第二話『来訪者』―2
杉山耕市という男は、良くも悪くも一途な人間だった。自分の探究心に忠実だ。ひとつの事を突き詰める為に生きている。その先に明確なゴールなどはない。
若しくは、ゴールの先に、更にゴールを自ら追加する。科学者とは、そういうものなのかもしれない。
《P・Co》本社の地下には、研究室がいくつかある。杉山が使用しているのも、そのうちの一室だった。S室。地下三階の一番奥に位置する場所にある。人間付き合いが苦手な――というか、付き合おうとしない――杉山に用意された、スペシャルルームだ。住居も兼ねている。
杉山は自分が何歳になるのかも、よく覚えていない。多分、四十歳を過ぎたくらいだろう。日付の感覚も曖昧だ。資料や実験結果を記録する時に日付を記入するので、その時に「あぁ、今日は○月○日か」と認識するが、それだけだった。盆も正月も関係なく、研究室に入り浸っている。
何年前の事か、数日振りに鏡を見て、頭髪が半分ほど白髪に変わっていたことがある。頭髪がまだらだろうが、研究に支障はないので無視していたら、数ヶ月で殆ど白くなっていた。後ろ頭を触っていたら、十円剥げにも気付いた。その時も「まぁ、ハゲもするだろう」と、無視した。
いっそ剃ってしまえば、抜け毛を掃除する手間も省けるかと思った。だが、剃ったら剃ったで、毛根は死んでいないのでまた生えてくる。マメに剃る方が、杉山にとっては面倒臭かった。
今ではボサボサの白黒まだらな髪が、後頭部を覆っている。
そんな彼が唯一執心している人物が、潤だ。勿論、恋愛感情的なものではない。対人的なものですらない。ただ純粋に、陶酔していた。人のかたちをしたモルモットに。
杉山は、ファイルにまとめられている紙の資料を捲った。潤の身体データは全て、紙媒体で残してある。あと、インターネットに繋がっていないパソコンにデータ保存している。白いマフラーを巻いた紫頭のタレ目に、そうしろと言われたからだった。
紙の方が取り出しやすいし扱い慣れているので、なんら問題はない。
半年前の検査結果を上から指でなぞる。
“二条潤。23歳。身長176㎝。体重62㎏。2月5日生まれ。O型”――そこで指を止める。血液型。人間のABO式の血液型としてはO型に分類される。だが、厳密に言えば“亜型”だ。輸血にも使えない。
紙に記されたデータを眺めていると、勇志の視線を感じた。杉山が振り向くと、なにやら半眼で杉山の事を見つめている。
「杉山さん、涎が出ていますよ。ファイルに垂れそうです」
指摘されて、初めて自分の口がだらしなく開いていることに気付いた。
「杉山さんって、集中すると口が開く人ですか?」
これも、問われて初めて気にすることだ。しかし、『集中すると』というのは勇志の読み違いだ。
「集中している時に涎を出していたら、解剖実験なんかをしている間にマスクがびちゃびちゃになるよねぇ?」
まぁ、ボクは鬱陶しいからマスクなんて滅多にしないんだけど。杉山は胸中で付け加えた。
分かりやすく嫌味ったらしい言い方をされた勇志だが、堪えていない。笑顔で「それもそうですよね」と言い返し、ファイルの山へ向き直った。
「あ、社長の健康診断の結果、もう出たんですか?」
デスクに無造作に置かれている紙を手に取った。A3サイズの紙が、半分に折られている。片面印刷されたそれを広げると、勇志は目を通し始めた。
「言わなくても分かってると思うけど、個人情報に限らず、この部屋にあるものは全て室外持ち出し禁止だからね」
視線は手元のまま、杉山は勇志に念押しした。勇志の元気な返事が室内に響く。勇志がここへ来てまだ数十分程度のものだが、杉山はこの鬱陶しい声に少し慣れてきた。
手元の資料を眺めていると、再び涎が出ている事に気付いた。成程。自分は興奮すると唾液の分泌量が増えるらしい。四十年ほど生きてきて、初めて気付いた。それほど、自分に興味がない。
資料といっても、ただの健康診断結果――と言ってしまえば、そうなのだが。
「聞きたいことがあるんですけど、良いですか?」
勇志の声に、顔を上げる。それを肯定と判断した勇志は、続きを口にした。
「社長の診断結果、空欄が多いんですけど……」
「あぁ。あの人、検査日当日に朝食ガッツリ食べてきてたからねぇ。朝食を食べてても検査出来るけど、検査工程も増えるし……再検査だよ。ホラ、血糖値とかすんごいでしょ? 朝一で炭水化物摂りすぎると、そうなっちゃうんだよねぇー。まぁ、あの人の場合、普段からお米食べ過ぎなんだけど。あと、漬物とか、所謂“ご飯のお供”っていうの? そういうのばっかり食べてるから血圧も高めなんだよねぇ」
杉山が説明し終えた時には、勇志の顔が苦笑いに変わっていた。
「社長は朝食ガッツリ派なんですね……」
「普段はそれで良いんだよぉ? でもさぁ、健康診断するって言ってるのに食べて来るとか有り得ないよねぇ? でしょ?」
先程までとは打って変わってよく喋る杉山に、勇志は面食らったようで。
「……杉山さんって……結構饒舌なんですね……」
「その顔、ボクを根暗で辛気臭い引き籠り科学者だと思ってたんでしょ」
図星だ。勇志は素直に頭を縦に振った。
「多分その通りなんだけどさぁー。ボクだって喋るよ。黙りこくって黙々と文字と数字を睨んでたら、もっと早くに病気になって死んでるよ」
いつもはマウス相手に喋っている。研究は仕事であり、趣味だ。趣味だが、根を詰めるとストレスになる。喋りでもしていないと、やっていられない。
「この前まで居た助手がホント使えない奴でさぁー。対人関係にうんざりしてたんだよねぇー」
「それは、えっと、お気の毒に……」
「だぁかぁらぁー、君も気に入らなかったら、すぐに鳥取行きだからね」
「はは……頑張ります」
勇志は雅弥の健診結果を折り直し、元あった場所に返した。