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番外『その後の一日』―前編

潤の、【本編】第六話―10と第六話―11の間の生活風景。


【本編】第六話―11を読了後に読んで頂けると幸いです。


 目を覚ましたのは、朝と言っても良いものか悩ましい時間だった。




 桃山咲弥の居た工場から《P・Co》本社へ戻った俺を待っていたのは、いつも通り笑顔の社長と、いつも通り険しい顔をした謙冴さんだった。社長は「今日は疲れてるよね。明日は仕事は休んで、ゆっくりしなよ」と言ってくれたが、謙冴さんは不満そうな表情を携え、無言でそれを眺めていた。


 そんな、昨夜――正確には、今日の夜中――の事を思い出していた。

 謙冴さんは余程、社長に言い伏せられたんだろうな……。でも、正直凄く有り難い……。


 心身ともに色々あった所為で忘れていたが、左腕の痛みは健在だ。再生途中だから、仕方がない。腹の穴も、塞がりはしているがまだ内側に痛みがある。


 ぼんやりと天井を見詰めていたが、そろそろ起き上がらないと――起き上がる事さえ放棄しそうだ。

 右腕に力を込めて上半身を起こすと、腹部が痛んだ。まぁ、じきに慣れるだろう。そういえば、服も普段着になっている。タートルネックに、ストレートパンツだ。正直、自分で着替えた記憶はない。ということは、泰騎辺りが着替えさせてくれたのだろう。工場内で着ていた――これも、着替えた記憶は一切ないが、いつの間にか着せられていた――タキシードは、ゴミ箱に突っ込まれている。


 台所へ向かう。テーブルの上には、ラップの被せられた皿がひとつ。ホットケーキが二枚重なって乗っている。いつだったか、倖魅が泰騎の事を「通い妻」だとか何だと言っていた事を思い出した。言われてみれば、そんな気がしなくもない。ピッキングで入室されるのは、好い気はしないが。

 なんだ。じゃあ俺が“夫”で良いんじゃないか?

 皿をレンジへ入れながらそんな事を思ったが、そう言ったところで泰騎は聞かないだろう。というか、どちらも“夫”じゃ駄目なのだろうか。


 俺はレンジの“あたためる”スイッチを押してから、洗面台へ向かった。顔を洗って、鏡を見る。寝癖らしい寝癖がついた事はないが、長い髪は広がり、本当に、鬱陶しい。確か毛先が昨晩焦げた筈だが……綺麗に治っている。

 適当に手櫛で髪を整えてから、後ろでひとつに結って流す。で、鏡を再び見るわけだが――今まで生きてきて、理解出来ない事のひとつに、溜め息が出た。


 何で生えないんだ。と、鏡の中の自分の顎を突いてみる。鏡に皮脂がついた。倖魅は「面倒臭くなくていいよねー。髭剃り負けって、結構辛いんだー」と言っていたが、シェーバーのCMを見る度に羨ましく思う自分が居る。泰騎が昔、「すげぇ! 髭生えた!」と言って俺に見せてきた時には嫉妬さえした。いや、すぐに自分にも生えるだろうと思っていたが、数年経っても生えない現実に、とても落ち込んだ。現在進行形で、落ち込んでいる。


 電子レンジがホットケーキを温め終えた事を知らせてくれたので、食べた。朝食というより、おやつだと思った。

 今日の予定は特に立ててはいないが、行きたい場所はある。

 本屋だ。

 出かけるにあたり、服を着替えようかと思ったが……まぁ、今の服装で出掛けても問題はないだろう。靴下を履き、ジャケットを羽織って髪ゴムを外してから外へ出た。




 ひとりで出掛けるのも久し振りだ。平日という事もあり、街中の人通りは少ないように思う。外国人観光客は、相変わらず多いが。

「ちょっとお嬢さん、今急いでる?」

 後ろからそんな声が聞こえた。こんな昼間っからナンパか。暇な奴もいたものだ。絡まれた方は気の毒だな。

「ねぇ。あ、馴れ馴れしいのが嫌だったらごめんね」

 やけにしつこいな。というか、声と気配がやけに近い気が……。

 振り向くと、スーツを着た男の顔があった。

「お顔に傷があるのも、今はキャラ作りで売って行けるから大丈夫だよ!」

 ……何を言っているんだ。この男は。というか、観察力も洞察力もないな。顔の傷どころか、こっちは左手もない状態だぞ。気付かないのか。


 チャラついた手付きで差し出された名刺を受け取らずに見ると、聞いた事のない芸能事務所らしい社名と連絡先と、本人の名前が記されていた。

 髪が長い所為で稀に声は掛けられてきたが、目元の傷を見るや否や、退散していった者が殆どだ。だが、この男は引く気がないらしい。いや、そもそも――

「俺はお嬢さんという年ではないし、男だ」


 男は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに興奮気味に右手を握ってきた。……いや、何故手を握るんだ。

