プロローグ
『世界の平和より自分の平和』開始時から二年後の話になりますが、単体で読むことを前提に作っています。
作品の一部に、LGBT(性的少数者)、虐待、暴力、残酷な表現が含まれます。
苦手な方はご注意ください。
個人の趣味で書いている作品なのでお見苦しい点があるかと思いますが、温かく見守っていただけると幸いです。
熱い。
痛い。
暗い。
痛い。
痛い。
痛い。
瞼を閉じたままでも、微かにあかるい。
蛍光灯のものとは違って、少し赤い。
呼吸はできる。
鼓動もある。
死んではいない。
指先も動く。
パチパチと、何かが弾ける音が聞こえる。
ガラスが割れる音も聞こえる。
そういえば、僕は何をしていたんだっけ……
ゆっくりと眼を開けて、一番に飛び込んできたのは“赤”だ。
見ているのは天井のはずなのに、赤いペンキが盛大にぶちまけられていた。否、ペンキのにおいではない。むせ返るような鉄さびのにおいが、焦げ臭い煙に紛れて鼻腔を刺激した。
少年は息を呑むと、目線を横へ向けてみた。幸い、首も問題なく動いた。
頭があるもの、ないもの。手足があるもの、ないもの。周りに、おびただしい数の、元人間であろう肉片が散らばっている。見たことのない臓物も、そこらじゅうに飛散している。ひとつとして、人の形を保ったものはなかった。
――ガタン、ばしゃっ
少年は、今まで横になっていたベッドから転がり落ちた。なんとか首を動かして、辺りを見回す。
そして、現状を知った。
床と壁には炎が這っている。それ以上に、バケツをひっくり返した後のように血液が床を浸食していた。
少年は、ひどく痛む左目に違和感を覚えたが、そんな事よりも、目の前に広がっている光景が現実離れしていて、脳の理解がおいつかない。
「ちょっと遅かったかなぁ」
人の声が聞こえた。
幻聴ではない。男の肉声だ。熱を帯びた空気が巻く音の向こう側から、確かに聞こえた。
「こっちじゃと思うで」
幼い声も聞こえた。それと同時に、入り口の扉が開いた。
「うわっ熱! 何これ、血? ――うわぁ……僕、貧血起こしそう」
「わあ! でっかい水たまりデラックスじゃ!」
「呑気な事言ってないで。ほら、生きてる人を探そうか」
ぱしゃぱしゃと、足音の代わりに、血が跳ねる音が聞こえる。
その音は、血に覆われた床にへたり込んでいる少年の方へ向かってくる。
変形した棚の陰から、灰色の髪をした少年が顔を出した。肉片の散らばっている部屋には似つかわしくない、屈託のない笑顔をしている。
灰色少年は、血まみれの少年を見るなり、顔を真っ赤に染めて動きを止めた。二、三度瞬きをすると、後ろに向かって叫んだ。
「まさやん! こっち来て! 天使がおる!」
天使?
どこに?
こんなところに天使がいるとしたら、それはきっと、あの世からのお迎えだよ。
少年は、長いまつげを上下させた。そして、あることに気付く。
左目が、開かない。
ひょっこりと、灰色少年の後ろから、黒髪で、黒いスーツを着た男が現れた。ハンカチで口元を押さえて。少し顔色が悪い。
しかし、少年の姿を見るなりハンカチをスーツのポケットにしまい、床に跪いた。黒いスーツパンツに血が染み込んでいく。
微笑まれたが、少年は男を見返す事しかできない。
男は変わらぬ笑顔で、少年に手を差し伸べた。
「生きていてくれて、ありがとう」
その時、男の真意は少年には理解できなかったが、言い得れぬ多幸感に包まれた。
男に後光が差して見えたほどだ。
少年は、ぎこちなく男の手をとると、震える脚でゆっくり立ち上がった。
そして、またあることに気付く。
こんなに周りが燃えているのに、熱くない。暑さはあるが、熱くない。
目を開ける前は、確かに熱いと感じたはずだ――あるいは、あれは“暑い”だったのかもしれない。
そして、これほど炎が回っている部屋に長時間居れば、一酸化炭素中毒を起こすか、喉と肺が焼けていてもおかしくない。どれくらいの時間ここに居るかは分からないが。少なくとも、燃えていない景色には見覚えがある。
「見て! な? 天使がおったじゃろ!」
灰色少年が、興奮気味に少年を両腕で差した。
「そうだね。とても可愛い天使だ。けどね、天使って、白い翼が一般的なんだよ」
男が、少し困り顔で言う。
少年は何のことか解らず、自分の背中を、右側の肩越しに見てみた。
「っ!」
喉につかえて口からは出てこなかったが、少年は叫んだ。
全部は見えないが、着ている手術着を破って、黒い羽が生えている。
何か言おうと口を開くが、言葉が出てこない。
そんな少年の様子を察し、男は少年の頭を優しく撫でた。
「大丈夫。副作用みたいなものだよ。すぐに消えてなくなるから。それより、ここはもう崩れちゃいそうだし、急いで出よう。歩けるかな?」
男が訊くが、少年は立っているだけでやっとの状態だった。
「う、うそ……重い……」
少年を背に負い、男は呻いた。
少年は、決して太っているわけではなく、むしろ細身な方だが。
「ひゃはは! 鍛え方が足りんで!」
灰色少年が、走りながら声高く笑い飛ばした。
「これは副作用……じゃなくて、根本的な体質変化かなぁ……僕、科学は専門外だから分からないや」
少年を背負って走りながら、男が呟く。
「あの……僕以外の人って……」
少年が全て言葉にする前に、男が答える。
「君以外は、今ここに、生きている人はいないよ。可哀想だけど、他の男の子たちはガス室に入れられてて、手遅れだった」
「そう、ですか」
数年間、一緒に生活してきた面々の死を告げられても、そんなひと言しか出てこなかった。もしもこれが、なんの変哲もない食事中だったなら、もっと死を惜しむ言葉が出て来ただろう。だが、今は食事中ではないし、左目は痛むし、何より自分自身に、生きているという実感が足りていない。痛みを感じているので、生きているのは確かな事実だが。
炎の回っていない廊下をしばらく走ると、グレーのスーツを着た、茶髪の男が立っていた。
「お前にしては頑張ったな。代わろう」
「うへぇー、しんどい。明日は絶対に筋肉痛だよ」
少年は男の背中を替わり、また負われて走った。先程までの背中よりは、がっしりしていて安定感がある。
建物から出て、外の空気に触れる。不純物の混ざっていない空気を、肺に送り込む。酸素のおいしさを、初めて知った瞬間だった。
周りには生い茂った木々。名前の分からない小鳥たちが騒いでいる。
不思議なことに、建物外への炎や煙の露出はなかった。
白い雲の浮かぶ、見慣れた青い空を見た途端に緊張が解け、同時に少年は睡魔に襲われた。