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紅のオクルス  作者: Nagia
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【- 猛火 -】

【5】- 猛火(もうか) -


 数回の点滅の後、古い蛍光灯が16畳ほどの広さを照らし出した。そこは一見すると広く設けられた診察室のようだが、窓枠には頑丈な鉄格子がはめられている。どちらかと言えば、精神病棟の一室と言った方が、表現としては適切だろう。

 その、およそ中央には、椅子に座らされた少女が一人。両手足に拘束具が着けられ、その顔には黒い箱が被せられていた。

 ――(いや)五月女(さおとめ) (ひかる)の超才幹、波動干渉(デコヒーレンス)による“固定領域”だ。ある瞬間に時間を固定された脳は、時の流れを認知できない。その少女、樟葉(くずは)にとっては、今の状況を意識することはできず、意識を失っている状態に等しかった。


「――――――、あぁ?」


 突如、“黒い箱”が消失する。同時刻、五月女が蓮に対し、超才幹を行使したためだ。それを知る由もない樟葉は、自分が置かれた状況の整理を試みるが、ここに至るまでの記憶を辿ることにも気が行ってしまい、中々整理がつかないようだった。


「あら、お目覚めね」


 声がしたのは、樟葉の背後から。彼女にも聞き覚えのあるその声の主は、不知火(しらぬい)。彼女は背後の扉を閉めてから、靴音を響かせて樟葉の前に立った。


「私も、ついさっき、ここに着いたところなの。貴方と会うのも一日ぶり。寂しかったわぁ」


 不知火が、ホットコーヒーを片手に、鉄枠に寄り掛かる。その表情は相変わらず、目だけは笑っていない笑顔。一日ぶりということは、少なくともそれだけ意識を失っていたということだ。その単語をきっかけにして、樟葉の記憶が徐々に思い起こされてきた。


「帰り道、変な黒い箱に追われて、気付いたらここにいた。超才幹危害警報が鳴ってた記憶もない。

 ―― “正規の方法じゃない”ってことだろ。アタシが、ここに連れて来られたのは」


「別に何だっていいわ。結果的に、貴方は危機管理委員会に選ばれた。

 そんな特別な貴方には、特別な選択肢が与えられる。

 どちらかを選ぶ権利をあげるから、よーく、考えて頂戴ね?」


 手足を拘束しておいて、勝手な物言いだ。自由を奪われた樟葉にとって、それは権利とは言わない。そのことを理解しているのか、樟葉は黙って聞いていた。


「選択肢は二つ。

 一つは、危機管理委員会の鎮圧部隊に入隊し、私の部下となること。

 そしてもう一つは、高度保持者のサンプルとして、研究所の実験体になること。

 いずれにせよ、超才幹を一つしか持たないアルファ領域なのに、これほど順応率が高い人間は珍しいわ。

 研究所も、喉から手が出るほど欲しいはずだけど、研究所(あそこ)に引き渡すには、あまりにも惜しい」


「選択肢も何も、部隊に入れってのが本命だろ。アンタのお膝元で働けってことかよ」


「そうよ、もちろん。貴方、孤児よね? 高校を卒業したら行くところはあるの?

 最近は保持者に対する規制も厳しくなってるみたいだし、ここが丁度いい雇口(やといくち)だと思うけど」


「別に。興味(きょーみ)()ぇ。アタシは勝手気ままにやれりゃいい」


 不知火は「ツレないわねぇ」とため息をこぼす。


「暴走保持者への一次対応は、危機管理委員会に一任されてる。

 貴方がもし、どちらの選択肢も選ばずにこの場から逃げようものなら、あの暴走保持者と同じ運命を辿ることになるわ。

 彼は一体、どこに連れてかれたのかしら。想像すれば、(おの)ずと答えは出るはずよね?」


「だとしても、お断りだ。忙しいからよ、アタシは。(はな)女子高生(じぇーけー)だぜ?」


「はぁ、そう…」


 不知火はアーミーナイフを取り出し、いじけたように、その切っ先を指でなぞる。手全体に、指を使って回転させるが、不意に指で弾き、空中へ。超才幹の加速を受けたナイフが、樟葉の喉元を目掛けるも、樟葉は首を(ひね)り、回転するナイフの()に自ら当たりに行くようにして、(やいば)との衝突を()けた。

