第四話『13日の金曜日』―11
《13日の金曜日》。それが、今咲弥の束ねている組織の名らしい。
イエス・キリストが磔にされた日から取ったのか、ホラー映画のタイトルから取ったのかは定かではないが。
あまり趣味の良い名前ではないな。と、眼前で広げられている黒いドレスを眺めながら、潤は思った。
腹にあいた風穴に巻かれている包帯には、血が滲んでいる。乾いているところを見ると出血は止まったらしいが、動けば傷口が開くかもしれない。出来る事なら極力動きたくないものだ。
だが、それを許さない者が二名――
「ヒールの高さは何センチが良いかしら」
「そこの欠陥品の身長を越さないようにするなら、五センチくらいが限度じゃない?」
咲弥と水無。『欠陥品』とは、自分の事だろうと潤は確定付けた。ふたりは純黒のドレスを壁に掛け、今はハイヒールの高さについて相談しているようだ。
この光景、もう何時間になるだろうか――。途中で寝てしまっていた気もする。
潤はベッドの上で上半身だけ起こし、背を壁に預けてその様子を眺めていた。
何なんだ。ここへ来てから、潤自身が幾度も考えた事だが、一向に答えは出ない。
自分の身に起こっている状況が、未だに把握できない。言っている言葉は理解出来るのだが、意味を理解することを全身が拒絶している。
いっそ寝ているふりをしていれば良かったと後悔したが――今更だ。
とにかく、婚姻届にはまだサインをしていないので、力の限り抵抗しよう。潤はそう考え、咲弥へ視線を向けた。
「桃山さん。俺はまだ動けそうにないので、衣装の調整は後にして頂けませんか?」
「ちょっと。結婚相手を苗字呼びはないんじゃない? そうね。『咲弥ちゃん』って呼んでも良いわよ」
「すみません。遠慮します」
抵抗開始からものの二十秒で挫折しそうになる。何故こうも会話が噛み合わないのか。以前、同じように会話のキャッチボールが下手くそで、やたらと頑固な人物と接したことがあるが……それ以上だ。
かつて自分に惨い仕打ちをしてくれた人物だが、一応相手は年上だ。今出来る精一杯の誠意で対応しているつもりだが、聞く耳を持たない人間にはどう対処するべきか――。
(聞く耳を持たない……?)
自分は、つい最近同じような状況に居合わせた。養子になる、ならない。一緒に住むだのどうだのと。
やはり血を分けた兄妹か。と頭を過ったが、雅弥と咲弥を同等に考えた自分を、内心で激しく叱咤した。
そうだ。あの時、凌はどうしていただろうかと記憶を辿る。
(確か……喚いてたな……)
《P×P》の事務所内でツッコミ担当の立ち位置になっている営業部長の顔を思い出した。
元々は尚巳がその立場にいたのだが、いつからか尚巳は事務所内で、恵未と並んで主に傍観者の位置に立つようになった。最近はツッコミ不在の所内で、生真面目な凌がひとりで叫ぶようになったように思う。
凌の訓練時代から知っている潤からしてみれば、感情的に騒ぐ彼はとても自然体で、見ていて安心するのだが。いつかストレスに殺されるのではないかと、心配になる事が稀にある。
ともあれ、今ここで喚き散らす事を潤は――
(無理だな)
諦めた。
何故か? 未だかつて、喚き散らしたことがないからだ。幼少期から。誘拐された時もだし、訓練中も、入社してからもだ。大きな声自体、あまり出すことが無い。
執拗に縋り付くこともないので、泰騎や倖魅からは「諦めが早すぎる」と怒られることもしばしばある。
そのことも思い出したが、流石に笑う気にもなれず、三十代後半の女――見た目は二十代後半だが――と十代前半の少年の繰り広げるウエディング談議をぼんやりと眺めるしかなかった。
後輩連中からは“何でもできるひと”と認識されているらしいことが度々耳に入るが、実際には違う。正確には“辛抱強く、課された仕事をこなすひと”なだけで、特別な事はなにもない。やっている事は普通のサラリーマンと相違ない。
泰騎や倖魅の言う「諦めが早すぎる」というのは、あくまで『潤自身のこと』に対しての意見だ。潤は、自分が生きることに対してあまり意欲がないのだ。
しばらく眼前の珍妙なやりとりを眺めていたのだが、入り口のドアがノックされた。その場に居る全員の視線がドアに向く。扉の向こうから声がした。
「咲弥様、お食事の用意が整いました」
少年の声のようだ。
咲弥は扉に向かってひと言、
「持って入って来て」
すると、予想通り少年が入ってきた。咲弥の脇に居た、金髪碧眼の同じ顔をした美少年がふたり。小さな配膳車に食事を載せて近付いてくる。配膳車を押していない方の少年が、食事用のテーブルと椅子を用意し始めた。
配膳車は咲弥の前で止まり、少年はテーブルへ食事を移しながらメニューの説明を始めた。
「今日は、アメリカからトウモロコシ粉が沢山届いたらしいですよ。なので、咲弥様のお好きなパンとスープがあります。それにサラダと、ほうれん草の炒め物と、つくね。あと、ご希望があればアメリカンドッグも作れるらしいので、お申し付けください。水無さんにはつくねの代わりにハンバーグを用意してます。潤様にも同じものを用意しました」
流暢に言い終えると、金髪の美少年は一歩下がって足を揃えた。
「有り難う。この時間にアメリカンドッグは要らないわね。明日の朝にしてちょうだい」
咲弥の言葉に、金髪少年は返事をして頭を下げた。そのまま、ふたり揃って部屋から出て行く。
水無はハンバーグの映っている瞳を輝かせた。
「わぁー! 今日のハンバーグは大きいなぁ」
「ふふ。良かったわね、水無」
ファミリーレストランで食事をする母子のようだ。潤はそんな事を思いながら、ベッドのサイドテーブルに載せられた自分用の食事を見た。ハンバーグ以外は咲弥のものと同じだ。
横目で咲弥のつくねを見やる。大葉が巻かれているので、肉の部分はあまり見えなかった。
正直、食事など摂る気になれない。
そんな潤の気持ちなど知りもしない――否、知ろうともしないふたりは、手を合わせて各々カトラリーを手に取って食事を始めた。
咲弥が、一向に食事を食べようとしない潤へ疑問の目を向ける。
「あら。食べないの? お肉は嫌いかしら?」
「あまりお腹がすいていなくて……」
食べようと思えば食べられるが、そもそも腹に大穴が開いているのだ。食事より点滴の方が有り難い。と、思う。
しかし、水無も腹を境に真二つになっている筈だが、ご機嫌でハンバーグを口へ運んでいる。いくら痛覚が無いとはいえ、消化器官はどうなっているのだろうか。
潤の疑問は解明されることなく、ハンバーグは水無の体内に消えていった。
水無の消化器官も気になるところだが、潤にはもうひとつ気になっている事があった。
「この肉なんですけど」
ハンバーグを指差す。
潤は、一般的な日本人よりは様々な肉を食している人物だ。そんな彼も疑問に思う程、癖のある臭いを放っている。
水無がほうれん草をちまちま食べている横で、咲弥はほくそ笑んだ。フォークを置いて、潤を見やる。
「このお肉に目を付けるとは、流石ね」
「はぁ……」
「知りたいの?」
「まぁ……」
何の肉なのかが知りたいだけなのだが、何故か勿体ぶられる。そんなに珍しい生き物の肉なのだろうか。
そして、咲弥から肉の元となっている生き物の名称が明かされた。
「人間よ」