第一話『日常』―1
“騰蛇”とは。簡潔に言うと、火を操る蛇だ。
その昔、陰陽師である阿倍晴明も使役していたとされる式神“十二天将”のうちの一体である。
“聖獣”として崇められていることも、“神”と呼ばれることもある。
見た目は大蛇だ。大きさや色は言い伝えられ方により変わるのかもしれないが、とにかく形状は蛇である。
“蛇”とは。爬虫綱有鱗目ヘビ亜目に分類される、爬虫類の一種である。食性は動物食。
全身が筋肉で鱗に覆われ、手足は退化している。毒を持つものは、地球上にいる種類のなかでも二十五%ほどだ。
暑さや寒さが極端な場所では、休眠を行う。
脱皮を繰り返すことから、古くから“再生”の象徴とされている。
夜行性の種には“ピット器官”という、高性能の赤外線センサーがあり、獲物や外敵を認識することができる。
◇◆◇
樹齢百年を超える木々の茂る山。過疎が進み、人の住まなくなった山だ。最寄りのコンビニまで、車で三十分。
当然、手入れなどされていない。そんな土地に大人が数人――黒いスーツを着た男が、七人――息を荒くし、走っていた。時折、濡れた落ち葉に足を取られながら。
「うーさーぎ追ーひし彼ーのやーまー」
のんびりと『故郷』の第一小節から第四小節を歌う声は、木の上から聴こえてきた。
「この場合、兎を追うんじゃのうて、兎が追うんじゃけどなー……って、誰がウサギじゃ!」
ひとりで漫才をしているその影は、灰色の髪を跳ねさせながら、大振りな枝の上で地団駄を踏んでいる。枝が揺れると、葉が数枚、舞い落ちた。その内の一枚は黒スーツの男の髪に刺さる。だが、その青々とした葉は男の走る振動に負けて、地にある枯れ葉の仲間入りを果たした。
それと同時に、茶色かった枯れ葉が赤く色付いた。
紅葉にはまだ早い。
枯れ葉を赤く染めたのは、黒スーツを着た男の血液だ。
「ふーたりめ。さぁ、おーにさーんこーちら、手ーの鳴ーるほーぅへ……って、誰も言うてくれんの? あー、寂し」
寂しい様子など微塵も感じさせぬ口調で、灰色の髪と瞳を持った青年は笑った。
雨が、服を肌に貼り付かせる。その感触は、決して気持ちのいいものではない。
黒いスーツ姿の男が三人、田舎の山道を走っていた。傘も差さず、ずぶ濡れだ。息は上がり、時に木の根に足をとられている。
周りに民家はない。野生の鹿が数頭、木の陰から男たちを眺めていた。
舗装のされていない、昔使われていたであろう農道。男たちは、後ろを振り返りながら、まだ走る。
山から、麓まで出てきた。今は使われていない――雑草だらけの田んぼが広がっている。
「はい出たぁー!」
男たちを追っていた影の明るい声を合図に、生い茂ったブタクサの中からひとりの男が現れた。
アイボリーのような、ごく薄い茶色の髪を腰まで伸ばした青年だ。顔は中性的だが、体のラインから男性であることが分かる。左手には、鞘におさめられている太刀が握られていた。
逃げてきた男たちが青年の存在に気付き、足を止めるより先に、青年が太刀を腰で構える。
男たちの瞬きより疾く。
刀身が一筋、太陽光に反射して光ったと見えただけだった。
数秒の後、男たちは雑草だらけの田んぼに倒れた。男たちの下敷きとなった雑草が少し焦げ、微かに煙が漂っている。
山の麓から、片手をひらひら振りながらもうひとり、先程の声の青年が現れた。
「潤ちゃん、カッコいい!」
リズミカルに声援を送ると、青年は白い歯を見せて、にかりと笑った。
灰色の髪に、灰色の瞳。頭にはゴーグルが掛かっている。服には赤黒い染みが点々と滲んでいた。手にはスマートフォンが握られており、先程倒れた三人を撮影しながら歩いてくる。
『潤』と呼ばれた青年は、血の一滴もついていない太刀を、鞘に収めた。
「良かったのか?」
潤の質問は短かったが、灰色の髪をした青年には、質問の真意が理解できた。
「ええよ。ワシは山ん中で五人貰うたから」
屈託のない笑みを向けられ、潤が「そうか」と呟く。
「泰騎。報告用の映像」
『泰騎』と呼ばれた灰色頭の青年が、手に持っているスマートフォンを、潤に渡した。
「はい。さっき、情報部に画像送ったで。血ぃが彼岸花みたいで綺麗じゃろ? 今回もコレ、芸術じゃと思うわ」
スマートフォンに映し出された画像には、白いシャツに真っ赤な血で描かれた大輪の花が映っていた。花を咲かせている男の表情は、恐怖に歪んで静止していた。心霊番組で現場検証に向かわされた、新人タレントのような。引き攣った表情で絶命している。
