【- 業火 -】
【7】- 業火 -
蓮と颯が"再会"した後、二人は颯の拠点である廃ビルへと、逃げるかの如く足早に向かった。委員会から蓮を護りたいという颯の意思もあっただろうが、蓮にも思うところがあったらしく、彼女に固く握られた手を引かれて歩く間、蓮はただ目を伏せて考えを巡らせていた。
だが、先に拠点で過ごしていた樟葉と再会した時にはその緊張も解けたようで、アウトドア用ベッドの上に倒れこむようにして眠りについていた。
蓮の思うところとは察するに、委員会への不信だろう。
不知火が彼女に、忘れていたはずの超才幹を呼び起こそうとしたのは現状の確認のため。
多忙なはずの部隊長がわざわざ顔を出したのは、あえて蓮との接点を作るため。あるいは、五月女という監視役がいながら進展のない調査対象に探りを入れるため。
――蓮は図らずも、そう考えれば辻褄が合うことに気が付いたのだ。
太陽が地平線から顔を出す手前、蓮はハッとして目を覚ました。上体を起こして辺りを見回すと、壁に寄り掛かり本を読んでいた樟葉と目が合う。続けて視線を流せば、齧りかけのブロック栄養食を持ったまま思惑に耽る、颯の姿があった。
颯の目の下には隈が出来ていた。昨夜から一睡もしていないためだ。鬼気迫る雰囲気を醸す彼女を見て、何も言えず俯く蓮だったが、戸惑うことはせず。一室の隅のテーブルに置かれたキャンプ用品で湯を沸かし、紅茶を淹れて颯に差し出し、無言で隣に腰を掛けた。すると颯はようやく、虚空を見つめていたはずの視線を蓮に移した。
「…研究所は、ぼくと同じように集められた人たちを使い潰してた。
投薬とか、解剖とか、制限解除装置の実証実験とか、あとは能力テストも。肉体が再生する超才幹持ってた人は悲惨だったな。ぼくも、頭おかしくなるくらい、繰り返し実験に使われてた。
そんな日々が死ぬまで続くんだって思ってたある時、頭の中で、ぼくを呼ぶ声がしたんだ」
颯が、ステンレスマグから上る湯気を浴びながら紅茶をすする。冷えた身体に染み込む熱を味わうように、細く長く息をついた。
「初めは自分の妄想だと思った。けど会話もできたし、言う通りにしたら研究所から脱出できた。頭の中の声は――オクルスは、ぼくの妄想じゃなかったんだ。
そいつは僕を研究所から逃がした後、ぼくに二つ指示した。
一つは、ヤンキーさん。きみを委員会から救い出すこと。もう一つは、蓮ちゃんの"ガス抜き"をすること。紅眼視を発症しないように、超才幹を目一杯使わせろってね」
苛立ちを露わに、颯の歯軋りに力が籠る。しかし、既に本をたたんで耳を貸していた樟葉は、あくまで冷静な視線を送った。
「紅眼視はベータ領域の奴が発症すんだろ?
