第六話『告白』―9
騰蛇は、過去に咲弥が行っていた人体実験で扱われていた子どもたちの事を、全員覚えている。人間の何十、何百倍という歳月を生きてきた彼にとって、記憶量だけでも膨大で。人間に祀られていた事もあれば、捕まった事も、使役されていた事も、過去にはある。
咲弥に捕らえられた時も、驚きはしたが自分にとっては一瞬に等しい時間だと、ほぼ眠って過ごしていた。それが、急に引っ張り出され、子どもと結合するなどという実験に加えられたのだ。当時、それこそ騰蛇は『そんな技術を得たのか』と感心したのだが、それもすぐに『儂と契約も交わしていない、人間如きが』と怒りに変わった。その怒りのとばっちりとなったのが、実験台となった少年たちだ。
自分の元に送られてくる少年が少しの間途絶え、その後送られてきたのが、潤だった。日本人離れした白い肌に、薄い色素の髪に、茶色い瞳を持った――大層顔付の整った、少女のような少年だった。単純に容姿に興味を持った。ただ、それはきっかけに過ぎず――。騰蛇が潤に憑く決め手となったのは、潤の無欲さが群を抜いていたからだ。自分が死ぬかもしれない状況だというのに、泣き喚く事さえせず。黒尽くめの女に言われた通り、用意された台の上へ横たわっていた。ほんの少しばかりの恐怖心は感じられたが、恨みなどという感情は感じ取る事が出来なかった。たかだか八歳の子どもが。
騰蛇は、気怠そうな息と共に言葉を零した。
『燃やし消すのは簡単だが――』
騰蛇は低く呟くと、微かに笑みとも取れる表情を咲弥へ向けた。
それではあまりに面白くない、と。
女は壁に沿って床を這っており、見事に頭の先から爪先まで黒い。忘れはしない。騰蛇自身から遺伝子の採取を行い、数年に渡って騰蛇を水晶玉に閉じ込めていた人物だ。
あの時は狭苦しい思いをした。と、騰蛇は思い起こしていた。次第に、騰蛇にも恨み辛みが記憶の奥から湧き上がってきた。
『まぁ、儂にしでかした事も勿論だが……それ以上に罪深い事をやらかしたな』
騰蛇が、咲弥に迫る。
蛇に睨まれた蛙――。だが蛙は、今ここで自分が死ぬとは微塵も思っていない様子で、神に向かってヒステリックに叫んだ。
「うちはいつも正しい! “罪”やなんて、うち以外の誰かが決めた基準やろ! そんなん、み――ッッ!」
耳障りな金切り声を発しながら、咲弥は頭部から騰蛇の口内へ消えた。
ものの数秒で、咲弥は黒いピンヒールのパンプスのみを床に残し、見えなくなった。
人間ひとりを丸飲みした白い大蛇は、外れた顎を定位置へ戻すために欠伸のように口を動かすと、まだ体内で動いている“獲物”へ意識を戻した。まだ何か叫んでいるのか、くぐもった声が聞こえる。
騰蛇は『五月蠅い女だ。徐々に消化してやろうと思ったが……』と嘆息すると、腹部へ力を込めた。全身が筋肉で構成されている、その強靭な肉体で。
“神”と呼ばれる大蛇の中で女は実に呆気なく潰れ、砕け、更に腹の奥へと追いやられていった。呑み込まれた体は時間を掛けて、消化されるのだろう。
『儂の選んだ宿主殿に“殺したい”と思わせるとは……相当な事をしてきたんだな。あの女』
食事を終えた騰蛇は、眠そうに欠伸をした。
「あぁ。良い事はしていないな。……手を煩わせてすまない」
『蛇に手はないぞ。足もな。儂が選んだお主の頼みだ。食事も出来たし、また眠るとするよ』
欠伸をもうひとつ残し、騰蛇は潤の体内へと吸い込まれるように消えていった。まるで、ホラー映画で幽霊が壁をすり抜けるかのように。
潤は大きく息を吐いた。騰蛇は本当に、すんなりと眠ってくれたようだ。きっと、自分が睡魔に弱いのは騰蛇の所為だ、と潤は心の片隅で呟き、
「良かった……」
安堵の息を吐く。
騰蛇が気分を高潮させると自然発火が起こるので、彼には眠っていて貰うのが一番だ。
それよりも――。
未だ水無の隣に佇んでいる相方に、大股で、足早に近付く。
潤は、呆けて突っ立っているその人物の胸倉を右手で掴み上げると、その勢いのまま床へ叩きつけた。べしゃっと血だまりが弾け、床とぶつかった泰騎の口からは呻きが漏れた。が、潤は侮蔑にも似た眼で、泰騎を見下ろした。
「約束は、守るんじゃなかったのか? 何で躊躇した」
怒りと苛立ちを含んだ声に、泰騎は小さく答えた。
「……ごめん」
だが覇気のないその返答が、余計に潤の怒りを買う事となる。潤は改めて泰騎の胸元を掴み、座り込んで俯いたままの泰騎に向かって、声を強めた。
「ごめんで済むか! お前……俺が今まで、何でお前と一緒に居たと思っ――」
「出来るか!!」
床を眺めたまま脱力していた泰騎に突として怒鳴り返され、潤が声を詰まらせた。目を丸くして固まる。
泰騎は「いや……」と小さく漏らすと、軽くかぶりを振って、続けた。
「出来ると、思うとったよ。……ほんの数分前までは……。でも、……実際にゃ……うん。無理じゃったな……。あんなん見てしもうたら……出来るわけないわ……」
泰騎は膝に手を付いてゆっくり立ち上がると、赤い飛沫が点々とついているゴーグルを頭から取り去り、投げ捨てた。ポリカーボネート――熱可塑性プラスチック――とは思えぬ鈍い音を立てて、ゴーグルが着地を果たす。静まり返った室内に広がった音は、少しだけ反響してから再び静寂を招いた。
ほんの一秒にも満たない時間が、ゆっくりと流れていった。
スローモーションのような時間に終止符を打ったのは、泰騎の荒らんだ語気だ。
「二十四年間生きてきて、唯一惚れた人間と同じ顔やぞ! そんなもん殺せるか!!」
この泰騎の言葉が、潤の刻を止めた。