【- 狼火 -】
’”ばけもの”だと気づいたのだ。’
のところは、「作詞・作曲:ユリィ・カノン」さんの「だれかの心臓になれたなら」のリスペクトです。
(おすすめです→ https://www.youtube.com/watch?v=hZFBTnzKa54)
【2】- 狼火 -
「でね、書類に不備がないかお前もチェック頼む~って。私が委員長だからってこき使いすぎだよねぇ?
しかも『遅くなったから車で送ってやる』とか、下心あり過ぎじゃない? は~まじキツかったぁ…。
って、また卵焼き落としてる~。はい、あーん。あーんだよ、蓮。もっとおくちあけて~」
二日目の昼休み。半開きになった口に接近する卵焼きに反応を示さない蓮は、誰が見ても心ここに在らずと言った表情。『普通』にしたい一心で形だけ登校してきたは良いが、その心はまだ、あの廃ビルに取り残されていた。
根拠は、蓮の視線の先、窓の向こうにはある小さなビルにある。遠目からでは気付かなかったろうが、それは紛れもなく、前日の火事未遂跡地なのだ。その事実に気が付いてから、ずっとこの調子だった。
紅眼視障害は必ずペアで発症する。つまり蓮と、あのウルフカットの少女が、その“番“。
薄い素材ではあったが、突き立てられたナイフは確かに金属板を貫通していた――――あの一撃で死んでいたことも有り得たのだ。そう考えると、背筋が凍るのも無理はない。
恐怖の源泉はそれだけでない。発症には強い殺戮衝動が伴うため、あの少女は必ずまた蓮を狙いに来る。少女は「また会いに来る」と言ったのだから、今後同じ状況は起こり得る。
それに、忘れられない“発火”の感覚だ。使えないと信じていた超才幹がついにその片鱗を見せるとは、蓮にとって驚天動地だろう。時として、信じる心は信仰となり、神にさえなるのだから、その神が斃れるなど、決して有り得ない。と言うよりは、有り得てはいけないことなのだ。
それらを勘案すれば、蓮の心情を読むことは難しくない。きっと今頃は、昨日の出来事は何か"手違い"があったのだと自分に言い聞かせているに違いない。何せ彼女は、この特別学級の誰よりも『普通』であることを願っているのだから。
ふと、蓮は唇に柔らかさを感じる――卵焼きが押し付けられていたようで、不服そうな顔でそれを押しのけた。
「幼馴染の話だからって、適当に聞いてたでしょ。
だからね、今日来る転校生、ちょっと怖そうな人なんだって~。
先生に聞いたらね、別の高校の生徒を病院送りにしたほどの不良みたいでね。
なんか『制服狩り』とか言って、色んな学校の人ぼこぼこにしてたらしいよ~」
「何だそれ、マジの問題児じゃねーか。そういう奴は学校じゃなくて行くとこあるだろ、少年院とか。よく知らねーけど」
「言い過ぎ~! でもね、その人、蓮と似てるところもあるんだよ」
「似てるとこ?」
「その人、生まれてすぐ親に捨てられたから新生児検査してなかったんだって。
それで普通の高校に通ってたら、何だかケンカつよすぎ~ってなって、危機管理委員会の人の調査が入ったの。
それで調べてみたら、保持者だったんだって! ヤバくない?!」
蓮は箸を置き、頬杖をついて、ジト目で睨んだ。
「…どこが、あたしと似てんだよ」
「隠れ保持者だったってとこ!」
五月女が屈託のない笑みを向ける。彼女は、昨日の蓮の苦悩など知らない。と、言うよりは、このクラスでの蓮は“そういうキャラ”として陰で定着している。悪手だが、彼女なりのギャグだったのだろうと、蓮はため息で返事をした。
「つーか、何だよ『制服狩り』って。負かした相手の制服でもはぎ取んのか? あたしはそんな悪趣味じゃねー」
「なんかね、制服狩りって言っても、一部だけ取ってくらしいよ。ブレザーとかネクタイとか、リボンとか!」
