第六話『告白』―1
泰騎がここへ辿り着いたのは、他のメンバーが建物内へ入るより先だった。
泰騎は目の前にある扉を眺めてみた。随分と重そうな、ロココ調の装飾が施された扉だ。扉の引手に手を掛ける寸前で、動きが止まる。普段の彼ならば、躊躇なく扉を開け放つところであろうが――。
(どうしよ……。勢いで飛び込んで来たのはええけど、ほんまにここで全部決まるんなら、心の準備ってもんが……)
と考えかけたところで、泰騎は思い切りかぶりを振った。
大きく息を吸い、
(覚悟なんて、景ちゃんトコに腕を置いてきた時に出来とる筈じゃろ)
自分に言い聞かせる。
しっかりとドアハンドルを持つ手に力を込めて、扉を押した。扉は、見た目から想像するよりも遥かに軽かった。
「いつだったか僕の肩に手を置いてきた灰色の人、何しに来たの?」
扉を開けきるより先に、泰騎にとって懐かしい声が、不機嫌そうに言って寄越してきた。声の主が泰騎の姿を見るよりも先に――だ。
違和感を抱いたと同時に、泰騎の中で、ある仮説が立てられる。それを追及する事は後へ回し、泰騎は室内へ入って扉を閉めた。微妙に立て付けが悪い。
泰騎は水無へ、取り敢えず別の質問を投げかける。
「……ワシが居る事が分かっとったんなら、何でドアごと吹っ飛ばさんかったん?」
「その扉、咲弥様のお気に入りなんだ。だから、人間如きの為に壊したくないんだよね」
今まで前方を見据えていた水無が、泰騎の顔を見上げてきた。まるで少女のように、“可憐に”笑って。
「だって、そんな不意打ちしなくたって、僕は君をいつでも殺せるんだもん」
水無は無邪気な殺意を表明した。
反射的に、泰騎は腰に下げた刀を抜きそうになった。が、踏み止まる。まだだ。まだ、状況把握が出来ていない。何せ、今目の前にあるものは予想していた場面と全く違うのだ。いや、室内が所々焦げたり濡れたりしているのは、考えていた事と一致している。室内の、更に奥にある小部屋は焦げて穴が開いている。その穴からは、ベッドの骨組みらしきものが見えていた。その周りの焼け具合が、最も酷いようだ。きっとそこが火元なのだろう。それは理解できる。
だが、泰騎が理解出来ないのは、そんなものではない。今居る室内の奥手に立っている、黒髪の女と……色素の薄い長髪だ。
「なぁ……ちっこいの。アレは、何なん?」
泰騎は自分の敵であろう少年に向かって、問い掛けた。
水無は『ちっこいの』と呼ばれた事に対する不愉快さを隠さず、笑みを消して睨み返した。
「僕には『水無』っていう可愛い名前があるんだけど」
「そんなら、ワシにも『泰騎』っていうカッコええ名前があるんじゃけど? それより、この状況の説明をしてくれんかなぁ?」
(そもそも『水無』なんか、六月――JUNE――の『水無月』から取っただけの名前じゃろが。……って言ったら、ソッコーで殺されるんじゃろうけ――)
泰騎の嫌味交じりの思考は、彼の直感によって両断された。咄嗟に跳び退く。
泰騎が先刻まで居た足元の床材が、見事に黒く焦げ熔けている。素材はエポキシ樹脂がベースらしいが、更に下の床材まで真っ黒に焦げていた。
床を熔かした少年はやれやれ、と肩を竦めて大袈裟な溜め息を吐いている。
「生ごみの名前なんか聞いたって、覚えてられないよ」
「んじゃあ、覚えてくれんでええわ」
言うが早いか、泰騎は抜刀して水無を斬り付けた。一瞬煌めいた白刃は、案外すんなりと水無の左手首を骨ごと切断して撥ね飛ばした。
切断面からは真っ赤な血液が噴き出す。だが水無は「斬れちゃった」と、呟きながら綺麗な切り口を指で突いている。その言い振りは、実に無感動だ。その仕草から、水無には痛覚が無いのだという事が伺えた。
(あぁ、こいつ、『ヤベェ奴』……いや、『厄介な奴』なんか)
痛覚の鈍い人間の厄介さは泰騎も知っている。直接敵対関係にあったわけではないが、形容された例を思い出す。
“おきあがりこぼし”。確か、そんな言い様だった筈だ。
泰騎は、悟られないように水無から五メートルほど距離を取った。
それと同時だ。少し離れた場所で真っ黒なドレス姿の咲弥と談笑していた、タキシード姿の潤が声を上げたのは。
潤は、咲弥に用意されたタキシードを着ていた。着丈の微調整を行うためだ。左手は、袖から覗いてはいない。手首から先が無いのだろうが、裏を返せば、手首までは再生しているという事になる。普段ならば一か月近く掛かるところが、今はまだ、たったの数時間しか経っていない。
