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切り札

作者: 青岳維鈴
掲載日:2018/08/01

0.

「いつでも切り札を持っておけよ」と死んだ父親がよく言っていた。父親がどんな切り札をもっていたのかは、ついぞ知ることがなかったけれど。


1.

「なんで怒ってたの?」

 少しの後、既読マークがついて、彼女から返信がきた。

「なんで? なんでってどういうことですか?」

「理由がわからないんだ」

「でしょうね」

「怒らせたんだね、ごめんね」

「理由がわからないのに、ごめんね、って言うんですね」

 そうだ、そのとおり。僕にはそんな癖がある。

「あのあと、どうやって帰ったの?」

「それを知ってどうするんですか? 『タクシーで』と答えたら、タクシー代を出してくれるとでも? 」

 それから僕が何度メッセージを打っても、彼女から返信が来ることはなかった。既読にすらならず、無視された状態のまま。

 僕はベッドに寝転んで、ため息をひとつついた。

 ついさっきまで二人で桜並木を散歩していた。そこは桜の名所として名高い場所で、満開になったら絶対行こうね、と話し合っていた場所だ。想像通り、堤川沿いに延々と続く桜並木はとても綺麗で圧巻だった。

「桜、きれいねえ」

 ターコイズブルーのロングスカートが、太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。

「そうだねえ。花びらも大きくて、ふっくら感があるねえ」

「ふっくら感? 初めて聞いたよ、そんなの」

 彼女は口を大きく開いて笑った。

「ピンク色の綿菓子みたいで、ふわっとした感じがしない?」

「綿菓子ねえ。そうかも、綿菓子っぽい」

「でしょ」

 風で彼女のスカートが揺れた。

「桜ってさ、散り際になると葉っぱが出てきて、途端に風情がなくならない? 色的に残念になるというか」

「色的? あー、それはわかるかも。桜の薄桃色と葉っぱの緑色って合わない色なんだろうね」

「そう思う」

「でも、たっくんが前に見せてくれた高校時代のバスケ部のユニフォームって、緑地にピンクのラインが入っていなかった?」

「いやいや、赤地に緑のラインだよ。クリスマスみたいな配色でさ」

 そのときは二人で笑っていたはずだ。手をつなぎながら、流れる時間を慈しみながら、一歩一歩地面を踏みしめながら、二人で笑っていたはずだ。彼女は髪を耳にかけ、―ちなみにこの仕草は僕の好きな女性の仕草だ―、優しい表情で、桜を眺めていた。

 川沿いを歩いているのは僕たちだけではなく、子ども連れの家族とか、僕らみたいなカップルとか、犬を散歩させている人とか、たくさんの人がいた。皆、幸せそうだった。太陽がきらめいて、桜が満開で、穏やかな風に包まれていたら、不幸せになんかなりっこない。

 と思った矢先、それは突然だった。

 そう、いつだって事件は突然やってくる。予兆できる人はいない。

 彼女がぱっと僕の手を離した。彼女の表情を見なくとも、彼女がどういう気持ちでいるかわかった。

 そう、前にもこんなことがあったから。

「たっくん、わたし帰るね」

 声のトーンが暗く冷たい。この場所にはまるでふさわしくない。

「え? どうしたの」

「人の気持なんてわからないんですもんね」

「いや、何か変なことしたのかな? それとも何か変なこと言っちゃった?」

「もういいですから」

 そう言って、彼女は僕をにらみつけた。そして、足早に立ち去った。僕に追いつかれまいと、こっけいなほどに早足だった。僕は彼女の気持ちを無意識にくんだのか、追いかけようとはしなかった。

 つきあい始めの頃を思い出した。彼女は同じように突然怒りだし、執拗に引き留めようとした僕を振り払った。彼女が怒ったら、もう手が付けられない、と悟った。

 それともうひとつ、ため息とともに思い出したのは、彼女は怒ると敬語を話すってことだった。


2.

