第二話『来訪者』―8
土曜日といえば、倖魅から告げられた『検査日』である。
朝八時五十分。
《P・Co》本社社員と《P×P》事務所員の社宅となっているマンションから徒歩一分以内には本社の裏口に辿り着ける。そこからエレベーターを使い、地下へ下りる。更に奥へ進むと、突き当りに引き戸が見えてきた。『S室』と書かれたその部屋の前で、ロックの解除をしようと機械に触れるが、ロックキー解除の仕様が変わっている。そんな報告は受けていない。形状から察するに、網膜認証になっているらしいが――。
仕方がないので、ノックしてみる。インターホンがあれば便利だな、と思いながら。
室内から返事がした。若い男の声だ。
(…………この声…………)
潤の顔が一瞬、しかめられた。
顔の力を抜き、少し声を張る。
「検査に来たんだが」
告げると、研究室の壁を隔てて短い機械音が鳴り、扉が開いた。
顔を覗かせたのは、黒髪に大きな瞳の、一般的に言うところの『可愛らしい』顔の青年だ。Tシャツの上から白衣を着ている。愛想よく笑って、潤を迎え入れた。
「お早うございます。『潤さん』。杉山さんは奥の検査室でお待ちですよ」
にっこり微笑んで、室内へ促す。
潤は短く溜息を吐くと、勇志に目を向けずに奥へ進んだ。
「やぁ潤君。半年ぶりだねぇ」
大きな傷跡を顔に乗せたボサボサ頭の中年男がへらへら笑って、潤を手招いている。
潤は軽く頭を下げて、初めて勇志の方を見た。勇志は入り口のある部屋で、何やら紙切れを見ながらノートに文字を書いている。
「お久し振りです。ところで、いつから助手を?」
「月曜日からだよ。それなりに使えるし、邪魔にもならないから置いてるんだ」
「そうですか。杉山さんにそう言われるなんて、とても“優秀”なんでしょうね」
潤が苦笑した事に、杉山は気付いていない。
「検査用の衣装を用意してみたんだけど、全裸とどっちが良い?」
「衣装をお借りします」
即答を返した。全裸だろうが構いはしないが、服があるならばそれに越したことはない。空調が効いているとはいえ、何も纏わないと肌寒い。
前開きで白い、手術着のような衣装を受け取り、着替える。
検査内容は、一般的な健康診断と相違ない内容で進んでいった。検尿、身長、体重、視力、聴力、血圧……そんな内容を検査、測定していく。
「蛇ってさぁ、高血圧なのに、潤君は相変わらず血圧低いね」
「体質が全て蛇に準じているわけではないですし……現に、目も人並みには見えています。今のところは」
心電図をとる機材の前へ移動しながら、雑談を交わす。
「そうだねぇ。ホント、不思議な身体だね。本音を言うと、君にはずっとここに住んで貰いたいくらいなんだけど」
「本当にそう思っていますか?」
「勿論だよ。顔面を更に半分に切り裂かれたとしても、気にならないくらいにはね」
遠くに見える勇志を横目で確認すると、本棚の前でこちらを見ている。目が合うと、はにかまれた。
潤は嘆息すると、注射器に目をやった。次に採血管(採血用試験管)に視線を移す。ざっと見、二十本並んでいる。
「鉄分はしっかり摂ってきた?」
「いつも通りです。何も変わったことはしていませんよ」
貧血を起こすほど血を抜く――という意味で訊かれたわけではない事は、潤には察しがついた。その程度で、そんな質問をする男ではない。
なら何故、わざわざ質問してきたのか? 簡単なことだ。試験管二十本分など比にならない程の失血があるということだ。
そうこう考えているうちに、二十本きっかり。採血が終わった。
潤は、重たい息を吐くと、少し広めで背の低い診察台へ横になった。
(ここまでは、いつも通りだ)
だが、と胸中で呟く。泰騎の言う『嫌な予感』がここで起こるのなら、犠牲になるのは十中八九自分だ。
(予想の範疇なら良いんだけどな……)
潤はもう一度、長く息を吐いた。
更に奥にある物置部屋から、杉山がキャスター付きの棚を押して現れた。動く度に、ガチャガチャと金属同士のぶつかる音が聞こえる。
ここから遠目に視える勇志の眉間に、皺が寄った。
彼の目が「何で検査にこんな物が必要なんだ」と言っている。
「潤君、ちょっと痛いかもしれないけど、動かないでね」
言う杉山の手に持たれているのは、両刃のノコギリだ。買ったばかりなのか、はたまたきちんと手入れされているからか、銀の光を放っている。杉山が右腕を足で押さえ付けたのを目視し、潤は天井に向かって目を閉じた。静かに息を吐く。
ノコギリの歯は、文字通り『歯』だ。交互左右に刃先が広がっており、それで切られようものなら、当然だが傷口はがたがたで汚くなる。通常だと、縫合しても綺麗には治らない事が多い。
(……あぁ、一週間コースだな……)
杉山の持ったノコギリが潤の肌を引き裂き、骨を半分引き割る。
いつもなら。
「杉山さん、どうして検査にノコギリが必要なんですか?」
音もなく近付いてきた勇志が、ノコギリを持った杉山の手を握って、首を傾げている。
杉山は、不機嫌さを隠すことなく勇志を睨んだ。
「必要だよ。ノコギリじゃなくても良い。チェーンソーでも、ドリルでも良いんだ。メスじゃ駄目だね。良く切れすぎる」
勇志は手を離さない。
「一応訊きますけど、どう使うんですか?」
杉山は、何故そんな分かりきった事を疑問に思うのか、と更に顔をしかめた。
「そんなの、潤君の腕を切るに決まってるじゃないか。半年前はドリルで穴を開けたんだけど、思ったより傷の治りが早かったから。今度は骨まで切って、テープ固定だけで何日目に傷が治るか診ようと思ってね」
当然のように言っているからには、本当なんだろう。