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第一話『日常』―4

「恵未が……全員分のお茶を淹れてる……」


 間髪入れず、恵未の右こぶしが凌の右肩をえぐった。ゴリッという音と共に、パキッという乾いた音も聞こえた気がする。ともあれ、凌が右肩を押さえてデスクに突っ伏したのは事実だ。


「私だって、自分以外のお茶を淹れるくらいするわよ」


 そんな恵未の言葉は、凌には届いていない。恵未の置いた湯呑みから、茶が飛び出してデスクを汚した事にも、気付いてはいない。更にいうと、凌の湯呑みに茶クズが浮きまくっていることも、彼はまだ知らない。


「恵未は儀式に混ざらなくて良いのか?」


 凌の隣に座っている尚巳は、恵未から湯呑みを受け取りながら訊いた。

 恵未は短く唸ると、壁際の席へ目をやる。ふたりの成人男性が、成人男性をサンドイッチしている。傍目にはとても暑苦しい光景だ。


 恵未は嘆息した。


「私じゃ、あそこには入れない」

「恵未でもそんなこと思うんだ」


 意外そうに言うと、尚巳は茶をすすった。少し渋いが、凌の湯呑みほど、茶茎は入ってはいない。


 恵未は、じゃれ合う成人男性三人を見据えた。


「私はあの時、現場に居なかったから」


 何かを諦めたような溜息を吐くと、恵未は自分のデスクに自分の湯呑みを置き、隣の席に倖魅の湯呑みを置いた。


「潤先輩、どーぞ。羊羹にはお茶! ですよ」


 明るい笑顔で湯呑みを差し出すと、もみくちゃにされていた潤が、湯呑みを受け取った。


「有り難う」


 茶の茎は入っていない。


「恵未ちゃーん。ワシにもお茶、ちょーだい!」

「はい。泰騎先輩もどうぞ」


 恵未から湯呑みを受け取ると、泰騎は小躍りしながら湯呑みを掲げた。


「ひゃっほい! OLさんからお茶もろた! 所長冥利に尽きるで!」


「泰ちゃん、泰ちゃん。皆に配られたお茶だし、受け取ったの、泰ちゃんが最後だからね。しかも恵未ちゃんは、果たしてオフィスレディなのかどうかも怪しいし」


 後半は小声で言いながら、倖魅が泰騎の頬を突いた。それに対して、全くダメージを受けた様子もなく、泰騎はまだ小躍りをしている。


「ええんよー。可愛い後輩からお茶貰えるだけで嬉しいし。なっ! 恵未ちゃん、ありがとー」


「そう言って貰えると、私もお茶の淹れ甲斐があるってもんです」


 恵未は白い歯を見せて笑うと、勇ましく、拳を顔の前で構えた。


「『茶を淹れる』って意気込みを超えてる……」


 右肩を押さえたまま、凌が呻く。自分の湯呑みに茶クズが入りまくっていることには、まだ気付いていない。


「ところで、潤先輩が持って帰ってきたのは何だったんですか?」


 報告書を書き終えた尚巳が、プリントアウトした用紙を潤の席まで持ってきた。視線の先は、泰騎のデスクに乗っている箱だ。答えたのは泰騎だった。


「うん。饅頭なんじゃけど……ほら、羊羹食った後じゃし、袋開けたら早めに食わんといけんじゃろ? ちょっと多くてな。二十四個入りなんよー」


 椅子に乗ってくるくる回りながら、泰騎が饅頭の箱を叩く。


「あぁー。じゃあ、お饅頭は明日のおやつですね。で、どこのお土産なんですか?」


 今度は潤へ視線を向ける。潤が、尚巳の報告書から顔を上げた。読み終えた報告書を、ファイルに綴じる。


「群馬だそうだ」


 尚巳が、丸められてデスク脇のゴミ箱へ捨てられている饅頭の包みを見た。昔ながらの温泉マークらしきものが見える。かなりガチガチに丸められているので、マークが見えたのは奇跡的だ。


「温泉? もしかして、草津温泉? 仕事じゃないんですか?」

「社長の事だから、仕事ついでの娯楽だろう」


 いつもの事だとでも言いたげに、潤が答えた。実際、今回の土産もそういった流れで購入されたものだった。気まぐれで出先の観光地へ赴いては、その土地の名物やら珍味やらを買ってくる。付き合わされる秘書としては、たまったものではないだろうが。


「社長も、もうええ年じゃからなぁ。温泉でゆっくりもさせてやらんと。過労死するで」


 “社長”相手に上からのもの言いだが、泰騎にそのつもりはないし、それについては他の者も周知のことだった。


「お土産のチョイスなんて、おじいちゃんみたいだもんねー。前回は牡蠣の佃煮と、お漬物だったし」


 自分の席で湯呑みを持っている倖魅も、まるで親戚のおじさんの事を話しているかのような口ぶりだ。それは社長が慕われているからか――はたまた舐められているからか。前者だと思いたい。


 尚巳は、もう見慣れた年長三人組の社長に対する態度には、何も言わない。

 代わりに、今まで誰も口にしなかったことを口にする。実にあっけらかんと。


「潤先輩の定期検査って、どんなことをするんですか?」


 恵未は『儀式』と言っていたか。年に二回しかないそのタイミングに出くわす事は、少ない。

 普段から、暑苦しい成人男性サンドイッチの光景をたびたび目にするが、気になる。気になったら、訊かずにはいられない。それが、尚巳だった。


 時間が止まったかのように思われたその場の空気だが、壁に掛かっている時計の針は動いている。随分長い時間に感じられたが、実際には五秒ほどの沈黙だった。


 口火を切ったのは、当人。潤だ。


「普通の健康診断と、大差ない。身長、体重、血圧の測定、採血、検尿、心電図、脳波……そんな項目を一日かけて調べる。それだけだ」


 尚巳の“そんなことが聞きたいんじゃない”と言いたげな視線を感じたが、潤はそれ以上口にしなかった。尚巳も、言及はしない。

 腹を空かせた野生の熊のような恵未。

 口元は綺麗な弧を描いているが目が笑っていない倖魅。

 デスクに上半身を預け、頭にあるゴーグルをコンコンと指でつつく泰騎。

 いずれも無言だが。そんな視線を一身に浴びて、尚巳は次の言葉を失っていた。


 時計の針は六時を回っている。


 沈黙を破ったのは、やはり潤だった。


「報告書は受け取ったから、上がって良いぞ」


 目の前の人物にそう告げると、潤は別の書類を広げて読み始めた。


「はい。お疲れ様です」


 もう、そう答える事しかできなかった。尚巳は、依然として突き刺さる恵未の視線を受けながら自分の席へ戻った。倖魅と泰騎は、既に自分の作業へと戻っている。泰騎はファッション雑誌を眺めているだけだが。


 隣に座っている相方は、まだ痛むらしい右肩をさすりながらパソコンに向かっている。尚巳はそんな相方を横目に捉えながら、荷物をまとめた。


「お疲れ様でした。お先ですー」


 一礼し、所長室を後にする。太陽は大分傾いているが、外はまだ明るい。


 尚巳は鞄を握り直すと、徒歩零分の家路へついた。



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