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第一話『日常』―7



 潤はまだ覚醒しきっていない身体を無理矢理起こし、テレビを点けた。顔を洗いながら、背中で音声を聞く。


 土曜日。現在の天気は良好だ。が、天気予報では午後から崩れると言っていた。


(冷えると厄介だな……)


 夜になるとコートが必要になるといった旨を伝えている“お天気お姉さん”を眺めながら、潤は長袖に腕を通した。日中の温度は二十五度を超えるらしい。

 昼夜で寒暖差が激しいのは、潤にとって歓迎すべきところではない。もっとも、寒暖差を歓迎する者の方が少ないだろうが。


 薄手のジャケットを羽織ると同時に、玄関のチャイムが鳴った。朝食を摂っていないこと思い出すが、そもそも冷蔵庫が空に等しかったことも同時に思い出した。そのまま、玄関へ向かう。


「おはようございます!」


 元気な、はきはきとした気持ちのいい声が響いた。近所迷惑も懸念されるほどの声量だったが、幸いこの階には現在、潤しか居ない。

 泰騎も同階だが、彼は今頃、何人居るかも分からないどこそこの“カノジョ”の所だろう。あとふた戸あるが、住人は年に数回しか帰ってこない。


 玄関を開けると、恵未が立っていた。

 スポーツ用品メーカーのTシャツにパーカー、ジーンズパンツというシンプルな服装だ。背には登山に行くのかというほど大きなリュックが背負われている。


 奥には倖魅が、頭ひとつ飛び出して立っていた。

 いつもの白マフラーに、カーディガン、手の甲まで隠れるロングTシャツに、チェック柄のパンツ姿だ。背中には、バイカラーのキャンバスリュック。

 この場に凌が居たなら「お前ら、服装逆だろ」と言っていただろう。


「潤ちゃんおはよー。起きれた?」

「起きれたから、今ここに居る」


 当たり前と言えば当たり前な返答をしつつ、潤は鍵を閉めた。


「今日は誰の車で行こうかー」


 エレベーターのボタンを押し、倖魅がふたりに向かって首を傾げた。


「私、お菓子食べたいから運転はしたくなーい」


 恵未が挙手して、きっぱり言い放つ。つまり、彼女は誰の車に乗ろうと菓子の食いカスを落としていくわけだ。だが、倖魅は胸を撫で下ろした。


「良かったぁー。恵未ちゃんの運転って、生きた心地がしなっぐえっ」


 倖魅が体を折り、綺麗に鳩尾(みぞおち)に決まった拳の余韻に喘ぐ。幸い、奇妙な音はしなかった。


「げほごほっ。じゃあ、ボクか潤ちゃんの、車、だね」

「俺が運転するから、お前は休んでろ」

「うう……ありがと、潤ちゃん、愛してる」


 よろめきながら、倖魅はエレベーターに乗り込んだ。


 地下にある駐車場へ着くと、黒塗りの“いかにも”な車――国産車だ――の助手席から、全身黒尽くめの人物が出てきた。こちらに気付いたその人物は、人当たりの良い笑みを向けて手を振っている。

 髪の毛からつま先まで黒いのだが、近寄り難い雰囲気はない。肌の色は、黄色人種のそれだ。


「わぁー。こんな所で会えるなんて、奇遇だね!」


 自宅のあるマンションの地下駐車場なので、奇遇もなにもないのだが。それほど、この人物はこの建物へ帰って来ることが少ない。


「社長ー。お帰りなさーい! あ、温泉まんじゅう美味しかったよー。ありがと―」


 痛みの落ち着いてきた倖魅が、ぎこちなく姿勢をただす。言葉遣いはいつも通りだが。


 恵未は両手を広げて、社長――(まさ)()へ駆け寄る。腕に纏わりついて回って見せた。


「社長、社長! これから、動物の保護施設へ行ってくるんですよー!」


 身長差約二十五センチメートルの男を見上げながら、恵未が瞳を輝かせる。雅弥は鬱陶しがる様子もなく、微笑を返した。


「そうなんだ。いってらっしゃい。気を付けてね」

「潤先輩の運転だから、大丈夫ですよ!」

「そっか」


 今まで無言だった潤へ、雅弥が視線を向ける。だが、雅弥は口を開かない。『何か言って欲しいな』。微笑みがそう言っている。潤はそう判断すると、口を開いた。


「珍しいですね。社長が何日もこちらへ留まるのは」

「うん。神奈川へ行ってたら、健康診断をするから帰って来いって言われちゃったー。ホント、急に予定入れてくるよね。でも最近、動脈硬化とか気になってたから丁度良かったかも」


 腕に恵未を纏ったまま、雅弥は眉を下げた。最近、笑うと目尻に皺が出てきた。だが実年齢よりはまだまだ若く見える。

 本人曰く「人と会うお仕事だから、お肌には気を付けてるんだよ」だそうだ。潤はぼんやりとそんな事を思い出しながら、軽くかぶりを振った。


「社長なら、問題ないと思いますよ。とても頼りになる方が、生活の監督をされてますから」


 言いながら、運転席から出てきた人物を見やった。その人物は、ツーブロックになっている茶色い髪をオールバックにしており、グレーのスーツを着ている。顔付きも体格も、雅弥よりがっしりとしている。雅弥と比べると老けて見えるが、年相応だ。


