第二話『来訪者』―3
「えっと、じゃあ参考までに聞かせてください。好きな飲み物は何ですか?」
手のひらサイズの薄いメモ帳を取り出すと、勇志はペンを握った。
杉山は眉根を寄せている。
勇志は、にこりと笑った。
「飲み物とおやつの準備くらい、しますよ。食事でも結構です。必要なものがあれば言ってください。使いパシリは慣れているので」
「製薬部に籍がある工作員って、普段はパシリなの?」
「まぁ、そんなものです。取り敢えず、普段飲む飲み物と食べ物は教えておいてください。少なくなったら補充しますんで。あと、経費で落ちそうなものはレシートや領収書をまとめておきますから、帳簿があったら保管場所を教えてください」
杉山の眉間の皺が深くなった。
「まさか君、ボクが毎年必要経費請求時に詳細を報告しないからって、ボクの身辺調査に来た本社の人間なんじゃ……」
勇志が半眼になって答える。
「違います。杉山さん、疑り深いんですね。でも、領収書とかきちんと取っておかないと予算削られちゃうかもしれませんよ。この研究室に割かれている予算額に疑問の声が上がっているのは、事実ですから」
杉山は唸ると、デスクの二段目の引き出しを引き抜いた。中には、大量の領収書が入っている。裸の状態で。
「好きな飲み物も好きな食べ物も特にないよ。あ、でも甘いものは欲しいかな。で、最初の仕事。コレの整理よろしく」
ドサ。というより、ズシン。という方が適切だろう。何も置かれていなかったデスクの上へ、重厚感のある音と共に引き出しが置かれた。その上に、シンプルな大学ノートも放られた。
「他に必要なもの、ある?」
訊かれ、勇志は大量の領収書を眺めた。
「あ、ホッチキスとかあると助かります」
ホッチキスと芯も放り込まれる。
「ありがとうございます。じゃあ、僕はこれをまとめますね。この席を使わせて貰えば良いですか?」
引き出しの置かれた席。先日追い出した人物が使っていたものだ。
「その席、好きに使って良いよ」
勇志は重ねて礼を言うと、領収書を一枚手に取った。そして、固まる。
「杉山さん、この領収書、三年前のものなんですけど……」
「あぁ。この研究室に移ってから、ずっと溜まってるからねぇ。五年分くらいになるかなぁー」
勇志の表情が引き攣った。杉山は気に止めず、先程まで眺めていたのとは別のファイルを開いている。もう話す気はなさそうだ。
領収書整理は、到底一日で終わる筈もなく。半分の量を年別に分けるだけで、一日目の定時が訪れた。十七時だ。定時といっても、チャイムが鳴るわけでもなく。研究室に所属する者は、自宅に帰らない者もままいる。
勇志は大きく息を吐くと、向かいに座ってファイルと睨めっこをしている“上司”に目をやった。三時に用意したコーヒーも減っていない。
「じゃあ、失礼します」
“お先に”と付けるべきか悩んだが、ここは杉山の住居も兼ねているので、それもおかしいな。と思い至った。
「はぁい。またあしたー」
取り敢えず挨拶された事と、明日がある事に安堵し、勇志は胸を撫でた。
研究室を出ると、大きく伸びをする。
社長である雅弥に用意して貰った部屋へ戻る。一度一階へ出て、数十歩程歩けばマンションだ。近くて助かる。部屋は二階にあるので、エレベーターよりも階段で上がった方が早い。
部屋に戻ると、勇志は嘆息した。
「まさか、領収書整理させられるなんてなぁ……」
誰もいない部屋で、ひとり呟く。
あらかじめ用意されていた、簡易式シングルベッドへ座る。ズボンの尻ポケットからスマートフォンを取り出した。背面には“P”と刻印されている。
発信マークをタップすると発信音が数回鳴り、応答があった。
『やっほー、勇志君。研究所一日目、どうだった?』
雅弥だ。息を吐き出す。
「どうもこうもないですよ。五年分の領収書整理をしてます」
『あぁー、そういうカンジ? でも、ちゃんと仕事が貰えただけ凄いよー。彼、興味ない相手とは話しもしないから』
「喜んでいいものかどうか……自分が見たい資料を見る時間もなかったですからね。きっと明日も一日領収書の仕分けですよ」
『良いんじゃない? 領収書って、その場所で何がされてるか見るにはいい資料でしょ?』
雅弥は楽観的に言うが、勇志は肩を落とす。重い息を吐くと、かぶりを振った。
「だと良かったんですけど。いや、実に分かりやすいですよ。領収書の七割は実験用マウスで、残りが器具や記録用具って感じですから」
『あぁ、彼、生きてる実験体が大好きだから。人間よりもマウスと喋ってるくらいだし。領収書はマウスになってても、たまに違う動物発注してたりするよ。僕経由でね』
「そうなんですか」
『あ、今までも何人か通常採用のコが行方不明になってるんだけど、実験体にされないように気を付けてね』
勇志の顔が強張った。今更になって、とんでもない事を聞かされた気がする。
「ちょ! そういうことはもっと早く言ってくださいよ! 気付いたら八つ裂きにされてるとか、嫌ですよ!」
『本社に来てからは、減ったんだけどね。用心に越したことはないからさ』
勇志は嘆息すると「はぁ」と、気の抜けた返事をした。
ふと、思い出す。
「あー、あと、もういい年なんですから。健康診断の朝にご飯は大量に食べないでくださいね」
指摘すると、電話の向こうで息を詰まらせる気配があった。
『何? そんな事まで聞いたの? だってさ、いつも食べてるもの食べないと、元気出ないでしょ?』
「言い訳しないでくださいよ」
呆れて言い返すと、沈黙が返ってきた。
勇志が嘆息する。研究室に置いてある領収書の山が、脳裏を過った。
「慣れないデスクワークで疲れたんで、もう寝ます」
言うと、雅弥も「おやすみ」とひと言残して通話が切れた。
勇志は風呂に入っていない事を思い出したが、今日は諦める事にした。
「あー、飯も風呂も朝でいいや」
誰もいない室内で呟くと、ベッドから立ち上がる。適当なTシャツとジャージのズボンに着替え、再度ベッドへ腰を下ろした。
外したコンタクトレンズを洗浄ケースに入れると、ベッド脇へ置く。
そのまま、朝まで熟睡した。
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