第七話『31日の金曜日』―4
豪壮な、分厚い扉が動いた。
見た目に反して意外と軽い扉の向こうから現れたのは、どこかにぶつけでもしたのか、額を真っ赤に腫らせている泰騎。それと、左腕が焼け焦げて黒くなっている潤だった。
廊下に座り込んでいた面々は、スマートフォンをしまったりアメリカンドッグの棒を放り投げたりして、立ち上がった。
泰騎はゴーグルのバンド部分を握っている右手を挙げて、高らかにピースサインを作った。
「へーい! 桃姫様、無事に救出出来たでー!」
「わぁーい! 流石、毬男さん!」
と、灰色と紫色のコンビは、ふたりの間でしか通じていない喜びの表現をした。ハイタッチをして、笑い合っている。
倖魅がニヤニヤしながら――口元は白いマフラーが隠しているので、目元しか目視は出来ないのだが――泰騎と潤の顔を交互に見た。
「で?」
倖魅の言葉は、とてつもなく短かった。だが、その言葉の意味を瞬時に判断した泰騎が、ゴーグルを首に掛けながら、息を大きく吸い込んだ。
倖魅の言葉の意味に遅れて気付いた潤は、制止の言葉を放とうとしたが……手遅れだった。
「みんな聞いてー! ワシ、結婚するけんなー!」
両手でピースサインを作ってそれを突き出す所長の言葉と姿に、年長トリオ以外が絶叫した。どよめきと好奇の声が、薄暗い廊下に木霊した。「誰と」「どうして」「何で今」等とざわついている。
泰騎の横では、潤が倖魅の体の後ろに隠れようと身を捩った。だが、潤の体が倖魅の陰に隠れるより先に、泰騎に引っ張り戻される。
「因みに、これがワシの奥さん!」
「“奥さん”?」という潤の疑問の声は、数倍に膨れ上がった叫び声に掻き消された。その叫び声の大半は「マジで?」だった。凌の顔は真っ赤になっているし、恵未は「わぁー。おめでとうございます」などと言いながら、真っ赤な手を叩いて笑っている。
そのすぐ横では、祐稀が――珍しく驚いているようで――目を見開いて固まっていた。その更に横では透が「でも、タキシードを着てるのは潤先輩だよね?」と、恭平と顔を見合わせている。
潤は、全く、考えもしていなかった。
(いや、ちょっと待て……『結婚』って……まさか……)
潤の不安は、倖魅の無邪気なひと言で決定付けられる事となる。
「取り敢えずここで一発、誓いのキスをしといてよー」
潤の、全力も全力の拒否により、誓いのキスとやらは回避できた。泰騎は拒絶された事に対して酷くショックを受けていたが、そこはまぁ、後々何かしらのフォローをすれば良い。
息を切らして座り込んでいる潤に、倖魅が「ごめーん。悪ノリしちゃったぁ」と、両手を合わせて謝罪してきた。同じように、潤の隣に座る。
目の前では泰騎が、後輩から質問攻めにされているみたいだが――潤は、今はそういった話題から遠退きたかった。
「倖魅、今、何時だ?」
先程まで居た部屋の窓から見えた景色は、闇だった。夜であることは間違いないが、記憶があったりなかったりして、潤自身の時間の感覚が狂ってしまっている。
倖魅は、無線のリモコンでもある腕時計を見やった。
「十一時半だよー。日にちを跨がなかったのは、流石だね」
倖魅は、後輩たちにもみくちゃにされている泰騎を見てから「さてと」と、パンツのポケットに収まっていたスマートフォンを取り出した。ウサギ――ピスミ――のシルエットが、反射して光った。
スマートフォンを操作し、情報部の通信課へ繋げる。電話口では夜勤の女性が、明るい声で迎えてくれた。
「特務員の仕事、全部終わったよー。全員無事だから、お掃除をお願いしまーっす。あ、怪我人が……えっと……」
倖魅が潤を見やると、潤は首を横へ振った。倖魅は肩を竦めると、電話口へ向き直る。
「ごめんね。怪我人がひとり居るから、本社で診察と手当ての手配をお願いしたいな」
『了解しました。担当の方はそちらに到着しています。私が連絡をしたら中へ入る手筈となっていますので、すぐに向かわれると思いますよ。あと、保護した子どもたちも問題なく施設で眠っています』
