8月16日
あぁ、朝か、今日でまた会えなくなるのか。いや、もうずっと会えなくなるんだ。この三日間だけが本当に特別だったんだ。願い事くらい自分に正直にしたらよかった。どうせ叶えてもらえるなら、遠慮なんてするもんじゃない。
「もう一度だけ」
願いに嘘なんてつくから、本当にもう一度だけになってしまった。 叶えられた願いに不満をいい、叶わない願いを祈り続けている。それでも本当に叶えてほしいことは、数え切れないくらい叶っていたんだね。
あなたと出会えたこと、あなたと仲良しになれたこと、あなたと笑いあえたこと、あなたといろいろな場所に行けたこと。喧嘩もしたこと、泣きあったこと、素直になれたこと、大切だって思えたこと。こんなにも叶うはずのなかったたくさんの願いを、あなたは叶えてくれたんだね。
ありがとう。
私の人生でこんなにも大切な人と出会えたなんて、これ以上の幸福なんて、もうどこにもないよ。それだけで幸せだよ。どうか幸せになってね。誰かと比べないと分からない程度の、小さな幸せなんかじゃなくて、誰かになんて言われようと、幸せだって胸張っていえるくらい、幸せになってね。それが私の最後の願い。神様これで最後にするから叶えてよ。
トントントン。
来たか。壁越しのノックが私たち二人の合図。お互いのベランダに出る。
「今、お母さん寝てるから」
「おう。悪い。なんか眠れなくってさ。どうせ起きてるだろうって思って」
「最後の朝だからね」
「なんか言い残したことはない?」
「……分からない」
柵にもたれかかって翠は話し始める。
「私ちょっとだけ分かったことがあるんだ。人の人生ってずっと同じ場所にいることは出来ないんだなぁって。学校にいって職場にいって、引越しもたくさんして、誰かと会えなくなって、その分他の誰かとも出会って。だから今この瞬間この時間、亮平と話せて私は嬉しい。それだけかな、言い残していたことは」
二階から道を歩く野良猫を見つめる。風で髪がなびく。
―――生きてるみたいだった。生きていた。
朝ご飯を食べて集合した。眠れなかった。朝日を二人で迎えた。こんなにも眩しい。世界に光が満ちていく。
「今日何時くらいに帰るんだ?」
「分からない。夕方くらいかな」
「オレがトイレ行ってる間に消えてるなんてのはやめてくれよ」
「そんな別れ方 私も嫌だわ」
いつもの通学路、でも今は二人だけの道。
「あぁ、そういえば亮平って彼女出来たの?」
「できてねーよ。てかあっちから見てるんじゃねーの?」
「向こうは星の出てる夜しか見れないんだよ」
「ふーん、じゃあたまに手振ってやるわ」
「分かった。ちゃんと見とくよ」
嬉しそうに返事をした。
「亮平さ。私のこと好き?」
「そりゃな。嫌いなわけねーじゃん」
「そっか、ありがとう」
翠がなにか言いたげな表情をしていることに気づいた。
「お前まだなにか言い足りないことあるんだろ?言ってみろよ」
困った顔で
「あのね、私が帰ってきたこと誰にも話さないでほしいんだ。あの、その私、亮平以外には見えてないみたいだから」
翠は笑って言う。亮平は少し焦った。
「なんで……お前自分の家に帰ってたじゃねーか。お母さんとも話してなかったってのかよ」
「……うん、ごめんね内緒にしててごめん」
「今からでもオレを通して会話しにいこう」
家に向きを変えて歩き出す亮平の腕を掴んでとめた。
「いいんだよ。大丈夫。だって絶対亮平がおかしな目で見られちゃう。それに下手をしたらお母さんも悲しむ。みんな悲しんでしまう。そんなことになったら、安心して帰れない。だからお願い。大丈夫だから。ねっ」
「っ……」
そんな必死な表情で止められたら、さすがにどうしようもない。
「だったら……。なにか伝えてほしいことはないのかよ。夢枕にでもたったってことにしたら大丈夫だろ?」
掴んでいた手を離した。
「じゃあ。『いつもありがとう。大切にしてくれてありがとう。私は元気だから、淋しくなんかないから、安心して。大丈夫だよ』って伝えてほしい」
「分かった。必ず伝えておくよ」
へへっ、と翠がふいに笑った。
「どうした?」
「なんか、私、やっぱりもうこっちの人じゃないんだなぁって思っただけ」
「あ… 悪い」
「ううん。いいんだよ。」
結局はいつもの公園にたどり着いた。
「私たちって暇になってやることなかったらここに来るよね」
ブランコに揺られて、亮平が靴を飛ばす。
「オレたちってさぁ。なぜか付き合わなかったよな」
翠が真似をして靴を飛ばす。
「恋人っていうか、家族みたいだった」
亮平がもう片方の靴も飛ばす。
「付き合ったら、うまくいったかなオレたち」
翠も靴を飛ばす。
「キスが出来たら、うまくいくと思う」
二人ともブランコをこぎ続ける
「………」
ブランコの軋む音だけが響く。
「靴がないから降りられないね」
両足の靴を飛ばして裸足になった翠は笑ってごまかす。
「そうだな」
亮平が裸足で飛び降りる。翠が座っているブランコの揺れをとめた。
「あっ………」
一瞬だけ、唇が重なった。顔を離すと、翠は目を閉じて固まっていた。
ソレは音もなく感触も分からないほど、軽く、優しく、温かった。
翠が前に言っていた言葉がふと、頭をよぎる。
『私は、私が触れたいと思ったものしか触れない』
目を開けると足元に靴が並べてあった。
「キスしたんだね。私たち」
「付き合えたんだな」
「嬉しくって死にそうだわ」
「そうか」
「でも、もう付き合えないよ。だって亮平は生きてる。ちゃんと生きてる人を好きになって、ちゃんと幸せになるんだよ。私はそれをずっと、見守ってるから」
亮平は脱ぎ飛ばした靴を履いて紐を結びなおす。
「なぁどうする?どっかいくか?」
「………」
「なぁ――― 」
翠が座っていた空のブランコが小さく揺れていた。
翠…?
うそ…、だろ。そんなこんな急に…?
「うそだろオイ」
亮平は走り出した。どこにいるかも分からない。もうこの世にいるのかも分からない。翠を探した。
「翠……どこだよ……出てきてくれよ」
周りを見渡してもどこにもいない。
「オレ……、まだ……、やだよ。オレお前と生きていたいんだよ。好きなんだ……。生きてたって死んでたって会えないからって、オレの好きな人をお前が勝手に決めんじゃねえよ。オレはお前のこと……、好きだ……」
「………!」
翠の気配がした。懐かしい空気が亮平を包んだ。
「まだ……いんのか?」
亮平の問いに対しての返事は何もない。
「いるんなら出てこいよ、オレにだけ好きって言わせてんじゃねぇよ、……キスさせてんじゃねぇよ。オレもお前と一緒だった。お前と生きたかった。死ぬまでずっと」
ドンッッと前から衝撃がきた。でも痛くはなかった。優しくて、温かくて、安心できた。そんな感覚。懐かしい。あの翠が迷子になった日、受け止めた、自分よりも小さな体。同じだった。
「あぁ……ここにいたのか」
(亮平はいつも私を見つけてくれるね)
声が届いてきた。
(ずっと私も言いたかった、ありがとう、好きだよ。じゃあもう行くね)
腕の中のぬくもりが空にむかって消えていった。