「千里眼をもったマッサージ屋知ってる?」

「ごめん、ちょっと何を言っているのかわからない」

 週明けの月曜の昼下がり、僕は友だちの武と一緒に大学校内のカフェ「ユンゲ」にいた。大きなチョコレートパフェが有名なカフェで、武の目の前にはそのパフェがあった。彼はこのパフェが大好きで、毎週食べなきゃ気が済まない。

「西門から常盤商店街を抜けると、最後に床屋があるじゃんか?」

「ああ、清彦が行ってるとこでしょ?」

「ええ、そうなの? 清彦って美容院行っているかと思ってたわ」

「美容院も行ってるんだけど、床屋には髭剃りしてもらうために行ってるんだって。なんか、耳毛を剃られるのがたまらなく好きだって言ってたもん」

「キモチワル」

 武の表情は心底嫌がっているようだが、実は、僕も耳毛を剃られるのが好きだったりする。

「まあ、そんな話はどうでもいいの。俺の話に戻そう」

「おお」

「その床屋の向いにログハウスみたいな店あるの知らない? 店の周りにのぼりが立ってて、入り口にはのれんがあるからさ、一見ラーメン屋っぽく見えるんだよ。だけど、よくよく見ると、のれんには『大堀マッサージ店』ってあるんだ」

「へー、そうなんだ。で?」

 いまいち話に乗り切れない僕は、緑茶をゆっくりとすすった。頭の中の9割ぐらいは、土曜日に喧嘩してそれ以来距離を置いたままの彼女で占められていた。日曜日も、今日も、メールしたり、LINEをしたり、電話をしたけれど、まるっきり無視された。

「噂では、そこに何でもかんでもお見通しの千里眼を持つ先生がいるって話しでさ、そういうオカルトチックな話って俺好きじゃんか? だから先週行ってきたんだよ、そこに」

「へー。で?」

「で、ってなんだよ。もうちょっとさ、前のめり気味に興味はないのか?」

「いや、別に」

 窓側の席で、カップルがいちゃいちゃしていた。いいなあ、と素直に思う。その一方で、この人達も普通に喧嘩するんだろうなあということも考えていた。敬語で冷たく言われたり、無視されたり……。

「おい、拓也。お前俺の話に集中しろよ」

「聞いてるよ、ちゃんと」

「だからさ、もうちょっとさあ、続きを知りたいって態度で表してくれよ」

 こういうやりとりをしなきゃならないのが、武の面倒くさいところだ。

「わかったよ。知りたいから教えてよ」

 そう言って僕は顔を武に近づけた。武はにんまりと笑う。

「よし、教えてあげよう」

 武は水をごくりと飲んだ。

「店の雰囲気がさ、全体的にくすんでるんだよね。ゴミが所々に落ちているし、雑草は生え放題、窓は擦りガラスで中の様子がまるでわからないし、あんまり進んで入ろうとは思わない店なんだよ。客なんてここ数年来てないんじゃないかって思うぐらい」

「おまえよく特攻したね?そんなとこに」

 僕は心底そう思った。

「まあ、話のネタになればと思ってね。なんか面白いネタがあれば、写真撮ってTwitterに投稿できんじゃん。んで、バズるとフォロワーが増えて一躍有名人じゃん。だからさ、別に店に入るのは無問題だったんだよ。逆にさ、店主に脅されちゃった、とか、死体を見つけちゃった、とか、なんかあったほうがいいやって感覚だったんだよね」

 そんな話、僕には理解できない。

「で、行ったわけだ」

 武は、白玉を口に入れ、しばらく咀嚼したのち、ごくりと飲み込んだ。

「入り口のドアを開けたらさ、白衣着たおっさんが腕組みして椅子に座ってて待ち構えてるんだよ。ギロってにらまれてさ、思わず、『ヒャッ!』 って声出しちゃったよ」

「びびりだなあ」

 そんなんで実際に死体見つけちゃたらどうするんだろうか。

「誰だってそうなるって、あの状況じゃ」

 武は反論した。

「でもさ、その後がすごいんだ。おっさんが急に立ち上がって、俺を指さして叫んだんだ。『肝臓!』って」

「か、、、かんぞう?」

「そう、レバーの肝臓。俺の身体の悪いところを即座に見抜いたんだよ!」

 武の口の中に、チョコレートが運ばれていく。毎週のことで見飽きた光景だが、武がパフェを食べる姿は味があってなかなかいい。本当に美味しそうに食べるから。

 武とは大学に入学してすぐに仲良くなった。お互い地方から上京してきて、右も左もわからぬ田舎者だったから馬が合った、というのもあるが、大学の歓迎コンパで知り合い、そこで話すうちに、中学、高校とバスケ部だったこと、住んでいるアパートが近いこと、好きな女性芸能人が一緒なこと、好きな女性の仕草が一緒なこと、昔ハマったゲームが一緒なこと、などで一気に仲良くなった。そういえば、お互い合コンで彼女が出来た、という共通点もあった。違いと言えば、武は筋骨隆々で猪突猛進、僕は痩せ型で慎重派ってところだろうか。

