無神経な人達
卒業式間近の大学のキャンパスを歩いたのは、ほんの思いつきと時間つぶしだった。少し前に届いた大学院の合格通知は、私の心を軽やかにして、ずいぶん自由な気持ちにさせてくれている。
「愛。」
だから後ろから急にかかる知った声にも、笑顔で振り返った。一年半前に別れた彼は、相変わらずシンプルな服装で必要以上に大股で近づいてきた。
「何か、用事?」
「んーん、夕方から友達と会うから、時間つぶし。」
「へえ。」
「そっちは?」
彼は私の問いに答えず、じっと私を見て、なんか楽しそうだねと言った。言葉の真意をとらえきれず、まあ、とかなんとか曖昧な返事をすると彼の表情はみるみるうちに変わっていく。
こっちは散々だよ、お前と別れた後すぐ就活とかだろ、公務員の試験には落ちるし、一般就職でも馬鹿にされてばっかり。スーツ来てネクタイしめてくそ暑い中歩き回ってると何したくて自分が動いているのかわかんなくなってくる。久しぶりに大学来てみたら事務員は偉そうにまだ決まってないんですかあだとさ。お前は楽しそうだな。
おそらくそんなようなことを言っていた気がする。途中から私は話すたびにはやくなっていく瞬きや、相変わらずあまり動かない唇、まれにこちらをにらむ眼差しをただぼんやりと眺めていただけだった。
ようやく私は彼が「すべてうまくいかないのはお前のせいだ」と伝えたいことが理解できた。
「・・・しばらく会っていなかったのに、なんで?」
私の間の抜けた質問はもともと短気な彼を完全に怒らせるには充分で、今までそんな表情見たことないなと思う彼の顔がぐんと近づいて、頬に強い衝撃を受けた。その衝撃が、はじめて他人からうける暴力であると気づいたのは数秒あとだった。
じんわり口の中で鉄の味がして、本当に口って切れるんだ、と馬鹿みたいなことを思った。
「すげえ腹立つ。」
人を殴り慣れているのか彼は慌てる様子も困惑した様子も見せず、頬を抑える私を心底憎々し気ににらみつけている。
今にももう一度殴りかかってきそうな彼は、実際に未だ握った拳を緩めていない。
「あの。」
いくら人通りが少ない休みの期間とは言え、学生はまばらにいたのか、彼の後ろから声がかかる。彼はちらりと後ろの人物を確認して、なに、と低く言う。
「えーと、愛サン殴らないでもらえます。」
私以上にのんきな声でそういう彼は、昔からの友人だった。彼は友人と私を交互に見つめ、私に向かって彼氏?と聞いた。私が口を開くより先に友人ははい、と簡単にうそぶいた。
彼はさすがに周りの目も気になってか、馬鹿野郎とか死ねとかそういった文句をつぶやいて去っていった。
「大丈夫?」
「あ、うん。」
「俺殴られるかと思って、みて、すげえビビってたの。」
友人は未だ震える両手をこちらに差し出した。ああ、私がさっきから感じていたこのもやがかった感情は、恐怖だったのか、と理解した途端涙があふれてきた。
女慣れしている友人は自然に私の髪を撫でて、少しだけ笑った。
ここじゃなんだし、と移動して入った教室は暖房が聞いていて暖かく、少し落ち着きはじめた私はじんわりと痛む頬を未だ離せずにいた。
「悪い人じゃないの。」
言い訳をするように、早々にそんな言葉が出てきた。友人は私の知りうる限り最も優しい声でうん、と言った。
「ずっと優しかったし、普段からそんな手なんかあげられたこともなかったの。・・・私が、空気も読まずに変なこと言っちゃったから。」
「・・・でもさ、要は、あれじゃん。男が、女に手あげるなってのはあるじゃん。どうやったって向こうの方が力強いんだし。」
「きっと口では私の方が強いし、無神経だわ。」
「・・・少なくとも、俺の知っている愛さんの話なら、君の言葉はそんなに強くもないし、優しいものばかりだと思うよ。」
フリースペースとなっている教室にはまばらに人もいて、数人が話をしあっている。稀に私の傷を見てか、こちらに何事かと視線と耳を傾ける人もいるようだった。
「目立つ?」
唇の端を指さして聞くと、友人は眉をあげてみせた。YES、NOの判別を付けれず、視線を落とすと友人は私の顔を除きこんで、小さく音をたてながらキスをした。
横目で周りを見れば、明らかに面白がってこちらを見るいくつかの視線を見つけた。
「なに。」
「いや、血の味するかなと思って。」
友人は悪びれもせずそういった。
「ふうん。」
やっぱり私が悪かったんだろうな、そういうと、もう友人はすっかり興味がなくなったようにかもねと返した。