 (むせ)る樟葉。弾かれたナイフは、樟葉の股の間の座面を跳ねて、地面に転がった。


「やっぱり素晴らしいわぁ、貴方。いいでしょう、優秀な子にはきちんと、教えてあげます。

 超才幹という現象はね、未解明の部分が多いの。けど感情によって、その出力を操作できることが分かってる。研究所はね、これを応用して、人間の感情を最大限揺さぶることで人為的に高次機能(モジュール)の“制限”を解除する(すべ)を持ってるのよ。

 例えば、貴方が遭遇した、暴走保持者。

 筋肉のリミッターを外すことができる超才幹だけど、あのままでは、肉体全体がもたないわ。

 その彼は今頃、制限解除装置で“措置”を受けているでしょうね。

 “受肉再生(アンパック)”って言って、肉体が損傷を受けてもすぐに再生できる超才幹なんてものもあるから」


 不知火の“措置”という言い回しは、それが決して治療ではないことを(ほの)めかす。それは詰まるところ、人命救助のために行われてはいないということだ。


「制限解除装置も万全じゃなくて、まだ引き出すことができない超才幹も多くある。

 貴方の廓大感覚(リフレックス)が、その一つ。

 考えてみて?

 貴方が持つのは、世界中の様々な国が、どんな方法を使ってでも得たい“(もの)”よ。

 けど、身寄りのない貴方には、自分を守る(すべ)なんてない。

 いつ、どこで、貴方が日常から消えても、誰も気が付かない。

 貴方は人知れず、人類の叡智(えいち)という、知的好奇心の化け物に殺されるのよ」


 その表現は(なか)ば脅しだ。ただ、事実でもある。樟葉には、人知れず死ねない、理由もあった。


「…アンタ()の仕事内容って、何だよ」


 不知火が樟葉の頭を撫でる。その笑顔は、目の動きを除いて、今日一番に輝く。

 コーヒーを置き、手元にあった紙の束を見せた。


「ベルタ波は、普通に検出することができないの。だから保持者を見分けるのは、新生児検査の結果だけが頼り。そしてこれが、その新生児検査のリスト。

 危機管理委員会の仕事は、このリストの保守点検よ。これには国内全員の保持者が載っていて、私達はその一人一人を管理する。

 とは言っても、ただの治安維持業務だから、そんなに気負(きお)いすることもないわ」


 不知火は、リストのページを(めく)りながら、うっとりとした表情を浮かべた。


「過去40年を遡っても、貴方と同じ超才幹保持者はいないわ。

 危機を未然に察知できて、貴方自身にも戦闘のセンスがある。これ以上、兵士に適した人材は考えられない。

 それにね、保持者はみんな、“見えない何か”で繋がってるの。

 貴方の廓大感覚(リフレックス)は、ベルタ波を使って、その“高次意識”に干渉することもできる。過去の実験では、被験者全員の意識を繋いで同じ夢を見せた、なんて記録も残ってるのよ。

 保持者を探知できるばかりか、その意識に干渉までしちゃうなんて! 貴方、この仕事こそ天職だって思わない?」


 興奮した様子の不知火は、目を爛々(らんらん)と輝かせて両手を広げる。その一方で、樟葉は沈黙して聞くに徹するも、小声で何かを呟いたことに、不知火は気が付いた。


「え? なに?」


「ページ当たり、約60行、ページ数は28。

 超才幹の発現率は0.002%とかだったよな? 日本の人口が1億いんだから、2千人はいるはずだろ。

 だとしたら、そのリストは30ページ超えてなきゃおかしい。

 発現率の情報元は公開されてる。間違いがあるとすりゃ、リスト(そっち)だ。

 アンタ、そのリストから何人“消した”?」


 指摘され、不知火はリストを裏返しにして、机に置いた。それからぎこちなく、小さく拍手した。


「えぇ、そうね、お見事。洞察力も鋭いなんて、余計に手放せないわね。

 確かに、貴方の言う通り、このリストからは何百人もの名前が消された。

 けどそれにはちゃんと理由があるわ。あの暴走保持者のように逸脱した人間は、委員会の手元を離れて研究所に送られるの。そして研究所がリストの更新版を発行して、委員会に寄越す。