「今はジェンダーレスも流行ってるから! イケるよ!」

 その言葉が、何故か無性に胸元に(つか)えた。全く嬉しくない。寧ろ、腹が立つ。というか、俺はトランスジェンダーではない。この男の言い振りは、性同一性の人を馬鹿にしているとしか思えない。

「芸能界とか……そういう事には全く興味が無いので」

 ひと言告げて、足早に去った。


 たまに、この顔に生んだ親を恨みたくなる。両親の顔は、もう思い出せないが、少なくとも父親はもっと逞しい顔立ちで、髭も生えていたように思う。

 俺も、謙冴さんみたいな見た目だったら、あんな風に話し掛けられたりしないんだろうな……。

 スカウトだのナンパだのと声を掛けられる度にそう思う。強くて背が高くて、眉が太くて強面で、いつも冷静で寡黙で――なれるものなら、なりたい。願っても叶わないから願わないようにしているが。


 そんな事を考えながら歩いていると、目的の建物に到着した。本屋の入っている階までエレベータ―で上がる。

 ファッション雑誌のコーナーへ一直線に向かう。ヘアカタログを数冊手に取ってみた。

 俺としてはシンプルでシックなデザインの表紙のものが好みだが、ヘアカタログというよりはモデル男性のスナップ写真が主だったので、棚へ戻した。あと数冊に目を通し、短髪メインで、正面、横、後ろと写真の載っている、写真のカット数が多い雑誌をレジへ持って行った。財布から金を出す時左手がない所為でレジ担当者に(いぶか)しげな目で見られたが……まぁ、無理もない。


 昼時なだけあって飲食店には人が集まってきている。平日にも関わらず、行列が出来ている店もある。

 俺はというと、全く腹が減っていない。十時過ぎにホットケーキを二枚も食べたのだから、当然か。食事なんて、二日に一回でも構わないし。とはいえ、このまま帰宅するのも勿体ない気がする。そういえば、最近やたらと服が燃えてしまったな……。

 そういうわけで、別のフロアに入っている、大手ファストファッションブランドの店舗へ向かった。


 もう十月も終わる。冬服が店舗内のスペースいっぱいに陳列されていた。タートルネックの肌着を色違いで四枚、タートルネックのフリースを色違いで四枚、ストレートパンツを一枚と、裏起毛のスキニ―パンツを三枚買った。まさか三万円を超すとは思わなかった……。給料日後で助かった。


 大袋を提げて歩いていると、足元に柴の成犬が擦り寄ってきた。首輪はない。

「こんなところに居ると、保健所に連れて行かれるぞ」

 辺りを見回してみたが、飼い主らしい人物も見えない。だが、毛艶は良い。

 仕方がない。

 俺は保護施設に電話をして、最寄りの公園まで犬を引き取りに来て貰うよう頼んだ。

「というわけで、公園までついて来てくれ」

 犬の言葉は分からないが、意味は何となく通じたらしい。犬は黙ってついて来てくれる。リードを付けずに散歩をしているのだと疑われては厄介なので、早足で進んだ。


 公園は、ある意味俺にとって鬼門だ。保護車が来るのをベンチに座って待っていると、案の定、野良猫が二匹寄ってきた。何故か鳩まで近付いてくる。食べ物なんて、何も持ってないんだけどな……。まさか、俺を食料だと思っているわけでもないだろ。……思われてたら、嫌だな……。


 施設の保護車は、契約しているペットフードの会社に常駐されている。《P・Co》本社の近くなので、十五分ほどで来てくれた。担当者に犬と猫の保護を頼む。流石に鳩は群れに帰って貰った。