女性はひと通り説明を終えると、『失礼します』と言い残して、通信を切った。
倖魅が、女性が言って伝えてきたことをそのまま潤へ伝える。
その直後、廊下の奥の方――入り口から、扉の開け閉めされる音が聞こえた。次いで、男の声も響く。
「はぁー。こりゃこりゃ。また派手にやったもんだな」
“派手に”とは、恵未の散らかした跡の事だろうが――その声に、潤が入り口の方向へ顔を向けた。
泰騎も、入り口方向を凝視している。
暗い廊下の向こうから現れたのは、茶髪に、黄色い瞳の男。青いTシャツを着て、白いラインが縦に二本入ったジャージを穿いている。
その横に、ほんの少しだけ背の低い影が歩いていた。影は黒いマリンキャップを被っており、黒髪で、黒いライダースジャケットの下に黒と灰色のボーダーTシャツ、黒いジーンズパンツを穿いている。足元は黒いブーツなので、遠目には黒い影にしか見えないわけだ。
否、白い肌と、赤紫色の光がふたつ。マリンキャップの下で動いている。
「藍姉さん!」
祐稀が、声を上げた。
黒い影が、宝塚の男優よろしく、な声で答える。
「あぁ、祐稀。久し振りだな」
赤紫色の瞳が、細められた。
『姉さん』と祐稀は言ったが、装いは男性のそれだ。ジャケットも、男物を着ている。顔付きは祐稀とそっくりなのだが、髪が短いので中性的に見える。
祐稀は『藍姉さん』へ駆け寄り、感嘆の声を掛ける。
「姉さんは相変わらず、男装が様になっていて羨ましいな。私も髪を切れば似合うだろうか」
パンツスーツ姿の祐稀を上から下へ眺めると、藍は祐稀と同じような顔を傾けた。
「祐稀はタイトなスカートの方が似合うと思うけどな」
彼女たちは《P・Co》には珍しい、血の繋がった姉妹だ。勿論、藍もダンピールである。祐稀と違い、口元には尖った八重歯――小さな牙が覗いている。男装家ではあるが、所謂“おなべ”とは違う。何故なら、男である幸太郎と女である藍は、仕事のコンビであると同時に夫婦でもあるからだ。まだ結婚して一年にも満たない、新婚である。
「アイアイ、久し振りー」
後輩たちの中心にいる泰騎が、右手を挙げて挨拶した。
不機嫌そうに返事をしたのは、一緒に歩いてきた茶髪の男――藍の夫である、幸太郎だ。
「灰色ウサギ。いつも言ってるけど、オレの藍を変なあだ名で呼ぶな」
「その前に、お犬様はワシの事をウサギ呼ばわりするんを止めるべきじゃと思うな」
「犬って言うな! 狼様だ! バーカ!」
幸太郎の大きな口の中で、立派な犬歯が光った。
泰騎と幸太郎の間には不穏な空気が流れているが、いつもの事なので周りは慣れたものだ。
潤と泰騎、幸太郎と藍。この四人は入社試験の時に、同時に合格した――つまり、同期だ。あとひと組居るのだが、今日は別件の仕事で不在らしい。
「こら、幸太郎。喧嘩をするな。私たちは仕事をしに来たんだぞ」
藍に咎められ、幸太郎は渋々と引き下がった。そして、辺りを見回す。壁に寄りかかって座っている潤を見付け、目を見張った。
「お蛇様、左腕ヤッベェ色してんじゃん。アレ大丈夫なのか?」
「本人がええって言うとるから、ええんよ」
泰騎は溜め息交じりで答えると、潤の腕をちらりと横目で見てから、また嘆息した。潤の腕は相変わらず焦げ付いている。
泰騎は詳しい人数などは凌から聞くように幸太郎へ伝えると、倖魅と話している潤へ近付いた。
右手を差し伸べて、
「あとは工作員様に任せて、ワシ等は帰るで」
潤の右手を引いて立ち上がらせると、泰騎は「あ、そうじゃわ」と、左手で幸太郎の腕を掴んだ。
既に凌の居る方へ足を向けていた幸太郎は、引っ張られた腕を擦りながら「何だよ」と、顔を顰めている。
泰騎は満面の笑みで、ひと言。
「ワシら、結婚するから!」
これに関して、潤はもう、抵抗するのを止めた。
(余程嬉しいんだな)
そう胸中で呟くと、潤はガキ大将のように笑う泰騎に右手を引かれて走った。
犬歯の見える口を開けて間抜けな顔を晒している同期を、その場に置いて。