その言葉に、蓮は思い当たる節があった。ここ周辺の女子高の制服と言えば、色鮮やかな見た目をどこかしらに取り入れているはずが、ウルフカットの少女が着るセーラー服は何の変哲もなく、そのリボンは特徴的な黒だった。
「…そいつ、今日登校してんだよな?」
「んと、お昼明けの次の時間から授業に出るって。…え、友達になりたくなっちゃった?」
「違―よ。ただ…、」
「?」
超才幹保持者の犯罪は、警察と危機管理委員会の両組織が担当する。つまり、例の少女をどちらかに突き出せれば、厳重な対応によって蓮自身が少女と相対することはなくなるだろう。
それは少女の通う高校を特定し、警察にその情報を渡せれば、この『普通じゃない』日常から脱却できるということを意味していた。
「…ちょっと、話するだけだ」
保持者は、全て国や委員会が管理しているのだから、人物の特定は容易だ。蓮は勝利を確信した様子で、五月女の箸に咥えられたままの卵焼きを奪い取って、頬張った。
おしゃべりも、ギャルも、凍り付いた。“ばけもの”だと気づいたのだ。午後の授業の最初は、転校生の紹介から始まったはずだったが、教室の雰囲気はお気楽ムードとは言えなかった。
目の前に立つ、金色に染められたボブカット。その髪を左耳までかきあげると、サイドの刈り上げとピアスが、せいぜい茶色止まりの生徒たちを威嚇する。このクラスのギャルだって、まだピアス穴が安定していないのだ。二つもセットされたピアスは、憧れを通り越して恐怖を与えていた。
「あー、だからほら、言ったろ? 身だしなみは自由だけど、初日は抑えた方がいいって…」
教師も苦笑いで取り繕うが、この場を和ませるのが教師の責任というものだ。その発言は、この惨状に対する稚拙な言い訳にしかなっていない。
その教師を一瞥し、転校生は黒板に名前を叩き始めた。
「水取 樟葉。よろしく」
教師の指示を待つことなく、空席へ。
あらかじめ設けられていた席はクラスの真ん中あたり。空いたスペースがようやく埋まったかに思えたが、周辺の生徒たちはこっそりと机の間隔を空け、何とか心の余裕を捻出しているように思えた。
「あ、いや、皆勘違いしていると思うけどな、水取は、こう見えても県の数学コンテストに出たこともある知能派なんだぞ!」
「…チッ」
樟葉の舌打ち。そのフォローは、タイミングも、『こう見えても』という言葉選びも、話を向けた相手も全て、最悪だった。
だが樟葉はそれ以上何も発さず、静かに教科書を眺める。その様子を見て、安堵する教師。転校生が来た際の定型文と儀式をさっさと終えた頃には、教室の温度感はだいぶ安定していた。
樟葉も、『そういう扱い』には慣れているようだった。教師からの問いはそつなく返すし、腫れ物を触るかの如き同級生の態度にも当たり障りない。怖いもの見たさか、話しかけてくる人間にはフラットな態度で受け答える。
その様子を、相変わらず頬杖を突きながら眺めていた蓮も、思うところがあったのだろう。放課後になると、蓮は五月女との「一緒に帰ろ」を断って、怖がることなく“不良”のその背中を追っていた。
足早に進むその足が向かうのは下駄箱ではなく、上階。不審に思う蓮だったが、気付かれぬようにその後ろを追跡する。すると、蓮が階段の踊り場に差し掛かったところで、扉が閉じる音がした。
――彼女が屋上に進入したのだ。そろりそろりと足音を消し、偶然を装って、扉を開けた。
「…?」
そこに樟葉の姿はなかった。ここは広い屋上ではないから、すべての柵を一望できる。だが見渡しても、いるはずの影はどこにも見当たらない。
「誰か探してんのか?」と、頭上から声がした。蓮の開けた扉の上で、あぐらをかいて座る樟葉が見降ろしていた。
「違っ、くは、ない、けど…」
「アタシに何か用でもあんのかよ」
