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第1話「母親からの虐待に耐え続ける市役所職員の女」

前作「リラの花が咲く頃」の最終話から1カ月経たずの新連載です。かなり遅筆なかぐらにすると早い新連載( ̄▽ ̄;)


今回も重たい話ではありますが、読者さまからのご要望にお応えして新作をあげさせていただきます。


では、どうぞ。

挿絵(By みてみん)






人生の苦しみについて聖書にはこう書かれている。


「苦しみに会ったことは私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119;71)



一度読んだだけでは少々バカバカしく思うだろう。苦しみに出会って幸せなわけがないからだ。


だが、なぜ苦しみに出会って“しあわせ”だったのか。


…それを、この小説を読んであなたも一緒に考えてみてほしい。




3月下旬。



雪国のとある県にある佑々うさぎ市役所。


この市役所で勤続1年目だが今月から新しい部署に配属されまだ少し不慣れな職員、道下綾夏みちしたあやか24歳がいた。



綾夏が新しく配属されたのは市民課だ。彼女が住んでいる県には区がないため区役所がない。そのためその市の手続き(つまり住民票など)は全て市役所が行い、他県の市役所よりも少し仕事が多いかもしれない。



市民課は手続きのほか市民からの電話応対が多い。そのため自分の合間に手続きと電話応対しなくてはならない。



「はい、もしもし、こちら佑々木市役所市民課でございます」



早速綾夏の元に電話が鳴った。黒髪セミロングの髪を左耳にかけ受話器を耳に当てる。



『あのなー、うちの23歳の孫が年金手帳失くしたって騒いどるんだけどぉ、どうしたらいいのかね』



「年金手帳の紛失の件でございますね?そうしますと年金手帳の再交付を申請する手続きが必要になってくるんですけれども、今お住まいの地域はどちらかお伺いしてもよろしいでしょうか?」



『えっとね、佑々木亀町だなぁ』



「佑々木亀町でございますと、市役所でお手続きされるか、もしくは郵送でお手続きされる方がよろしいかと思います」



『ちょっと待ってなー。たかし、たかし…』



電話口のおじいさんがお孫さんを呼んでいるようだ。23歳のお孫さんのために電話で問い合わせ手くるとはよっぽど甘い気がするが、祖父が亡くなっている綾夏には優しいおじいちゃんの存在に少し羨ましくも思える。



『え〜市役所まで行くのかったるいなぁ〜。市役所って駐車場あんの?それにさ17時15分までらしいじゃん?仕事のあとじゃ間に合わねーよ!もうちっと働けよな!』



(…全部丸聞こえなんですけど…傷つくなぁ…)



市民課に配属されるto市民の声が聞ける反面、慣れていないと心ない声によって心が押しつぶされてしまう。



『…あのぅお姉さん、悪いんだけどね孫が郵送でお願いしたいってことだからよぉ…ちゃっちゃっと送ってくれないかな?』



「かしこまりました。お送りしますのでご住所とお孫さんのお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」



こう言った役所に関連した質問ならば良いのだが、中にはこんな問い合わせもある。



「はい、佑々木市役所市民課でございます」



『あのね、よく畑にゴロゴロ転がってて、牧草をビニールに丸めて詰めたやつ、あれのことなんていうのかしら?』



は?とは思ったものの、そこもちゃんと答えて差し上げるのが市民課である。



「それは『牧草ロール』もしくは『ロール牧草』と言います。お役に立てましたでしょうか?」



『ありがとう!お姉さん物知りね!今ね、ドラマ見ててあれ何?ってなったのよ!また電話するわ!』



ーーガチャ!ツー…ツー…


問い合わせた女性は用件を全て言い終えるとすぐに切ってしまった。綾夏は静かに受話器を置く。



幸い、母方の親戚が酪農家で幼少期にいとこたちと牧草ロールの周りを駆け回って遊んでいたのが役に立ったが、他のとんでもないジャンルの質問があったらどうしたものかと綾夏は思った。