「本当に肝臓が悪かったの?」

「ほら、大学でやった健康診断の結果が来ていただろ? 俺さあ、肝臓の数値がめっちゃひどかったんだよ」

「そんなに酒飲みだったっけ? そもそもやっと成人したばかりだよ、うちら」

「拓也は本当にお堅いねえ。酒なんて高校生の時から飲んでるよ普通」

 普通の基準は人それぞれである。

「別に酒だけじゃなくて、体質的なものだったり、食習慣だったり、生活スタイルだったり、ストレスだったり、いろんな要素が絡み合って肝臓は悪くなるんだって」 

 武が僕の食べている花林糖を一つつまんだ。「悪いね。彼女の癖がうつっちゃってさ」とか言いながら。

 ちなみに、花林糖と緑茶がここでの僕の定番メニューだ。花林糖は、近くの老舗の和菓子店から取り寄せているものだが、これがとても美味しい。黒砂糖ではなく、飴状に煮詰められた白砂糖でコーティングされたこの花林糖は、宝石のようにぴかぴか光っていて、目にしているだけで満足な気持ちになる。ほどよい固さの噛み心地のあとに、じわっと口の中で広がる甘みがなんとも言えない。

「であるならさ、肝臓って、程度の違いはあれ、みんなどっか悪いんじゃないの?」

 僕は冷静に突っ込みを入れた。

「まあ、そう思うよな。でもな、まだ続きがあるんだよ。『肝臓!』って叫んだ後に、その先生は続いて『1K』って叫んだんだよ。」

「わん……けい?」

「なんだと思う?」

「テレビの画質?」

「違う」

「ロンドンにある世界一接客の悪いレストラン?」

「なんだよ、そこ。逆に行ってみたいよ。おまえ、たまにちょこちょこ雑学っぽいのはさんでくるよね?」

「世界一というのは言い過ぎた。改善されたらしい、最近」

「そうか、いや、もういいんだよ、そのネタは。答えはな、俺の部屋の間取りだよ」

「部屋の間取り?」

「でも、それ以外考えられないじゃん。なんで俺の部屋の間取りがわかるのか聞いたらさ、『俺には千里眼がある』なんて言うんだよ」

「自分から言っちゃったの?」

「そうなんだよ。白状したんだよ。千里眼って本当のことだったんだよ!」

 武は大興奮である。

「本当ならびっくりだけどさ、大学生の部屋ってだいたい1Kなんじゃないのか? 僕もだし。さっきの肝臓といい、当たりそうな広範なことしゃべってるような気がするんだけど」

「いやいや、部屋の間取りまで当てるってあり得なくない? こっちはもうお手上げよ」

 武は心底感服していた。

「で?」

「で、って?」

「その後は、なんかあったの?」

「いや、その後は普通にマッサージ。肝臓に効くツボってやつをグリグリ押されて、すっきりして終わり」

「終わり?」

「そう、これがまた気持ちよくてさ。適度に痛くて効いてるぅって感じがするわけよ。おかげで次の日の目覚めがすっきりで」

「肝臓は? なんかいい感じ?」

「うん、なんかいい感じ」

「あ、そ」

「でだ」

 ただならぬ気配を察して、僕は花林糖に伸ばした手を止めた。

「そこ行ってきてよ」

「へ? 僕が? なんでまた。いいよ、そんなネタは聞くだけでお腹いっぱいだから」

「違うんだよ。冷静に考えてさ、千里眼持っている人から、俺の身体の悪い箇所と部屋の間取りだけ聞いて帰ってくるなんてもったいないじゃんか。もっとこう大きなテーマとか重要な課題とかさ、そんなことを聞けばよかったなあと」

