
「そんなのどうだっていいだろ。『重要なのは』、お前が自分のために他の保持者を犠牲にしたって『事実だけだ』」
蓮は確信をもって言い放つ。しかしその情報が本当に不知火の過去なのかなど、蓮は知らない。彼女はただ、この光景を未来視で垣間見て言い放っただけだからだ。
不知火は学生の頃、あるネット掲示板のスレッドに心を支配されてしまった。その投稿は研究所から抜け出した保持者の体験記。すぐに削除されたことが、内容の信憑性を一層高めた。
彼女は、その時に不安と恐怖に憑りつかれてしまったのだ。どうしようもない敵意や脅威を前にして足が竦んでしまったのだと、蓮は自ら放った言葉を反芻しながら、理解したように小さく頷いた。
「あたしも、お前みたいに『普通の人間として生活すること』に憧れてた。
なんせ、あたし達は箱庭にいる。そっから出るにはまず社会に受け入れてもらわないといけないって、"和平記念日"の度に先生から散々聞かされんだからさ」
歩き出し、倒れたままの椅子を立て直す。すぐ傍にあった"ヘルメット"を拾い上げると、それを膝へ乗せながら、蓮は椅子へと腰かけた。
「けどさ、本当はどうでもよかったんだよ。普通に学校行って、卒業して、会社に勤めて、なんて。手に入んねーから憧れてただけなんだ。
でもそれに気付いたら、あたしにとっての『普通』って何なのか、全然分からなくなった。
ベルタがあたしを選んだ理由も、オクルスがあたし達の日常をぶっ壊した理由も」
「オクルス? 何を言ってるの?」
「それがようやく、お前と話して理解できた。
あたしはただ、ずっと一緒にいたいって思える友達が欲しかったんだ。それがあたしの探してた『普通』。クラスの奴らのこと嫌いだったから、そんな欲求、全然気付かなかった」
――スマホのマルチタスク画面を開いて、圏外表示のネットブラウザを切る。
「だからちょっと恥ずいけど、今なら言える。
心の底から大切だって思える友達と、出会えて良かった」
そう言うと蓮は、颯にスマホの画面を見せた。
「あたし達を、ここに連れてってくれ」
映っていたのは、蓮が"ウルフカットの少女"に会う直前に眺めていたウェブニュース。今日の特別休暇に伴って開催される主要国首脳会議の会場が、画面にはっきりと表示されている――――オフラインでも動作するそのアプリの中に、キャッシュが残っていたのだ。
目を丸くした颯だが、即座に走り出して、樟葉と蓮に触れる。不知火が咄嗟に消火設備のスイッチを押すも、ガスが充満する頃には、既に三人の姿はなかった。
何が起こったか理解できない様子の不知火はしばらく放心状態だったが、やがて荒々しい声を上げた。何度も机を叩き、手当たり次第に物々を叩きつけて、叫び散らした。その光景はいつしか有栖川に叩きのめされたあの日の最後と、似ても似つかなかった。
三人が足を着けたのは、主要国首脳会議の会場となる大会議室の入口付近、施錠された扉の内側。セキュリティ目的で設置された人感センサーが三人を捉えると、無人だった空間を警報音が満たした。
しかし構わず、蓮は二人を強く抱き締める。そのまましゃがみ、顔を見せないように伏せて、耳元へと口を近付けた。
「颯。早速で悪ぃけど、樟葉を有栖川んとこまで送ってやってくれ。後はあたしが何とかするから、先に行ってて欲しい」
樟葉が驚嘆の声を漏らす。颯の空間転移が、思い浮かべた誰かの元に跳べることを知らなかったためだ。ただそれを颯がしなかったのは、きっと有栖川を巻き込まないためで、樟葉のためでもあったろう。
だが今の颯にとって、その選択肢を選ばない理由はそれだけではなかった。
「蓮ちゃんは、これから何をするつもりなの…?」
颯が震える声で尋ねた。蓮の手元には、委員会施設から持ち出した"制限解除装置"が転がる。空間転移は意識して触れた物体も転移対象とみなすから、"それ"は蓮が意図的に持ち込んだことに他ならない。
二人には、蓮が今何を思っているのかを理解できなかった。それでも樟葉は危機に似た何かを感じ取っていたようで、静かに蓮の名前を呼び掛けたが、その問いに応える言葉はない。
「やっと一緒になれた! ぼくのことだって思い出してくれた!