蓮は超才幹が一つだから、アルファ領域だ。発症の可能性は無ぇって、不知火も言ってたぞ」
対し、颯は流し目に見て、首を振る。
「委員会や研究所は勘違いしてる。
脳の機能っていうのは、どれも容量を食ってるんだ。スマホのアプリみたいにね。
もちろん、それぞれの超才幹にも必要な容量がある。脳の全記憶容量のうち、超才幹が占める割合が多いほど意識レベルは進行する。厳密には、個数なんて関係ないんだ。
だからね、きみは間違いなくベータだよ、ヤンキーさん」
その言葉に樟葉は、怪訝そうに片眉を吊り上げた。
「別にお節介だし言うつもりもなかったんだけどね。
ヤンキーさん、『痛みを感じなくなった』って言ってたじゃん。それがベータに到達した証」
呆気に取られた蓮が短く言葉を溢し、樟葉を見る。彼女の脳裏にはちょうど、暴走保持者の攻撃を受けながら『痛くない』と言った樟葉の姿が思い出されていた。
「…冗談だろ」
「きみの痛覚は、成長した超才幹に"上書き"されたんだ。本来、脳には超才幹を収めておくほどの空き容量なんて無いからね。
ぼくだって同じさ。研究所で二個目を解除されたせいで、味覚を失くした」
そう言って、ブロック栄養食に目をやる。「傷んでても分からないから、こういうやつしか食べれないんだよね」と、わざとらしく肩を竦めて見せたが、その場が和むはずもなかった。
超才幹の発するベルタ波の源は感情であり、感情はまた別の場所からエネルギーを受けている。脳の扁桃体と呼ばれる部分がエネルギーの受け皿で、受けたエネルギーの収支バランスを前頭葉が調整している。
超才幹は、高度に発達した大脳新皮質を持つ脳で発現する。正確には、高度に感情を制御できる生物のみが超才幹行使の権限を持つ。
かつての脳科学研究所は、その事実にたどり着いてしまった。だから研究所は、この性質を利用して制限解除装置を創り出した。
制限解除装置は、指向性の電磁波で前頭葉の一部を麻痺させ、トラウマなどの強烈な感情を呼び起こすことで超才幹の解除を誘発する装置。颯や不知火が蓮の超才幹を引き出す際に感情を刺激したのも、その原理に則ったからだ。
超才幹が継続的な行使により成長したとき、または新たに解除されたとき、主に感覚機能や運動機能の一部が喪失する。それは樟葉や颯の例だけでなく、表情筋の一部が動かなくなり『目だけが笑っていない』不知火のようなケースも含む。
「…オクルスって奴の目的は。そいつの正体は何なんだ?」
蓮が顔を上げるが、颯は難しい顔となるのみ。錆び付いたオフィスチェアに背を深く預け直すと、彼女の代わりにきしみ音が返事をした。
「…分からない。目的も、何者かさえ。どんな姿をしてるのか、見たこともないんだ。
分かることと言えば、自分を『ベルタの亡霊』だって言ってて、その声からして女だろう、ってことだけ」
それ以上に言葉を紡げない様子で、颯は口を噤む。蓮や樟葉も同様に黙ってしまうが、無理もない。何かを考えるほどの情報など無かった。
だが颯にとって、オクルスの正体以上に気がかりだったのは、蓮のことだった。
「蓮ちゃんはさ、五感が変になったりとか、筋肉が動かなくなったりとか、してない? ぼくが能力を使わせるようになったせいで、思うように体を動かせなくなったとか、ないよね?」
それは、ベータ領域に到達していないかの確認。ベータに達してしまえば、紅眼視発症の可能性が出てくる。颯は、自分のした行いによってそれが出てしまうことを恐れていた。
そのことを蓮も理解していたが、浮かない顔で、兎耳の端をぎゅっと握り締めたまま、すぐには返事を寄越さなかった。
「最近、ずっと気になってた。何度も白昼夢を視てたんだよ。
あたし、ナースコールが切れてるとことか見付けてただろ…?