 そう言われるとそんな感じがする。

「だからさ、拓也が行って、俺と俺の彼女の今後について聞いて欲しいんだよ」

 聞くテーマが小さい感じがするが。

「そんなことなら武が行けばいいじゃん。僕にはなんの関係もないわけだしさ」

「拓也だからなの! 俺だって、大堀マッサージ店から帰ってきて、いろいろ調べたんだよ。コールドリーディングとか占い師の手法とか」

「なんだよ、千里眼信じてるんじゃなかったのかよ」

「信じているよ。だけど、いちゃもんなんて後からいろいろ付けられるだろ。だから、後々疑われないように、まるで関係のない拓也が行くことでニュートラルな千里眼を期待できるってわけさ」

 僕はいつも通り、どうとでも取れそうな曖昧な返事をして話題をかわそうとしたが、武は財布から二千円取り出して僕のほうに置いた。二千円札かよ、しかも。

「先に払っとくから、なるべく早めに行って教えてくれ。頼む」

 そう言う武の真剣な顔を見て、僕はため息をつきながら渋々了承した。武は満足そうに頷くと、続けて彼女について語りだした。

 いわく、人生で初めての彼女なので大切にしたい、仕草がかわいいので写真を撮って毎日眺めたい、ほんとは毎日会えればいいんだけどなかなか会えない、急に怒り出すことがあるけれどそれも個性、怒ると長引く、なんて感じだ。止めなければ永遠に語っていただろう。

「あ、そうだ。こないだ桜を見に行ったんだけどさ」

 武が言った。桜、という言葉にどきりとした。

「そうなの? どこ?」

「堤川のところ。川沿いできれいじゃん」

 あそこか。僕は平静を装った。

「いつ行ったの?」

「土曜日だよ」

「え、そうなの?」

 同じ日でドキリとする。

「そう、2時頃だったかな。太陽さんさんで気持ちよかったなあ」

「一人で行ったの?」

「そう。バイト前に寄ってみたんだよ。満開の桜の下を散歩していたら、思いの外気分が良くなっちゃって。気づいたらバイトに遅れそうになっちゃって」

 武はそう言って、僕の花林糖をもう一つ、つまんだ。


3.

「フルーツパンケーキとアップルシナモンパンケーキをください。飲み物はブラックコーヒーとカフェオレを」

 僕は駅前に新しく出来たというカフェに彼女といた。ハワイで有名なパンケーキ店が出店したとかで、入店するまで1時間ほど待たされるほどの大盛況ぶりだった。みんなおいしそうにパンケーキを頬張っている。生クリームがたっぷりのっていて、見るからに美味そうである。

 そうそう、彼女とは仲直りをしたのだ。と言っても、いまだに自分の何が彼女を怒らせたのかわからない。だから、仲直り、という表現はおかしい。けれど、僕はまあそういうことはどうでもよくて、ある日突然彼女からLINEが来て、こうして彼女と仲良くデートが出来て、という事実だけで幸せなのである。

