第七話『31日の金曜日』―7
《P×P》事務所の所長室には、倖魅のみが自分の席に座っていた。
「潤ちゃん、おはよ……って、どうしたの! その髪!」
雅弥と全く同じリアクションをする倖魅に、潤の表情が綻んだ。
「鬱陶しいから、切って貰ったんだ」
短く伝えた。潤はパンフレットを自分の机ではなく、ソファーの前にある壁際のテーブルへと置いた。肩を数回回す。
あまりに重量感のある音が響いたので、倖魅が怪訝そうな顔を向けてきた。だが、それは取り敢えず無視して、潤は倖魅に頭を下げた。
「それより、迷惑をかけてすまなかった」
「気にしないで。昨日は泰ちゃんが、ちゃーんと所長職を熟してくれたから、仕事も溜まらなかったよ」
泰騎のオフィスデスクを見やる。蓮華から貰ったボールペンが活躍していたようだ。卓上には、乱雑に置かれているボールペンが数本。少し離れて、インクが空になったものが三本ほど転がっている。
倖魅は嘆息しながら、肩を竦めた。
「泰ちゃん、やれば出来るのにねぇ」
まぁ、仕事終わりには魂抜け出しそうだったけどー。と、付け足された。
自分が休んでいた所為で苦労をかけたと、潤の中で申し訳ない気持ちが再浮上する。
そんな潤に向かって、倖魅は呆れた様子で手先を払った。
「気に病むことないよー。いっつも、泰ちゃんの仕事まで潤ちゃんがやってるんだから。たまには良い薬だよ」
倖魅がそう言うので、潤は「まぁ、それもそうか」と、自分の椅子へ腰を下ろした。目の前には、数枚の書類が置かれている。
一番上に置かれている紙は、途中まで記入された状態で放置されていた。四角の黄色い付箋には、『こっから先、頼むわ』と書かれている。記入されている部分を見ても、所々黒く塗り潰されていたり――漢字の書き間違いだろう――、文字の上から線で消して書き直されていたりしている。
咲弥の所へ行く前に担当していた特務に関する報告書だ。水無に焼き殺された人物の画像を納め忘れていた事を思い出す。後始末に入った工作員が死亡確認はしているだろうが、こちらからの状況報告が未達なのは確かだ。空欄部分を眺めながら、潤は卓上のペン立てにあるボールペンを握った。
(というか、重要書類まで二重線だけで提出してるわけじゃないよな……)
いつも重要書類の訂正印は自分が押しているので、一抹の不安が過った。とはいえ、苗字は同じなのだ。泰騎が訂正印を持っていなくとも、勝手に潤の机の引き出しから抜き出して使っているだろう。そう思いたい。
報告書の空欄部分を文字で埋めると、それを脇へ置き、次の書類へ目を向けた。薄いピンク色のその紙は、ふたつに折って置かれていた。
それを見たと同時に潤の表情は固まり、だんだんと引き攣り、その顔のまま倖魅へ向けられた。
潤の視線に気付いた倖魅は、潤に向かって満面の笑みを返す。
「あ、それ可愛いでしょー。コレの付録! ボクが本屋さんで見付けてきたんだー」
『コレ』とは、倖魅の両手に持たれている、ウェディング情報誌だ。それの付録というのが、潤の目の前に置かれている紙なのだが――薄いピンクの紙に濃いピンク色で枠と文字が印刷されており、枠外には世界的に有名な、耳にリボンをつけた二等身の白猫のキャラクターが描かれている。花などのイラストも散りばめられており、倖魅の言うように、可愛らしいデザインだ。左上には、こう書かれている。
“婚姻届”。
ご丁寧に、『夫になる人』の欄はもう埋められていた。滅多にお目に掛かれない、丁寧な文字で。
色々と、本当に色々と言いたい事はあるのだが、潤の口を割って出た言葉はこれだ。
「……何で俺が“妻”なんだ……」
あまりに小さい呟きだったので、倖魅は「え? 何か言った?」と訊き返した。
潤は右手の指先で額を押さえながら「いや、別に」と呻くと、「ところで」と続ける。
「婚姻届は、書いても提出出来ないだろ……」
「いいじゃんー。書いて額にでも入れて飾っときなよ」
というのは、冗談だろうが。
「泰ちゃんって、ああ見えて結構形に拘るからさぁー。あ、潤ちゃんに対してだけなんだけどね。ホント、昔っから潤ちゃんの事しか見えてないっていうか、頭にないっていうか……もうね、ボクとふたりきりの時なんて、鬱陶しいくらい潤ちゃんの事ばっかり喋るんだよね」
冗談だと思いたいが、この口調は本当のようだ。
書かない理由もないので、潤はピンク色の紙にペンを滑らせた。
倖魅は「あーあ」と嘆息すると、両手の指を組んで伸びをした。
「ほーんと、泰ちゃんの運の強さには恐れ入るなぁー。ボクなんて、今まであんなにアタックしてるのに、まともに受け取られたことないんだよぉ?」
倖魅の言う相手は、十中八九恵未だろう。只、彼の言う『アタック』がどの言動を示しているのかは、潤には思い当たらない。
潤は、余白が半分程となった婚姻届を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「ちゃんと真面目に恵未に言ったらどうなんだ?」
「真面目に、って……なんだか今更で気恥ずかしいなぁ」
座っている椅子ごと、くるくると回りながら倖魅は唸っている。
潤は嘆息すると、微笑した。
「恵未も、真剣に向き合えばそれに応える奴だよ」
倖魅は「も?」と首を傾げたが、そーだよねぇー……。と、机に突っ伏した。
十時になると、恵未が所長室へ入ってきた。両手にクレープを持って。
軽快にドアを閉めて、潤の席へ向かって一直線に歩いていた恵未の前へ、倖魅が立ちはだかった。
恵未は倖魅を避けようと体を捻ったのだが、両肩を掴まれ、止められた。
「恵未ちゃん、聞いて欲しい事があるんだけど」
いつになく真面目な顔の倖魅に、恵未は少なからず驚いた顔を見せる。どんな深刻な話なのかと、クレープを両手に持ったまま身構えた。
倖魅は大きく息を吸うと、真剣な表情のまま、恵未に向かって叫んだ。
「ボクを、恵未ちゃんの犬にしてください!」
「私、セントバーナードが良いって言ったわよね?」
瞬殺だった。
倖魅の、何度目かの告白は見事不発に終わったわけだ。
そして、潤もいつものように心の中で繰り返す。恵未から、黒豆入り黒蜜きな粉のクレープを受け取りつつ――
(懲りないな)
数時間後には営業のふたり組が、営業鞄とは別に紙袋を提げて帰ってきた。
オレンジ色と紫色の、賑やかで目立つ袋だな。と、潤は思った。
凌が「孤児院のハロウィンパーティーには、朝から営業の後輩を行かせましたから。報告書を書いたら、オレ達も行ってきます」と言ってきたのを聞いて、今日がハロウィンだという事を思い出す。子どもたちには、以前、凌と尚巳が隣県にある“夢の国”で買ってきた菓子類が配られているのだろう。
ともあれ、いつも通りだ。
違う事といえば、所長が真面目に事務所の仕事を行ってから、帰ってきた事くらいか。その所長が仕事中、常に頭に引っ掛けていたゴーグルが無くなった事も、小さな変化ではあるのだが。
彼らの日常は、こうして今日も流れていく。
潤は、卓上にあるカレンダーに目をやった。
(十月も今日で終わりか)
胸中でひとりごちた。
今日は、“31日の金曜日”だ。