 社会から外れた人間は、もう管理する必要がないから、当然よね?」


「研究所…?」


「えぇ。あんな保持者(ばけもの)が、ただの(おり)に収まるはずないでしょう?」


「そこじゃねーよ。研究所がリスト更新って、おかしな話だろ。

 新しく生まれた人間が保持者かどうかを判断すんのはアンタ()、委員会じゃねーか。

 リストの更新だってアンタ()がやんのが普通だろ」


「………いい? 危機管理委員会の仕事は、リストの保守と点検だけ。

 そして貴方は、私からの命令には疑問も持たず、ただ従えばいいの。

 貴方にはまず、同級生の(すめらぎ)さんを監視してもらうわ。簡単でしょう?」


「あれだけの人数がいて、一人? しかも蓮だけを? クラスの連中じゃなくてかよ」


 樟葉に悪寒が走る――――廓大感覚(リフレックス)の囁きだ。直後、強烈なソバットが腹部に直撃、縛り付けられた椅子ごと吹っ飛ばされる。激しい音を立てて壁に叩きつけられた樟葉は、誘発された強烈な吐き気により、呼吸もままならなくなった。


「いちいちうるせぇんだよクソガキが! 黙って指示を聞けばいいっつってんだろ!

 それが! これから上司になる相手に取る態度か?! あぁ?! (ちげ)ぇよな?! だから社会を知らないガキは嫌いなんだよ!!」


 踏みつけられる頭――特殊部隊仕様のソールが容赦なく顔を歪ませる。耐熱容器に入れられ、(いま)だその高温を保ったままのコーヒーを、首筋に浴びせるが、樟葉は、熱がる様子を見せなかった。


「そうね、教えてあげる。貴方のお友達はね、この大事な大事なリストに“最初から載ってない“の。

 これがどういうことか、ケツの青いガキの貴方には分からないでしょうけど、この世界を管理する立場からすれば大問題なの。

 その重大な、まさに名誉ある任務に、貴方を就かせてあげると言ってる。貴方の実力を見込んで、貴方の(とぼ)しく(みじ)めで、()き溜めみたいな人生を(あわ)れんでね!

 そもそも。この私が拷問も調教もなしに貴方みたいな野良犬と対等にお話させてあげてるだけでも十分にありがたいことなのよ? 分かるかしら? ん?」


「…アタシは、ケンカ売られりゃあ、女の顔だって平気で殴るクズだけどよ、友達(ダチ)を売るほど落ちぶれてねぇ。名誉とか、こっちから願い下げだ、ヒステリックババア」


「――――はぁ。怖いわね、若気の至りって。何て勇敢なのかしら。

 えぇ、いいわ。今、自分が言った言葉の重みをじっくり理解させてあげる。時間はたっぷりあるもの」


 ぐりぐりと踏みにじる足はそのままに、不知火は無線機のスイッチを入れた。


「ペンチとハンマー、ノコギリ。念のため、制限解除装置(アウフヘーベン)も持ってきなさい」


 手短に指示し、無線機を切る。樟葉に向き直った顔の、その口の端は異様に吊り上がっていた。


「上司の命令も聞けない役立たずには、研究所に行ってもらうわ。

 でも輸送費ってね、重さが結構、()いてくるの。だから貴方に、相応しい“旅支度”を整えてあげる」


 吐き気を(もよお)す、邪悪で猟奇的な笑み。その醜悪な表情の中でさえ、不知火の目の筋肉は微動だにしていない。


「今から貴方の身体を、脳の機能を維持できる最低限のラインまで、()ぎ落としていくわ。

 まずは指の先から砕いて潰して、切りやすい状態に加工しましょう。自分の皮膚の下がどうなっているのか、よぉく観察できる最後のチャンスよ? よかったわね?」


「……アンタさ、目元の表情筋、全く動いてねーよな。神経死んでんのか? それ」


 ――樟葉の顔面を、不知火が思い切り、蹴りぬけた。そのあまりの衝撃に、余裕を見せていた樟葉も、流石に気を失ってしまった。


「早く道具持って来いっつってんだろ!!」


 無線機に怒鳴りつける不知火。しかし無線機からの応答はなく、細かなノイズが流れるのみ。不知火が、その怒りをもう一度ぶつけようとしたところで、部屋の扉が勢いよく(ひら)かれた。


