第二話『来訪者』―1
最後に太陽の陽を浴びたのはいつだったか。思い出せないほど、昔のことのように思う。実際には、半年ほどだ。最後に雨に当たったのはいつだったか、思い出せない。部下は使えないし――というか、出会って二日で鳥取支部へ戻っていった。
なんの薬品だったか、ふいに触ってから指紋が剥がれた。肉も少し溶けてしまった。出入り口となっている扉の、ロックキー解除の指紋認証が上手くいかなくなった。指紋認証から網膜認証に変更するのがややこしかったのだが、結局、網膜で認証するように落ち着いた。後から、溶けていない指の指紋に登録し直せば良かったことに気付いたのだが。ここ最近、踏んだり蹴ったりなことが多かった。
だが、《P・Co》本社地下研究S室室長である杉山耕市は内心、歓喜に沸いていた。
「潤君のね、検査日が近付いてきたんだよぉー」
室内には彼の他には実験用マウス以外に誰も居ない。思わず声に出てしまうほど、浮かれていた。いや、実験用のマウスに話しかけたのかもしれない。
「嬉しそうですね」
誰か、居た。人間が。杉山も今気付いたようだ。
黒髪に、大きな目。瞳も大きく、可愛らしい顔をしている青年だった。身長は高めだ。
怪訝な顔を向けられたが、青年は愛想の良い笑みを返す。
「ノックはしましたよ。失礼かと思いましたが、鼻歌が聞こえたので入室させていただきました」
笑みはそのままに、青年は淡々と述べた。
尚も眉根を寄せている杉山は、率直に問う。
「そんなことはどうでもいい。君、誰?」
「すみません。申し遅れました。僕は本日付けでこの研究室に配属になりました、冠地勇志といいます。宜しくお願いします」
冠地青年は笑顔を貼り付けたまま、一礼した。
杉山が「ふぅん」と呟く。
「苗字と名前、どっちで呼ばれたいの?」
杉山が訊くと、冠地青年は少し意外そうに瞬いた。そして、再び微笑む。
「杉山さんの呼びやすい方で」
「じゃあ、勇志。そう呼ぶから」
「はい。宜しくお願いします」
再度、礼をした。顔を上げた勇志は、不思議そうに杉山の顔を見つめている。
「何? ボクの顔に何か付いて――」
言いかけ、杉山は自分の右頬に手を添えた。
「あぁ、コレが気になるの? 大したことはないよ。たった二十針ばかり縫っただけだから」
杉山の指差す先には、額から鼻、右頬にかけて、大きな傷跡がある。切り傷だったものだ。縫い跡も、くっきりと残っていた。
「あ……不躾にじろじろ見てしまって、すみません」
勇志が謝罪するが、杉山は本当にどうでもよさそうだ。
「別に良いよ。さっきも言ったけど、大したことじゃない」
そうだ。大したことではない。傷自体は大きいが、神経系への支障はない。痺れは多少残っているが。鼻の骨も治っている。年に片手で足りる程しか外へは出ないし、会う人間は大体決まっている。顔面に大きな傷があろうが、杉山にとっては気にするほどのことではない。
寒くなったり気圧が異常に下がると、少し痛む程度のことだ。
「ほら、どこぞの宇宙海賊のキャプテンみたいでカッコイイでしょ」
と言ってみたが、勇志はきょとんと首を傾けて瞬きを繰り返している。杉山は胸中で舌打ちをすると、腕を組んだ。
「それよりさぁ、君は、何をしにこの研究室へ来たの? ボク、助手なんて頼んだ覚え、ないんだけど」
不信感に満ちた眼差しを向けられても、勇志は笑顔を崩さない。
「実は僕、鳥取の製薬部門に居たんです。って言っても、籍があるだけで工作員として活動していたのが主なんですけど。でも有機生物学に興味があって、社長に相談したら本社を薦められまして。空いている研究室がこちらのみという事だったので、こちらに来させて頂きました」
興味なさそうに勇志の話を聞いていた杉山だが、すぐ手の届く位置に置いてあった茶色い小瓶を取ると、勇志へ向かって投げつけた。
両手で小瓶を受け止めると、勇志は首を傾げる。
杉山は腕を組み直した。
「反射神経はちゃんと工作員っぽいね。瓶が落ちなくて良かったよ。硫酸なんだ。それ」
ラベルには“H2SO4”と記入されている。先日、杉山の指を溶かした液体だった。
勇志は小瓶を適当な台の上へ置き、杉山へ向き直った。
「杉山さんの専門は――訊くまでもないと思うんですけど、有機生物学なんですよね?」
杉山の顔が、しかめられた。
「そう。訊くまでもない事だよ。工作員なんかやってた君が、こっちの分野に興味を持った経緯の方が気になるね」
「僕ですか? 興味を持って頂けて、嬉しいです。僕が気になっているのは、遺伝子工学です。工作員をしていると怪我も多いので、もっと手軽に迅速に傷の再生が促進出来ればと思――」
「あぁ、もういいよ。分かったから」
早口で話す勇志を手で制し、杉山は嘆息した。
「あー……取り敢えず、えっと、君、いくつ?」
「二十歳です!」
元気よく返事をされ、杉山は再度、大きく息を吐いた。元気な若者は苦手だ。愛想の良い笑い顔も、胡散臭く感じる。ただの疑心暗鬼だという自覚はあるのだが。
助手としてこの研究室へ来た者は、今までも何人かいた。どいつもこいつも、自分とは性格的なものが合わなくて出て行った。そもそも、自分が頼んだわけではない。勝手に来て、勝手に出て行った。それだけだ。
昔は、それこそ複数人でひとつの研究室に入り浸っていたが――
(残ったのは、ボクだけだし)
顔の傷に触れる。少し盛り上がった皮膚の奥から、痺れが広がった。
この傷とも、もう五年ほどの付き合いになる。
「どうかしましたか?」
勇志に問われ、杉山は自分が笑っていることに気付いた。
「いいや。何でもない。まぁ、よろしく。ここにある薬品は勝手に触らないようにね。資料は、元あった位置に戻してくれさえすれば、自由に見ても良いから。あと、これが一番重要。ボクの邪魔はしないように」
言うと、勇志は表情を明るくして頷いた。
「はい! よろしくお願いします!」
その元気な声が、杉山の顔を再び渋くさせた。