樟葉が飛び降りる。目の前に立つとその身長差は歴然で、威圧的。まぁ、主な原因は蓮の身長が150ほどであることなのだが、相対的に威圧感があることに変わりはない。
鋭く、品定めするような視線。片足に重心を預けた立ち方。上着のポケットに突っ込まれた両手に力はこもっておらず。すなわち、蓮を獲物として見ているかのような、そんな空気があった。
一方の蓮と言えば、件の兎耳を無意識にいじっていて、その視線も斜め右下を見ることに忙しくしている。「う…」と小声を漏らして以降、閉ざされた口元は、十秒ほど経過してもまだ、その守りを維持していた。
「ふーん」
首を傾けて、息をつく。そしてポケットから出された左手は拳を握ることなく、蓮の頭を軽くぽんぽんと叩いて、戻っていった。
呆気に取られる蓮。彼女が顔を上げる頃には既に、樟葉は柵の方へと歩き出していた。
「アンタ、あの皇だろ。超才幹が使えないって、駄々こねてる問題児」
「っ、は?! 駄々とかそんなんじゃねぇし!」
思わず声を上げる。その返事に対し、少し浮かんだ樟葉の笑みは優しく、馬鹿にした風ではない様子だった。
「先公から聞いたよ、アンタのこと。アタシと同じ、変な奴なんだってな」
「あたしは、別に…」
「なぁ、教えてくれよ。アンタから見たウチの学級の連中のこと。
あいつら、世間では自分達こそ腫れ物扱いされてるってのに、このクソ狭い箱庭で「自分たちこそが普通」みてーな顔してやがる。
見た目とか中身とか、とにかく気に入らねーとこ見つけては仲間外れすんのに必死だ。本質は何も変わってねぇのに、くだらねー連中だよ。
こんなことだったら、底辺高校でケンカしてた方がまだマシだった」
そう言って、鉄柵に体重を預ける樟葉の横顔は憂いを帯びていて。そよそよと頬を撫でる風を心地良さそうに慈しむ。
蓮に投げられた言葉には敵意はなく。むしろ、今まで樟葉にあったはずの、他者との心の隔たりすら、取り払われていた。それは蓮を、一人の対等な人間として認識したからこそに、違いなかった。
蓮も、その柵に寄り掛かる。背中を預け、少し俯き、それからずるずると座り込んだ。
「…みんな憧れてんだよ、『普通』に。あたし達は、国語とか算数よりも先に法律を学ばされんだ。あれやるな、これやるな、この社会で正しく生きるためにはこうしろ、とかさ。
けど言うて、あたし達ただの女子高生だぜ? 超才幹法がどうこう、社会の秩序がどうこう、んなこと考えんのは大人の仕事なんだよ。
他の高校の奴らなんか、授業サボってタピオカ飲み漁ってんだぞ。…クラスのギャル共だって、まじめに毎日学校来てんだ。あいつ達もあいつ達なりに精一杯、『普通』ってやつを振る舞ってんだ。無意識に演じてんだよ」
樟葉が噴き出す。その笑顔は今日一番に柔らかい。
「ふっ、っくく…っ! アンタ、おもしれーな。
ま、アタシはアンタと違って、授業サボってタピオカ飲んだことあるけどな」
「何だよ、それ。…別にあたしも飲んだことくらい、ある」
「どーせコンビニのやつだろ? この近くで良い店知ってんだよ。どうせなら連れてってやろうか、オススメんとこ」
「別に、タピオカなんてどこだって…」
「はいはい、うるせーうるせー。
なぁ、めっちゃくちゃ甘いやつと、くっそもちもちのやつ、どっちがいい?」
蓮が目を合わせると、いつの間にか歯を見せて笑う樟葉と目が合った。
向けられた本音を享受するその心地よさは、恐らく蓮も感じていたであろう。友達と言えるのは五月女くらいで、蓮は交友関係の構築を無視してきた。それはこの特別学級を『普通じゃない』と辟易していたから――――クラスの全員が、『普通』を演じているからだ。
ところが、樟葉は違う。ただ自分の在りたいように在るだけで、こんなにも『普通らしい』。
その在り方に尊敬すら覚えてしまうようで、恥ずかしくなったのか、蓮は顔を背けた。
「………甘いやつ」