『それが起こる前に、既にその光景を視てる』みたいなさ、そういうのが…、あった」
どこか、『大丈夫』という根拠のない自身があったのだろう。蓮の言葉を聞いた後、颯は返す言葉も見付けられず、見開かれた瞳は次第に涙を薄く蓄えて、顔を背ける。その後堪らず、頭を抱えてうずくまった。
「未来視だ…。五感も筋肉も正常なのに、どうして…」
蓮の症状は、記憶の大部分を失ったことによる、超才幹の自然発現だ。
全ては、あの大火事で起こったことだ。あの時、蓮の強い現実逃避の感情に呼応し、超才幹が彼女自身の記憶を"灼いた"。そうしてできた"空き領域"に、感情の暴走が、新たな超才幹の制限解除に拍車をかけたのだ。
しかし蓮の"発火"は、使い方の記憶すらも灼いてしまった。蓮が、過去の記憶や"発火"さえも忘却していたのはそのため。そのことを颯は、知る由もなかった。
「どんな白昼夢を視た?」
樟葉が静かに問いかける。蓮が返答に窮すると、その間に三人は特徴的な羽音に気が付いた。次第に大きくなるそれは、ヘリコプターの飛行音。次いで、機内モードに設定された三人のスマホを除いて、西特区の至るところから超才幹危害警報が鳴り始めたことを、三人は遠くに聞き取った。
「――――このビルに、不知火の部隊が突入してくる。光と音の爆発があって、気付いたら、あたし達は包囲されてる…そういう白昼夢だ」
真夏のセミの鳴き声のように耳障りな警報の中、三人が動く様子はなかった。
蓮は、未来視が、確定した未来を垣間見る超才幹であると経験的に知っていたからだろう。
そして樟葉は、全方位からさざ波のように伝わってくる危険を感じ取っていて、それらが次第に強まってくる様を"観察"していた。事実、このビルを取り囲むように集まっていたのは委員会の部隊員で、各階層の窓や外階段にくまなく銃口を向けていた。
一方、颯は意識遡行を利用して逃げ道を模索していた。
颯の意識遡行は、およそ二分先の未来を体験してから"現在"に帰ってくることができる。それは、二分先までを視て、以降の勝算を見極めなければならないということだ。
既に階下へ降りることは試していた。およそ一分前、階段下で待ち構える五つの銃口に全身を穴だらけにされたばかりだった。――アンカー:■
颯はスマホを取り出して、写真フォルダを開く。それは、いつでもその場にアクセスできるよう残された写真達だ。
まず表示したのは、業務用スーパーの店内の写真。生活に必要なすべてを賄っていた、その光景に意識を集中し、"転移"した。――ピン:▲
降りたのは、食品売り場内の陳列棚に囲まれた地点。壁沿いの生鮮コーナーに出ると、商品も客も無い、異様な光景が広がる。
危険を感じ、走って出口へと向かうが、扉の向こうから飛んできた無数の弾丸が上半身に食い込んだ――――▲に遡行
再び陳列棚付近に降り、商品搬入口へと一目散に駆けだした。関係者専用と印字された扉を突破するが、開閉動作を引き金に、対人地雷が炸裂した。衝撃に吹き飛ばされ、同時に彼女の下半身に大小様々な金属片が食い込んだ――――■に遡行
降りたのは、女子トイレの手洗い場。階段の踊り場に設置されているため、屋上階はすぐそこにある。――ピン:●
屋上まで到達するも、施錠されて開かない。――ピン:◆
扉はガラス製。手持ちのナイフで罅を入れ、その穴を拡げていくが、人一人分の大きさになるよりもタイムリミットが先に来てしまった――――◆に遡行
一か八か、ガラス戸に全体重を乗せて飛び込むが、割れない。三度試してようやく割れたが、腕や脚に重篤な切創を負ってしまった――――●に遡行
屋上も地上階も諦め、トイレの小さな窓から脱出を試みるが、開け放ったところで、すかさず銃声が鳴った。ここも監視されているということだ――――■に遡行
それから転移先をアウトドア用品店に移して試したが、いずれのパターンでも迎える結末は変わらなかった。
