【- 残火 -】
【8】- 残火 -
オクルスの起源である、”彼女”について話をしよう。
世界にカラーテレビが普及し始めた頃。頻発するテレビの不調に悩まされていた彼女の両親は、その現象が彼女について回ることに気が付いた。はじめこそ不思議がるだけだったが、彼女が外灯や信号機にまで影響を及ぼし始めると、次第に恐怖が勝るようになった。
やがて両親は、地元紙を通して彼女の存在を発信――いや、"通報"した。その記事が国の諜報機関の目に止まったことで、彼女は政府直属の機密組織に"保護"されることとなった。
国の調査チームが得た結論は二つ。一つは、彼女の身体からは通常考えられないレベルの電場が発生していたこと。そしてもう一つは、電場を発生させている時と通常運動時の彼女の脳波には、何の生理的有意差も認められなかった、ということ。
後者はつまり、『脳機能上、ベルタにとって歩くことと電磁波を発することは同じである』ことに他ならず、これにより彼女に関する調査は国立脳科学研究所の手に委ねられた。人間の脳の神秘を暴くべく活動する第一線に、貴重な調査検体として提供されたのである。
しかし彼女の脳機能――超才幹――がその全貌を解明されることはなかった。それは彼女が、実験によって"人間でなくなってしまった"からだ。
「…全然、意味分かんねーよ。人間じゃねーとか、ベルタの願いとか。設けられたシステム?
じゃあ、あたしが今話しかけてるお前は機械か何かか?」
脳科学研究所は、彼女の能力を解明するためだけに身柄を引き受けたのではなかった。研究所の目的は、魂や自由意志の存在を証明すること。"人類の永続繁栄"に向けて、脳というブラックボックスを解析することにある。
すなわち、超才幹の解明は、目標達成手段の一つに過ぎなかった。
「定義からすれば、装置と言う方がより適切です。ベルタは、二つの願いを強く抱いていました。
その一つは、『人を人として全うさせたい』ということ。わたしは、その願いを忠実に叶える装置に他なりません」
研究所は、彼女の解析に夢中となった。彼女から得られる全てが未知のデータであり、"正解"であり、あらゆる仮説を解く"鍵"。やがて上層部は、目覚ましい成果を上げ続ける研究所の要求を断れなくなり、遂には秘匿されていたはずの彼女を世界に発信してしまった。それは勿論、彼女と同質の研究材料をより多く集め、研究所がより規模の大きな実験と検証を実施するため。
そうして生まれたのが制限解除装置。十数名の保持者の子供たちが、不可逆的に脳を破壊された。
「で、その装置が願いを叶えるのに、何で紅眼視を与えるのさ。
そもそも、きみが与えてるって話が本当かも分からないし、与える意味だって分からない」
適正に出力を調整された制限解除装置による、最初の制限解除実験――彼女はそこで、未来視を発現した。
「与える理由は、保持者のガンマ領域到達を防ぐためです。
ガンマ領域への到達とは、自我を喪失するレベルの脳機能の上書きです。そのような事態を回避するため、ガンマ領域へ近付いた保持者に、紅眼視障害という形で警告するのです」
二度目の制限解除実験――既にベータ領域に達していた彼女は、ここで三つ目の超才幹を解除された。
そして同時に、自我を喪失した。
「何だよ、自我を喪失するって――――」
――――オクルスが片手を前にかざすと、三人の脳内を強烈な"感覚"が埋め尽くした。
最初に感じるのは、耐えがたい悪寒。身体の中心に空いた虚空に、生命の灯たる"熱"を奪われるように、内なる深淵へ引きずり込まれていくように知覚する。
しかし慌てて藻掻くと、今度は辺り一面が闇に包まれていることを知った。