なのに、離れるなんて嫌だよ…!
誰かを殺せば済むならぼくがやるから!! だから一緒に行こう――――っ!!」
手を伸ばした颯が、蓮の顔を上げさせる。目と鼻の先にあるその顔は、既に濡れていた。目頭には大粒の涙を蓄えていて、それは瞬きの度に零れ落ちた。地面に着けた二人の手の甲は、濡れる度にその熱を帯びて、熱くなった。
響き渡る警報の中で、その雫が砕ける音は確かに二人の耳に届いた。それと同時に、『絶対的な終わりを迎えるのだ』と、そう直感し、確信した。
「颯。樟葉。お前らに会えて本当に良かった。オクルスが何もしなかったら、あたしは一生二人と友達になれなかった。二人がどうなってたかも、分からなかった。
けどこんなことに巻き込んだことを悪くも思ってる。だからその、落とし前もつけなくちゃいけない」
「そんなの…っ! こんなことになったのは全部オクルスのせいじゃんか…!
蓮ちゃんが責任感じる必要なんてないし、あんなやつの尻拭いだってする必要ない!」
蓮が首を振る。
「何て言うかさ。人間って、自分が生まれる場所なんて選べねぇだろ。けどそん中で精一杯できることやって、納得いくように頑張る。あたしも、与えられた選択肢を自分なりに、納得いくように選んだってだけなんだよ」
「…何するか知らねぇけどよ。未来視の見せた光景って、本当に決定した未来なのか? そう思い込んでるだけとかねぇのかよ?
アンタは自分の視た未来を選べるように、もっともらしい理由をつけて、強迫観念にそれを選ばさせられてるだけなんじゃねぇのか?」
「そうだよ、何か確定した未来が視えたからって、その通りに行動しなくていい! 逆らったっていい! だから、ぼく達と一緒に逃げよう?」
伏し目がちになった蓮が、また首を振る。困り顔に眉を傾けて、少しだけ笑う。
「その景色を見ようと思って見た時、意識と顔はもうそっちを向いてるだろ? それと一緒で、"見えた"とかじゃない。未来視は、見ようと思って視た光景なんだ。
あたしが視た未来は、あたしがいる現在に選んだ選択肢と、一直線に繋がってるんだよ」
蓮の言葉を肯定しまいと、今度は颯が首を振った。しかし颯は否定しながらも、意識遡行できなくなっていることに気が付いていた。
オクルスの言っていた、『障壁』の影響だ。その強いエネルギーは樟葉の廓大感覚にさえ影響を及ぼし始めていた。
手を伸ばし、泣きじゃくる颯を蓮が撫でる。その時間を颯が独り占めすることはもうできなかった。
次第に蓮が涙に顔を歪めると、髪にそっと触れるように、樟葉が優しく頭を撫でた。泣きながら、止め処なく込み上がる感情を精一杯の笑顔に変えて、蓮は再び抱擁して、それを解いた。
「きっと戻る。だから、行ってくれ」
「必ず、帰ってきてね。絶対、約束だよ」
蓮が優しい笑みで頷くと、涙だけを残し、颯と樟葉が姿を消す。込み上げたままの感情をぐっと飲み込んで、蓮は空を仰いだ。
ふぅ、と息を吐く。見渡すと、既に複数名の警備員が遠巻きに、蓮を取り囲むように立っていた。蓮が視線を向けたことに彼らは戸惑いを見せながらも、マオリ語で名前を言うよう呼びかけた。他の警備員は無線機と会話しながら、蓮の動向を注視している。
「……これでいいんだろ、ベルタ。
確かに、これはあたしにしかできなかった。…けどさぁ。あたしが選ぶ余地、少なすぎんだろ。責任も重いし。
だいたい、あたしのキャラじゃねーよ」
そう溜め息混じりに呟く蓮の表情には、軽い呆れが滲む。
――申し訳が立たない。
そんな彼女の言葉に対して、わたしには返す言葉もなく、言葉を返すことさえできない。
施設の入り口が開錠されると、応援として駆け付けた特殊部隊がなだれ込んだ。黒色の隊服に身を包んだ連中は、大きな盾を構えてテーザー銃の照準を向ける。その幾つもの銃口から目を逸らすように、蓮は制限解除装置を被った。
もう間もなく、『人類の永続繁栄に関する国際会議』が開かれる。既に大会議室には世界中の権力者が集っていたが、"不法侵入者"が扉の前にいるせいで、彼らは今そこに閉じ込められたままだ。
