第四話『13日の金曜日』―4
十五年前まで咲弥が束ねていた組織は《666の霧雨》という、B級ホラー映画のタイトルにでもありそうな名前だった。略称は《FOD》。
実家が京都にあり、早くから家を出て関東へ移り住んでいたふたりの兄とは違い、咲弥は京都育ちだ。簡潔にいうと、両親があまりに咲弥を可愛がるので、蔑にされた兄ふたりは母方の実家がある関東へ家出したのだった。
元々あった親の組織の基盤をそのまま受け継いだ咲弥は、美容関係の研究をしながらお気に入りの少年集めを始めた。我が儘放題で育った彼女だ。不要と判断された者は、容赦なく殺される。理不尽かつ傲慢。周りの者は怯えながら、彼女に従っていた。
そして少年コレクションの数人目の餌食になったのが、まだ五歳だった潤だ。ひとつ年下の妹と共に、笑顔の可愛らしい子どもとして評判だったのだが、それが悪かった。当時幼稚園児だった彼は運悪く、たまたま名古屋へ来ていた咲弥の目に留まってしまった。
良家で、祖父母含む六人家族だった潤の家に咲弥が部下を従えて押し入ったのは、咲弥が潤を見付けたその日の夜だった。家族が寝ているところを次々に襲い、殺し、潤だけを連れ出した。そして屋敷に火を放って逃げ去ったのだ。
潤が唯一見たのは、隣で寝ている妹が殺されるところだ。それすらも、暗くてよく見えたわけではない。彼が目を開けた時、既に両親は血にまみれ、動かなくなっていた。静かな部屋で聞こえたのは、ひと言――「女はいらんわ」。
元々は騰蛇の再生能力が若返りに使えるのでは――と、研究をしていた咲弥だった。
だが、ある日急に「ボディガードが欲しい」と言い出し、更に「かわいい男の子やないと嫌や」等と言うものだから、始まったのが騰蛇の火炎を生む能力を人間に移植する方法の研究だ。
失敗続きで被検体になった少年が死んでいく中、何番目かの被検体が潤だった。咲弥は「成功する保証が確定するまではあかん」と止めたが、研究員に「大丈夫だ」と強く言われたので、渋々ながら了解した。その結果、暴走した力によって咲弥は自分の組織の拠点とその他の少年を失う事となったわけだ。
やっとの事で持ち出したのが、一番お気に入りだった潤の遺伝子データと皮膚細胞だった。
そして残った数人の部下と逃げるように海を渡り、メキシコへ辿り着いた。ある程度資金を集めてからアメリカへ移り、研究と少年集めを再開した。
結婚。最近よく聞く単語だ。
(そういえば、泰騎もそんな事を言ってたな。あいつと結婚する人は大変だろうな……)
そもそも、潤は泰騎に結婚など出来るとは思っていない。彼の遊び癖は、自分が一番よく知っている。それにこんな仕事をしていると、他人と一緒に暮らすのは不可能だろう。
咲弥にしても麗華にしてもそうだ。
(……そうか、選択肢が少ない上に相手の目星がつかないから焦ってるのか)
少年ばかりのネバーランドに居る女ピーターパンに対して、少しばかりの憐みを感じた。
だからといって、同情で結婚出来る程お人好しでもなければ、彼女に対する感情も結婚とは正反対の所にある。
潤自身、結婚に対する意識は決して高くはない。というか、自身を対象に考えた事がない。だが、するならせめて自分に好意を持ってくれている人物で。尚且つ自分も相手に好意を持っているというのが最低限の条件だろう。
(飾りが欲しいなら、マネキンでも連れて歩けば良い)
心中で悪態付くくらいには、腹が立っている。
自分勝手な人間は、周りにいくらでも居る。それこそ、自分の居る職場は所長を筆頭に、良い意味でも悪い意味でも我儘な人物ばかりだ。
だが、それに対して嫌悪感を抱いた事はない。身体を切り開いてきた杉山に対しても、同様だ。倖魅はそれを異常だと言ったが、違う。杉山に対して抱いたのは嫌悪ではなく、苦手意識だ。
