第六話『告白』―8
痛みというものを知らなかった水無が、痛みに叫び悶えている。
先天的に騰蛇の遺伝子が体内にある水無だが、騰蛇の遺伝子が集中して癒着している部分が存在する。それが、先に泰騎の言った中心溝の頂点部。つまり、ここが水無の式神との“要”であり“核”となる部分だ。裏を返せば、そこを切ってしてしまえば騰蛇の力は使えなくなる。とはいえ、時間が経てば再生するので悠長にはしていられない。
泣き喚く子どもを相手に負い目が無いと言えば嘘になるが、泰騎はナイフを捻って細胞の結合部を更に抉った。頭蓋骨の割れる感覚が、ナイフから泰騎の手のひらへ伝わった。当然、先程から水無の頭部からは夥しい量の血が流れ出ている。眼球も赤く染まり、鼻からも血が滴っている。
「ぅ、ぁあああっ痛いッ! いたいっ! 止めて!」
本来ならば確実に命を落としている傷だ。
泣き喚く子どもの顔が、泰騎の眼に映り込んできた。
見ないように、見ないようにとしていたのに。
次の瞬間、泰騎は息を詰まらせた。手がナイフごと、小さな頭から離れた。
最後の最後、というところだ。こんな大事な場面で手を放して突っ立っている泰騎に対して、潤は少なからず驚いた。が、次いで怒りが込み上げる。
悠長にしている時間はないのだ。
今度は俺が言ってやろうか、「詰めが甘い」と。潤は、普段ならば考え及ばない毒を胸に抱いた。
視線の合わない泰騎を睨め付けると、潤は振り上げた刀の切っ先を下へ向けた。垂直に。
斬られた腹部を押さえて蹲っている水無の心臓部に、潤の刀が刺さる。ゆっくりと。だが力強く。体を突き抜け、真っ赤に染まった刃先が、床へも刺さり、止まった。
「う、え……ッぃ、やだぁ……いたい……死にたくな――ッげほっ」
咳と共に、大量の血液が床に散った。
水無の白い肌に赤い筋が何通りも流れ、落ち、床で撥ねた。少女と見紛うその顔は、呪い人形のように怨めしそうに潤を睨んだ。
「おま――ッ、おんっなじ……なのにぃ……」
苦痛に歪められた顔は、涙と血液が止めどなく流れ続けている。甚だしい量の赤い液体が、歪な形のまま床に広がっていった。
水無は縋るように咲弥を見たが、水無を生んだ当人は何も言わない。喜ぶでも怒るでも悲しむでもなく、水無を見ていた。咲弥の表情を表す言葉は『残念そうに』が最も適切だろう。「あぁ、折角作ったのに。でもまぁ、また作れば良いか」といった――暇潰しで作った粘土細工を壊された、子どものような顔だ。
刀を胸に刺したまま、水無はそんな咲弥の顔を見ていた。といっても、水無の目はもう赤い影しか映していないのだが。
「……あぁ……」
酷く擦れた声で呟くと、水無は微笑を見せた。どこに、だれに、という訳ではなく、独り言のようだ。もう頭を動かす力もない。呻吟と生に対する諦めが滲んで広がり、彼に淡い染みを付ける。
歪める力さえ残っていないその顔の、口角だけを僅かに上げて。
「僕も、……は……人間、なってみたい……な……」
声というより息に近い音でそう願うと、水無は十三年の短い生涯を終えた。
潤は水無の体から刀を抜き、血を払うと鞘に納めた。
一拍遅れて、水無の体が床に倒れる。
小さな体が赤い水を跳ね上げ、泰騎のズボンと、潤のタキシードに飛沫が掛かった。
水無の体が力を失くすと、彼の体から何かがぼんやりと浮かび出てきた。
大きい。
うっすらとしか見えなかった存在が、実体を成す。
白い大蛇だ。
存在意義の分からない、小さくて黒い翼が生えている。
潤は水無から、その大蛇へ視線を上げた。
「騰蛇」
潤が短く呼ぶと、真っ白い顔にある真っ赤な眼が、潤を捉えた。感情が読み取りにくい顔をしているのだが、騰蛇は頭を僅かに傾げて見せた。酩酊しているかのように朦朧とした様子だが、潤は「寝惚けているんだろうな」と察した。数秒、根気強く待つ。
『神様』、『聖獣』と呼ばれるその存在は、素っ頓狂な声でやっと潤に応えた。
『お主、どこのどいつだ?』
潤はそう言われるのが分かっていたかのように、嘆息した。
「左目の傷を見てみろ。潤だ。早くこっちへ帰ってこい」
『は? 潤はもっと小さくて目がくりっとしていて可愛いぞ』
地を這うような低い声で、騰蛇はそんな事を言っている。
「お前が俺の中で寝始めてから十年は経ってる。簡潔に言うと、お前は無理矢理叩き起こされて、寝ぼけて暴れた挙句、別の人間の体内に居座って落ち着いていたわけだ」
淡々と告げると、潤は再度嘆息した。
白い大蛇はやっと合点がいったようで、
『大きくなったな。見違えたぞ。儂が起きていた頃は、まだ小さく、しょっちゅうベソをかいていたと言うのに……』
騰蛇はそこまで、感慨深く頷きながら話していたのだが――何も言わない潤の態度を見て声色を変えた。
神が、恐る恐る、伺う。
『潤……怒っているのか?』
「怒りもするだろ……」
騰蛇に対して言ったわけではないので、声は抑え気味だった。
今のこの事態を招いた自分と、水無のすぐ脇で突っ立っている相方に対して、またしても嘆息した。
軽くかぶりを振る。
「……怒りついでに、頼みたい事がある」
『どういった流れでそうなるのか些か疑問だが……宿主殿の頼みなら、何なりと』
騰蛇は鱗に覆われた白い頭を下げて会釈する。騰蛇は、今はあくまで潤の式神であり、体を間借りしている居候だ。命令されればそれに従う。ただ、少し感情に左右されやすいのが騰蛇の欠点だった。故に、潤から「俺が死ぬまで眠っていろ」と命じられ、十年程眠り続けていた。
騰蛇は潤の視線を追った。
その先には、床を這いながら移動している黒尽くめの女の姿があった。乱れた漆黒のロングストレートヘアは整えられておらず、ドレスの裾は焦げ、解れ、破れている。
痛めている腰を軸に携えている身体で、この場から逃げられるとも思っていないだろうが――いや、あの女ならば考えているかもしれない。
潤が、騰蛇に告げる。
「あの女を、殺してくれ」
騰蛇が、『ほう?』と、興味を滲ませた疑問の息を漏らした。
『自分で出来るだろう?』
何故だ。と、訊いてくる。
潤は眼を伏せた。
「俺が殺したいと思った人間を、俺は殺せない」
潤の言葉を聞き受け、騰蛇は大きく長い体を動かした。