第四話『13日の金曜日』―9
「泰ちゃん。大変だよ」
片耳で盗聴器の音を拾っていた倖魅が、珍しく、深刻な表情を泰騎へ向けた。
作戦会議をする為にホワイトボードを引っ張り出してきた泰騎は、倖魅の方を見ずに返事を返す。
ホワイトボード用の黒いペンを握りながら、
「これ以上まだ大変な事があるん?」
「潤ちゃん、明後日には結婚させられるかもしれない」
グシャ。
ひん曲がったペンから、黒いインクが漏れ出した。
「泰ちゃん、しっかりして。ちょっと。あゆちゃんと大ちゃん。床に散ったインク拭いて」
広報部の十四歳コンビ――歩と大地――に顎先で指示すると、倖魅は再び泰騎へ顔を向ける。所長は身体を震わせていた。
泰騎は俯いたまま息を止め、大きく息を吸う。
一瞬、眉間を痙攣させると、
「ワシより先に結婚とか、絶対許さん!」
叫んだ。
部屋の隅に置かれているゴミ箱に向かって、くの字に曲がったペンを投げつける。ペンを迎えたゴミ箱は僅かに揺れてから停止した。
「え……それで怒ってるんですか……?」
呟いたのは、気を立てている恵未の脇に立っている祐稀だ。ちゃっかり恵未の手を握っている。
顔を顰める祐稀に、泰騎が振り向く。
一度深呼吸を挟んだのを祐稀は見逃さなかったが、その事には触れず、相変わらず恵未の手に触れている。
目が合ったので、言葉を続ける。
「所長。落ち着いたら指示を下さい。因みに、私は恵未先輩と行動を共に出来れば文句はありません」
「あー、うん。アリガト。落ち着いとるよ。大丈夫」
ふぅ、と、極小さな溜息を吐いて、泰騎は青色のペンを手に取った。黒いインクがベタベタに付いた手で、キャップを外す。
ホワイトボードにペンを滑らせた。書いているのは、先に潜入した工場の絵だ。デザイン担当も兼任しているだけあって、作図はスムーズに行われた。
「ざっと見た感じ、咲弥が居るのは一階部分の一番奥の部屋じゃな。ここはワシが行くわ。問題は、二階にある子ども部屋じゃな。ワシが見ただけでも子ども部屋は二部屋。ここは倖ちゃん以外の広報部に任せる。子どもの保護な。あと何部屋か並んどったわ。そっちは人手とか見て臨機応変に頼むな。二階の責任者は、いっちゃん。宜しく」
ペン先を一誠へ向け、ウインクを飛ばす。一誠は相変わらず青っ白い顔をしているのだが、満面の笑みを泰騎へ向けた。
「分かりました。大人は勿論、殺しちゃって良いんですよね?」
「わぁー。いっちゃん、ストレス解消する気満々だねぇー」
一誠のストレスの原因が笑っている。
否、一誠にとっての直接のストレスの原因と言うならば、それは単純に“運動不足”だ。今でこそ勤務時間中はパソコンにかじりついている一誠だが、元々は活発な少年だった。
特務中の相方は祐稀だ。冷静沈着で、決して饒舌ではない祐稀とは正反対の、よく喋る笑顔の明るい存在だった。それがいつからか、『幽霊よりも存在感が無い』などと言われるようになってしまったわけだ。
泰騎は満足げに白い歯を見せ、一誠に笑い返す。そして再びホワイトボードへ向いた。
「ええよー。思う存分やって。子どもは保護した後に記憶の隠蔽やらなんやらするんじゃろうし。……潤はそれ嫌うんじゃけどな。まぁ、今回は文句言わんじゃろ。文句言うたらワシが黙らせる」
言いながらペンでホワイトボードにオーダーを書き、振り返る。
「んで、一階の研究……あれ? 皆、どしたん?」
幹部連中と祐稀以外が、ぽかんと口を開けていた。
「所長が、副所長を黙らせるって……」
「いつも黙らされてんのに……」
営業部の透と恭平が続けて呟く。
泰騎はペンを握ったまま、小首を傾げた。瞬きを二回。
「ん? ワシ、潤より強いで? 昔っからあいつに負けた事ねぇもん」
同じく営業部の伊織と英志が呟く。
「普通の人間なのに」
「どうやって?」
営業副部長である尚巳が、疑問符を頭上に浮かべている四人に向かって苦笑した。
「あぁ。やっぱソコ気になるよなぁ」
そばかす顔の伊織が、大きな瞳をぱちくり瞬いている。
尚巳は肩を竦めて見せた。
「おれも前、同じことを思ってた事があったんだ。口で説明するのは難しいけど、泰騎先輩は凄いよ」
「そうだねー。“強い”っていうか、“凄い”っていう表現の方が合ってる気がするー」
倖魅が指を鳴らした。
凌も頷く。
「目ぇ瞑ってても相手が殺せるし」
「目を瞑ってても銃弾が避けれる……っていうか、銃弾が避けていくって感じよね」
恵未も首を縦に深く振っている。
倖魅は、くすりと微笑を浮かべて肩を揺らした。
「泰ちゃんの『なんとなく』は、ほぼ百%『絶対』になるんだよねー。恵まれた身体能力と器用さと勘と、何より全部ひっくるめて絶対的“運”が備わってるんだから、そういう意味では“天才”だよね」
「最初は半信半疑だったんですけどね。四年間一緒に居て、よーく分かりました。泰騎先輩が宝くじを買うと必ず五百万円以上が当たるとか、色々凄いです」
「そうそう。事務所作った時も、初年度の皆のボーナスは泰ちゃんが宝くじで当てた一千万円から出てるんだよー。懐かしいねー」
さらりと明かされた事実に、幹部勢以外は顔を見合わせている。そんな中でも表情を変えない祐稀は泰騎へ目を向けた。
「つまり、今のこの状況が――所長がここ数週間言っていた『嫌な予感』というやつですか」
「そうじゃなぁ……。多分、そういう事なんよ」
「絶対的“運”があるのなら、今の状況は所長に何か利があるんですか?」
真っ直ぐに睨まれ、泰騎は息を吐いて肩を竦めた。矛盾を孕んだ質問に苦笑を返す。
「ワシにとっては、多分有るよ。けど、潤にとってはサイアクかもなぁ」