「パンケーキとホットケーキって何が違うんだろうね」

 僕は彼女に尋ねた。

「材料が違うのかしら。生地が違うって聞いたことはあるけれど、でも、はっきりとは知らないわ」

 彼女はそう言って、髪を耳にかけた。何度も言うが、僕の好きな仕草だ。

 しばらくして店員がパンケーキを持ってきた。

「フルーツパンケーキとバターハニーパンケーキです」

「え?」

 僕の声は小さく漏れた。だから、誰の耳にも届かなかった。

「お飲み物は食後でよろしかったでしょうか?」

「あ……はい。いや、今持ってきてください」

「かしこまりました」

 店員が去って、彼女がためらいがちに口を開いた。

「たけちゃんさあ、店員さんオーダー間違ったよね? アップルシナモンケーキじゃなかったっけ、頼んだの」

「うん……そう」

 彼女から目をそらした僕。首の後ろをかくふりして、爪を皮膚に押しつけ、爪痕を残した。痛みが体中を駆け巡った。これは僕の儀式の一つ。

「じゃあ、オーダー違いますよって言えばいいじゃん。なんで言わないの」

「いや、なんかまあ、いいかなって。だって、また作り直したりとかさ、もしかしたら店員さん、ペナルティとかさ、なんかあったりしたら可哀想じゃん」

 店員が飲み物を持ってきた。彼女が僕に目で促す。

「あの……」

「はい?」

 店員は、まるでハワイでずーっと楽しく暮らしてきました、と言わんばかりに快活でビッグスマイルだった。

「いや、ありがとうございます」

 僕が言えるのはそこまでだった。店員は陽気な足取りで戻っていった。

「もう。なんかそういう弱気なところというかねえ」

 彼女は器用にパンケーキを切り始めた。

「嫌い?」

「いや、別に。がつがつ文句言うよりはいいと思うよ」

 彼女の口にパンケーキが入っていく。僕はほっとして、ナイフとフォークを手に取った。

「けれど、たまにはね」

「たまには?」

「強気にいってほしいなあ、というか……」

「というか?」

 聞く一方である。

「相手のことを考えすぎなところは治して欲しいなあ。それよりも自分のことを考えるべき、というか、自分の意見を持って欲しいというか」

「はあ」

「たっくん、アップルシナモン食べたかったんでしょ? なら、自分の食べたい意志を貫いて欲しい。いや、これってパンケーキを例にしているから、なんかせこい話みたいに聞こえるかも知れないけれど。これが大きな買い物だったり、就職だったり、人生の転機みたいなときだったら」

「そういう時は言うよ。はっきりと」

「そう? そうかしら。こういうときはこう、ああいうときはそう、ってなかなか難しいと思うのよ、わたし。一貫性って大事と思うのよね」

 一貫性。そう、大事なのは一貫性だ。ぶれてしまうとろくなことがない。

「さ、食べましょう。たっくんのパンケーキちょっとちょうだいね」

 彼女は僕のパンケーキにフォークを突き刺した。


4.

 春の天気はめまぐるしい。満開だった桜の花は「花に風」の言葉があるとおり、強風により桜の木から身ぐるみ剝がされてしまった。そして「月に叢雲」という言葉があるとおり、最近は曇りがちで、すっきりとしない天気が続いていた。

 家に着いたのは、午前3時前だった。昨日は武のアパートで日本代表のサッカーの試合を見た。他にも二人友達が来ていたが、そいつらはみんな武の家に泊まっていった。

「泊まっていけばいいじゃん」

 と僕も武に誘われたが、そうはいかなかった。

 その夜、「俺の寝巻き」と言いながら、武は高校時代のバスケ部のユニフォームに着替えた。「なんか落ち着くんだよね」と言いながら。テカテカの安っぽい布地で笑えたが、笑えたのはそこまでだった。

「おまえのユニフォーム、変な色だなあ。ピンクなんて男子が使う色かよ、普通」

 ゼミで一緒の本田が笑った。緑地にピンクのラインのユニフォーム。

 直感は働かなくてもいいときに働く。点と点がつながり線となり、それが面となり、立体となり、僕が抱えきれないほどの大きさになった。首の後ろをかくふりして、爪を皮膚に押しつけ、爪痕を残した。そう、記憶を確実に海馬に残すための僕の儀式。

「ちょっと具合悪くなったから帰るわ」

 本当にそう見えただろう。

「じゃあ、余計泊まっていけよ。歩いて30分はかかるだろう?」

「いや、自分の枕で寝たいタイプなんだよ、僕は」

「そうだったっけ? まあいいや。気をつけて」

 眠いのか、面倒くさいのか、誰も僕を無理に引き留めはしなかった。僕は武の家から出て、丑三つ時の住宅街をとぼとぼ歩いて帰った。冷静に、ここ数日のことを思い返しながら……。


5.