その好機を、逃すことはできない。声も指先も震わせながら蓮は、静かに目を閉じた。
「もっとあいつらと、ずっと一緒にいたかったなぁ」
――――――――制限解除装置が起動する。
指向性の電磁波が前頭葉を刺激し、全身が硬直する。同時に送られた特定の信号が海馬から心的外傷を再生し、扁桃体が感情の爆発を誘起させる。大脳辺縁系で生じた刺激が大脳新皮質に伝達されると、神経細胞はその結合パターンを変えた。
新たな高次脳機能の発現。
発火の暴走。
"皇 蓮"という自我の消失。
それらが全て同時に起こった直後、
一帯は、強烈なベルタ波を伴う大規模な"爆発"により吹き飛ばされた。
人間も、
建物も、
蓮自身の肉体すら巻き込んで、
各国の首脳とその主要国首脳会議を、
"人類の永続繁栄"を掲げる好奇心の化け物を、
遂に"四次元時空"から完全に消滅させたのだった。
強いベルタ波の影響で、わたしの未来視はそこで途切れた。一体いつから、何度視ていたのだろう。現在と未来を、気が遠くなるほど繰り返し往復するうちに、わたしの時間感覚は狂ってしまった。それに、これから起こる"一度目"のベルタ波による時間干渉の影響もあるだろう。自我は既に曖昧で、わたしとその高次意識が溶け合って、互いを両側から観測している感覚にさせる。
目を開くと、白く塗られた壁がわたしに現実を突き付ける。車椅子の肘掛けに縛られた両手はもう、抵抗する気力も残されていない。
研究員が近付き、大型の"ヘルメット"を被せた。何も見えなくなることが、幾分、わたしの気持ちを宥めてくれた。
「――――これから、二度目の制限解除実験を開始する。
ベルタ・アッヘンバッハ。何か言っておくことは?」
手に汗が滲みだす。実感は後から追い付いてきて、指先を震えさせる。わたしは冷たくなった指同士を、ぎこちなく擦り合わせた。
「どうか、どうか夢でありませんように。
わたしが視た全てが、わたしの脳で生まれた妄想ではありませんように…!
どうか! わたしに勇気をくれた彼女たちが、すべての超才幹保持者の希望となりますように! どうか、どうか…!!」
いつの間にか研究員の気配は失せ、装置へ給電する高周波音が流れていた。実験を前に、わたしの気が触れたのだと思ったのだろう。
それでも、わたしは構わない。これから起こる全てを、わたしは既に"経験している"。
だから今は、ただ願うだけでいい。蓮に託した未来が、保持者達にとって明るいものであると、ただ切に。
「実験開始。電圧を解放しろ」
――――――――制限解除装置が起動する。
†
【終節】- 紅蓮 -
国連加入国全ての首脳が蒸発して半年。世界中で起きた混乱は経済バランスをめちゃくちゃにした挙句、テロと勘違いした国同士を争わせたり、国の新体制に納得いかない国民を暴徒化させたりした。
ずっと軍隊を持っていなかった日本も例外ではなかったけど、そもそも周辺に武装勢力がいなかったことが幸いしたのか、他の国よりは国内の騒乱を鎮圧する方に注力できているみたいに思えた。
国内の騒乱と言っても、武力で戦うことを知らない日本国民ができることと言えば、デモぐらいのかわいいもので、『普通』の人達は大体が泣き寝入りを強いられる。一応は自衛隊や警察も戦闘のプロだから、武力と我慢によって統治されてるというのが実情ってことになるのかな。
だから今日も、『普通』の人は武力を求めて保持者達を頼る。優柔不断な代理政治家や、停滞する復興活動に抗議する、民意の代行者を立てるために。
―「報酬は食料。代理政府の備蓄から取ってきたものだ。あんたにもやる」
いやいや世紀末かよって感じで、ちょっと笑ってしまった。屈強そうな依頼主に言われた言葉を反芻しながら、廃墟となった学校の窓辺で、貰ったブロック栄養食を齧った。
「――へぇ。これ、こんな味だったんだ」
