第六話『告白』―7
ピット器官が無くなった潤にも感じ取れるほどの熱風が、肌へ届いた。後ろを振り向くことなく、潤は無意識に、未だにへたり込んでいる咲弥の脇腹を蹴り飛ばした。低い呻き声が聞こえたが、無視して自分も反対側へ跳び、姿勢を低くとる。
潤と咲弥の間を、焔が蛇のように通り過ぎた。
水無の後ろから、泰騎が叫ぶ。
「って、何でその女助けとんじゃ、ぼけ! 条件反射で助けんな!」
「五月蠅い。お前だって『任せとけ』と言っていたくせに。水無はさっきよりも元気じゃないか」
「痛いわね! レディはもっと優しく扱いなさいよ!!」
乱れた長い黒髪の先と、黒いドレスの裾や装飾を焦がした咲弥が怒鳴った。
「お前は黙ってろ」
最後の台詞は、潤と泰騎の声が見事に重なった。
一瞬押し黙った咲弥が、水無へ向かって声を張る。
「ちょっと水無! 早くこいつら殺しちゃいなさい!!」
先刻まで潤の事を『あたしの夫』などと、はしゃいでいたとは思えぬ手のひらの返しようだ。
それより『次を作れば良い』と言っていた相手に向かって、まだこんな態度を取れることが、潤には信じられなかったのだが。しかも、潤が助けなければ水無の炎に焼かれていたという事は念頭にないようだ。
咲弥の人に対する認識は、きっと、虫や動物と変わらぬものなのだろう。それは杉山が自分も含めて“生き物は須らく同等の生き物”として接していたのとは相違する。
咲弥は、自分以外を奴隷か家畜か、それ以下の何かだと思っている。そんなレベルで、自分だけを特別視している。
聞いた限りの、彼女の育ってきた環境から導き出した憶測でしかない。だが、これは潤の中で妙に納得できる仮説だった。断定しても良い。そこまで考えて、潤の中で生まれたものがあった。それは沸騰した湯のように、彼の中で気泡を生んで、弾けた。
同時に、困惑した。
(今……初めて……)
自分の感情に任せて、人を、殺したいと思った――?
「潤! ちょっ! あほ!」
泰騎の声で、時間から置いてきぼりを食らっていた潤の意識が脈打った。視界に、影が映る。
潤自身が今まで、いかに騰蛇の恩恵を受けていたのか思い知るには充分すぎる至近距離で、十数年前の自分がこちらを見下ろしていた。掌をこちらに向けて。
そして小さな潤は、感情の定まらない顔でこう言った。
「咲弥様が、殺せって言ったから」
低い呟きと共に、火炎が向かってくる。
潤は、右方向へ体を転がして間髪避けた。まだ再生の済んでいない左腕を捨てて。
左肩から腕にかけて、焼け落ちそうな程の火傷を負った。だが、この程度で済んだのは不幸中の幸いだ。髪の毛も少し焦げたらしいが、潤にとっては更にどうでもいい事だった。幸い、潤は“熱さ”には強い。それよりも信じられないのは、水無の言動だ。
「お前、あんな事を言われてよくそんな……」
一瞬、『洗脳』という単語が頭を過ったが、水無の顔を見てその考えは消え去った。
先程、潤諸共咲弥を消し去ろうとした少年だが――堪えようとしているのか、力の込められているその顔には努力の甲斐なく涙が伝っている。
緩んだ弦のような声で、水無は言葉を発した。
「僕には、咲弥様しか居ないから……、咲弥様が、僕の事を……どう思ってたって……僕は……」
水無の言葉はそこで止まり、振り向いた彼の頬をナイフが掠めた。白い肌の上に、赤が横に細く描かれた。溢れた赤が、下に向かって垂れ出す。
泰騎は水無と潤の間に入り込むと、背中を向けたまま潤を怒鳴った。
「言うた先から、腕をそんなんにしてどうするんじゃ!」
潤は焼け爛れた左腕を見下ろし、嘆息を溢した。
「腕一本で済んだんだから、御の字だろ」
「ほんまお前……能天気なもんじゃな」
肩を落として溜め息を吐く泰騎の背後で、潤が腰を上げた。力を入れると、左腕はやはり痛む。
「いや、凄く痛いぞ。床をのたうち回れるなら、そうしたい」
「あぁー……それは、ちょい止めて……」
「冗談だ」
げんなりと呻いた泰騎に、潤は真顔で答えた。
それに対して、泰騎は喉に声を詰まらせてから息を吐き、唸る。
「冗談が分かりにくいわ」
「でもまぁ……」
潤は呟きながら、水無を見る。涙は跡だけを残し、消えていた。潤は水無の行動を不思議に思ったのだが、自分がもし、雅弥から同じことを言われたらどうしていただろうかと想像した。
結論は、目の前に居る子どもと同じだ。
例え雅弥に「死ね」と言われようが、自分はそれに従う自信がある。つまり、目の前の子どもは咲弥の命令に従って、本気で自分を殺しに来るわけだ。きっと、そうだろう。
無傷の右手を、刀の柄へ添えた。
「利き腕が無事で良かった」
潤の言葉を聞き、水無が眉根を寄せた。
「何を言ってるの? お前、ずっと左手で……」
「俺は、お前と同じ右利きだ。遺伝子が同じなんだから、考えれば分かる事だろ」
「でも……」
「生まれつきの利き手に騰蛇は関係ないからな。普段は、どちらも使えるように左手を使っているだけだ」
潤が説明を終えた頃には、泰騎の姿が消えていた。
ナイフを逆手に持ち、水無の背後から斬りかかる。当然、水無はそれに気付いて避けたのだが。
「潤、こいつの騰蛇の遺伝子が癒着しとるトコは多分、前頭葉と頭頂葉の間にある中心溝のてっぺんじゃで」
「根拠は?」
潤が短く問うと、にんまり笑って、泰騎が答えた。
「さっき押さえた時に、こいつ呻きよった。痛みを感じんのに。おかしいよなぁ? あとは、ワシの勘じゃ!」
「なら、確実だな」
満足そうに笑うと、潤は左足を引いた。焦げた手首から先の無い左手で、鞘を押さえる。手を刀の柄に添えたまま腰を低くとると、左足で床を蹴り、前方へ跳びながら抜刀した。
水無との距離は、三歩ほど。
瞬の間で水無へ辿り着き、抜いた刃は空気との摩擦音を奏でて、虚空を切り裂いた。刃先から逃げ果せた水無の体を、ナイフが掠める。
「二対一なんて、卑怯だと思わないの?」
水無の問いに、潤は短く「別に」と答え、泰騎は「全然!」と笑った。
「俺たちがしているのは試合じゃない」
「それこそ、ワシらは二対十とか普通じゃし!」
バイクのテールライトのように銀の光が踊る。その周りを、紅い炎が追いかけている。
水無の顔に、疲労が滲んできた。騰蛇は、傷は治しても基礎体力までは補えない。しかも騰蛇の火力を、調整もせずに垂れ流しにしているのだ。疲れない筈がない。更に相当な出血。
その様子に気付いた潤が、ちらりと泰騎を横目で見た。泰騎は、相変わらずの白い歯で笑い返す。
潤の銀色が、水無の腹部を叩いた。鮮やかな赤が空中に花を咲かせたと同時に、バランスを崩した水無の頭を、泰騎の銀色が突き刺した。
水無の、頭の天辺。
普段のボーイソプラノとは似ても似つかない悲鳴が、室内に響いた。