「ねえ、お昼、何食べようか?」

 僕は彼女と街の中心部をぶらぶらしていた。梅雨入り前の、散歩にうってつけの朗らかな昼下がり。彼女の白いスカートがまぶしく見えた。

「えーと、ラーメン? 蕎麦もいいし、とんかつもいいなあ」

 僕はさっきからずーっと違うことを考えていて、とあるタイミングをうかがっていたから、お昼に何を食べようかなんて全く興味がなかった。

「まるで、なんでもいいって感じね。もうちょっと、今日はこれ食べたい!とか、こだわりを見せてほしいよね」

「じゃあ、逆に何食べたいのか教えて」

「えー、わたし? わたしはどれでもいい」

 どれでもいい、か。僕と同じじゃん。

「じゃあ、中華にしようか。担々麺がおいしい店あるからさ」

 どっちでもいい彼女は、僕の提案にこくりと頷いたが、急に立ち止まって言った。結構往来の激しい通りで急に止まるもんだから、何人かにぶつかってしまった。

「久しぶりのデートで、こうやってオシャレしてきてるんだから、担々麺はないわよねえ」

「え?」

「なんか雰囲気というか、ムードというか、そういうの読んで欲しいのよねえ。たっくん、そういうところ足りない」

 来たか。やっとタイミングが来たか。担々麺の何が悪いんだ。ちょっとむっとした顔をして、僕はさっさと前を歩いた。

「ねえ、どうしたの? 怒った?」

「ちょっと、ね」

 束の間の沈黙。

「それぐらいで怒んないでよ、もう、たっくんたら……」

「あのさ、こないださ……」

 さて、こっからが僕のターン、なはず。

「あのさ、こないださ、桜を見に行ったときさ」

「え? なんの話?」

「ちょっと歩きながら聞いてくれる?」

 パンケーキの時よりは強気だ。

「堤川に桜を見に行ったとき、君は急に怒りだして、僕から離れて帰ってしまった。あとでLINEで謝ったけど、取り合ってくれないほど怒ってた」

「そういうこともあったわね。でも、今はもう忘れたわ」

「前にもそういうことあったから、なんか気に障ることしたかなあと反省しつつ、また時が過ぎれば仲直りできるかな、と思った」

「で、そのとおりになったわ」

 彼女が急に腕を絡めてきた。

「そうだね。でも、はっきり言って君は怒ってなかった。なんにも」

「え?」

「怒ったふりをしていたんだ、君は」

「何を言ってるの?」

「あのとき、君はどうしても、僕から離れなければならなかった。ある人を見かけたからだ。そして、その人の前では、僕と一緒に手をつないで歩いてなんていられない」

「ちょっと……」

「だから、とっさに君は怒った。怒ったふりをして、僕から、そして、その場から離れることに成功した。あんなに早く歩くなんて、違和感があったんだ」

 彼女の腕がするっと抜けていった。

「君が見かけた人物とは、高校時代に緑地にピンクのラインが入ったユニフォームを着ていて、『たけちゃん』と呼ばれ、髪を耳にかける仕草が好きで、彼女がつまみ食いをよくするから俺もつまみ食いするようになった、って言ってる男だ。誰だかわかるよね」

 以前、武が見せてくれた武にとっての初めての彼女の写真は不鮮明だったが、ターコイズブルーのスカートを着た女性の後ろ姿が写っていた。

「写真は駄目、って言うからさ、隠し撮りだよ」

 なんて言う武の顔は、友人たちが心の中で思ったように、本当に付き合っているのかどうかわからないという不安がにじみ出ていた。武の隣に座っていた僕は僕で、別の不安が鎌首をもたげていたが。

 脳内で彼女の言葉がリフレインする。


”桜の薄桃色と葉っぱの緑は似合わない。そのとき彼女はこう言った。

「でも、たっくんが前に見せてくれた高校時代のバスケ部のユニフォームって、緑地にピンクのラインが入っていなかった?」”


”店員が去って、彼女がためらいがちに口を開いた。

「たけちゃんさあ、店員さんオーダー間違ったよね? アップルシナモンケーキじゃなかったっけ、頼んだの」”


「どこでその男と繋がりができたんだろう。何度考えてもわからないし、やっぱり今でもわからないけれど、こんなに続く偶然ってないよな、と思っている」

 彼女はさっきから黙ったままだ。僕の切り札が効いているようだ。彼女は図星なのか、口を真一文字に結び、困惑した表情で道路を見つめていた。さて、僕はここからどういう状況を望んでいるんだろうか。彼女の謝罪? そんなものを僕は聞きたいのだろうか? そもそも僕は彼女をどうしたいんだろうか。