例えば…



『お姉さん、明日好きな女の子に告白したいなって思ってるんですけど、どうしたらいいと思います?…ハアハア』



とか、



『明日好きな人とデートするんですけど、初めてのデートの時ってどんな服着ていけばいいんですか?きゃはっ』



とかとか…



先輩からここの市民課には暇な市民によるとんでもない問い合わせやらくるから気をつけてと言われたばかりで、綾夏は予期不安と緊張でいっぱいになっていた。



特に中学から大学までミッションカトリックの女子校で育ってきた綾夏には恋愛の類いは疎く、避けたい話題なのだ。それに…



(…男の人に触れるな、近づくなってお母さんが…)



綾夏には厄介な母親がいるのだ。ひとり娘だから余計ナーバスになっているのかもしれないが、大人になってもおかしいんじゃないかと思うくらい交際について厳しすぎるくらい厳しいのだ。



(平成も終わるっていうのに、24歳処女はまずい気がするなぁ。クリスチャンだったのも学生の頃までの話、いいかげん恋の一つだってしてみたい…。

恋愛や真実の愛の形でさえ時代が進んで変わってきたはずだし…)



しかし、相手は“普通ではない”厄介な母親だ。許してくれるはずがない。



「道下さん」



八尾やおさん、お疲れ様です」



3年先輩の八尾が声をかけてきた。



「市民課には慣れた?」



「はい。まだ仕事は少し不慣れですけど」



「そう。まぁ、また年金課の時みたいにすぐに慣れるわよ。で、例の変な問い合わせとかあった?」



八尾はポニーテールの黒髪を揺らして綾夏の隣の自席に座る。



「先程畑に転がってるビニールに牧草詰めて丸めたやつは何かって問い合わせがありました」



「はぁ…またか〜」



八尾は頭を抱える仕草をする。



「多分それ、同じ人から同じ問い合わせがくるわよ?」



「え?それはどう言う…」



「多分私の推測だけど…ボケちゃってるのよね。今月でもう30回目…」



「月の半分で30回…」



「まぁ、また掛かって来たら優しく答えてあげてよ。

お昼まだでしょ?行ってらっしゃい」



八尾に優しく手を振られ綾夏はお弁当とコートを持って席を立った。



(ボケ…かぁ…)



近くの噴水公園のベンチに座り、母に持たされたおかず無し、野菜無しの栄養の偏ったのり弁の蓋をあける。



(お母さんもいずれはボケるんだよね。だとしたら私のことも…少しは忘れてくれるのかな)



のり弁を作ってもらって“忘れてほしい”とは何たることかと思われるだろうが、過干渉で“行き過ぎたしつけ”をする母には自分のことを忘れてほしかった。



(過干渉だけで済むならいいけど…いつも“痛い”よ…)



ベンチに限らず椅子に座ると決まって体のあちこちがいつも“痛い”。



「…アーメン」



いただきますの祈りを捧げるほんの一瞬でも“痛い”。だが、こんな“痛み”にはもう慣れた。



のり弁を食べ始める。しかし、母のいつも“味がない”。


(うっ…また醤油がない…)



弁当とは別に醤油がついているわけでもなく、ただ弁当に白米を詰めて海苔をのせただけだ。


味気のない素材だけののり弁だけでは栄養も偏り虚しくなるだけだ。社会人になってからはコンビニでサラダを買ってつけるようになっていた。



(サラダも高いから、毎日はつけられないなぁ…)



せめて食事が美味しかったら母の過干渉や“行き過ぎた躾”にも耐えられるのかなぁ…いや、食事じゃない、これは忍耐力の問題だ。



綾夏は聖書の言葉を思い出した。


「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、この上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じることをあなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところない、成長を遂げた、完全なものとなります。」(ヤコブ1;2〜4)



(試練や苦しみはチャンスなんだった。耐えなきゃ祝福はない…)



食べ終えた弁当箱とサラダのプラスチックゴミを片付けて立ち上がると、綾夏は大きく深呼吸をした。







3月から4月にかけて連日残業が続く。しかしそんな綾夏を悩ませるのは、仕事ではない。



「お疲れ様。今日も頑張ったわね」。明日もこの調子で頑張りましょうね道下さん」



「はい、頑張ります」



「年金課でも聞いたけど、あなた非常に優秀だったって本当のようね。改めてよろしくね」


「はい、よろしくお願いします!」



笑顔で退社し市役所を出る。しかし、その笑顔は一瞬にして消える。



「25分発の電車に乗らないと、お母さん発狂しちゃう…」



既にiPhoneには1万件にも及ぶ不在着信の通知が入っているのだ。仕事で疲れているのにこんなのが毎日ではやってられないというもの。24歳で過干渉されてちゃあ嫁ぐどころか、彼氏もできずに一生終えそうな気がして綾夏は青ざめた。