 公園内は平和そのものだ。子どもから年寄りまで思い思いの時間を過ごしている。

 ふと、昨日泰騎が言っていた事を思い出す。

 子ども。

 何故今までこんな重要な事を忘れていたのか。理由は分かっている。それに関する実感というものが、まるで無いからだ。

 俺は荷物を持ったまま、本社の地下へ向かった。




「潤さん、こんにちは」

 笑顔で迎えてくれたのは、謙冴さんの養子である、景。眼鏡の似合う好青年だ。

 地下研究施設にあるS室。水無に熔かされていたその部屋は、そんな事は起きなかったかのように、今は綺麗だ。

 室内も、杉山さんが管理していた頃に比べて物が増えている。机の上には付箋だらけの本が沢山広げられていた。


「ちょっと散らかっていて、すみません」

 『ちょっと』という域を超えた散らかりようだが、景本人にはどこに何があるのか分かるのだろう。

「いや、突然すまない。検査日は明後日なのに……」

「いえいえ。僕も、お話ししたい事がありましたし。あ、コーヒーで良いですか? この前、研究室の歓迎会で頂いたものが美味しかったんですよ」

「お構いなく」

 とは言ったものの、景は律儀にコーヒーを準備してくれている。年の割に、よく気が利く。俺は立ったまま、室内を見回した。書類、書物、とにかく紙類の山が数えきれない程存在している。

 ……コーヒー、どこに置くんだろう……。


 数分後――。

「お待たせしました」

 と、景がコーヒーの入ったマグカップを持って現れた。デスクの上にある書物を更に積み上げ、空いたスペースにカップを置いた。見た目に反して、細かい事は気にしないタイプなんだろうか。まぁ、仕事の出来る人物のデスクは散らかっているものだと言うし、俺も気にしないでおこう。

 用意された椅子に腰を下ろすと、少し軋んだ。


 ところで、そうだ。忘れるところだった……本題だ。

「景、俺の腕の事なんだが……」

「あぁ。順調ですよ」

 笑顔で即答された。行動が早い上に、察しも良い……。

「泰騎さんにお子さんの事を頼まれた時には『マジかよ』って思いましたが。調べてみると実例も結構ありまして。各国多組織の研究データや論文を読んでみて実現できそうだったので、実行に移しています。他組織……お馴染みのあそこから、機器も一通りレンタル出来ましたし。設備も整い、経過も上々です。勿論、諸々の状況と経過にもよりますが、僕の計算では来年の二月から三月頃には――」

「ちょっと、待ってくれ」


 あまりの話の進み具合に、思わずストップを掛けた。いや、だってそうだろう。昨日『結婚』と『出産』……出産……って、言うのか? まぁいい。結婚やら子どもやらの話を聞かされたばかりで、それこそまだ俺の中で整理されていないんだ。……整理するのを拒んでいるっていうのも、あるかもしれないが。

 溜め息が出た。だが景は俺の言葉通り、待ってくれている。


「景は……その、何と言うか……抵抗はなかったのか?」

「抵抗? いえ、全く。……あ、気分を害されたらすみません。僕は、一応資格は持っていますが、医者ではなく科学者なので。専門は遺伝子工学ですし。どちらかというと興味深くて。楽しませて頂いている感じです」

 そういうものなのか。

「それに、会社から研究費も出ていますし。泰騎さんから前金も頂いてますし」

 ん? 前金?

「……景、前金って、どのくらい……」

「百万円です」

「ひゃ……く……」

 百万? あいつ、いつも遊び歩いているくせに、どこにそんな金を隠し持ってたんだ? 宵越しの金は持たないみたいな生活をしてるくせに……。

「僕としては、同時に研究もさせて貰っているので、こっちがお金を払いたいくらいなんですけどね」

 あぁ、景は本当に良い奴だな。流石、謙冴さんの選んだご子息――。


「そうだ。メインとなる器具の名前を『やすこ』にするか『やすよ』にするかで迷っているんですけど、潤さんはどっちが良いと思いますか?」

 あ、やっぱりちょっと変わってるな。っていうか、この名前の元になってるのって……。

「景は本当に、実兄(おにい)さんの事が好きなんだな」

「戸籍が変わって別の誰かの兄になろうとも、僕の大切な兄ですから! 家事全般に加え、事務処理も完璧に(こな)す、自慢の兄です!」

 目を輝かせて力説されると、頷くしかないな。名前をどちらにするかという質問からは逸れてくれて良かった。

「そういえば、潤さんのお兄さんは雅弥さ……じゃないや。社長と、泰騎さんなんですよね……。お兄さんと結婚するって、どういう気持ちなんですか?」


 ……触れて欲しくないところに触れてきた……。いや、景の場合は純粋に気になっているだけか。以前「兄となら結婚できます。でも兄以下の女性とは結婚できません」とか言っていたもんな。