咲弥に今抱くのは、分かりやすい嫌忌だった。
それは家族を殺されたからではない。それに対して抱いている感情は、憤怒と畏怖だ。正確には“だった”。今、怒りは理由を変え、畏れは消えている。
身勝手な理由で人をまるで蚊のように殺す咲弥には、好意的な感情を抱けない。ある意味、それは潤にとって新鮮な存在ですらあった。
(いくら美人でもな……)
先程掴まれた左腕を擦る。
そういえば、自分で止血の為に焼いた皮膚の表面が瘡蓋となり剥がれ落ちてきている。傷口の再生が、目に見えて進行していた。
「そうか。雅弥が邪魔ね」
咲弥の発した言葉に、潤は無意識のうちに咲弥へ殺気を向けていた。場の空気が張り詰め、熱を持った。それに逸早く反応した水無は身構えたが、咲弥に手で制される。
咲弥の脇に立っている金髪の少年ふたりは、何が起きたのか分からずに棒立ちでお互いの顔を見合わせている。
咲弥は構わず、薄ら笑いを浮かべたまま潤に向かって続けた。
「雅弥を殺せば、あたしの所へ帰って来てくれる?」
言葉の後半は、火炎の相殺音で掻き消えた。
咲弥を護る為に放った水無の煙幕が潤の生んだ炎を巻き込んで鎮火し、熱気が漂っている。
ソファーから立ち上がっている水無は、右手を潤へ向けたまま咲弥の前に立った。
「あたしのボディガードは良い仕事をしてくれるのよ」
咲弥はソファーへ座ったまま、腕を組んで笑っている。
(良い仕事? その割には単独行動が過ぎるだろ)
今までの水無の行動を思い返し、潤は胸中で毒づいた。
(……まぁ、今はどうでもいい事か――)
歯ぎしりすると、奥歯が痛んだ。視線を咲弥から水無へ移す。
口を開いたのは水無だ。
「これ以上何かしようっていうなら、右腕も吹き飛ばしちゃうよ」
「社長の害になるなら、俺は止める」
「あ、そう」
水無の短い言葉と同時に吹き飛んだのは、潤の腕ではなく水無の胴体だった。
可愛らしい顔の付いた上半身が、高い天井に付きそうな程宙を舞った。真っ赤な飛沫が豪快な弧を描いてから、鈍い音を立てて床へ落ちる。傷口から伸びた大腸が、ソファーの肘掛け部分に引っ掛かった。腹から下は意思を無くして床へ倒れ込む。
近くに居た金髪の少年のうちひとりが、青い顔をして口元を手で押さえ、ソファーの後ろへ隠れた。
お気に入りのボディガードが豪快にふたつに分かれても、咲弥は組んだ腕を解かない。
それどころか、まだ笑っている。
異変――ではない。少し考えれば分かった事だ。
潤は右半身に穴の開いた自身の腹に手をやりながら、後悔した。自分の思慮を欠いた行いに。
体重を支えるだけの力を無くした膝が、硬く冷たい床にぶつかる。体を折って踞ると、胃の辺りから異物感が込み上げてきた。
咳き込むと口の中いっぱいに鉄の味が広がり、蓄えきれなくなった真っ赤な液体が口角から流れ出る。
喉の奥にはまだ柔らかい塊のようなものが引っ掛かっており、それを排除する為に咳嗽反射が起きた。一層強い力で、口から袋状になった血液が吐き出される。
床に広がっている赤が霞んできた。
(あぁ。本当に、今だけは羨ましい)
文字通り、焼けるような痛みだ。脇腹にあいた穴を押さえている右手が、血で滑る。まだ所々火が燻っていた。
「あーあ。腕を狙ったのになぁー。下半身が無いからかなぁ? 力のコントロールが難しいや」
混濁する意識の中で、そんな声が聞こえた。
『潤はここぞって時に詰めが甘いんよなぁ』
こんな状況下にあって脳内で再生される映像が、呆れ顔で溜め息を吐く相方の姿で。しかも全くその通りな事を指摘されていて。
(本当に、お前の言う通りだよ。……あぁ、ここで死ぬんだとしたら、それはそれで――)
潤は脈の音がひどく響く暗闇で、苦く笑って嘆息した。