おそらく、過去の監視カメラのデータから出現位置と、そこから二分以内で辿り着ける地点までのルートを洗い出して対策したのだ。それは間違いなく、"ジャンパー"の捕まえ方を知る者の手口だった。
「不知火…っ!」
"現在":フォルダの端にある写真までをスクロールし終えた颯には、これ以上の外部施設への転移はできなかった。委員会に捕捉されまいと、転移先を最小限に絞っていたためだ。
残す選択肢は、ビルの上階。屋上まで辿り着ければ、眼下の景色を頼りにどこへでも、その地点に跳ぶことができる。
しかしその選択肢はもっとも単純で安直だ。颯の能力を知る者であれば、一番最初に手を打つだろう。
「…ッ」
颯が蓮の手を掴み、つられて樟葉も上階へと走り出す。たとえ既存の転移先や周辺建屋を押さえられても、ビルの屋上から見渡す全ての地点に対策を施すことはできない。とすれば、逃げ切る可能性は、そこにしか残されていなかった。
屋上階への階段前まで到着する。――アンカー:▼
屋上への扉を開けると、対人地雷が起動、鉄の破片が下肢と腹部を抉った――――▼に遡行
外階段の扉、曇りガラスから顔を出すが、一拍遅れて銃弾がガラスを割った――――▼に遡行
敢えて屋上へと転移し、状況を確認する。上空、対角線上に軍用ヘリが浮かび、扉の前には簡易バリケードが設置されている。その奥に待ち構える複数名の部隊員を確認し、撃たれる前に――――▼に遡行
"現在":もう上階に辿り着く前に戻ることはできない。颯は、階段の前で茫然と立ったまま、残る二人の縋るような視線を浴びながら考えるが、妙案が浮かぶことはなかった。
そのうちに窓から投げ込まれた二つの手榴弾が、立ち尽くす三人の足元で炸裂した。破裂音が閃光と発煙を引き連れたことを合図に、窓から不知火直轄の部隊員が一斉になだれ込む。
煙が立ち込める空間で次に蓮が視界を取り戻した時、見た光景はまさに、蓮が初めて颯と出会った時に視た"幻視"そのものだった――――▼に遡行
「――ヤンキーさん」
"現在":俯く颯が、屋上の扉を指差した。
「あのドア、開けて」
「…その意味、分かってて言ってんのか」
扉の先に何が待ち受けているかなど、樟葉にもはっきりと分かっていた。しかし颯は指を差したまま、「開けて」と続けた。
「アタシに死ねっつーのかよ!」
樟葉が胸倉を掴んでも、颯は変わらずに指を差し続ける。目が合うと、その顔は薄っすらと憐れみに歪み、抵抗の無駄を諭すように笑みを浮かべる。
樟葉が固まる。見たこともないそれに、困惑したんだろう。颯のそれは、苦笑いと緊張と悲哀が混濁したような、奇妙な表情だった。
「ぼく達のために、死んでよ」
「ふざけんな!!」
樟葉が握り拳を振り上げる。けれど颯は、構わず続けた。
「きみが!! きみが囮になってる間に集中すれば逃げられるんだ!!
きっときみは、ぼく達を生かすために助けられた! それが、オクルスがきみに与えた『生きる意味』なんだよ!
だってそうじゃなきゃ、ぼくがきみを助けた理由が説明できないじゃんか!」
颯にとっては、蓮を救えさえすれば良かったはずだった。しかし蓮は、思い出せなかったはずの颯の名を呼んだ。その事実が、颯の中で『共に助かりたい』という執着となって、状況をより困難にしていた。
颯の主張はあまりにも身勝手だったが、樟葉は目を固く閉じてから、振り上げていた拳を解く。胸倉を掴みながらも、苦しそうに目を逸らした。
「…こっちからオクルスに話せねぇのか」
「そんなの、できたらとっくにやってる。あいつは一方的に、頭に言葉を送ってくることしかしないよ」
「会話したんだろ? どうやって返事した?」
「普通に相槌打ったり、返事しただけだよ! そのくせ、ぼくから話しかけても返事なんて返ってきたことなんてない…! こっちからできることなんて何も無いんだ!!」
――颯が頬を打たれる。決して弱くない平手打ちを入れて、樟葉は掴んだ胸倉を引き寄せた。
「だとしても考えるしかねぇだろ、方法をよ!!