だが今は彼氏どころの話ではない。綾夏はバッグから運動靴を取り出してパンプスから履き替える。



「今15分…走って間に合うか微妙な線…」



綾夏は走り出した。153㎝の小柄な彼女だが、小学生の時はリレーの選手でアンカーだったため走りには自信がある。だが、大人になった彼女にはある一つの悩みが…。



(胸が…邪魔っ…!)



豊かに育った母親譲りのFカップの胸が走るには重いし、ゆさゆさと揺れるのである。おまけにすれ違う男性の目線が痛い…。



(見ないでぇ〜!!!!!)



母からの1万件にも及ぶ着信でプレッシャーがかかっている状態にも関わらず、更に恥ずかしさが加わる。もう綾夏は泣きそうだ。しかし泣くにも泣けない。



(駅まであともう少し…あっ、信号が!)



信号が赤に切り替わってしまった。駅まで

あとほんの数メートルなのだが、ここの信号は交通量も多く、一度切り替わってしまうと5分以上変わることない魔の信号機だ。電車の発車までちょうど5分ほど…。



(今渡らないともう間に合わないのに…)



目の前に車が通過していく中、一点気づいた。



(まずい…ここ足元凍ってるじゃない…)



たとえ青に変わっても、道路が凍っていては走るには危険だ。青に変わってもペンギン歩きせねばならず、どちらにせよ25分発の電車は諦めるしかなかったようだ。



(今日は黙って“罰”を受けるしかなさそう…)



また“痛み”がこの体に増えるのか…心の中で綾夏は落胆した。



25分発の電車を逃し、次は37分発だ。既に怒っている母に対してここで連絡を入れるのは意味がない気がするが、一言「遅れます」とだけメッセージを送る。



「はぁ…」



帰宅したらすぐに風呂に入って身体を温め、明日に備えて今日の反省などをノートにまとめてから寝たいところだ。が、母にはそんなのは通用しない。



37分発の電車を待つ間、ホーム内の売店で買ったおにぎりを食べながらメモしてきたことをおさらいする。ここで今おさらいするのは、母で時間を取られるため少しでも睡眠時間を確保したいからだ。


おにぎりを食べ終えた頃に電車がきた。ここから家の最寄り駅までは3駅。それまでにおさらいと今日の反省を終わらせる。


ノートに書き終え最寄り駅で降りる。ここからが地獄へのカウントダウンだ。地獄とは母の自宅のことだ。凍っている場所をできるだけ避けながら走っていく。


自宅に辿りつく。道下家は今から5年前に両親が離婚し、その時父が残していった一軒家で暮らしている。アイビーが伝うアイアン調の両門扉を開けて玄関扉に手を伸ばすと、母が扉を開け顔を出した。



「…お帰り」



冷ややかな出迎えと共に母は綾夏の髪をがっつり掴むと、勢いよく中に引き入れた。リビングのソファー横まで綾夏を連れてくる。



「お弁当、出しな」



髪を掴まれたままバッグからお弁当箱を取り出す。



「ごちそうさまでした…」



綾夏から奪い取るように受け取ると、キッチンのシンクの中に放り込む。その手でそばに置いている竹刀を手にし大きく振り上げた。その姿は金棒を振り上げる地獄の鬼そのものだ。



(ああ…来る…)



綾夏は打たれる覚悟を決めた。振り上げた竹刀は綾夏の右肩に当たる。



「ゔっ…!」



痛みが電流の如く右肩から全身に伝わる。そして痛みが消える前に次々と新たな痛みが綾夏に押し寄せ、肌に内出血と切り傷を作っていく。



「いっ…ゔっ…! 」



いつものこと…これが日常…。中学受験を控えた小学生の頃から優しかったはずの母は冷たく当たるようになり、両親が離婚し完全に母と2人きりになった5年前からはこの様な体罰が行われるようになった。


