第三話『約束』―4
泰騎の背中を眺めながら、景が笑う。
「泰騎さんも相変わらずと言いますか……変わりなくて安心します」
「景は立派になって。謙冴さんも喜んでいるだろう?」
潤が問うと、景は苦笑して肩を竦めた。
「喜んでいるかは分かりませんが、褒めては貰えています。まぁ、三年間僕の我儘を聞いて自由にさせて貰っているので、今度は期待に応えなきゃ、ですね」
過去に余分な高校生活を送っていたことのある景にとって、試験三昧だったこの一年は息つく間もなかっただろう。高校在学中から本社のインターンシップに参加したりと、意欲的に勉強はしていたと聞いているが……。
潤が思いを巡らせていると、景は首の後ろを掻いて苦笑した。
「身内……と言いますか、同級生の結婚式やらなんやらで、日本に帰って来る事は何度かありましたけど。そういえば、潤さんの姿を式場で見掛けませんでしたが……まさかあの人が潤さんを呼ばないなんて事、ないですよね?」
「呼ばれはしたが――俺は後日、個人的に家まで行かせて貰ったよ」
謙冴は実家から出て母方の姓を譲り受けているが、実弟が居る。兄弟同士で殺し合う程仲の悪かった雅弥とは違い、兄弟間の仲は悪くない。良いわけでもないのだが――弟の方は、謙冴をとても慕っている。
寡黙で逞しい見た目の謙冴とは正反対の、賑やかで小柄な人物だ。その息子の結婚式が、最近行われた。
本人たちは式を挙げる気はなかったらしいのだが、謙冴の弟が式を挙げさせたんだとか。
苦虫を大量に噛み潰したような表情でそのことを言って聞かせてきた人物を思い出し、潤が苦笑した。
景が首を傾げる。
「何か?」
「思い出し笑いだ」
未だ笑みを含んでいる潤に、景も微笑で返した。
「潤さんの笑った顔が見られて良かったです。今度本社で自慢できますよ」
「自慢する程の事じゃないだろう……」
「本社に所属している人の間では、貴重です」
「事務所に来れば一日一回は見れるで」
ウイスキーの入ったグラスを持った泰騎が、再び潤の肩へ顎を乗せてきた。
「いや。もう少し笑ってるだろ……」
泰騎の頭の上に、倖魅が顎を乗せてきた。
「そうだねー。一日三回くらいは笑うんじゃない? 因みに、昨日は一回だったけどねー」
「所長室に居ない僕等は、一日一回も見ないですけど」
ぼそぼそと言ってきたのは、倖魅と同じ広報部の一誠だ。直していない寝癖の下に、白い顔が浮かんでいる。その顔は覇気がなく、眠そうだった。
「いっちゃん。幽霊みたいに後ろに立つの、止めてくれるかなぁ? 実物の幽霊より怖いよ」
一誠は薄ら笑いを浮かべている。
「倖魅さん……僕、幽霊よりは存在感ある自信ありますよ」
「自信を持つのは良い事だけど、自慢にはならないよね」
広報部の他のふたりを見てみても、なんだかグッタリしている。尤も、このふたりは年齢的なものもあり、雇用形態はアルバイトだ。一誠ほどこき使われてはいない。
景の視線が、「労働基準法は守られているのか」と疑問を露わにしている。泰騎がその視線を遮った。
「倖ちゃんのトコはハードじゃからなぁ。でも定時にはちゃんと、みーんな帰るで」
「定時で終わらない仕事は潤ちゃんのところへ行くからね。みんな必死に仕事してくれるよー」
「その言い方だと、俺が悪いみたいじゃないか?」
潤が半眼で呟く。
「潤ちゃんという最終兵器があるから、ボクもみんなに仕事を押し……お願いしやすいんだよー」
今、押し付けやすいって言おうとしたな――と、その場に居る全員が胸中で呟いた。
アルバイトふたりが、唐揚げを持ったまま涙目になっている。それを横目で見た潤が顔を伏せた。
「……俺は憎まれ役で構わないんだが……。広報部の仕事量と人員がそぐわないのは事務所設立時からの課題だな。俺も、情報操作は専門外だしな。泰騎は論外だし」
「泰ちゃんは現場主義だもんねー。このご時世だから、あと二人は欲しいんだけど。十四歳を過労死させるわけにもいかないしね」
それこそ十歳の頃から事務所に居るふたりは、倖魅の毒に侵されて感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。
社長である雅弥が困り顔を向ける。手には鮭入りおにぎりが収まっていた。
「本社から事務所に人を異動させられるなら、いくらでも増やせるんだけど……ほら、所長さんがOKをくれないから……」
「本社の工作員から誰かを引き抜くなんて、恐れ多くてワシには出来んけんなぁー」
おどけた様子で言ってから、泰騎は、にっと笑って見せた。
「じゃから社長がええ奴を『事務所用に』スカウトしてきてくれれば万事解決なんじゃって」
「事務所員の勧誘なら、それこそ僕じゃなくて所長自ら行うべきだと思うんだけど?」
雅弥が問いかけると、泰騎は景へ目を向けた。
「んじゃ、景ちゃん。事務所においでー」
何の障害も感じさせない笑顔で手招きされ、景が呆ける。数秒経ってから、声を発した。
「えっと……僕、電子機器に関しては最低限の操作が出来る程度で……」
どう返答していいものか。義父の顔色を伺っていると、雅弥が泰騎を咎めた。
「こーら。大事な検査員を勧誘しないでよ。研究室は本社にしかないんだし、人によって得意分野っていうのがあるでしょ?」
「冗談じゃって。ほら、謙冴さんも恐い顔やめてやー」
「泰騎。謙冴のあの顔はいつもだよ」
冗談か本気か分からない口調で、雅弥が笑った。謙冴は笑いも怒りもせずに、他の事務所員に囲まれている。
「あ、そうじゃ。景ちゃん、ウチの事務所の事は取り敢えず置いといて。連絡先教えてー。また今度相談したいことがあるんよー。私用電話がええなぁー」
「勿論。良いですよ」
電話番号とメールアドレスのやり取りを済ませると、景は謙冴の元へ歩いて行った。
雅弥は泰騎に体を寄せ、声のトーンを落とした。
「で、どうなの泰騎。小さい潤はあれから現れたのかな?」
「いや。全く」
「そう。残念だねぇ。僕も会いたいな」
「『残念』……なぁ……」
テーブルに寄り掛かる。グラスを置き、泰騎は視線を落とした。
不気味な程、何も起こらない。嵐の前の静けさという言葉もあるが、泰騎にとっては嵐が来ようと来まいと、どちらでも良かった。だが気になるのは、未だ消えぬ胸元の靄だ。
「なぁんか、スッキリせんのよなぁ……」
「え、泰騎、便秘なの?」
的の外れた質問をされ、泰騎は左半身を落とした。
質問をした当の本人は、なんだ違うのか、と鮭の覗くおにぎりを口へ運ぶ。
思った以上に能天気な義兄に、泰騎は肩を竦めて見せた。
「ううん。何でもないわ」
「ふぅん」
気のない返事を済ませ、雅弥は最後のひと口を飲み込む。そして、謙冴を振り返った。手振りで何か指示する。謙冴が鞄からクリアファイルを取り出して雅弥へ渡した。
そのファイルが、泰騎へと渡される。
「これ。来週の水曜日の仕事の資料ね」