いいか、オクルスには何かしらの目的と勝算があった。だからアンタを研究所から"出した"んだ!
だったら今のアタシ達はオクルスを頼るしか無ぇ! そうだろ!?」
「…ただの暇つぶしに、ぼくを研究所から追い出した可能性だって、ある」
「仮にそうなら、アタシがわざわざ指名される理由は無ぇ。少なくとも、アタシとアンタは何の繋がりも無かったんだからよ。
――なぁ、会話できたってことは、オクルスはアンタの声を拾ってたってことだろ?
頭ん中じゃなくて、遠くから耳元に声を送ったり、拾ったりしてたんじゃねぇか? それを辿ればオクルスに会えるとか、ねぇのか?」
期限が刻々と迫る。"アンカー"を意識したままの颯には、不知火の部隊が突入するまでの残り時間が明確に分かっていた。だからこそ颯には、狼狽えず冷静に分析し活路を見出そうとする樟葉の努力が、ひどく悠長なものに見えてしまって、苛立ちを抑えられずにいるようだった。
「…無駄だってば。オクルスがやってるのは、"意識への干渉"――空間や距離を無視して、他者の意識にアクセスしてる。それが分かったところで、ぼく達にはオクルスを辿れないよ」
――▼に遡行。颯の意識が"現在"へと引き戻った。
颯は再び扉の前で立ち尽くす。深く項垂れたまま、出もしない答えを求めて瞼を閉じた。その両目を覆う直前の表情は、絶望という表現がぴたりと当て嵌まる。
彼女は、きっと分かっていた。意識遡行は、当事者の記憶以外の情報を全て失わせる一方で、僅か二分ほどの猶予を与える。つまり、彼女が蓮とここから生きて出るための正解を導くまで、この二分弱に閉じ込められたことと同じ。しかしその問題を解くことはできないのだと、きっと理解していた。
最早、手の内のない颯にはその場から動くこともできず、握っていた蓮の手を放し、樟葉の腕を掴む他なかった。屋上に転移し、樟葉を道連れにしてでも状況を転じる考えだったのだろう。
しかし颯が、腕を掴む手に力をこめたところで、逆に樟葉から腕を引かれた。
「――――今、"意識への干渉"って、言ったか?」
颯の思考が止まる。代わりに、蓮が不思議そうに顔を上げた。
「何言ってんだ…?」
「確かに言ったよな! そうだ、意識干渉だ…! 保持者は全員"高次意識で繋がって"て、廓大感覚持ちはそれに干渉できるって、不知火が言ってた!
おい、意識干渉するにはどうすりゃいい!」
「ちょ、ちょっと待ってよ!? 意識遡行したのに、何で――――」
言いかけて颯は、樟葉の瞳――その虹彩が紅く煌々と光を零していることに気が付いた。その様は蓮にも視えていたようで、彼女は物言わず颯の服の裾を掴んで引いた。
颯が蓮の方へ目を向けると、蓮は何かを察した様子で、小さく頷いた。
「多分、これも"視た"。――あたし達にはこれしか、ない」
意識遡行は、当事者の記憶以外の情報を全て失わせる。ただし、他者意識に干渉できる場合を除く。
颯の意識が過去に逆流する瞬間、樟葉は彼女に意識を向けていた。その時既に、樟葉による高次意識への干渉が在ったのだ。これにより樟葉の意識は、颯の意識に相乗りする形で過去へと遡った。
だがそんな事実など今の颯にはどうでもよく、やっと掴んだ糸口を離すまいと、樟葉を正面に見据えた。
「――――オクルスは、『意識の糸を繋いでる』って言ってた。きみが他人の意識に干渉できるなら、同じように意識の糸が"視える"はず。高次意識は空間の制約を受けないから、きみの"視える範囲"に必ずある」
樟葉が固く目を瞑る。颯の、樟葉の腕を握る手に力が籠る。
「……駄目だ、周りから来る敵意が強すぎて、よく分かんねぇ…!」
「一点を"注視"して探してるのかもしれない。力を抜いて、もっと引いて"視て"みて」
――再度集中する樟葉の眉間に、突然皺が寄る。直後に二つの手榴弾が投げ入れられたが、炸裂する前に、颯が樟葉の耳を塞いだ。
樟葉の聴覚への麻痺を抑えて、自身の声が聞こえるようにしたのだ。