綾夏は耐えようとする。なぜならば、神様はどこかで見ていてくださり、耐えていればいつかは手を差し伸べてくださると信じているから…。



(…今は鬼婆でも、本当は優しいお母さんなんだから仕事頑張って親孝行すればいつかは…)



昔はお弁当もタコさんウインナーやら手作りハンバーグ、うさぎりんごやら詰めた凝った弁当を作り、週末にうさぎ型のクッキーを焼いてくれるような自慢の母だった。思い出せば泣きそうになるが、綾夏は絶対母の前では泣かない。



折檻とも呼べる“罰”は1時間ほど行われ、今日も綾夏はなんとか生き延びた。



風呂に入るため脱衣所で全裸になる。


鏡の前に立つ24歳の女は、全身打撲だらけだ。こんな裸じゃ、彼氏が運良くできたとしても見せることができない。



「…仕方ない、か…ははっ…」



シャワーの水を出し、母に気づかれぬよう静かにすすり泣く。本当はこんな生活は嫌だと思っている。それでも耐えるしかないのだ。



眩しい奇跡を信じながら…。







ーー数日後。



「お姉ちゃん、この前じいちゃんがここに電話かけたらこの紙届いたんだけどぉ、書き方わかんなくてさぁ〜。会社も早く手帳出せってうるせぇしどうにかしてぇ?」



先日問い合わせてきたおじいさんの23歳のお孫さんが、年金手帳の再交付申請用紙を持って綾夏の元へやってきた。



「ひとつひとつご説明しながらやっていきますね。まず、この紙に書いている年金番号を私が鉛筆で丸印をつけたところにそのまま写していきましょうか」



綾夏とあまり年齢差のない23歳の男は金髪のモヒカンスタイルな上、ピアス穴が10個は開いていた。完全なヤンキースタイルで人は見た目ではないと思いながらも、この手が苦手な綾夏は内心引いていた。



「ここに住所とお名前をお願いします」



ヤンキースタイルの男はなんとか読める汚い字で書くと綾夏に渡した。



「これでお手続きは完了です。あとはお手帳がご自宅に届くまではしばらくお待ちくださいませ。お疲れ様でした」



頭を下げ一礼するも男は席を立とうとせず、ぽかんと綾夏を見つめている。



「お客様…?」



真面目な綾夏はどこか具合が悪いのかと男を呼び続けるが、微動だにしない。しばらくすると男は口を開いた。



「お姉ちゃん頭いいしかわいい…」



「え…?」



「俺好み!俺と付き合って!」



「え…あ、あのう…」



「俺バカだけど、そこそこいいやつだしアレの持久力抜群だから!これマだよ、マ」



「はぁ…?!」



予測不能な事態に対応に困っていると、八尾が飛んできた。



「大変申し訳ございませんが、職員に対するこのような行為は他のお客様のご迷惑にもなりますし。何よりこの子が一番困りますからどうかお引き取りください!」



八尾が対応してくれたため、その場はなんとか解決し切り抜けた。



「八尾さん…すいません、お陰で助かりました。申し訳ないです」



「大丈夫?嫌よね、あんなセクハラヤンキーに迫られちゃってもさ!」



(確かにセクハラヤンキーだけど…)



一瞬言い過ぎな気がしたが、間違ってもいないし先輩の言ったことに口出しはできない。



「だ、大丈夫です…」



「ねぇ、道下さんってさ」



「はい?」



「ちょっとこっち」



職員や客人に見られない隅に2人は移動する。



「もしかして…男性経験、なかったりするの…?」



(ば、バレた…)




同性の先輩にバレてしまった。これまで悟られないようにしていたが、同性だから余計目についただろうか。



緊張した面持ちで綾夏は答える。



「…はい、そうです」



ミッション系に通っていた学生時代だったとはいえ、この進んだ時代に24歳で未経験はすごく恥ずかしい。


八尾はこの後何と返すのだろうか。怖くて少し身構える。



「そっか…」



八尾は綾夏より7つ上の既婚者だ。当然経験済みで男性のこともよく知って…。



「大丈夫よ」



「え…?」



予想外の展開だ。



「耳貸して」



八尾は綾夏に耳打ちする。



「実は私…道下さんと同じで結婚するまでずっと未経験だったんだ。つまり今の旦那が初めての相手。出会った時既に20代後半!」



「…それって」



八尾は低い声で言い放つ。



「マジよ」



部署のデスクが一斉に振り返った。



恥ずかしくなったのか八尾は顔を真っ赤にし、再び小声になる。



「26の時だったなぁ…出会う時ちゃんと出会うべくして出会うから!変な人にだけは気をつけなさい。さっきみたいなバカなヤンキーとか」



(八尾さんさっきからなんか言い過ぎな気が…)



