番外『その後の一日』―中編
自室に帰ってきたは良いが、何をしようか。
買ってきた服やズボンに付いているタグを切りながら、考える。普段は誰かに呼ばれて買い物へ行ったり、誰かに呼ばれて訓練に付き合ったりしているから、いざひとりで過ごすとなると――。
「寝るくらいしかないな……」
呟いてみたが、当然、誰からの返事もない。
刀の手入れも帰りのトラックの中で済ませてあるし、掃除も必要なさそうだし……。
衣類の紙袋へ一緒に入れていた、ヘアカタログを取り出してみる。顔写真が沢山載っている表紙には“最新ヘアスタイル1000”と書かれていた。こうやって見てみると、千種類中に似た髪型がいくつもある。まぁ、流行の髪型を集めるとこうなるのは必然か。
壁を背凭れにして、ベッドの上へ座る。膝を曲げて、その上でカタログを適当に開いてみた。見開きページ上にある写真の殆どが、ゆるいパーマの掛かった無造作な髪型だ。
……俺の髪はパーマ液が馴染まないから、駄目だな。
パーマ液さえも異物と見做して排除する騰蛇の細胞ときたら、たまに煩わしくなるな。整髪剤は使えるから、ワックスで髪を立てるくらいなら出来る筈……。こうやってヘアカタログを見ていると、髪の色も変えてみたい気がするが……カラーリング剤も細胞に拒まれるんだろうから無理か。
溜め息をひとつ。
俺が良いと思う髪型が、俺に合うとも限らないし。こういう場合、第三者に決めて貰うのが一番かな。というか、今の髪型が似合っているとも思っていないし。
ページを捲っていると、整髪剤のランキングページがあった。色も形も様々なケースの写真が掲載されている。
普段使わないから知らなかったが、スタイリング剤ってこんなにあるのか。順位に表されても、用途によって必要なものは変わるし……これも決めて貰った方が早そうだな。
って、実際に言ったら、また『人の言いなりじゃなくて自分で決めろ』とか言われるかな……。でもこの場合、よく知った人間に訊くのが確実だろう。俺はそう思う。
それにしても、最近は色白の男性が増えたな。って、俺もか。
手の甲を見てみても、うんざりするくらい白い。もっとこう、何と言うか、黄色人種らしい色が良かったな……。母親がノルウェーのハーフだったらしいから、これも仕方がないのか。
溜め息をひとつ。
さっきから溜め息ばかり出てる気がする。何だっけ、幸せが逃げるんだったか……。っていう事は、溜め息は幸せって事か? 溜め息を飲み込めば、幸せになれるって事か? ……幸せってなんだ?
なんて。まぁ、どうでもいいか。
――なんだか、温か……――
「っ!」
「あ、ごめん。起こしてしもうた?」
何となく温度でそんな気はしていたが……目の前に泰騎の顔があった。
……いつの間にか寝てたのか。まぁ、これもよくある事だ。けど……。
「……何で、手を握ってるんだ?」
「え? 寒ぃかなぁー? と思って」
あぁ、確かに寒い。泰騎が居るって事は、もう夕方の五時は過ぎているんだろうな。
それにしても、
「お前は、相変わらず温かいな」
「潤が低体温過ぎるんじゃと思うで」
いや、泰騎の平熱三十七度三分は高いと思うぞ。確かに、俺の平熱が三十四度っていうのも低いけど。
未だ握られている手を見てみると、泰騎の左手中指が赤くなっている。ボールペンを握った跡だろうか。
時計を見ると、もう十八時を回っていた。
「……こんなに寝てたのか」
「いつから寝とったんか知らんけど、昨日の疲れが残っとるんじゃろ。ゆっくりしとき。それより、ソレ、何なん?」
差されたのは、俺の膝の上に乗っているヘアカタログだ。
指にこれだけ跡が残っているって事は、かなりの書類を捌いたんだろうな……。って事は、当然疲れているんだろうな……。
俺が返事を返せずにいると、泰騎が隣に座ってきた。
「髪、切るん?」
「泰騎に切って貰おうかと思っていたんだが……疲れているなら、別の日に……」
「ええよ。切ったる。ちょっと、惜しいけど。そっか。もう三つ編みとかして遊べんようになるなぁ」
「それで、髪型は泰騎に決めて貰おうと思って……」
ヘアカタログを泰騎へ渡す。
泰騎はパラパラとページを捲って、中を確認している。
「へぇ。どのくらい短くしたいん?」
「後ろ髪は刈り上げたい」
「…………」
あれ……泰騎? 何で固まってるんだ? 俺、おかしい事を言ったか?
