第一話『日常』―10
深夜十一時半。
連絡が入ったのは、十分前だった。危うく眠りかけていた身体を叩き起こし、上着を着込んでエレベーターに乗り込んだ。
外から、微かに雨音が聞こえる。天気予報が当たったようだ。
最上階である二十階で、潤はエレベーターから降りた。持ち主は「もっと狭くて良いよ。どうせあまり居ないんだし」とぼやいていたが、このワンフロアが一戸だ。
インターホンを鳴らすと、返事を聞く前にドアが開いた。
「潤ー! 遅くなってごめんね。寝てなかった?」
睡魔にしてやられるところだったことを隠し、
「いえ、大丈夫です。起きていました」
と答える。まぁ、起きていたのは事実だ。嘘ではない。
雅弥は申し訳なさそうな顔のまま、口元だけ弧を描く。そして、手で潤を室内へ招き入れた。
「呼び出しといて何だけど、無理しないでね」
「有り難うございます」
社長宅のリビング。と言っても、自分の部屋より少し広い程度のものだ。このサイズが他にも何部屋かあるので、壁さえぶち抜けばとても広くなる。泰騎あたりに指摘されていたが、答えはこうだった。
“狭い方が落ち着くから”
リビングの中央に置かれたテーブルには様々な酒のボトルが置かれ、肉料理が周りを固めている。
潤は、後ろに立っている雅弥を振り返る。俺に気を使って肉ばかりにしなくても……。そう言おうと思ったのだが、達成感を思わせる雅弥の表情を見ると、言葉が引っ込んだ。
「有り難うございます」
繰り返しになるが、こう言うしかない。
案の定、というか、何というか。雅弥は満足そうに微笑んだ。手振りで、ソファーへ座るように促す。
「いっぱい食べてね!」
何となく既視感を抱きつつ、潤は腰を下ろした。
雅弥は見かけによらず、酒好きだった。酒豪というほど強くはない。アルコール中毒でもない。最近は休肝日も作っている。元々は、酒瓶を眺めるのが好きで、ボトルを集め始めたのがきっかけだった。特にウイスキーやワインのボトルが好きで、販売元を回って試飲したあたりから、徐々に酒を飲み始めるようになったのだった。
「これも美味しいから飲んでみてー」
そう言って薦められたのが、ブルーベリーの果実酒だ。ブルーベリーを模った擦りガラスのボトルで、濃い青紫が綺麗だった。
丑三つ時。
気付けばもうそんな時間だったが、雅弥は『朝まで呑む』と言っていただけあって、まだ元気だ。
「社長、休みだからって呑みすぎじゃ……」
控えめに指摘するが、控えめに言ったところで聞き入れられないのは、潤も承知の上だ。
予想通り、雅弥は潤の言葉を手で制してきた。
「だーいじょうぶだってー。それよりさぁー、潤は飲んでるのー? 僕ばっかり呑んでる気がするんだけどー」
「頂いてますよ。でも、俺は酒の味はよく分からないんで。なんというか、高価なものは勿体ない気がして……」
美味い不味いという好みは勿論あるのだが。潤にとって、アルコール飲料は、アルコールが入っているな。と感じる程度のものだった。例えばウォッカのスピリタスをショットで呷ろうと、三十分もあれば体内で完全に分解される。この場合、ある程度分解が進むまでの約十分間が地獄なのだが。とにかく、世界で一番強い酒を呑んで酔えたとしても十分間程度のことだ。
雅弥は不服そうだが。
「潤ってさぁー、お金持ってるのに贅沢しないよねー」
「金なんて持ってないです。生活するのに困らないだけあれば良いので、必要経費以外は施設への寄付に回してますから。それに、贅沢しないのは社長もでしょう」
「僕はねー自分にお金を使うより、誰かに何かあげる方が好きなだけー。僕は、ちょこちょこお酒飲んで、美味しいもの食べて、しっかり寝れれば、それで良いんだー」
その睡眠時間を、現在進行形で削っていることは脇へ置き。
ふと、二十歳の祝いに雅弥から貰った車の事を思い出す。十八歳の時に買って乗っていた車が仕事中に大破したため、贈られたものだった。定価が七百万円ほどの車だ。現在も乗っている。今日も乗った。ただ、見た目がいかにも高級車なので、白状すると、潤の好みではなかった。二十代前半で高級車は荷が重い。
正直、予備車の中型トラックの方が好きだった。口が裂けても、雅弥には言えないが。
そんな潤の胸の内はつゆ知らず、雅弥はウイスキーの入ったグラスを傾けながら、潤との間を詰めた。潤は微動だにせず、密着してきた雅弥を右半身で受け止める。
「年に何回かしか会えないんだよぉー? 不満とか文句とか愚痴とか不満とかあったら聞かせてよー」