 そこに現れたのは、鋼鉄の少女――――有栖川(ありすがわ) (ゆめ)だった。


「…おい、誰だ? このガキ。何で、ここにいる?」


 呆気に取られる不知火が、開いたままの回線に話しかけた。無線機からは、受信と発信が切り替わる(ノイズ)の後、誰かの声が聞こえた。


  ―「きみの部下は全員殺したよ。一人残らずね」


 咄嗟に、不知火は無線機を床へと叩きつけた。


「“ジャンパー”か!! クソッ!!」


 何度も、何度も無線機を踏み潰す不知火。一頻(ひとしき)り怒りをぶつけた後、じりじりと近づく有栖川に、向き直った。

 軽い猫背で両腕を構えたまま、有栖川が()()めた。


「そいつをこっちに渡すです。一般人を、無暗(むやみ)に傷つけたくありません」


 不知火が記憶を辿るが、眼前の少女は、あの“リスト”にはない。つまり、超才幹保持者ではないと、確信を得た。


(なぁに)をほざいてるのかしらぁ。私はここからでも貴方を殺すことができるけど、どうする?」


 不知火が部隊装備の(アーミー)ナイフを素早く4本引き抜いた。それを、挑発するように空中へ(ほう)ったかと思うと、ナイフは指定の軌道に乗って、彼女の周囲を不規則に公転し始める。

 だが有栖川は動じず。近くの椅子の背もたれに、そっと手を置いた。


「別に――――」


 瞬間、有栖川が大きく身体を(ひね)り、椅子が投げ出される。全体重分の遠心力が加えられ、飛来する椅子(それ)は存外に高速。不知火は成す(すべ)なくその直撃を食らって、体勢を崩した。


「――――其方(そちら)の限界領域は知ってるですので」


 不知火の超才幹――念動力(サイコキネシス)の一種――は、任意の物体に速度を与えることができるが、与えられる速度は、ある運動量を超えることはできない。

 運動量とは、質量と速度の積だ。つまり有栖川の投げた椅子は、不知火が操るには重過ぎた。


「ぐっ…クソ、ガキ…っ!」


 体勢を立て直し、鋼鉄少女を睨むが、少女は既に目の前。流れるように繰り出される鉄拳と足蹴(あしげ)を、部隊仕込みの武術(マーシャルアーツ)(さば)くも、反撃に転じることができない。


 不知火の超才幹で与えることのできる速度は、量と角度を持った“ベクトル”だ。

 だから円軌道のようにベクトルが連続的に変化する場合は、より集中する必要がある。それはつまり、高い集中力を要する近接戦(インファイト)においては、超才幹を発揮できないということを示す。


 不知火が距離を取る――が、同時か、それよりも早く少女が詰める。筋肉の動きで移動する不知火に対し、有栖川は片足を“抜く”ことで移動しているのだ。それは格闘家たる、有栖川の技の一つ――筋肉の瞬発力よりも、“自由落下”の方が早い。


 ナイフに気を取られることなく、目の前の敵のみに集中する有栖川が一歩上回ったか、鋼の一撃が不知火の鳩尾(みぞおち)に突き刺さった。ワン・インチほどのストロークにも関わらず、彼女は壁まで吹き飛ばされ、膝から崩れ落ちる。

 横隔膜の激しい痙攣(けいれん)に、軽い呼吸困難が伴う。と、同時に、宙を漂っていたはずのナイフ群は、糸が切れたように地面に落ちた。


「はぁっ、何なの、このガキ…っ!?」


 呼吸を整える、その隙に、有栖川がナイフを見えない位置にまで蹴飛ばした。不知火の超才幹は、自分の意識外にある物体を操作対象にできないためだ。


 『おかしい――』。不知火はそう、感じているはずだった。彼女の超才幹は世間に広く知られたものではないにも関わらず、目の前の“少女(ガキ)”は、その法則(ルール)を知り、対策している。それは、彼女や委員会が“ジャンパー”と呼ぶ少女すら、知らないはずの情報だった。