今は、その男自身が『心霊映像』化しているが――他の四人も、同じような状態だ。
「それで時間が掛かってたのか……」
呆れて嘆息する潤の肩に、泰騎が腕を回した。しっとり濡れていて、肌に貼り付く布の感触が、なんとも気持ちが悪い。
「そうなんよ。うるせぇから、猿轡噛ませたり、縛り上げたりしとったら時間掛かってしもうたん。んで、綺麗に見えるようにディスプレイしとったら、更に時間が掛かったん。じゃから、退屈しとった潤に三人残しといてやったじゃろ?」
「別に、俺は人を殺したくて仕事をしているわけじゃない」
業務連絡の電話をするため、潤がジャケットの腰ポケットから、自分のスマートフォンを取り出して発信ボタンを押した。スマートフォンには、小さくウサギのシルエットが彫られている。これは特務員専用機種の印だ。泰騎のスマートフォンの裏面にも、同じ印が彫られている。
呼び出し音がひとつ鳴る。すぐに電話口で、情報部の女性の明るい声が響いた。
『潤さん、お疲れ様です! 画像、確認致しましたので、処理班の手配をしますね。おふたりとも、お怪我はありませんか?』
「あぁ」
『了解しました。それでは、おふたりとも、気を付けてお戻りください。そうだ潤さん、今週の土曜日、一緒にお食事に行きませんか? 美味しいステーキ屋さんがあるんですよー』
会社の回線で私用を口にする女性を咎めもせず、かといって嬉しそうというわけでもなく。潤は答える。
「土曜日は動物の保護施設に行くんだ」
『そうなんですかぁー。残念。じゃあ、来週の水曜日は――』
女性の弾む声を最後まで聞かず、潤は通話の終了アイコンをタップした。
「なになに? デートのお誘い?」
腕を潤の肩に回したまま、泰騎が訊いた。
「別に……『一緒に食事に行こう』と言われただけだ」
「うん。それを、世間一般的に『デートのお誘い』って言うんじゃと思うで?」
「それより、風邪を引くぞ」
強くはないが、雨は降り続いている。
空を見上げながら、泰騎が唸った。
「潤はええよなぁ。体内の優秀な細胞が仕事して、風邪引かんもんな」
「でも寒い。あと、冷たい」
「あ、ごめんな。ずっと雨ん中、瀬高泡立ち草の陰に隠れとったんじゃもんな」
泰騎が、潤から離れる。潤はスマートフォンをジャケットにしまった。
「あれは豚草だ」
「どっちでもええわ」
泰騎は潤の背中を叩くと、草の陰に停めてある車まで急いだ。
主を失った家が数軒、空虚な面持ちで、ふたりの様子を眺めていた。その様子は、雨に濡れているから尚の事、もの悲しそうで。ただただ、朽ちて自然に呑み込まれるのを待っているようにも見える。
一部崩れた屋根の隙間から伸びたアイビーが、そう遠くない未来に家を覆い隠すであろう事は、想像に難くない。
◆◇◆
《Peace×Peace》を略して《P×P》。それが、事務所の名前だ。通常業務は、服飾ブランドの商品開発と、販売営業。
親会社は《P・Co》。《Peace Company》を略して《P・Co》と呼ばれている、グループ会社だ。元々は農薬の研究開発が主な事業内容だったのだが、近年は人体に使用する製薬にも力を入れており、成果を出していた。鳥取県に、大規模な研究施設と工場を設けて事業を行っている。
重要なシステム管理と、営業部や簡易の研究施設は、東京都内にある本社にまとめられていた。ボランティア活動にも熱心で、孤児院や養護施設も運営、管理も行っている。
服飾展開に深い意味はない。現在所長を務めている人物が「服とかやりたい」と言ったことがきっかけなのは確かだ。
事務所の定休日は、水、土、日と、週に三日もある。それは、事務所の仕事とは別に、本社である《P・Co》から回される“特務”があるからだった。故に、この事務所に所属している社員の事を、社内では“特務員”と呼ぶ。
本社にも同じように“工作員”が居るのだが――事務所と本社で、差別化されている。
更に、事務所に所属する社員の大半は、中卒以上の未成年。中学を卒業していない者も多い。とはいえ、扱いは“正社員”で、福利厚生もしっかりしている。二名ほど例外がいるが。
九時開始の、一七時定時。残業は希望制で、強制はない。残業手当は出ないが、業務で遠方へ行く際には手当てが出る。有給休暇は年二十日。
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