さっきのヤンキーはバカ、なのだが、ここは市役所だ。



「まぁ、ああいうのが来た時の対処法としては、はっきり、きっぱり断ることよ?プライベートでもね」



「はい、わかりました」



ーープルルルル!



「はい、もしもしこちら佑々木市役所市民課です」



端の席の座る白髪頭の部長が電話に出た。



「道下さーん」



いつもは静かに黙々と仕事している部長が、大声を張り上げ綾夏を呼んだ。



「はい!」



「病院から電話あってね、お母さんが倒れたって」



「…母が」



「命に別状はないそうだけど、今すぐ病院行ってあげたらいいんじゃないかな」



「そうよ、部長の言う通りだわ。あとのことは気にしなくていいから、今日は早く行ってあげて?」



早退し、綾夏はすぐに市役所近くの総合病院に向かった。



普段から健康を顧みず、1日タバコ一箱吸い、睡眠時間を削ってまで自宅で翻訳の仕事をする母のこと、とうとう身体を壊したのかもしれない。



「お母さんっ!」



病院に着き、受付で案内された通りの病室にきた。母はベットで眠っている。



道下千鶴子みちしたちづこさんのご家族の方でいらっしゃいますか?」



「はい、娘です」



「只今お母様は麻酔で眠られていますので、こちらで医師からお話をーー」



看護師に案内され診察室に通される。



「ーー虫垂炎、ですか?」



「ええ、先程緊急開腹手術をして虫垂を取り除きましたので、3、4日入院していただくことで次第にお母様はの容態は回復すると思われます」



「…そう、ですか」



医師からの説明を聞き終え、病室に行くと、眠っている母の側に綾夏が大学1年の時に母と別れた父が座っていた。



「久しぶりだな、元気か?」



「…お父さん」



「しばらく連絡よこさなかったな、仕事忙しいノカ?」



「うん、まぁね」



「春だもんな、この時期市役所は忙しいよな」



綾夏は父に対してあまりいい感情を持てないでいた。自分にも非があるのかもしれないが、あんなに優しかった母が冷たくなり体罰をするようになった背景と離婚の原因に父が関係しているのではないかと大人になって思い始めたからだ。



「…もしかして、お父さんも呼ばれて?」



「母さんが緊急連絡先にしてたらしくてな。別れた旦那の番号にするなんて…」



「私じゃ、ないのね」



「まぁ、気にするな。父さんは罪滅ぼしだと思ってるからな」



(罪滅ぼし…)



父はよく母の話題になると「罪滅ぼし」と言う言葉を口にし、それがなんとなく気になる。



「昼は食べたのか?」



「…まだ」



「一緒に食べるか?」



「いいよ…バレると厄介だし、お父さんにも悪いから」



「母さんはのり弁食べないと怒るからな…あの味気のないのり弁。綾夏が幼稚園の頃までは美味いもん作ってくれたんだが…」



父曰く、母との夫婦喧嘩の一番の問題にもなっていたのは、やはり味気のないのり弁や日頃の食事に関してだったという。しかし、ちゃんと作らなくなってしまった原因がなんなのかが未だにはっきりしない。



「綾夏」



「ん?」



「父さんのとこに来なくていいのか?母さんといたってちゃんとしたもん食べられんだろう。作らんくせに娘には台所立たせないんだろう?」



離婚時からずっと父は綾夏を心配していて、時々会ったり連絡を取るたび一緒に住まないかと話を持ちかける。



「それは…」



「もうお前も今年で25だ、もう親権とか関係なく自分の意思で行動できる。母さん一人になるからって無理して一緒に住まなくていいんだよ」




「そうだけど」




「自由なんてないんだろう?未だに休日は門限17時って…はぁ…」




「気にしなくていいよ、なんとかやってるから。麻子あさこさんとの生活楽しんでよ」



綾夏は笑顔を作ってみせるが、その笑顔は引きつっている。




「いいか。母さんはしつけと言うもんを間違えて認識してる。このままだと母さんが死ぬまで出られない。結婚なんて母さんは許すやつじゃないぞ。手遅れになる前に父さんたちと住むかまたは一人暮らしするか考えておきなさい」