 そのウルフカットの少女(ジャンパー)が今、扉から姿を現した。


「注文はこれで良かったかな、オバさん」


 その手には、フルフェイスヘルメットのような器具。不知火と目が合うや否や、その淡い茶色の瞳の残像を僅かに残して、不知火の目の前に再び現れる。

 ――制限解除装置(ヘルメット)でその頬を殴りつけ、器具を捨てるように手放した。

 少女の表情は、いつもの、へらへらと締まりのない顔とは程遠い。


「…馬鹿がッ――、」


 ――――(ふところ)ストック(ナイフ)が、不知火のジャケットを突き破り、少女の首へと一直線に飛んで、(のど)に突き刺さった。

 しかし、その(さま)をはっきりと視たはずの不知火の意識は、突如として大きなノイズに飲み込まれる。


 少女の持つ、二つ目の超才幹――意識遡行の高次機能バックフローモジュールが働いたのだ。

 ナイフが首に刺さった瞬間から、少女の意識は“過去”へと逆流、映像が巻き戻されるようにして、ナイフが刺さる寸前にまで(さかのぼ)った。

 喉元に迫るナイフを少女が手に取ると、瞬時に持ち直し、不知火の手の甲に容赦(ようしゃ)なく突き刺した。


「がっ、あッぐ!!」


 この一連の逆流を知覚でき、しかも任意に操作できるのは、意識遡行(バックフロー)を持つ彼女だけだ。

 息も絶え絶えに、憎しみの目で睨む不知火。それを、ひたすらに冷たい目で見降ろす少女は、ふと、不知火の手の(きず)が修復されている様子に気付く。自身のナイフを不知火の肩に突き刺し、(えぐ)るようにナイフを傾けて引き抜いた。

 力の限りの悲鳴が上がった。しかしその(きず)も、受肉再生(アンパック)によって徐々に癒えていく。


「…自分に解除装置を使ったんだね。正気とは思えない」


「ガキ、共がぁ…! 殺してやる…! 全員、どこまででも追って殺してやる…っ!」


 向けられた強い憎しみに、目の色一つ変えず。少女はナイフに付いた血を拭って、(きびす)を返した。


「あの、悪い人と言えど、流石に(むご)いのでは…」


「大丈夫。こいつは頭を吹っ飛ばされでもしない限り死なないよ。行こう」


 少女が、とんっ、と跳ねたかと思うと、少女を含む三人は、その場から消え去った。

 荒れた部屋の中には、不知火の憎悪に満ちた叫び声が響く。しかし止める者も、手当てする者もいなかった。その施設にはもう、彼女以外の生きた人間はいないからだ。




 樟葉は、蓮のよく知る廃ビルの屋上で意識を取り戻した。暑さにうなされたのだろう、かけられた毛布の中で、有栖川が(くる)まるようにして抱き着いて寝ていたことを理解し、ゆっくりと上体を起こした。


「やー、間一髪だったね。ほっぺた、めちゃくちゃ()れてるけど、大丈夫(だいじょーぶ)?」


 樟葉の背後には、キャンプ用の椅子に腰かけるウルフカットの少女。街の明かりを見ていたようだが、その身体を向けて座り直した。その物音に気付いたのか、有栖川も目を覚ます。それからまた、樟葉を強く抱き締めた。


「ここは…? 何で、(ゆめ)がいんだよ…?」


「ここはきみ達の学校の近くの廃ビル。ぼくがその子を拾って、委員会のキチガイに捕まってたきみを助けたんだ」


「アタシを、助けた…?」


「心配したです! もう帰ってこないかと思ったでず! 樟葉は最強(サイキョ―)じゃなかったんでずか! ばか!! うぅ…」


 泣き出す有栖川。樟葉はその余りに強い抱擁に戸惑うが、次第に実感が沸いてきたようで、その栗色の髪の毛を撫でようとして、――――止めた。


「――何で余計なことした!」


「ぐすっ…、え…?」


「チャンスだった! “自分が何のために存在するか”の答えを得るチャンスだったんだ!」


「あ…、ぅ…なんで、そんな怒ってるですか…?」


 突然のことに動揺が隠せない有栖川。抱擁を振り払われ、力なく地に手を着いた。


(ゆめ)は知ってんだろ、アタシが生きる理由! アタシが“痛みを感じなくなって”から、初めてそれが実感できそうだったんだ! なのに、何やってくれてんだ…!」


 ビルの上を吹く夜風が、樟葉の首の火傷痕を撫でる。しかしその刺激は、痛覚として神経信号に入力されても、樟葉の脳がそれを受け取ることはない。


 樟葉は、ある時からずっと、痛覚を失っていた。それは今に始まった話ではない。蓮達と会うずっと前、ケンカに明け暮れていた頃からだった。

 人を人たらしめるものは痛みである、とする説がある。しかし樟葉は、痛みも感じず、迫り来る脅威に怯える必要のない身体、“何かに生かされているような”身体となった。だから彼女は、いつしか(せい)の実感を失っていた。当然の帰結として、“自分が何のために存在するか”を探すようになったのだ。


