第一話『日常』―3
週に三日休みがある《P×P》の事務所は、基本給が安い。営業部は成果に合わせて多少の色はつくが、それでも最低賃金に毛が生えた程度の月給だ。
勿論、本社から特務に関しては別に手当てが支払われるのだが――。
頻繁に依頼があるわけでもなく。手当て金は、武器の手入れなどに消えることもままある。
そんな彼らには、会社から住まいの提供がされている。『社宅』と言えば、そうなるのかもしれない。事務所に所属している社員は、ほぼ全員、親がいない。『親がいない』とは、他界している場合もあれば、捨てられた場合もある。
“親代わり”や血の繋がりのない“家族”がある者は、いるのだが。
施設育ちなど理由は様々だが、身寄りのない者が多いのだ。故に、住まいは何においても必要なものだった。
本社の人間も住んでいるそのマンションは、本社ビルと《P×P》の事務所に隣接しており、無論、通勤費も掛からない。
そして、食べ盛りの多い事務所社員には毎月給料日になると、社長セレクト米が各々に十キログラムずつ配られる。
年二回のボーナスもあるので、十代の多い事務所社員は同年代の中では高給取りに分類されるのもしれない。少なくとも、遊ぶ金くらいはある。
事務所設立から四年ほどになるが、事務所に新入社員はない。設立当時から、現在まで同じメンバーが所属している。
新年会、忘年会、年に一度の社員旅行に、度々行われる菓子パーティーやら、なんやら。年間、これだけ行事を行うので、事務所内は『アットホームな職場です』といった感じだ。
「お菓子センサーが甘味を察知!」
元気よくバタンとドアの音を響かせ、黒髪黒目の少女――否、『女性』というべきか――が、大きな瞳を輝かせながら所長室へ入ってきた。
髪は短く、化粧っ気は感じられない。だが顔つきは整っており、体つきは健康的だ。左耳にオニキスの丸いピアスが着けられている。彼女は先に述べた“菓子パーティー”の主な主催者でもあった。
「恵未ちゃんお疲れー! 凌ちゃんが貰ってきた、貢物の羊羹があるで!」
このやり取りにうんざりしていた凌は、泰騎に対して、もう何も言わない。
恵未は「ようかん!」と叫ぶや否や、デスクに置かれた皿から爪楊枝の刺さった羊羹をひと切れ、奪い去った。瞬きの速さで、それを口に入れる。みるみる、恵未の顔が幸せに包まれた。
「おいしい! 幸せー」
貰ってきた当事者より先に、幸せを噛みしめて飲み込んだ恵未は、スキップをしながら給湯室へお茶を取りに行った。
「相変わらず、遠慮がないな。あいつ」
羊羹をひとつ。所長の泰騎に渡しながら、凌は半眼で呟いた。
「恵未ちゃんの食べっぷり見とったら、こっちまで幸せになれるよなぁー」
言いながら、泰騎は羊羹を口へ運ぶ。なるほど、幸せになれる美味しさだ。甘さは控えめで、いやらしさがなく、程よい弾力が歯を迎えてくれた。
「ところで、潤ちゃんはまだ帰ってこないのかなぁ……」
凌から羊羹を受け取り、倖魅が入り口のドアへ目を向けた。恵未が入って来てからは、これといって変化がない。
「本社に社長が帰ってきたからって、溜まっとった書類持ってったきりじゃなぁー」
もう数時間姿を見ない人物を思い浮かべながら、泰騎はファッション雑誌をめくった。
「あ、本社に行ったの? じゃあもう聞いたかなぁ」
倖魅が呟いた声に重なり、入り口のドアが開いた。
「潤ちゃんおかえりー!」
泰騎と倖魅の声も、重なった。
「ん、あぁ。ただいま」
潤の手には、どこだかの名物饅頭の紙袋が握られている。
「潤も貢物、貰ったん?」
泰騎の質問に、潤は眉ひとつ動かさず「社長からの土産だ」とだけ答えた。
「潤ちゃん、本社に行ったんだったら、もう聞いたかな?」
「何をだ?」
泰騎の隣にある自分の席に座りながら、潤が倖魅に視線を送った。質問が質問になっていないので、自然な流れだろう。
倖魅は自分のパソコンを再び開いて操作しながら「んー」と、小さく唸った。
「来週の土曜日九時から、本社の方で良いらしいんだけど……後期検査の案内が来たよ」
潤は変わらぬ顔でうなずいた。
「そうか」
ギィと、キャスター付きの椅子を滑らせて、倖魅が潤の席へ近付く。
「相変わらず、急に予定出してくるよね。都合は大丈夫? もし何か予定があったら、ボクから向こうに言っとくよ?」
「問題ない」
土産の包みを開きながら、潤はやはり表情を変えない。
「潤、めっちゃ嫌そうじゃなぁー。そんならもう検査受けるの、止めたらええのに。今までずっと『異常なし』なんじゃから」
泰騎が包みから出された箱を、横から奪った。蓋を開けて中身を確認すると、再び蓋を閉めた。
潤は破った紙の包みを丸めている。
「……今までが良いから、これからも良いとは限らないだろう。それに、受けていないと、いざという時に俺が困る」
「潤ちゃんは色々我慢しすぎなんだよ。ほら、甘いもの食べて」
倖魅が、爪楊枝に羊羹を刺して潤の隣へ立つ。潤は、倖魅に差し出された羊羹を受け取った。口に含むと、なんとなく、懐かしく感じる味がした。
「味覚も、変わったのにな」
潤にそんなつもりもなかったが、口から出たその言葉に泰騎が顔を傾ける。
「へぇ、懐かしい味でもしたん?」
「気のせいだろう」
潤は言ってのけた。
泰騎は特に気にする様子もなく「そんなことより」と、饅頭の箱を指で突いた。視線は、潤が丸めた包み紙を捉えている。
「ほんま、いつも言うとるけど。嫌じゃったら社長に言うた方がええで。年に二回の検査を一回に減らしてもらうとか。なんなら、ワシがついて行くし」
「それはいい。泰騎が居ることで手元が狂われたら、俺が困る」
泰騎は不服そうだが、潤は口元を緩ませた。
「ありがとう」
声量は小さかった。だが、すぐ隣に居る泰騎と倖魅にさえ聞こえていれば、なんら問題はない。
「潤ちゃーん! 社長と会社のことばっかり考えずに、自分を大切にしてよーっ!」
ぎゅう。と、腰を屈めて潤の首元に抱きつく倖魅を、給湯室から出てきた恵未が一瞥して顔をしかめた。手に持っている盆には、湯呑みがむっつ乗っている。
「いつもの儀式?」
「あぁ。潤先輩、検査日なんだって」
答えたのは、凌だ。が、次の瞬間、凌の目が驚愕で見開かれた。