「因みに、お前が気を付けなければならないのは動脈硬化ではない。肝機能と糖尿と頭のネジだ」

(けん)()ぉー。僕、昨日はお酒我慢したよ! それから、頭のネジは今更修復不能だよ」


 『修復不能』で胸を張る雅弥を、無表情で見返す謙冴。長い付き合いだ。いちいちリアクションをしてもいられないのだろう。


「健康診断終わったら、まだちょっとこっちに居るからさ。潤、一緒に呑もうよー。朝まで!」

「はぁ……」

「潤、相手にしなくていいぞ」

「お酒飲めない謙冴は黙っててよー」


 四十歳ふたりの言い合いに挟まれ、潤は目線を左右させる。


「ねっ! また今晩電話するから! いってらっしゃーい」


 ずるずると。首根っこを掴まれ、雅弥は引き摺られながら去って行った。


「社長、相変わらず元気だねー」


 手を振りながら、倖魅が笑った。


「健康な証拠だろう」

「えへへ。潤先輩嬉しそうー」


 雅弥の腕に纏わりついていた時よりはやんわりと、恵未が潤の腕にくっついた。潤は口元を緩めて、息を吐く。


「あぁ。社長が元気なのは嬉しいことだな」

「潤先輩が嬉しそうだと、私も嬉しいです!」


 にこにこと笑顔を向け、恵未は潤の腕を引っ張る。


「行きましょ。先輩が眠くなったら、私が運転代わりますからね!」

「それだけは止めて! 潤ちゃんの車が大破しちゃうからっぶげうっ!」


 先程とは反対側の鳩尾に一撃を食らい、倖魅が再び膝をついた。これも日常茶飯事なので、潤は無言で倖魅に肩を貸す。


「うえー。潤ちゃんありがとー愛してる」


 これも、いつからかお決まりの文句となった。当の倖魅が何だか嬉しそうなので、これについてもいつからか指摘しなくなった。ただ、潤はいつも心中で呟いている。


(懲りないな……)


 恵未も加減を覚えたのか、最近では倖魅が骨折する回数も減ってきた。


 倖魅を後部座席へ押し込むと、潤は運転席へ乗り込んだ。隣りを見て――これもいつもの事なのだが――後ろへちらりと視線を送る。


「恵未、後ろに乗らなくて良いのか?」

「私は潤先輩の隣が良いです」

 きっぱりと言い告げられ、潤もそれ以上は口を噤んだ。何となく申し訳ない気持ちで後ろを確認すると、倖魅が脇腹を押さえて縮こまっていた。恵未はまったく気にしない。


「先輩がお腹すいたら、私がお菓子を食べさせてあげますからね! 遠慮なく言ってください!」

 ガッツポーズをして意気込みを見せる恵未に、潤が苦笑で答える。「また菓子か」という言葉を飲み込んで。

「ありがとう」

 その言葉に満足したのか、恵未はリュックの中をごそごそと探り始めた。


「じゃあ、最初はポテトチップスから!」

「いや、まだ出発していないから」


 潤はエンジンを起動させながら、思わず突っ込んだ。恵未はきょとんとしている。


「え。だって先輩、朝ごはん食べてないでしょ? 食べ物のにおいがしないですもん」


 恵未は至極当然に、言って返した。においで朝食を摂ったかどうかを判断するところも驚きだ。が、だからといって、朝飯にスナック菓子を食べさせようというのにも驚きだ。


「恵未。お前は今朝、何を食べて来たんだ?」

「えっと、お茶漬けとお味噌汁とモンブランです」


 最後のは、潤的に言えば「よく朝から食べれるな」といった感じだ。一応は普通の食事を摂っているようで安心する。しかし米以外は全てコンビニで買ってきたものだ。


 はたと、あることに気付く。恵未の腕の中にある大袋のポテトチップスを横目で見ながら。


「朝から塩分を摂りすぎじゃないか?」


 だから血圧が上がって怒りっぽいんだ。とは、付け加えなかった。


「だから恵未ちゃん、血圧上がるんだよー」


 潤が言い止めたことを、倖魅が軽々と言い放った。案の定、恵未の眼光が倖魅を振り返る。ただし、距離があるので拳は届かない。


「カルシウムを摂った方が良いよー。ポテチをやめて、小魚にすれば良いんじゃないかな」


 妥当な考えだと潤は胸中で頷いたが、恵未は油で揚げられたじゃがいもを自分の口へ運んでいる。腑に落ちない様子ではあるが、小さく頷いた。


「そうねぇ。カルシウムは大切よね」


 呟く。ポテチを食べる手は止まらない。綺麗な楕円形のポテチを取り出すと、潤へ差し出した。


「はい、先輩。あーん。先輩は、もうちょっと血圧を上げた方が良いと思うんです」

「……あ……あぁ。そう、だな……」


(……そうかな……)


 論点を挿げ替えられている事に心地悪さを感じながら、潤が曖昧に頷く。ポテチを噛みながら。うすしお味だった。


 倖魅は、なんとか回復したらしく、運転席と助手席の間に顔を覗かせる。


「恵未ちゃん、恵未ちゃん。潤ちゃんの事はいいから、自分の血圧のこと考えた方が良いよ」


 全くもってその通りだ。という意味を込めて、潤は頷いた。


 恵未はぽりぽり音を立てながらポテチを噛み砕いている。三枚一気に口へ運ばれていくのが、視界の端に映った。細かいカスが零れ落ちたが、いちいち気にしてもいられない。



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