"あれ"から、未だに蓮ちゃんは戻っていない。代わりと言ってはなんだけど、何故か味覚が戻ってきた。なのに超才幹は変わらずに使えて、違和感を覚える。
けどそれは水取さんも同じみたいで、きっと蓮ちゃんからの"便り"だって、こじつけて言っていた。
その水取さんは隣で、今は制服の上に着る防弾ベストを調整している。
「颯。あんま窓から顔出すなよ。警備に見つかったらだりぃぞ」
お金の価値も、スマホの電波もなくなったこの世界で頼れるものはほとんどない。そんな中でも自分の芯をしっかり持ってる水取さんは、正直頼りになる。癪だけど、友達として一緒にいたくなる蓮ちゃんの気持ちも、ちょっと分かった。
「あのさ、」
だからそろそろ、抱えてた疑問をぶつけることにした。
「今は学校もなくなって、特別学級も、保持者かそうでないかの区別もなくなったじゃん。みんなが『普通』じゃなくなったことで、みんなが平等に『普通』になった。
蓮ちゃんは、世界をこんな風にしたかったのかな」
秩序の乱れた今では、人は何かしらの団体に身を寄せて過ごすしかない。それは保持者も同じだけど、使える"才能"がある分、保持者はむしろ重宝される。そんな情勢があってか、委員会の活動も下火になって、保持者は随分と肩身が広くなった。
水取さんは視線を左に傾ける。それでも特に迷うことはなく、装備のベルトに視線を戻した。
「蓮はアタシ達をぜってー守るって言ってたし、現にこうしてアタシ達は助かってる。
蓮がやりたかったのはそういうことなんだろ。そしたら、世界が勝手にこうなってたってだけで」
卵が先か、鶏が先か、みたいな話なんだろうか。言葉の真意を考え込んでいると、調整を終えた水取さんが立ち上がり、ぼくの肩を叩いた。
「難しいことはどうでもいいんだよ。アタシ達、『ただの女子高生』だぜ?」
「武装してるけどね」
言って、笑い合う。冗談を言い合えるこの関係は嫌いじゃない。でも欲を言えば、そこに蓮ちゃんがいて欲しかった。
蓮ちゃんがいたら、どんなに楽しかっただろうか。何度も想像したその問いを胸に、彼女との唯一の"自撮り写真"を、眺めてから抱き締めた。
「さっさと終わらせて帰んぞ。努も待ってる」
「…うん、分かってる」
悔しくてもどかしい。けど蓮ちゃんが言ったように、人は自分の生まれる場所を選べない。だから精一杯、自分の納得のいくようにやる。それがきっと蓮ちゃんの想いだから。
ダミーナイフを抜いて、目標を見据える。だけど、ふと気になったのか、吸い寄せられるように振り向いた。その視界の端に、何かが映った。
――紅い髪の誰か。佇まいはオクルスに似ていた気がしたけど、瞬きの間に消えてしまった。
「ヤンキーさん!」
「あぁ?」
「オクルスを探した時にやったアレ、今できる?!」
思わず大きい声が出てしまった。もしかしたら相手に気付かれたかもしれないけど、そんなことはどうでもよかった。
手掛かりはない。確証もない。
会えた先のきみは、紅い髪ののっぺらぼうかもしれない。
だけどぼくは、信じてる。
「きっと戻る」って、きみが約束してくれたから。
終わり
最後までお読み頂きありがとうございました。
読みやすさと伏線を意識しましたので、楽しんで頂けていれば幸いです。
またお願いとなりますが、お気に召しましたら評価・感想頂けると泣いて喜びながら床を転がりますので、どうぞよろしくお願いします。
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最終節のアップロードまでに、随分と時間を食ってしまいました。
こんな遅筆な作品となってしまいましたが、付き合って頂いた読者の皆様には、心より感謝申し上げます。
また、友人が最高に可愛いキャラ絵を描いてくれました。
何節かの後書きにあげておきますので、ご覧いただければ幸いです。
(絵が完成していないキャラについては、随時UPします)
以上、ありがとうございました。




