第七話『31日の金曜日』―3
泰騎は、潤の肩から両手を落とした。大きく息を吸い、吐き出す。
「あんだけ言っといてなんじゃけど、潤が嫌なら、ワシと結婚なんてせんでもええし。子どもは……無事に生まれたらワシが育てるから。社長も手伝ってくれるって言うとったし。その心配はいらんよ。他に好きな奴がおるなら……好きな奴が出来たら、そいつと結婚して、子ども、作って……」
先刻の威勢はどこへやら。徐々に俯き、微かに震える声を抑えきれていない泰騎に、潤が再度たまらず吹き出した。
「ふ……ははっ。お前のそんな顔、初めて見た」
「へ?」
泰騎の素っ頓狂な声が聞こえたのかどうなのか、潤はまだ笑いを口に含んでいる。
潤はひとしきり笑った後、溜め息にも似た吐息を漏らした。
「お前こそ。我慢なんて、らしくない事するな」
泰騎は、目尻が上がり気味の大きな目をぱちくりと開閉させている。
潤は口元を緩めたまま目を閉じた。そして目を開くと、潤は真顔で泰騎に目を向けた。酷く真面目な声で、ひと言。
「式は挙げないからな」
灰色の瞳は赤い瞳を捉えたまま、変わらずぱちぱちと瞬いている。灰色の髪は、縦に振られた頭に付いて跳ねた。
「え……っと……、うん。分かった」
潤の言葉の意味するところは、泰騎には今ひとつ理解出来なかったのだが――潤が胸を撫で下ろしたのが見えたので深くは突っ込まなかった。
「で、今までとこれからとで何か変わるのか?」
潤の質問に、泰騎が唸った。
「そんなん……結婚したら、ワシは今付き合っとる奴らとは別れるし……、休みの日に勝手にフラフラ出掛けたりせんし……、えっと、あとは……」
「それは、お前がやりたい事なのか?」
意地の悪い質問をしてくる潤に、泰騎が頬を膨らませた。
「わざと言うとるじゃろ。ええんよ。別に、今付き合いのある相手に執着があるわけでもねぇし。まぁ“トモダチ”っつーのは、必要じゃけどなぁ」
泰騎の交友関係の広さは、様々な面で役に立つ。潤が動物を引き寄せるのに対して、昔から泰騎は人間を引き寄せる体質らしい。それは潤も重々承知だ。異論はない。
潤は満足そうに笑うと、長い睫毛を伏せた。
「そうだな。男同士で卵を温めるのも悪くない」
唐突に潤の口から出てきた言葉に、泰騎が間抜けな顔を潤へ向けた。
泰騎の反応に、潤はほんの少しだけ首を傾げる。
「泰騎が、昔いつも読んでいた絵本」
泰騎の顔が徐々に、よく熟れた林檎のような色に変わっていった。
潤の言う“絵本”とは、泰騎が本屋で見付け、雅弥にねだって買って貰った絵本だ。潤と出会ってから手に入れたそれは、毎日何回も読み返される事となる。九歳の時、麗華と蓮華の元で訓練を開始するまで。
絵本の内容は――とある動物園で、二羽の雄ペンギンが、卵に似た形の小石を温めていた。だが、小石から子どもは生まれない。いくら温め続けても、生まれない。飼育員が、他カップルが温めるのを放棄した卵を、二羽の雄ペンギンの巣の近くへ置いてみた。すると雄ペンギンたちは卵を温め始める。そして、赤ちゃんペンギンが生まれた。という、アメリカの動物園で実際にあった出来事を絵本にしたものだ。
泰騎はその絵本をボロボロになるまで読み、今日までずっと強く願っていた事がある。
その願いの大部分は、今しがた叶ったわけだが――。
「潤って、ほんまに運がねぇなぁ……」
譫言のように呟かれた言葉が引っ掛かり、潤は眉根を寄せた。
「運が良くない自覚はあるが、何の話だ?」
泰騎は肩を竦めてから頭を掻いた。
「いやぁー。ワシに好かれたのが運の尽きっちゅーか……。もし、お前の運をワシが吸い取っとんじゃったら、どうしよかなぁー。って」
「……それを言うなら、桃山に誘拐されたのが俺の運の尽きだろ。……ただ、誘拐されなければお前とも出会わなかったけどな」
咲弥を苗字で言い表すと、潤は真っ赤に染まって動かなくなった、水無を見た。彼を中心に、赤黒い水溜りが出来ている。十二歳までしか生きられなかった筈の十三歳の少年は、俯せで眠っている。
その視線を追い、泰騎も水無へ目を向けた。
潤は、水無の背中にあるふたつの服の穴を眺めながら、呟いた。
「水無は……本当に、長くは生きられない体だったみたいなんだ」
「何で分かるん?」
脳内に、血塗れで泣き叫ぶ水無の顔が再生され、泰騎は水無から眼を逸らした。
潤はそれに気付いたが、水無の体へ足を向けた。
「……俺も、気付いたのは夕飯時だったんだが……」
潤は、足元に横たわっている水無の体を一瞥すると、視線を泰騎へ戻した。
「脈……心音が、異様に速かったんだ」
それに加えて、血圧も相当高かったらしい。予定寿命を超過して生きていたのが、不思議なくらいだ。
潤は、咲弥と話していた時の水無を思い出していた。彼は、よく笑っていた。笑うという行為は、寿命を延ばすと言われている。末期がん患者にお笑いライブの映像を見せて、症状が回復した例もある程だ。
「楽しく、笑って生きる……か……」
人を殺める自分には縁のないことだと思っていたが、許されるのであれば前向きに検討したいものだ。と、潤が考えていると、ゴーグルを拾い上げた泰騎が顔を覗き込んできた。
「そうそう! いつ死ぬか分からんのじゃから、楽しく生きんと損じゃで!」
お馴染みの、綺麗に並んだ白い歯が光っている。
潤は苦笑と溜め息を吐き出した。
「ところで、泰騎。確認したい事があるんだが……」
「え? まだ何かあるん?」
泰騎は思い付く物事のない様子だが、潤は半眼で泰騎を睨んでいる。
「お前、端から俺を殺す気はなかったのか?」
「当たり前じゃろ。ガキの頃から、一ミリも考えた事ねぇわ。っつーか、ワシが弱かったらお前、別の誰かと組むじゃろ? ほんま、お前の隣を確保するんは骨が折れるで」
やれやれと肩を竦める泰騎を前に、潤の口元が引き攣った。
「じゃあ、もし……いざ、騰蛇が暴走したら、どうするつもりだったんだ?」
「目撃者全員殺して、騰蛇を宥めて、潤を連れて逃避行……じゃな」
「…………」
(どうしよう……言葉が全く出てこない……)
米神を押さえつつ、やっとの事で口から出たのは――溜め息だ。潤は頭の片隅で「とんでもない奴に求愛されているんだな」という事だけ、何となく、うっすらと、理解した。
そんな潤の心境など知りはしない泰騎は、潤の肩に手を回すと馴染みの白い歯を見せて、ロココ調の扉を指差した。
「ほら、行くでー。絶対、みーんな待ちくたびれとるで」
「……みんな……?」
潤は泰騎へ疑問を向けたが、泰騎は無声音で笑うだけだった。綺麗に並んだ白い歯を見せて。
そういえば、扉の外に数人の気配を感じる。
やっと解れた潤の顔が、再び引き攣った。