彼は、咲弥と共に部屋の奥にあるソファーの近くに立っていた。泰騎と水無が睨み合っていた事になど気付いておらず、そもそも、泰騎が入室してきた事にすら気付いてはいなかった。
そんな彼がふと視線を入り口の方へ向けてみると、水無の左手から血が噴き出しているではないか。それは、彼にとって衝撃的な光景だ。彼は、黒いドレスを纏った女性にしがみついた。
「あっぁ、あ、あの、咲弥ちゃん、水無君からたくさん血が出てるよ……?」
二十三歳の男が、狼狽えながら、半ベソで。
普段から社員に、『情けない』だの『頼りない』だのと散々言われている雅弥の百倍は情けない声だ。その上、彼の今の挙動不審っぷりは、雅弥の比にならない。
「あらあら潤ったら。可愛いわね。侵入者なんてよくある事だもの。水無に任せておけば大丈夫よ。そんな事より、パンツの裾は短くないかしら?」
咲弥は、自分の身体に抱きついている潤の臀部を撫で回しながら笑っている。
普段なら「よくあったら駄目じゃろ!」という叫び声が上がりそうなものだが――離れた位置にいる泰騎の顔からは、表情が抜け落ちていた。
水無は、むすりと口を山の形に結んで腕を組んだ。――左手首より先は無いが、出血は止まっている。
おもしろくない。
そう。水無にとっては、とても、おもしろくない状況だ。
一時間ほど前までは、とても気分が良かった。
咲弥が、潤の中。中も中の、奥の方で眠っていた騰蛇を潤から抜き取った。そのまま、騰蛇を水無の中へ送り込んだのだ。それは、水無が想像していたよりも遥かに容易に成された。そしてそれからというもの、水無にとって、自分がまるで別の生き物に生まれ変わったようにすら思えた。目視せずとも、生き物の位置を感じ取る事が出来るようになった。それも含め、身体中の神経が敏感に多様のものを感じ取るようになったのだ。生物の息遣いに体温、心音まで。あまりに膨大な情報量なので、それに関しては少々ウザったく感じはしたのだが。
その直後だった。潤が目を覚ましたのは。それからというもの、一体何が気に入ったのか……咲弥はずっと、彼にべったりだ。端的に言えば、水無にとって、それがおもしろくない。
泰騎が入ってくる数分前の事だ。頭上に式神の反応を感じたと思ったら、咲弥の仮設寝室が水浸しになった。その時には既に咲弥と潤は寝室から出てきていたので、ずぶ濡れにならずに済んだのだが――。
当然、咲弥には“水が室内に降ってきた”としか認識できない。つい『大火事になると大変だから、僕が水を撒いたんだ』と、水無は咲弥に向かって嘘をついてしまった。嘘など、今まで咲弥にはついたことがない。彼女は、自分にとっての神なのだから。そう、思っていた。
自分にとって特別であり、彼女にとって自分が特別なのだ。そうでなければならない。
それなのにどうだ。
自分は放ったらかし。水無自身の記憶にある限りで言えば、ここまで咲弥から蔑にされたことなど、ない。
(僕を差し置いて……)
腹が立つ。それ以外に、水無に言い表す事の出来る言葉はなかった。
水無が抱いているのは、実に分かりやすい嫉妬だ。ここ二年間、咲弥が潤に会いたがっていた事は、水無自身一番近くで見てきたのでよく知っている。知ってはいるが、予想以上の執心振りに、水無は未だかつてないほどの妬心に駆られる事となった。
親の愛情を一身に浴びて育ってきたのに、ある日突然、それを弟に総浚いされたような――。
(僕の方が、小さくて可愛いのに……)
何の為に成長を止めてまで彼女の傍に居るのだろうかと、虚しく思えた。そうだ。そもそも彼女は、十歳までしか興味を持たなかった筈だ。実年齢が三十五歳を過ぎた辺りまでは、そうだった。
考え出すと苛々は募り、水無は現状について投げやりになっていた。
侵入者が押し入った事にも気付いていたが、そんな事はもう、水無にとってどうでも良かった。いざとなれば、自分で何とかすれば良い。何とでもできる。その自信もある。
(金髪双子を遺伝子のデータを保存してる部屋へ行かせたから、まぁ、大事には至らないでしょ。僕よりは遥かに弱いけど、それなりに使える奴らだし)
はぁ。
小さな溜め息を吐くと、水無は灰色の頭へ目を向けた。
(そうだ。咲弥様はさっき、『水無に任せれば大丈夫』って言ってた。あの欠陥品を消すのは、この後で良いや)
水無が睨みを効かせると、泰騎も目線を合わせてきた。黒いふたりを見詰めていた時のまま、まだ呆けているが。
水無は苛立ちを隠すことなく、言葉を吐いた。
「僕、今、むしゃくしゃしてるんだ」
泰騎は息を吐き出すついでに「ふぅん」と答えた。答えたと同時に、後ろへ跳んだ。