――否。視覚が機能していないのだ。それどころか、驚いて上げたはずの悲鳴もその耳には届いておらず、宇宙の真ん中に突如取り残されたかのような錯覚が、耐えがたい孤独を連れてやってくる――その正体は、"分離"。
"自分"を認識していたはずの感覚は溶けて薄れ、失われていく。ただ一つ、記憶だけが"自分"を形作る唯一の手掛かりになると、その映像や音声、手触り、味、匂いは、古ぼけたフィルムのように褪せて、終いには焼き切れる――その正体は、"消滅"。
与えられた"感覚"は、人間の生存本能を煽る根源的な恐怖そのもの。事象に依らない純度の高い感情の塊に、三人は圧倒されて足がすくむ。身を預けていたはずの椅子から崩れ落ちてしまう。しかし庇うために出されるはずの両腕は自身を強く抱いたままで、目を瞑るなどの条件反射すら、現れはしなかった。
やがて"感覚"が薄れていくと、三人は忘れていたように呼吸を取り戻す。倒れたままの姿勢で、自らの心臓の鼓動を確かめるように。握った手を胸に置き、それを強く抱き締めたまま、各々は弱弱しく姿勢を起こした。
「お前、今、何を…」
「ガンマ領域到達時の感覚の一部を与えました。より正確には、わたしと同じ十次元に存在する、あなた方の脳の記述式に、"昇華の鍵"を限定付与しました。
紅眼視も同様にして、特定の人間に与えることが可能です」
人間とは、十一次元の高次意識が"四次元時空"で活動するための器だ。人間が魂と呼ぶ概念の根源は十一次元に在る。人間が有機生命体として発芽し、有機演算装置――つまり脳が演算処理機能を有して"発火"した時、脳と高次意識が結び付いて自我が宿る。
「自我は、脳に偶然宿った機能に過ぎません。生命維持などの根幹機能と違い、随意筋の運動や感覚器や超才幹と同じ"アプリケーション"の階層に在る機能ですから、仮に自我を喪失しても生命活動は継続できます」
人間の自我とは、十一次元にある高次意識の投影であり、光を当てたことでできる影に等しい。自我を喪失するということは、この光が消えたことで影が消えるということ。高次意識は変わらずに在り続けても、影たる自我はその形象を完全に失ってしまう。
「ベルタも、当時ガンマ領域に到達した人間の一人でした。有機生物としての純粋な人間と、その脳の振る舞いを観察するため、自我を抹消されたのです。
しかし彼女は、他の被検体と異なる点がありました」
研究所が、ガンマ領域到達実験を実施する前日のこと。各国所有の検出器が未知の素粒子を検出した。それは後に、時間を遡る素粒子であるタキオンと判明したが、脳科学研究所を除く多くの研究機関は、検出の原因を特定することができなかった。
「自我とそれに紐づく感情制御機能を喪失したことで、彼女の体内放電の機能が暴走しました。その結果、彼女は超規模の電磁爆発を引き起こしたのです」
検出されたエネルギーこそ、当時名前さえ無かったベルタ波だった。彼女が電磁爆発と同時に放出したエネルギー波は時間と空間を跳び超え、"昨日"という過去へと干渉していたのだ。
だがそのような驚くべき事実は、電子機器が生活に浸透し始めた当時の情勢には全くの些事であった。
「彼女の放った膨大な電磁波は、あらゆる電子機器を飲み込みました。情報処理装置や送電網を破壊して経済に打撃を与え、通信ラインを途絶させ世界を分断し、先進国全ての最新装備を無力化させました。
しかし当時、脳科学研究所以外にこの事件の真相を知る者など誰一人としていませんでしたから、今もなお、この出来事は"EMPテロ"として世界に認知されています」
蓮が思わず、声を上げた。
「それって、ベルタが、EMPテロの原因ってことか…?