被っている単語もあったが、潤は無視した。
「ほらほらー。お兄ちゃんに言ってごらんー」
勿論、血は繋がっていない。雅弥は戸籍上の身内だ。年の差は親子ほどあるが、義兄になる。と言っても、潤は雅弥の事を兄と呼んだことはないのだが。
誕生日が数ヶ月早い泰騎も、潤の義兄になる。今のところ、戸籍上の身内はこの三人だけだ。雅弥は凌を養子に迎えようとしていたのだが、断られていた。凌は苗字が変わるのが嫌だったらしい。
「社長は、不平不満はないんですか?」
反対に訊いてみる。
雅弥は唸って虚空を見上げた。
「うぅーん……そりゃ、思い通りにならない事はいっぱいあるけどー……、全部思い通りになったら、それはそれでつまらないって言うか……」
「俺も同じですよ」
ブルーベリー酒を口へ運ぶ。甘みの強い酒だった。
そこで何かを思い出したのか、雅弥が手を叩いた。
「そうだ。言い忘れるトコだったよー。結構肝心な事。今度恵未と尚巳を護衛につけるから。今週は尚巳に研修して貰おうかなって思ってるんだ」
潤の長いまつげが上下する。
潤の胸中を察してか、雅弥が首を傾げた。
「不思議かなぁ?」
「いえ……ただ、凌ではなく、尚巳を選ぶのは珍しいなと――」
恵未は普段から、雅弥の護衛としてしばしば出張している。それに関しては、疑問などない。妥当な人選だと思っている。尚巳の事を頼りないと思っているわけではなく、ただ本当に、虚を突かれたのだ。
「凌は、腕は立つけど不測の事態に弱いからね。尚巳は地味だけど、臨機応変に物事に対応できるから。僕は尚巳のそういうところ、もっと伸ばしていったら良いと思うんだ」
雅弥の表情は、どこか楽しそうだ。芸能プロデューサーが期待の新人を売り出す算段を立てるとき、こんな表情になるのかもしれない。――尚巳は新人ではないのだが。
「凌には今日伝えたから。営業の担当場所には凌にひとりで行って貰うよ。もし彼がストレスを溜め込んでそうだったら、それとなくフォローしてあげてね」
「分かりました。それで、何日間の予定ですか?」
「一週間くらいかなぁ……」
潤は、軽く言葉を失った。いつもは、長くても三日だというのに。
「ごめんね。でも、一週間したらひと段落つくからさ」
(一週間……)
胸中で反復する。事務所の営業日だけで考えると、たったの四日間だ。だが、何かおかしい。
社長は、ひと段落と言った。つまり、何か――大なり小なりの物事が起きているのだという事は分かる。もし、目立たないという理由で尚巳を護衛に選んだのだとしたら、何故か。周りをどう固めようが、身長一八三センチメートルの黒尽くめの人間が歩けば、否が応でも目立つだろう。日本では。となると、海外へ行くのだろうか――。
考え込んでいると、雅弥が困り顔で潤の顔面前に手のひらをチラつかせた。
「ほーら、そんなに深く考え込まない。深刻な事じゃないから。ね?」
潤の頭に手を置くと、雅弥はローストビーフの乗った皿を、目の前へ出してきた。
「潤の大好きな真っ赤なお肉ぅー。まだまだあるから、いっぱい食べてね。焼き目のトコは残しても良いよ。僕が食べるからー」
確かに、赤い。皿に溜まった肉汁にも赤が混ざっている。
「表面部分も頂きます。社長も、おにぎりばかり食べていると糖尿病になりますよ。野菜やきのこ類を食べてください」
きっぱりと言い渡す。雅弥が呻いた。
「ちゃんと食べてるよー……。最近は薬膳粥とか始めてみたんだよー?」
尚巳あたりなら、間髪入れずこう言っただろう。
“女子か!”と。
まぁ、日中の保湿に風呂上りのフェイスパックなど、アンチエイジングに余念がない点でいえば、所謂“女子力”的なものは高いといえるだろう。
何だかんだと話していると、時計の針は四時を指そうとしていた。外はまだ暗い。テーブルの上には、まだ開いていないボトルが三本。空になったっものは床へ置かれている。
料理は疎らに減っているが、それでもまだ結構残っている。
(残したら、社長が食べるんだろうか……)
先程、野菜やきのこ類を食べろと言った手前、それはまずい。テーブルの上は見事に肉ばかりなのだ。
潤はフォークを手に取り、皿の上にある様々な肉料理を眺めた。
(全部食べると、今日は一日何も食べなくて良いな)
日本酒にオレンジジュースを混ぜている雅弥を一瞥する。どうやら本当に陽が昇るまで帰れそうにない。
潤は、皿に手を伸ばした。