「いいねぇ! せっかくだし、友達いなそうだからアタシが奢ってやるよ!」
「余計なお世話だ…」
そう言いながらも、樟葉の撫でる手を追い払うことなく、恥ずかしそうに眉間に皺を寄せるだけでいた。
「つーかさ、良ければウチ来いよ。アンタ、高校生なのに一人暮らしなんだってな」
「や、急過ぎんだろ。なに、会っていきなり同居しろって?」
「ちげーよ、一人暮らしでメシ大変だろうから、ウチで食ってけって話。
ルームシェアしてんだけどよ、毎回、同居人が馬鹿みてーな量のメシ作るから、だいたい余るんだ」
「…よくわかんねーけど、作り過ぎなきゃいいんじゃねーの」
「同居人がさぁ、何つーか、ストイックなんだよ。
ちょっと前までテレビで出てた、有栖川って格闘家いるだろ? あれの娘。
余ったらそいつが食うんだけど、結局食費やべーんだ。
アンタがちょっと食費を折半してくれりゃ飽きるほどメシ食わしてやるからさ、頼むよ」
一見すると、妙な話だ。樟葉は様々な人間を病院送りにしてきた問題児のはずで、その彼女が、同居人と折り合いを付けられない問題があると言う。交渉上弱い立場にあるということだろうが、『拳で解決しそうな樟葉が弱い立場にある』ことこそが変に思える。
「アンタが好きなもん、作ってやっから!」
思わぬ頼み事で顎に手を添える蓮だったが、その頼みは好機と思えた。
樟葉にも『弱い立場』があり得るということは、交渉ができることと同義だからだ。
「…いいけど、二つ条件がある。一つは、あたしはお前のことを『樟葉』って呼ぶ。もう一つは、『制服』のことについて教えて欲しい」
『制服』という単語に、樟葉が眉間に少し皺を寄せた。
「『制服狩り』とか言うやつのことか? アタシは別に、勝手に因縁つけてきた奴ボコしてリボンとか排水溝に流したくらいで、集めてコレクションしてるとかはねーよ」
「排水溝に流すのも大概だろ…、じゃなくて。
この辺で、セーラー服に黒いリボンの生徒見なかったか? その学校の名前が知りたい」
樟葉は少し考えた素振りを見せてから、スマホを取り出す。どうやら写真フォルダの中を探しているようだが、かなり痛そうな写真群からは、それらしいものは見られない。
「ヤンキーはどんな学校にも必ずいるし、耳が早ぇ。色んな奴ボコしたし、ここら辺の学校はコンプリートしたつもりだったけど、セーラー服に黒いリボン着けた奴なんて見たことねーな。
てか、ここら辺に制服がセーラー服の学校なんてねーぞ」
「……まじか」
確かに、この県内でいかにもなセーラー服の高校は存在しない。昨今のトレンドを反映したのか、セーラー服をベースとした制服はあれど、それらは面影を残すのみ。
だとすれば、あのウルフカットの少女は、変装してから襲いに来たのだろうかと、思惑する。超才幹を持った犯罪者は通常よりも厳重に罰を受ける――そのことを鑑みれば、身元がすぐに割れる制服を着て犯行に及ぶとは、考えにくい。
あからさまに落胆する蓮だったが、諦めた様子ではなかった。続けて声をかける樟葉を差し置き、次の手段を思考し始めたその時。二人のスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。
画面には、“屋内退避指示”の表示。なおも鳴り続けるスマホと並んで、市内のスピーカーまでもが響き始めた。
〈〈 住民の皆様へ、お知らせします。
ただいま、超才幹危害警報が発令されました。
屋外にいる方は、速やかに室内へと退避し、お手持ちの携帯機器の電源を切らず、
指示があるまで待機して下さい。
また、万一ご自身のいる室内に侵入された場合は、
お手持ちの携帯機器から通報して下さい。
現在、当該人物は南5区を通過、西2区を進行中。西特区への進入が予想されます。
………繰り返します……… 〉〉