「ねえ、何を言っているのかさっぱりわからないんだけど」

 彼女はキッと顔を上げて僕をにらみつけてきた。

「わからない? どうして? 何が? 」

「いや、だから、桜の話とか名前とか……。何を言っているのかさっぱりよ」

 今更わからないふりをしているのか。

「ねえ、それにどうしてそんなことを今言ったんですか?」

「どういう意味?」

 彼女の質問の意味がわからない。

「名前を間違えられたんですよね? ユニフォームも間違えられたんですよね? であれば、そのときに言えば済む話じゃないんですか? その時に言わないのって、何かあるんでしょうか?」

 完全に怒りモードの敬語体。

「あ、あり得ない間違えをされて、即座に言えなかったんだよ」

「ふーん、そうですか。パンケーキの時と同じですね。あなたは、『そのとき』に言わないんです。後から『あのパンケーキ間違えられたんだよなあ』とかさんざん悔やんで、ぐじぐじ小言を言ってしまうタイプです。あなたはそういう人間です」

 僕は反論しようとしたけれど、何も言葉が出てこなかった。

「それに、あなたは『そのとき』に言わないで、取っておいているんです。名前やユニフォームの話もそうです。あなたに負い目があったときに、私に反撃するためのネタとして取っておいたんです。今日も私に小言を言われて、私を懲らしめようとそのネタを披露したんです。そんな矮小な魂胆が見え見えです」

「な……なにがだよ」

 切り札が木っ端微塵に砕け散った。

「すいません。もうこれ以上あなたと一緒にいるのは無理です。人の気持ちなんてわからないんですもんね、あなたは」

「人の気持ちなんてわかるはずないだろ」

「だからこそ、わかろうとするのが人間です。いや、もう話をしたくありません。金輪際さようなら」

 早足で彼女が去って行く。どこかで見た光景だなあ、と僕は思う。そして、僕が悪かったんだろうか、と悩む。いやいや、彼女は浮気をしていて、僕はそれを問い詰めようとしたんだ。でも、まあ、なんというか、今になると浮気なんてどうでもよくなっていた。それよりも、彼女の指摘に納得してしまっている自分がいた。

 そうだよ、その通り。僕は、彼女がユニフォームを間違えようが、僕の名前を呼び間違えようが、「あえて」言わなかった。それは、いつしか「切り札」になると思ったから。

 でも、それは果たして「切り札」だったのか。「切り札」たり得ることだったのか。「切り札」を切ってみて最後に残ったのは、木っ端微塵に砕け散ったかっこ悪い僕だった。

 僕は途方に暮れ、しばらく本屋の前で立ちすくんだ。右から左から流れる人の波をぼーっと眺めながら。そして、今日のことは決して忘れないように、と僕は首の後ろに爪を立てた。


6.

 最後に後日談。

 自分ってこういう奴なんだ、と気づくのは、他人との交流が原点にあることが多いと最近思う。感情をぶつけ合ったり、比較してみて、自分のことがわかっていく。今回みたいな件なんて特にそうだ。その意味では、彼女にも武にも感謝している。

 自分を知ることが人生では大事なんだろう、と思う。でも、知るまでの過程が面倒になって、人と交わることがおっくうになり、手っ取り早く自分を知ることができないかと思う。だからこその占いだったり、千里眼だったりする。

 ということで、僕は今「大堀マッサージ店」へと向かっている。最近味わった感情の乱高下に整理を付けてくれるのは、「千里眼」しかないと思ったからだ。

 さあ、もっと自分がどういう人間なのかわからせてくれ。

 我ながら安易であるけれど、財布の中には二千円札もあるし、ね。

 目の前にうさんくさいログハウスのような建物が見えてきた。満を持して大堀マッサージ店に対峙する。

 そして、僕は思う。

 やっぱり世界はよく出来ている。タイミング、なのか、時の流れ、なのか、神様が僕の人生そのものをそうやって操っているのか知らないけれど、世界はよく出来ている。

 大堀マッサージ店の入り口には「閉店」の二文字が掲げられていた。

 千里眼の店が閉店か。

 さすがに今は笑い話にならないけれど、もうちょっと時間がたてば笑い話になるのだろう。

 僕は太陽が眩しく降り注ぐ商店街へ踵を返した。


 了

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