いやいや、有り得ねぇだろ! 世界規模だぞ?! たった一人でそんな、なるわけ…」
語尾には呆れを含んだ苦笑いが滲む。しかし淡々と、オクルスは首を振って返した。
「体内放電は、エネルギーを電磁波に変換し、操作する機能です。彼女は自我喪失の際、自身の肉体とその周辺質量を電磁エネルギーに変換したため、あれだけの規模の爆発となりました」
無機質な返答はただ事実を述べるだけで、そこには何の感情も宿ってはいない。――元より、オクルスの態度や発言からは感情は感じられなかったことを蓮が思い出すと、事実を飲み込めず、ただ静かに俯いた。『嘘は言っていない』と理解してしまい、何の反論もできなくなったのだ。
「ひどい」、と微かに颯が呟く。それは世界に起きた惨事に向けられた言葉ではなく。きっと、彼女の身に起きた悲劇を憂えて出た手向けの言葉に違いない。
「彼女には未来視がありましたから、自分がどのような最期を迎えるのか、予め分かっていました。それよりも彼女は、保持者のみに起こり得る、この『自我の喪失』という未来を否定したかった。
その想いは死の間際まで在り続け、『人を人として全うさせたい』という強い願いに至りました。
それこそが、他の被検体と、異なる点でした」
「…待てよ。紅眼視障害は、特定の保持者に強い殺意を覚えるって症状があんだろ。あれもアンタが与えてんのか?」
オクルスが「えぇ」と頷くと、樟葉が鋭く睨んだ。
「納得いかねぇ。『保持者の自我喪失』を防ぐのが目的なら、殺意を与える必要なんかねぇだろ」
樟葉の目つきからは強い不信感が覗く。その主張に寄り添うように、颯も顔を上げて睨んだ。
「脳機能の上書きは不可逆現象であり、わたしの権限では戻すことも止めることもできません。
ですから、ガンマ領域に近づいた保持者が発生した場合、意識レベルの近しい保持者を"執行者"として選出し、殺し合わせるのです」
颯と樟葉は目を見開いて硬直する。オクルスの発した言葉の意味を、理解できないといった様子だった。
「"執行者"により、ガンマ領域に近づいた保持者が死んだ場合、その保持者は"人として全うすることができた"ことになります。
反対に執行者が死んだ場合、対象を抹殺するまで別の保持者を選出し続けることで、対象の自我喪失を阻止します」
「ふざけたこと抜かすな!! 死んだら同じだろうが! アンタがやってんのは、ただの人殺しだぞ!!」
「人間が自我を失えば、残るのは人の形をした生物です。生殖本能のみによって動くだけで、身体を動かし言葉を使っても、そこに自由意思はありません。
ベルタは、この『自我の喪失』こそを『人間の死』と定義しています。
樟葉。あなたは自我を失った人間を、人間と呼べますか?」
「それじゃあ尚更っ、蓮ちゃんに能力を使わせたのはおかしいじゃないか!!
何のためにぼくは、蓮ちゃんを…っ!!」
言って、颯が涙を溢した。自我を喪失するとどうなるか、その片鱗をつい先刻知ったばかりなのだ。これが蓮の身に起こることを想像して、堪え切れなくなったのだろう。
蓮が颯の肩に手を置くと、一室に響く嗚咽は次第に抑えきれない啼泣に代わっていった。するとオクルスは、その気持ちや感情を観察するかのように、颯へとゆっくりと顔を向ける。そのまま、ただじっと固まっていたが、やがて蓮の方へ視線を向け直した。
「…未来視を解除されたベルタは、この先誕生する全ての保持者の書き出しを命じられました。何千何万の未来を視ては記録する日々を送っていましたが、ある時、彼女はたった一人の少女に強く惹かれました」
蓮が顔を上げる。その物言いに、心当たりがあったからだ。
「その少女は自分と同じ素質を持ち、さらに彼女が生涯持てなかったものを持っていました。だから彼女は命令に背き、その少女の名前のみを"リスト"から省きました」
「…何のために」
「蓮、あなたが選択肢を選べるようにするためです」
「あたしが、その選択肢ってやつを選べるようにするためだけに、あたしは超才幹を思い出す羽目になったのか?」
「えぇ」
「それだけのために樟葉が巻き込まれて、たったそれだけのために颯が委員会から追われる身になって――、そういうの全部、ベルタは分かってて、あたしを選んだのか?」
「はい。彼女はあなた方に起こる出来事全てを承知の上で、あなた方をここまで導きました」
蓮が立ち上がり――――オクルスの胸倉を掴んで殴った。倒れこむオクルスに馬乗りになって、更に胸倉を掴んで引き寄せる。
「だったら! あたしがお前をこうやってぶん殴んのも分かってたんだよなぁ!?