その警報は災害警報時のやけに長いサイレンではなく、防犯ブザーのように小刻みな振動を耳に残す、超才幹犯罪者発生の報せ。それが鳴ると、付近の住民や学校の生徒はもちろん、近くの屋内に避難することが義務付けられている。
耳を打つ耳障りな響きは、保持者達にとって強い不快感を呼び寄せるが、仕方のないことだ。銃社会でないこの国では、どこからでも火が出せるような人間を銃刀法違反だと取り締まることはできない。予防できない故の、当然の防衛措置と言える。
警報に促され、蓮が屋内への扉へと歩き出すが、一方の樟葉は動かない。ばかりか、柵に寄り掛かったまま、樟葉は超才幹犯罪者がいるとされた西2区の方角を見つめていた。
「おい! 早く避難するぞ! 西特区に向かってるって言ってたろ!」
呼び掛けに、樟葉は応えず。しかし短い沈黙の後、扉へと走り出した。二人で扉の中へ入ったが、樟葉はそれを追い越し、階下へ。その勢いに驚く蓮だったが、思いがけず、追いかけた。
「どうしたんだよ、おい! 外に出る気じゃねーよな?!」
「ついて来んな! 蓮、アンタは屋内にいろ!」
その言葉は不意に出されたもので、突然名前で呼ばれた蓮は呆気に取られて立ち止まってしまった。その間に下駄箱へ辿り着いた樟葉は、靴への履き替えを終えていた。
「いいか、アタシについて来んなよ? 絶対だかんな!」
言って、樟葉が校舎を飛び出した。脇目も振らずに走り向かう先は、西2区と西特区の境界付近。絶えず鳴り響く警報の中、樟葉のスマホは、対象の現在位置および推定ルートを細かく表示する。それは危機管理委員会から発信された情報――――付近の監視カメラ映像や一般人からの投稿、犯人の持つ携帯機器のGPS情報に、地形情報や犯罪心理を考慮して人工知能が算出した計算結果だ。本来は、確実な避難のために使われるツールである。
到着が予想されている公園で足を止める樟葉。辺りを見回すが、そこにはまだ犯人の姿はない。
どころか、その背後から、蓮が遅れて合流してきた。
「何やってんだバカ! 避難してろって言ったろ!!」
息も絶え絶えに、体力のない蓮は、呼吸を整えながら反論する。
「そうじゃねぇだろ、何でお前が良くて、はぁ、あたしが駄目なんだ。
心配だから追いかけてきたに、決まってんだろ、てか、馬鹿はそっち、だっつーの」
蓮も、この行動が『普通』じゃないことは分かっていた。しかし、自分よりも先に、軽々と名前で呼ばれたことが、その心に悔しさとなって響いたのかもしれない。
蓮が樟葉の手を取って、屋内へと引っ張る。が、退避が間に合うことはなく、二人は、突如鳴り響いた大きな物音に目を向けることとなった。
決して大柄でない男が、そこにはいた。近くの建物からだろうか、その男が着地した地面に敷かれた煉瓦は盛り上がり、砕けて飛散。着地に際し、相当な衝撃があったはずだが、異常なまでに発達したその筋骨の表面に走るのは傷ではなく、肥大して青く浮かび上がった血管だった。
身長は170ほどだが、はち切れんばかりの筋肉が稼ぐ表面積は圧倒的な威圧を放つ。その体躯には多くの酸素が必要なのだろうと、男の深く長い呼吸が物語る。
「…やっべ。警察より早く着いちまった」
男の片手には――――、四肢のもげた人間の肉体。ほとんど取れかかった頭は顎から上がなく、体型から、成人男性の身体だろうことだけが辛うじて推測できる。
二人に気付いた男が歩いてくると、すかさず、樟葉は蓮を背後に隠した。
「おまえら、保持者か? なぁ、違うよな? 委員会が寄越すには早すぎる!
僕を消しに来たんだろう! なぁ! どうして!」
「落ち着けよオッサン。アタシ達は何も知らないし、何も見てない。
アンタの逃走劇に首突っ込むつもりはなかったんだ」
「そんなこと言って、後ろから僕を襲うつもりだろう!
何も危害加えないつもりなら、何でもっとこっち来ないんだ!