「きみは"意識の糸"に集中して! ここはぼくがどうにかする!」
颯がよろめく蓮を支えた。すかさず、突入する部隊員の眼前に転移して、続けざま標的の背後へと転移し、声を上げながらナイフで切り付けた。すると、幾つもの銃口が颯へと向き直った――侵入者を攪乱するための陽動だ。
颯は"アンカー"に戻れるギリギリまでそれを続けてから意識を過去へと逆流させる。それから樟葉の意識が遡行前から連続していることを確認し、再び部隊が突入すると、また同じように陽動して意識を巻き戻した。
樟葉がオクルスの"意識の糸"を探せるまで、颯は同じ時間を繰り返して時間を稼ぐ。その度に蓮は同じ光景を何度も視る。爆発と閃光と煙が断続的に繰り返される中で、樟葉は遂に、ある場所へと辿り着いた。
"そこ"に"糸"は無く、"それ"を形容するならば"綿"が最も近しい。極大の雲の如き大きさの"綿"は一種の"網"。それは人々の意識の"関連"で、"糸"は複雑に絡み合い、相互に作用し、時々刻々と形を変える。
十や百という規模ではない、およそ八十億の意思が独立し、時に繋がって離れる様子が、空間の制約を飛び越えて凝縮されていた。
しかしその膨大な情報の構造体は、颯の意識遡行により、約一分の周期で同じ挙動を繰り返していた。そのことに樟葉が気が付くと、"それ"のごく一部、周期性を伴わない唯一つの"糸"を探し出して、離すまいと手繰り寄せた。
その様子は、さながら極楽に続く蜘蛛の糸を登る罪人。樟葉がその"糸"を最後まで手繰り寄せた時、三人に奇襲をかけた部隊員達の目には、樟葉を含めた三人が、光を伴って消失したように映っていた。
三人が意識を取り戻した時、初めて目にしたのは精神病棟の一室に似た部屋だった。そこには拘束具の付いたベッドと椅子がただあるのみで、壁も床も白く塗られていたことが"無さ"を強調する。
やがて、窓も扉さえもないことに樟葉が気が付く一方、蓮は顔をしかめて身構える颯に気が付く。颯の右手には既に、ナイフが固く握られていた。
その部屋は、扉が無いという一点を除き、颯が幾度となく苦痛を与えられた研究所に似ていた。颯としてみれば、オクルスを辿った先で逃げたはずの研究所に来てしまったのだから、驚きよりも警戒が出てしまうことに無理はない。
「…出てきなよ、オクルス。きみを探してここに来たんだ」
颯が呟くと、壁の一面に扉が浮かび上がった。目の前で起こった不思議な出来事に二人は後退るが、颯のみは扉の先を睨んだまま。『何かの超才幹だ』と割り切っているのだ。
出現した扉が独りでに開くと、同時に颯が駆けだした。が、二人の制止もなく、その足は止まってしまった。
現れたのは、紅いワンピースを身に纏った車椅子の少女。切り揃えられた紅色の髪からは、覗くはずの瞳がなく、鼻も口も、血の気を感じさせないほどに白い肌色に塗り潰されて消えていた。それでいて、生き物特有の"柔らかさ"が宿るその奇妙な存在に、颯を含む三人は絶句し、釘付けとなっていた。
少女の座る車椅子が独りでに動き、部屋へと入る。すると扉は、壁の中に沈むようにして消えた。
「こんにちは、颯。はじめまして、樟葉に、蓮」
無いはずの口から発せられる声。置かれた状況を理解できず当惑する三人だったが、言葉を発したきり、まるで置物のように動かない少女を前にして、ようやく樟葉が開いたままの口を閉じた。
「何だこれ、現実か…? アタシは、何を見てんだ? コイツがオクルス?」
「えぇ、合っていますよ、樟葉。わたしがオクルス。
これは現実です。高次元に存在するわたしの意識にあなたが干渉したことで、あなた方の意識は実質的に十次元へと到達しました。
しかしあなた方の意識は性能上、十次元を認識できませんから、十次元内に四次元の時空を再現しました。それが今、あなた方の見ている光景の正体です」
「そんなことどうだっていい! きみには聞きたいことがたくさんあるんだ!