「どういう気持ちも何も……正直まだ実感が全く無いし……というか、俺は恋愛経験自体が無いし……」

「えっマジで!? あ、いえ、すみません。そうなんですね……確かに、そういった浮いたお話は社長からも全くお聞きしませんでしたが……あれ? でも女性経験はあるって……」

 ……社長は俺の事を、一体どこまで話してるんだ? でもまぁ、仕事内容は情報部にも筒抜けだしな。隠してるわけでもないし。

「工作員時代の仕事で……ってだけだから、恋愛じゃないしな」

「あぁ、そういう事でしたか。へぇ……泰騎さんが事務所を作ったのも納得です」

「は……?」

「いえいえ。独り言です」

 と、景は笑う。


 この食えない笑顔は、実兄(おにい)さんと似てるな。というか、顔付き自体、凄くよく似て――

「ところで潤さん。結婚式はいつですか?」

「ッごふっ! ごほっげほ」

 ちょ、苦しい。コーヒーが気管に入った……。え? 何? ケッコンシキ……血痕死期? そんな物騒な……。

「あれ……挙式、挙げないんですか?」

「きょ……」

 しき……。あぁ、うん。それか。景、それはな――

「挙げない」

「あぁ、そうなんですか……。ちょっと残念です」


 残念がるな。頼むから。泰騎は凄く残念そうにしてたけど。それには俺も少しばかり罪悪感を抱いたけどな。だからって、挙げたら挙げたで、俺はきっと後悔するんだ。誰とは言わないが、挙式の写真を事ある毎に、脅迫か何かに使われるのは分かりきってるんだ。これ以上他人に弱みを握られてたまるか。


 只でさえ、昨日ピット器官を弄られて死にたくなったっていうのに。あぁもう。思い出すだけで鳥肌が立つ……。

「どうかしました? 顔色、悪いですけど」

「え、あ、いや……」

 あぁ、本当に、よく気が付く奴だな。取り敢えず、話題を変えよう。

「えっと……そうだ。景に訊きたい事が……」

「何ですか?」

「その……、け……」

「け?」


 そうだ。なかなかゆっくり話す事も出来ないんだし。景は今も、ゆっくりする時間など無いのかもしれないが……。今の内に、訊けることは訊いておこう。

「謙冴さんって、家で……どんな感じなんだ?」

 って、『どんな感じ』って、もっとこう、何かあるだろう。言葉が。あぁもう。こういう時に言葉が足りないのは、俺の悪いところだ。

 案の定、景は困った顔をしているし。

「父ですか? そうですね。家では粉を挽いて、蕎麦を打ったりしていますよ」

 そ……ば……。

 蕎麦が好きな事は知っていたが、まさかご自分で打つとは……。しかも粉から……。流石、謙冴さん。

「大晦日には、父の打った蕎麦で年を越すのが通例です。去年は一緒に食べられませんでしたが、アメリカまで蕎麦を送ってくれたんですよ」

「そうなのか」

 羨ましい……。かなり、羨ましい。

「父も凝り性な所がありますから、最近はつゆにも拘りだして……。まぁ、殆ど家には居ないので、蕎麦打ちも三ヶ月に一回くらいの頻度です。今週中はまだ居るみたいですが、来週からは北海道へ行くみたいですよ」

「それは、寂しくなるな」

「はは。僕は慣れてますから。ひとりでのんびりと論文を読みますよ」

「……そうか」


 違うんだ、景。寂しいのは俺なんだ。

 でも、そうか。たまにしか家には帰って来ないから、出来る事も限られているんだな。その貴重な時間で蕎麦を打つなんて……余程蕎麦がお好き――

「父は蕎麦を打つ時、凄く楽しそうなんですよね。相当なストレスを発散しているんだと思います。いやぁー、ほんと、コシが凄いんですよ」

 景は笑顔でさらっと言ったが……聞いてはいけない事を聞いてしまった気がする……。――っと、時間の事を忘れてた。今は……あぁ、もう三時か。


「謙冴さんの打った蕎麦、是非食べてみたいものだな。長居をして悪かった。そろそろ帰るよ。ご馳走様」

 俺は立ち上がって、服の入った紙袋を持ち上げた。

 本社を出ると、雨がパラついていた。徒歩零分なので濡れる事はないが、どうりで冷えるわけだ。そういえば、ここ一ヶ月でジャケットが二枚も燃えた事を失念していた。検査が終わったら、明後日にでも買いに行こう。



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