どうなんだよ、おい!!」
蓮が叫ぶ。込み上げる悔しさをぶつけるように、彼女に問いかけるように。しかし、そこに彼女はいない――きっと、そう分かっていたはずだが蓮は、感情のままにまた声を上げて、オクルスを殴った。
「――あなたがこうして怒りをぶつけることも、彼女は視ています」
―― 一発――、二発――、三発目の拳をぶつけようとして、蓮はその手を下ろす。ぶっきらぼうにオクルスの胸倉を離し、強く短いため息を溢した。オクルスは痛がる様子もなく、変わらず無抵抗に蓮の顔を覗いていた。
「特別な"才能"があれば人間は皆、無益か有益かに関わらずそれを行使します。しかしあなたは、他の誰よりも超才幹を使おうとはしませんでした。
――何故ですか?」
「…………嫌いなんだよ。超才幹は才能なんかじゃない。
こんなものさえなければ、……あたしは『普通』でいられたんだ」
「えぇ、あなたは"才能なんか"よりも『普通』が欲しかった。
ですがそれを欲するあまり、あなた自身、本当に欲しいものの正体に未だ気付けてはいません。
あなたはまだ、あなたにとっての『普通』とは何か、理解していないのです」
蓮の足元にいたはずが、オクルスはいつの間にか車椅子に腰かける。
「あなたの持つ二つ目の超才幹は、ベルタと同じ未来視。その才能は、あなたが本当に欲しかったものと、あなたがこの先に選ぶ未来を知るためにあります。
――――少なくとも、ベルタは今もそう信じています」
「…意味分かんねーっての。『今も』って、ベルタはもうずっと前に死んでんじゃねーか」
「完全な未来視を持つ彼女にとって、未来は現在であり過去です。
しかし彼女も、ある時点から先を視ることができませんから、その先はあなたを信じる他ないのです」
蓮だけでない、颯や樟葉までもが首を傾げた途端、一室の壁の一枚が、強い風に攫われるようにして外側へと吹き飛んだ。衝撃と轟音が一室にこだまする傍ら、蓮は覆いかぶさるように颯を抱き、樟葉の手を取って身を寄せた。
「おいっ! 今度は何だ?!」
残された壁――いや、部屋全体がゆっくりとひしゃげて曲がり、頑丈な鉄骨を曲げたようなきしみ音を上げる。
壁があったはずの空間に目を向けると、そこには深い暗闇が、どこまでも拡がっていた。
「すぐそこにまで迫っている、強いエネルギーの影響です。
そのエネルギーは障壁となって立ちはだかり、わたしやベルタの観測を妨害しています」
「何だよ障壁って! あたし達はどうなる!」
「大丈夫。あなた方は無事に元の場所へ帰ることができます。
ただわたしには、最早これから先、あなた方に干渉することはできません。
次元の構造上、障壁が近過ぎるためです」
「大丈夫じゃねーだろ、それ!
クソっ、やっぱ意味分かんねぇ! お前の言うこと、聞けば聞くほど分っかんねぇんだよ!」
振動と衝撃で椅子が宙を舞う。そこに佇んでいたはずのベッドは音もなく暗闇へと吸い込まれた。その状況に三人はただ互いに掴まって耐え忍ぶが、相変わらずオクルスは、何もせず三人を見つめていた。
「ベルタの願いは、二つあると言いましたね。
わたしも、ベルタも、障壁の先の未来を視ることは叶いませんでした。
だから、蓮。あなたに、その先の未来を観測して頂きたいのです。それが彼女の、もう一つの願い」
壁が一枚、もう一枚と飛び去っていく。それに合わせて、三人の五感は、ゆっくりと砂嵐に霞んでいく。再現された四次元時空が壊れつつあることで、三人の意識がオクルスを認識できなくなってきているのだ。
オクルスへの接続が不安定になっていく中、蓮は声を振り絞って叫んだ。
「選択肢って何なんだよ!
あたしがもし、それを選ばなかったらどうすんだ! それもあり得るはずだろ!」
オクルスは踵を返し、虚空目掛けて進んでいく。
「過去とは、確定した事実であり、変えることはできません。あなたが視る未来も、本質は同じです。
もう一度、樟葉が囚われていた施設に行きなさい。それがわたしの視た最後の、あなたの"過去"です」
目の前に広がる何もかもが闇に飲み込まれると、三人は次第に横向きの重力を感じ始める。目を覚ますと、倒れこんでいることに気が付き、起き上がった。
あの廃ビルの屋上の扉の前で、三人は横たわって気を失っていた。しかし起きるや否や、強烈な敵意が樟葉の意識を襲った。
廓大感覚による警告――委員会の包囲網が、三人を食い殺さんとにじり寄っていた。
意識遡行の時間感覚は、一分もせずに部隊が突入してくることを示している。
「…行こう」
颯が、蓮と樟葉の手を取り、空間転移する。
向かったのは東特区の施設。
不知火が管轄する、区の委員会司令部のある施設だ。
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