父は病室を出て行った。



母の寝顔を見つめ唇を噛み締める。綾夏だって母との生活はもう限界を感じている。父と新妻夫婦との生活も考えたりもするが、実の父親が母以外の女性と仲睦まじくしているのを見ながら生活するのは正直言って気持ち悪いとさえ思ってしまう。


一人暮らしも自由でいいと思う。門限がなく誰にも干渉されない生活は綾夏にとって夢でもある。しかし、給料の半分は奨学金に当てていることもあり経済的不安もある中、母が毎日電話をかけてくる、または追ってくるという不安もあって難しい。



「…我慢するしか…」



弁当箱が入ったランチバックの持ち手を力強く握り締めた。







ーー4日後。




母の退院日がやってきた。


21時までに退庁しなくては…綾夏は慣れ始めた市民課での仕事に拍車をかける。




20時50分。



「お疲れ様でした、お先に失礼いたします!」



仕事速度を早めた甲斐あって21時前に退庁でき、今日は15分発の電車に乗った。



(今日は殴られることなく、ゆっくりお風呂に入れるかな…)



今日のメモを見ながらそんなことを思ったが、現実はそう甘くなかった。



「ただいま」



玄関の扉を開け、自宅に入る。しかし、どこを見回しても部屋の明かりは点いておらずやけに静かだ。玄関に母の靴があるので退院しているはずだが。



書斎に篭って早速仕事しているのかもしれないと音を立てずに階段を昇り、静かに自室に入る。


コートを脱いでバッグをベットに下ろすと、ノック無しで母が入ってきた。



「お帰り。お風呂沸いてるから入りなさい」



「…はい」



母はすぐに扉を閉めて出て行く。相変わらずその表情は無表情で、何を思っているのか読み取れなかった。



(お風呂沸かすってことは、今日はまだ機嫌いいのかなぁ…)



パジャマを持って一階に降り、脱衣所で服を脱ぐ。ボイラーの給湯スイッチを押して浴室に入るとシャワーでお湯を浴び始める。寒い外から帰ってきた身体にはとても心地よくしみる。



「…はぁ」



お湯の心地よさに浸っていると、背後にある浴室の扉が開いた。



ーーガラガラ…



「お母さん…きゃあっ!」



突然背後から濡れ髪を掴まれ、浴槽内に顔を押し付けられる。気づかなかったが、浴槽を張っていたのはお湯ではなく、水だった。顔が水に浸かった瞬間から皮膚を伝って凍てつくような冷たさと水の硬さが顔内部まで伝わり、刺すように痛い。



母は数分水に綾夏の顔を浸けては引き上げ、繰り返す。



「…ごほっ!ごほごほっ…ごぷっ!」



繰り返される度に水が気管に入ってしまって咳が止まらず、苦しくてしょうがない。


綾夏がぐったりしてくると母は水から引き上げ、床に放り投げた。


咳き込む綾夏の背に向かって母は言い放つ。



「いい加減死んじまえばいいのに!お前なんか…お前なんか産むんじゃなかったよ!」



一体何が起こっているのか薄れゆく意識の中では分からなかった。けれど、母の一言によって心はズタズタに傷つき、眼から涙が零れおちる感覚だけはわかった。



「働いても働いても、女の給料じゃあ生活するだけで大変なのに、旦那は裏切られ、娘は言うこと聞かなくてあたしはどうしたらいいのよ!なんで夕方までに帰ってこれないわけ?!」



綾夏の後ろで母が泣き崩れる。辛いのは分かるが、今の道下家の経済状況は母の給料と綾夏の給料から差し引いた8万円で成り立っているので離婚当初より安定している。そのお金が毎月出せるのはフルタイムで働いているからだ。