「ちょっと、ごめん……襟足、残さんの?」
「刈り上げたい」
別に、拘りがあるわけではないんだが。小さい頃から、後ろ髪を刈り上げた事がないから……。やってみたいなぁ、と……。白状すると、謙冴さんがツーブロックだからというのも、少なからず関係していたりする。襟足を刈り上げたら、もっと男らしくなれるかな……なんて。
泰騎は「あー……」と息を吐きながら、カタログを眺めている。数ページに目を通し、どうやら決まったらしい。
「コレにしよ。どう思う?」
そう言って見せてきた髪型の写真は、少し長めの左サイドをバックに流したスタイルのツーブロックだった。
俺は頷いて、
「切れるか?」
と訊く。
泰騎は白い歯を見せて、笑った。
「ワシを誰じゃと思うとん? 道具取って来るから、ちょい待っとき」
そう言って、隣の自宅へ去って行った。
数分後。帰ってきた泰騎が持っていたのは、美容師が使うカットシザーとバリカン。ヘアクリップとヘアワックスとビニール製ポンチョと雨合羽。それと、ビニール袋だ。
「んじゃあ風呂場に行こうか」
今までも、髪が伸びたら泰騎に切って貰っていたから手順は慣れたものだ。
「ワシは結構、この髪好きなんじゃけどなぁ。っていうか、大事な防寒具じゃろ? 削ぎ落として大丈夫なん?」
あ、すっかり忘れてた。
「忘れとったん? この量の髪が無くなったら、結構寒いと思うで。ほんまに切ってええん?」
図星だ。寒いのは嫌だけど、首元はマフラーを巻けばなんとかなるだろ。
「あぁ。頼む」
俺は、浴槽の縁に座ってポンチョを被る。泰騎は雨合羽を着て、その腕を捲った。
作業時間は三十分。相変わらず手際が良い。本当に、泰騎は技能だけでいえばどこへ行っても仕事には困らないだろうな。
と、いうか、想像以上に――
「寒い……」
「だから言ったじゃろ」
切った髪のついている雨合羽を丸めながら、泰騎が苦笑する。
首は想像していたからいいとして、背中が寒い。こんなに寒いものなのか? あ、でも、
「身体は軽い」
「そりゃ良かった」
歯を見せて笑う泰騎から、手鏡を渡された。
首が出る髪型は十年以上振りだから、正直、見るのが少し怖いような――と、思っていても仕方がない。意を決して、鏡の中の自分を見た。
「……凄いな。髪型って……」
髪をばっさり切るだけで、別人……、みたいになるものなんだな。仕事で変装する時も、長髪やら女装やらばかりだったから……。
それにしても、見本にすると言って見せてきた写真と全く同じ髪型に仕上げる技能は流石と言うか、何と言うか。
「泰騎って、ほんと、どこででも生きていけそうだな」
「褒めてくれるのは嬉しいんじゃけど、もっと素直に、喜ぶとかしてくれん?」
「あ、悪い。何て言うか、驚いて……。有り難う」
「えへへ。どーいたしまして!」
切り落とされた髪をビニール袋へ集めながら、泰騎が笑う。……こうやって見ると、凄い量の毛がなくなったんだな……。寒いわけだ。
「風呂場の掃除が終わったら、一緒に風呂入る?」
そうだな。風呂に入って温ま……ん?
「一緒に……?」
「うん」
「何でだ?」
「だって、夫婦じゃろ?」
あ、忘れてた。でも、夫婦だからって一緒に風呂には入らないだろ。っていうか……。
俺は、まだ細かい髪の毛が貼り付いている浴槽を見やった。
これはどう考えても、
「狭いだろ」
「……うーん……」
泰騎は何やら考え込んでいる。いや、考えなくても、別々に入れば良いだろ。そもそもお前の部屋は隣だ隣。自分の風呂に入ってろ。……って言うのは、流石に酷いか。困ったな。こういう場合、どうすれば良いんだ? あ、
「銭湯になら行っても良いぞ」
「ちょっと、何を言っとるんか理解出来んのじゃけど」
違うのか? 一緒に風呂に入る事に変わりないと思うんだが……。
って、何で泰騎はスマホを取り出してるんだ? 何で電話帳の画面を開いてるんだ?
「あ、もしもーし! 潤の部屋の風呂をでっかくしようと思うんじゃけどー。あ、うん。バスタブだけでええよ。そうそう。規格あるかな? そんでなー――」
何で俺の風呂の浴槽を入れ替えようとしてるんだ? でかい風呂が良いなら銭湯へ行けばいいだけじゃないのか?