「アタシは、あのまま死んでも、良かったんだよ…!!」


 突き飛ばし、樟葉は背を向ける。目を見開いたままの有栖川は何も言えず、次第に、静かに涙を流しながら、ゆっくりと(うつむ)いた。


 風が()ぐ度に、大粒の涙が地面を叩く音が聞こえる。


「………なんで、そんなこと、言うですか。樟葉は(ゆめ)の、大切な家族です。なのに、なんで余計なことしたとか、あのまま死んでもとか、言うですか。そんなこと言われると、まるで(ゆめ)が、樟葉の邪魔だったとしか思えないです。

 (ゆめ)は、樟葉のことがだいすきなのに、樟葉はそうじゃなかったんだって思うと、とっても…、つらいです」


 樟葉は振り返らない。ただ、じっと遠くを見つめていた。


「…明日、荷物まとめて、実家に帰れ。アンタとの同居生活も終わりだ。…いいな」


 重たく沈んだ空気。それを読んで、ウルフカットの少女が「行こう」と有栖川に切り出す。(むせ)び泣き、嗚咽(おえつ)を漏らす彼女を連れ、消える。それからしばらくして、少女のみが、その場に戻ってきた。

 気まずい雰囲気の中、遠くを見つめ続ける樟葉を後目(しりめ)に、キャンプ用の椅子に腰かけた。


「…ぼくがどうこう言う話じゃないんだけどさ。せっかく助けに来てくれた子に対して、その言い方はないんじゃない?」


 長い沈黙。瞬きもせず、樟葉はまだ、遠くを見ていた。


「…あの施設、監視カメラが設置されてたよな。その映像、あそこに残ったままか?」


「まさか。サーバールームに火を放っておいたから、録画データごと“焼失”してるよ」


「じゃあ、ひとまず安心だな」


「何のこと?」


 樟葉が、(てのひら)で顔を覆う。


「――強い、予感があった。いつもの、はっきりした警告じゃない、漠然とした不安だ。

 それに、(アイツ)を巻き込む訳にはいかねぇ。(ゆめ)のことは、守りてぇんだ」


 (てのひら)は熱く、濡れていた。樟葉が瞬きをしなかったのは、その必要がなかったから、瞳には絶えず涙が沸いて出ていたからだ。


 委員会に痛手を負わせて助かったということは、逆襲されることは間違いない。

 だから彼女は嘘をついた。真実を混ぜて、それらしい嘘を作って、有栖川を引き離した。そうでもしなければ、彼女がどこまでも樟葉と共に歩むことを、知っていたから、樟葉はそうせざるを得なかった。


 人を人たらしめるものが痛みであるなら、このとき樟葉は、最も人間らしい人間だっただろう。その涙は紛れもなく、感じなくなったはずの痛みによるものだったからだ。


 涙を拭いて、嗚咽を殺す。しばらく押さえつけてから、樟葉は長く深い息を吐いた。


「…改めて聞くけどよ、アンタ、どうしてアタシを助けたんだ? 友達(ダチ)のいねぇ(ゆめ)の知り合いとも思えねぇし、何の接点もないアンタが、どうやってアタシにたどり着いたのか、検討もつかねぇ」


 少女が首を傾げる。少し考えた振りをして、半笑い気味に首を振る。


「きみを助けた理由は、正直ぼくにも分かんない。ぼくはただ、そう指示されて、やっただけだから」


「指示された? 誰にだよ?」


 少女は「さぁ?」と肩を(すく)めて見せた。


「そいつは、自分を『オクルス』って名乗ってる。

 ――――得体の知れない、ベルタ・アッヘンバッハの亡霊だよ」



  †


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