ほら、その茂み! そこに何か隠してるんだ!」
「ほんとだって。ほら、アタシ達、何も持ってねーじゃんか」
「それが一番怪しいんだよぉお!!」
酷く動揺し、錯乱した様子の男が、涙と鼻水をぐしゃぐしゃに拭いた次の瞬間、二人を目掛け、片手に握っていた遺体を投げた。
その豪速はプロ野球選手の投擲力を優に超えるが、樟葉は、その脅威が飛来する前にこれを察知、蓮を突き飛ばし、自身も身を屈めて避けた。
続けて男が、足元の煉瓦を引き抜き、砕石にして、樟葉に投げる。通常の人間では有り得ない握力で砕かれた砕石は、一つでも当たればひとたまりもない。が、樟葉はその全てを、“予め分かっていた”かのように回避し、剰え、飛来するそれを空中で掴んで、投げ返した。
男は顔面に砕石を食らい、顔を押さえてうずくまる。
樟葉の超才幹は、廓大感覚。自己に降りかかる何らかの脅威や不利益を未然に察知し、人間では不可能な速度で反応することができる。その反応速度は筋肉の反射反応よりも早く、俗に言う『第六感』よりも確かだ。
「ぐぅう! くそ! くそ! くそぉお!!」
逆上する男は、傍にあった交通標識を乱暴に引き抜く。根本についてきたコンクリートを圧壊し、力の限り投げ飛ばした――――蓮に向けて。
すかさずそれを察知する樟葉――。
廓大感覚による高速思考は、身体を素早く動かせるものではない。故に樟葉の見る光景は、危険を察知する度にスローモーションとなる。
遅れた時の中で迫りくる脅威に、蓮はまだ反応できていない――――いや、目を瞑り、両手が身体を守るように突き出され始める――――無意識の反射反応だ。
樟葉が走り出す。蓮を庇うように、回転する標識の、回転軸に身体を投げるようにして、鉄の塊に自ら当たりに行った。
「樟葉っ!!」
辛うじてその軌道を変えた標識は、蓮のすぐ側で金属音を立てて転がった。一方の樟葉は、鉄の塊を受けた衝撃で体勢を崩したが、右の上腕に痣、腕に擦過傷を受けてもなお、その眼の強さは健在だった。
「おいデカマッチョ。もう暴れない方がいいぜ。この辺にしとけ」
男は制止を無視して、建物の塀を砕き始める。また投擲するつもりだろうが、再度、樟葉が制止をかけた。
「はぁ、やめとけって。時間切れだ」
次の瞬間、男の身体が硬直する――と言うよりは、不随意に動く筋肉が男の自由を失くしたと言う方が正しい。男の背中に着弾した電極、それを放った銃口が、建物の隙間から覗いていた。
続け様、テーザー銃による掃射。数十万ボルトの電気刺激が、男に熱と強い痛みを与える。堪らず、直立姿勢のまま地面へと倒れこむが、その制圧は、男が失神するまで続けられた。
だらりと脱力し、動けなくなった男を拘束する黒い部隊員。蓮はその姿を見て、廃ビルに連れ込まれた直後に視た“幻視”を思い浮かべるが、座り込む樟葉を見て、我に返った。
血を流す傷口をすぐにハンカチで押さえ、顔色を確認する。樟葉はその手を優しく退けて、ハンカチだけを借りて止血する。
「大丈夫か!? ごめん、あたしのせいで!」
「気にすんな、別に痛くねーし。それよりも、ヒヤヒヤしたわ。蓮こそ大丈夫か? 漏らしてねーか?」
「漏らす訳ねーだろ」と叩く手は弱めに、今度は樟葉の手を退け、蓮がハンカチを押さえた。
そこに近づく、一人の女性隊員。目出し帽を被る他の隊員と違い、その女性は保護具すら着けていない。
「危ないとこだったわねぇ、貴方達。携帯機器持ってなくて、耳の聞こえない人? 違うかしら?」
二人に向けられた女性の目付きは鋭い。――それは、「何故避難せずにこんなところをほっつき歩いてるのか」、という視線に他ならない。ぐうの音も出ない正論に、蓮は少し恨めしげな視線を樟葉に送った。
女性はジロジロと視線を送った後、蓮が怯えているような様子を察したのか、強張った目付きを解いて、張り付いたような笑顔を形作った。
「貴方達、特別学級の子よね?」
見逃されることを期待していた蓮は、深く肩を落とす。そんな訳はないと分かっていたが、この失態は『内申』に大きな影響を与えることを、認めたくなかったのだろう。
護送される車内、電話越しに教師から無事を祝われながら、二人は明日からの謹慎処分を通知されることとなった。
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