きみの目的は何だ?! 何できみは、委員会に追い詰められたぼくたちを助けなかった!
研究所からぼくを出したように指示すれば、ぼくたちは苦労することもなかったろ!」
「わたしの目的は、あなた方三人をここへ導くことです。
あなた方がここへ辿り着く結果は確定していましたから、わたしからの干渉は不要でした」
「だったら初めからきみが、ここに三人とも呼べば良かった! なのにきみは、ぼくを利用して蓮ちゃんに能力を思い出させた! ぼくが、何より蓮ちゃんが! どんな想いをしてここまで辿り着いたか!!
答えろ!! 蓮ちゃんが辛い過去を思い出さなくちゃいけなかった理由を!!」
颯が椅子を掴むと、オクルス目掛け、一切の容赦なくその椅子で殴りつけた。倒れこむその身体に構わずナイフを突き立てたが、伝わったのは、刃が地面に突き刺さった感触のみ。倒れていたはずの身体は、跡形もなく消えていた。
颯が振り返ると、無かったはずの開かれた扉が出現していて、その奥から、独りでに動く車椅子に乗ったオクルスが現れた。
「あなたの怒りを理解することはできますが、あなた方の感情の起伏は、起こり得た結果に影響を与えません。また、わたしの目的は"呼ぶ"ことではなく、"導く"ことです。
より正確に言うならば、あなた方はここに辿り着くまでの一連の過程を経験する必要がありました」
再び颯がナイフを構えるが、駆けだす手前で蓮が制止をかけた。
「あたし達が何を思おうが関係ないっつーのは確かにクソムカつく。どんな理由があってあたし達をこんな目に遭わせたんだクソが、って話だ。
けど、お前が颯を助けてくれたんだろ。おかげであたしも颯を思い出せた。そこだけは感謝してもいいって思ってる」
蓮の言葉に、颯は握り締めた力を解く。代わりに、空の左手で蓮の手を強く握り、蓮も応じるように握り返した。
「要は、あたしが超才幹を使う必要があったんだろ?
だったら教えろよ。颯に紅眼視のフリをさせて、あたしを本当の紅眼視にさせようとしてた、お前の狙い」
オクルスが短く、「えぇ」と反応する。それに合わせ、地面から三人分の椅子が浮かび上がった。
その椅子に三人が腰かけると、オクルスはゆっくりと樟葉を指差した。
「その前に一つ。あなた方が紅眼視と呼ぶ現象は、わたしが与える警告に過ぎません。
特定の条件を満たした際の反応ですから、あなた方は怯える必要はないのです」
見ると、樟葉の両眼はいつの間にか元の色を取り戻していて、蓮と颯はそのことに遅れて気が付いた――だけでなく。オクルスの言葉の意味を咀嚼できない様子で、言葉も出せずにただ耳を疑っていた。
「紅眼視を与えるって…、きみは、一体…?」
「わたしは人間ではありません。わたしはベルタの願いであり、残滓であり、故に"亡霊"。
彼女の記憶から構築された、人を人として保つために設けられた"存在の箍"、防衛機構。
――――すなわち、"眼"なのです」
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