第五話『こんばんは、侵入者です』―3
「あ、そういえば。祐稀ちゃんには特別メニューがあるのよね」
のそりと身体を起こし、恵未は自分のリュックを漁り始める。奥の方から小さな保冷バッグを取り出すと、祐稀へ差し出した。
「二〇〇ミリリットル! 元気いっぱい頑張りましょ!」
保冷バッグを受け取った時点で、祐稀の頬が赤く染まった。中身を取り出すと、更に恍惚した。
祐稀の手の中には、小ぶりなペットボトル。真っ赤な液体が詰まっている。
「あ、あ、有り難うございます……! こんなに頂いて……恵未先輩、貧血とかないですか? 大丈夫ですか?」
「私を誰だと思ってるの? お菓子を食べたら完全回復よー」
と言いながら、恵未はポテチの大袋を傾け、中身を口の中へ滑らせた。
祐稀の体内には、通常女性にあるべきものがない。子宮はあるのだが、子宮内膜が無いのだ。否、“無い”というより、“剥がれない”というべきか。これは欠陥ではなく、彼女の血統では当たり前の事だった。
彼女はダンピールだ。父親が――大分血統は薄れてきているのだが――吸血鬼の末裔。吸血鬼というと架空の種族として有名だが、実際には細々と存在している。母親は人間。両親共に健在で、姉もひとり居る。
3人とも、《P・Co》本社の工作員として働いている。因みに、両親の仲は凄く、鬱陶しいほど、良い。祐稀と両親の仲は……悪くはないが、祐稀は距離を置きたい年頃であった。《P・Co》の社宅であるマンション内で、別々に暮らしている。姉も結婚して家を出ているので、一緒に住んではいない。
祐稀は吸血鬼と人間のハーフではあるが、不死ではない。傷の治りは早いが、潤ほどでもない。ニンニクも平気で、十字架も、銀も、杭も、聖書も、流れる水も平気だ。これは父親もなのだが、太陽の下も歩けるし、鏡にも映る。あと、祐稀には“牙”がない。八重歯が大きいわけでもない。
見た目は本当に、只の人間だ。なので、牙で皮膚を破って血を吸う事もできない。自身は他人の血液を欲するが、直接吸う事ができないのだ。そして、人を傷つけてまで――という葛藤もあった。
因みに、人間の血液が主食となる血統は、現代ではほぼ存在しない。絶滅寸前の理由としては“ハンターに狩られた”事が主な要因だ。
細菌や寄生虫に対する耐性が強いので、生きている野生のネズミ等に喰らいついていた時期もあったほどだ。
因みに祐稀の父親の血統は、自身の血液を人間に与える事で血族を増やしていく。といっても、“全員吸血鬼になれる”わけではないのだが――。
つまるところ、他人の血を貰ったところで相手が吸血鬼になることはない。
祐稀はペットボトルの蓋を捻ると、中の赤い液体をひと口飲み込んだ。まろやか――という表現が正しいのかは分からないが、甘みの中に仄かな酸味を感じる。上質な脂のような、そんな味だ。少なくとも、祐稀はそう思っている。
ネズミの血液とは雲泥の差だ。ネズミは例えるなら、駄菓子屋にある薄っぺらく伸されたカツ――しかも、原材料は魚類――だ。それはそれで美味しいのだが、食べ過ぎると胃に来る。
恵未の血液が祐稀の喉を通り過ぎる。
至福の時とは、このことだ。祐稀はいつも思う。
食べ物の好みとしては、肉より野菜派だ。血液が特に欲しくなる周期は、月に一度。所謂、月経のタイミングで欲しくなる。だが、量は数ミリリットルで構わない。構わないが、好きなものは好きなので、量があると嬉しいものだ。
祐稀の恍惚たる表情が余程興味深かったのか、英志はペットボトルの中身を飲んでいる祐希を凝視してしまっていた。その視線に気付いた祐稀が、英志を睨みつける。
「何だ。『血を飲むのが気持ち悪い』って言うなら、それはもう聞き飽きたからな」
「いやぁ……ホント、美味そうに飲むなぁー。と思ってさ」
予想と反した答えに、祐稀は一瞬だけポカンとした。そんな事を言ってきたのは、恵未と雅弥と泰騎と潤と、相方の一誠くらいのものだ。大半の人間は、気持ち悪がって敬遠する。祐稀自身、そちらの反応の方が慣れている。
英志は自分が持ってきた、先程とは別の雑誌を取り出しながら笑った。