そんな事を考えている間に、話は進んでるし。
「――うん。おっけー! あ、金はワシの口座から落としといてー。んじゃ」
話が勝手にまとまってるし。って、そうだ。金と言えば……。
「泰騎、景に渡した百万って……」
「あ、景ちゃんから聞いたん? 前金で百万。取り敢えず渡したけど、生まれたらあと三百万は渡そうかなって。少なすぎたかなぁ?」
「いや、金額の事じゃなくて……どこにそんな金が……」
泰騎の給料三か月分くらいだろ。特務手当てを入れても、二か月分。普通に考えて、有り得ない額だ。
泰騎は泰騎で、「そんな事か」と言いたげに、言葉を返してきた。
「スクラッチ削ったら、当たった」
……あぁ、成る程。相変わらず、幸運ってレベルを超越してるな。
「あ、言うとくけど、ワシは遊ぶ金欲しさに宝くじ売り場へ行く事はねぇからな」
使い道は特に気にしていないんだが。そもそも、金が要るから宝くじ売り場へ行くという思考回路が、俺には理解出来ない。働いてくれ。
「そうそう。明日はワシ、謙冴さんと一緒に昨日の工場行って来るけんな。補強と修理が必要そうな場所の点検とか、色々見て来るわ。で、OKが出たら買い取り手続きして来るから」
うん? 昨日のあの工場を、どうするって?
「聞いてない。お前、俺が知らない間に、子どもの事以外に何を決めたんだ?」
泰騎は目を丸くし、瞬きを二回した後に、「あっ」と口を開いた。
「言うの忘れとった。ごめん。えっと、“ファッション部門”を撤退して、漢方の材料とか野菜とかを栽培する植物工場を作って、“栽培部門”を始めようかと思うとってな。移行期間は、ざっと見積もって二年。三年後には態勢を整えて、始動出来たらええなぁ……って」
……また、俺の理解が追い付かない。つまり、仕事内容を変えて、勤務地まで変えるっていう事か。そう言えば、こいつの誕生日にそんな事を言っていた気もするが。
「何で、お前は、そういう大事な事を、勝手に決めるんだ」
今の事務所を作った時もそうだ。俺の腹が治ったと思ったら、工作員を辞めて事務所を作って。
「ごめんな。何か、もう言うた気になっとったわ。昨日決めた事じゃし。ワシ、ちょっと舞い上がりすぎとったし」
舞い上がる……か。確かに、かなり嬉しそうだった気がする。そう。嬉しそうだった。それに対して、俺は謝るべきなのだろうか。それも、何だか違う気がする。
「じゃから、勝手に決めてごめんて。あれ? どうかしたん?」
俯いていると、顔を覗き込まれた。
泰騎の顔面を右手で避ける。
「好きの種類が、違うんだ」
俺の言葉を聞いて、泰騎が表情を変えずに首を傾げた。
「うん?」
「だから、泰騎が俺に抱いている感情と、俺のは……違うっていうか……」
上手く言い表せられないけど、多分、違うんだと思う。
「そんな事、気にしとったん? ええよ。別に」
「え……」
いや、良くはないだろ。所謂、両思いとは違うんだぞ?
俺が発する言葉をなくしていると、泰騎は両手を組んで伸びをした。
「ワシの中では……そうじゃな。今の段階で言うと、拒絶以外は全部成功なんよ」
カットシザーをケースへ戻しながら、悪戯を考える子どものような顔を、俺へ向けてきた。
「それに順番が逆なんも、楽しいじゃろうしなぁ?」
「……そういうものなのか……」
「うんうん。人生、楽しまにゃ損じゃわ。まぁ、ワシが勝つに決まっとるんじゃけど」
よく分からないが、泰騎がいいなら、良いか。
「あ、そんでな。これから風呂の工事が来るから、一緒に銭湯行こ!」
結局、銭湯へ行くのか。って、
「いや、俺は浴槽の件も了解した覚えはないんだが……」
「ええから、ええから」
いやいや。何もよくない気がするぞ? ここは俺の部屋で、俺の風呂なんだ。
「因みに、工事には謙冴さんが来てくれるで」
「ちょっと待て。謙冴さんの手を煩わせるくらいなら、俺が設置する」
「潤って、ほんま謙冴さん好きじゃな。言うとくけど、ワシも嫉妬くらいするんじゃで? まぁ、ええわ。あと、謙冴さんは日曜大工好きじゃから、ええんよ」
日曜大工も趣味なのか。覚えておこう。
「んでな。ワシらがおったら邪魔んなるから、早う銭湯行こうで。七時半にはここ来るらしいけん」
俺としては、謙冴さんにひと言声を掛けてから行きたいところなんだが……。何だか泰騎は急いでいるみたいだし、準備をして行くとするか。