しかし、その労働時間にまで干渉され、暴力によって八つ当たりされては困ってしまう。



(…もうだめ…)



浴室内に響く母の泣き声を聞きながら、綾夏の瞼はゆっくり落ちていった。







翌日綾夏が浴室で目を覚ましたのは朝の6時半だった。



(…私、生きてた…)



強張る身体をゆっくり起こし、ふらつく中軽くシャワーを浴び出勤した。



世間は4月になり気温も上がって気分もそこそこ春めいてくるというのに、綾夏の心だけは真冬だ。



(これまで叩かれたり殴られたりしてきたけど…昨夜の水責めは今までなかった…)



中学受験の頃から過干渉などがあり、身体的虐待は両親の離婚後から行われるようになった。それでもこれまで死にかける程の行為は昨日が初めてだった。



(ここまでくると…私耐えられるかな…)



これまでどんなに辛かろうがずっと黙って母からの罰を受けてきた。それはかつて優しかった母なりに考えて自分を厳しく躾けようという深い愛情を持っての行為だと綾夏は信じてきたからだ。



しかし、それは大きな間違いだった。父と別れてから母の罰は身体的虐待へと変わっていき、ついに拷問である水責めも行うようになり暴言を吐いた。



『いい加減死んじまえばいいのに!お前なんか…お前なんか産むんじゃなかったよ!』



深く傷ついた。もう母にはあの頃の優しい母など存在しないのかもしれない。これ以上、共に生活していたら命も危ない。



(主よ…私は生きたいのです。愛を知らずに死んでいきたくありません…)



切実だ。愛を知らずにたった24年で生涯に幕を閉じることは、綾夏にとって後悔しかないからだ。父に言われた通り、手遅れになる前に同居の件について考えたほうがいい時が来たのかもしれない。



満員電車に揺られ、気がつけば最寄り駅だ。



「すいません、降ります…」



人と人との間を掻き分けいつも通り電車を降りようとした時だ。



「どいたどいた!早く行けよ!」



ーードスっ!



「ひゃあ!」



中年と思われる男に背後から押されて綾夏は勢いよく転んだ。



「いったぁ…」



転んだ衝撃で身体は地面に叩きつけられ、抱いていたバッグの中身が地面に飛び出してしまった。



「酷ずぎる…」



起き上がり、飛び出した中身を急いで拾う。

拾っていると正面から男性に声をかけられた。



「大丈夫ですか…?」



男性は細身の身体に灰色のスーツを身に纏い、紺色のネクタイを締めていた。紺色の眼鏡がスマートに映る。手には綾夏ハンカチを持ち、差し出していた。

挿絵(By みてみん)


「ありがとうございます…!」



「ランちゃん、お好きなんですか?」



綾夏のハンカチは「パンケーキ・ラビッツ」という一部の層に人気のゲームに登場する白うさぎのランちゃんが刺繍されている。パンケーキタワーを模したシルクハットを被り、濃茶色のタキシードを着ているのが特徴である。



「は…はい」



中高一貫の女子校育ちの綾夏は職場でしかほとんど男性と会話しないため、好きなものを聞かれ声が上ずってしまう。


ちなみにランちゃんは小学生の頃から好きだ。



「僕もなんです。マイナーゲームだから知ってる人いなくて」



男性の胸ポケットにはさり気なくランちゃんデザインされたボールペンが刺さっている。



「立てますか…?」



男性に手をさしのべられて綾夏は立ち上がる。大きくて温かな手に触れたのは生まれて初めてだ。



「あ…ありがとうございます」



「お怪我は?」



「大丈夫、です…」



見上げると男性と目が合い、思わずドキッとした。153㎝の綾夏に対して頭ひとつ分違う。173㎝はありそうだ。



「世の中心無い人がいたものですね。職場までの道中、気をつけてください」



「は、はい」



男性は「それじゃあ」と笑顔で一礼し、改札に通じる階段を駆け上がっていった。



「爽やかな人…」



綾夏はぼおーとその後ろ姿を眺め立ち尽くしていた。







































































































今回も最後までお読みいただきありがとうございます。

数少ない読者さまの存在はとてもありがたき存在…小説を書くちからになります。これからもよろしくお願いします(^ν^)

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