「見た目はトマジュースだから、気持ち悪いとは思わないな。オレ、トマト好きだし」
「トマト……ジュース……」
ペットボトルにまだ少し残っている赤を眺めた。なるほど。言われてみればそう見えなくもない。祐稀は妙に納得すると、残っていた血液を飲み干した。
「恵未先輩、ごちそう様です。美味しかったです」
「喜んでもらえて良かったわー。今度はペットボトルにトマトの写真でも貼っておこうかしら」
悪戯を考える子どものように、恵未が笑って見せた。
「っ、眩しい!」
両手で顔を覆う祐稀。
「祐稀ちゃん、大丈夫? 鼻血が出てるわよ? 貴重な血が鼻から出てるわよ?」
恵未の言葉と祐稀の鼻血に反応し、一誠が素早く祐稀から距離を取った。
祐希の指の間から流れ出る赤い液体を、恵未は取り敢えず自分のTシャツの裾で塞き止める。
「ひっ! 止めて下さい! お召し物が汚れますから!! それに、そんな事したら……ッ! いけません! 先輩の鍛えられた健康的な腹筋がチラチラ見えて……あぁっチラチラと! もう少し上に上げてくださっても結構ですよ!」
鼻血の量が増えた。スポーツメーカーの黒いTシャツに、更に濃い染みが広がる。「祐稀、心の声が大声で漏れまくってるよ」という一誠の、蚊の羽音の様な擦れた声は誰にも届かなかった。
「黒いから大丈夫よ! それに、これからもっと血で汚れるんだから!!」
恵未はこれからの意気込みも含めて、祐稀に向かってにっかりと笑う。
先程の一件から落ち着きを取り戻した伊織が、緑色の瞳を恵未へ向けて首を傾げた。
「そういえば、恵未さんは手ぶらなんですか?」
「手ブラ!? 恵未先輩はスポーツブラジャーをご着用だ! 伊織、お前害の無さそうな顔をして、恵未先輩をそんないやらしい目で見ていたのか!」
「いや、今度は祐稀が落ち着け。鼻血凄いし。とにかく落ち着け。座れ」
凌が淡々とツッコミを入れるのだが、祐稀の耳にはいまいち届いていない。
渦中の恵未は、構わずアーモンド入りのチョコ菓子を開封している。
理不尽な怒りを向けられている伊織はというと、いつもの笑顔で首を反対に傾げた。
「祐稀ちゃん、ブラジャーじゃなくて、持ち物の事だよ。それにボク、恵未さんは恋愛対象外だから。安心してね」
「そうだぞ。安心しろ。伊織は35歳以上じゃないと勃たな――」
サブマシンガンの銃口を英志の口へ押し込む。そんな伊織は依然笑ったままだ。
「英君、下品」
「そういや伊織、この前も麗さんが来た時にガン見してたよな」
英志の代わりに呟いたのは、恭平だった。
「……何で、こいつ等はこういう話題から離れられないんだ?」
げんなりと、凌が額に手を当てた。
隣の尚巳は、英志の持ってきた雑誌を捲っている。
「そりゃ、お年頃だからだろ。凌はそんなムッツリだから、陰で女アレルギーだとか、ホモだとか噂されるんだぞ」
「え、何だそれ。初耳なんだけど」
「あ、知らなかったのか。そりゃ悪い。ほら、見てみろよ。この白い柔肌を」
雑誌を広げて凌に近付ける。凌は思わず目を瞑った。
「陰で何と言われようと、やっぱ無理」
目を瞑ったまま、両足の間に尻を落として――俗にいう“ぺたん座り”をしている少女を押し返す。砂浜で黄色い水着を着ているその少女は、文句も言わずに華やかな笑顔のまま凌から遠退いた。
「まさか……凌先輩って、童貞……?」
恭平が、膝の上で別の雑誌を広げたまま驚愕の表情を凌へ向けている。
凌はやっと目を開けたのだが、恭平の方を見ようとはしない。
ふっと、僅かに笑う。顔面に、濃い影を落として。
「童貞に戻れるなら……戻りたい……イチからやり直したい……」
恭平は、それ以上訊こうとはしなかった。
「恵未の下着姿は平気なのになぁ。あ、恵未。おれもアーモンドチョコ欲しい」
若干の渋りを見せた恵未からチョコをふた粒受け取りながら、尚巳は苦笑した。
凌が口元を歪めて、呟いた。
「恵未を女として見てるのは倖魅先輩くらいだろ」
「まぁ、スポブラにボクサーパンツだもんな。一個やるわ」
恵未から受け取ったアーモンドチョコをひとつ、凌へ渡す。恵未はそれを無視して、残りの丸っこいチョコレートを口へ放り込んだ。




