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共感呪術  作者: 六神
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第三章 賭けと竜と神官と

第三章 賭けと竜と神官と






(1)




「あーーーーっ!!」


 メイシアは、その「やっと見つけましたわ!!」という叫びについ振り返ってしまい、肩に留まっていた黒竜クロツがずり落ちそうになった。


 そして、黒竜の主人である魔導士はその場にいなかった。


 見れば、淡い金髪の女性が猛烈な勢いでこちらに向かって駆けてくる。通りは昼前なのでそこまで人通りは多くないが、それでも道行く人々が走っている人物に注目する。


「お待ち下さい、そこの方っ!!」


 女性は必死の形相でメイシアに向かって叫び、


「え、えぇっ!!」


 戸惑いながらも……メイシアは反射的に女の突進を避けた。


 目標を失った女性は、そのままの勢いで前につんのめり、転倒。派手にごろごろと転がっていった。


「えーと……」


 何となく、関わり合いになりたくないな、と思いながらもメイシアは動けなかった。それは周囲の人間も同じだったらしく、皆が揃って砂埃を巻き上げ転がった女の行方を目で追う。


 そして、女の方はというと、適当に回転して止まったかと思えば、一瞬にして跳ね起き、先ほどと全く同じ勢いでメイシアに詰め寄る。


「その黒竜の主人はどこですのっ!」


 土まみれの状態で、びしぃっとメイシアの肩に留まっている黒竜を指さす。


「…………あんた、誰?」


 メイシアは、とりあえずそう尋ねた。


 実を言えば頭の中が真っ白で、相手の質問が全く理解できなかったのだ。


「はっ! これは失礼を」


 女は顔や服に付いた土埃をぱたぱたと忙しなく叩き落とし、今さらながら自分の行動に気づいたのか周囲を見回すと、やはり自分の行動が恥ずかしかったのか頬を赤らめる。それでも「やってしまったことは仕方がありませんわ」と、こほんと咳払いし、メイシアと……その肩にいる黒竜に向き直った。


「私はミワ・フィレィア・ナガレ。イデア教団の神官です」


「イデア教団?」


 聞き覚えのある名称に、初めて女の衣装に気がつく。白を基本にした長衣。朱の前掛けには図案化された竜の紋章が青と金の糸で刺繍されている。先端に竜の飾りが付いた長い杖も携えていた。


 イデア教団は、この大陸の特に中央部に信者の多い宗教だ。メイシアのいた街にも、その教団の神殿が小規模ながらもあったため、何度か同じような服装の神官を見かけたことがある。


 女……ミワは、自分の姿を見ろとばかりにぴしりと直立してみせる。メイシアよりは年上だろうが、そんな動作は妙に子供っぽい。


「私はアネクシオス・フィジィ・ミルフィットを捜しに参りました。ご存じないですか?」


「……ご存じないですか、といわれても……」


 そんな長い名前の知り合いなんていない、そう思ったが、言葉にする前にミワはずぃっと詰め寄ってくる。


「大丈夫です! ここにあの方が飼っていた黒竜がいるのです、絶対に近くにおりますっ!」


「その根拠のない自信はどこから……黒竜?」


 メイシアは肩に乗っている黒竜を振り仰ぐ。


「もしかして……シオのこと?」


 竜違いかも知れないが、黒竜をペットにするような人間をメイシアは他に知らない。


「ご存じですのっ!?」


 さらにミワが詰め寄り、メイシアは溜まらず後退る。


「えぇと……この黒竜の飼い主の魔導士なら、知ってるけど……」


「本当ですか!」


 ミワはメイシアの手を握り、目を輝かせる。


「あぁ、アネクシオス様……ようやくあなたに追いつきましたわ」


 と、目の端からはらはらと涙がこぼれる。


「長い道のりでした。けれどそれもすべてはセフィラ神が私に与えた試練。ーーーいえ、あなた様の行方を追うことなど、まだまだ苦難の始まりにしか過ぎないでしょう。それでも私は耐えてみせますわっ!」


「……あのさぁ、信仰熱心なのはいいんだけど…………手、離してよ」


 ミワの陶酔しきった様子に、メイシアは眩暈がしてきた。


 さて、どうやってこの手を振り払い、なおかつこの場から逃げ出そうかと思案していると、ミワの手のどんどん位置が下になっていく。


「え……?」


 ミワはそのままずるずると地面にしゃがみこんでしまう。


「ちょっと、どうしたのよ」


 ようやく手は解けたが、見捨てていくわけにも行かない。慌てて肩に手を置くが、彼女は揺さぶられるまま、力を失っている。


「もしかして、自分の世界にはまっちゃった?」


 そうならば、問答無用で捨てていこうと思っていると、


 ぐぅぅぅ……


 そんな音が聞こえた。


「は……?」


 音の発生地点であるミワは、微妙にほほを赤らめている。


 ぐぅ……


 また聞こえた。


「…………もしかして、お腹空いてるの?」


 ミワはこくりとうなづいた。









 実を言えば、メイシアもシオを探していたのだ。


 昨日は久々に大きめの宿場町……つまり、この街にたどり着き、野宿と携帯食に飽き飽きしていた一行は、早速宿を取りそこが兼業している食堂で久々の「まともな食事」にありついた。


 メイシアは食事だけでもう満足で、後はゆっくり眠るだけと思っていたのだが……そうはいかなかった。


 一行の最年長、押しかけ傭兵ことイリューザが、食堂にいた他の客とカードを使って賭け事を始めてしまったのだ。


 メイシアは賭け事自体あまり興味を持っていなかったので、酒が入ってますます勢いが加熱していく男達に辟易し、早々に部屋へ戻ると眠ってしまった。


 男達に無理矢理引きずられ、賭けの輪に連れて行かれたシオの事は多少気になったが。


 そして翌朝、起きてみると隣室はもぬけの空。黒竜だけが、使われた形跡のない寝台の上で丸くなっていた。


 宿屋の主人に尋ねても、遅くまで飲んでいた後、そのまま出て行ったとしかわからなかった。


「でも、イリューザってばずいぶん宿屋に迷惑かけたみたいね……」


 昨日は忙しそうにしながらも愛想の良い主人だったのだが、今朝の態度は全く逆。メイシアに対して妙に言葉の歯切れが悪く、まともに顔を見ようともしなかった。


 仕方なく、黒竜を連れて街に捜しに出たところ、先ほどの騒ぎである。


 メイシアはぐるぐるとお腹を鳴らしている女神官に、あきれた声で言った。


「えーーーと、とりあえず、宿に行ってみようか。もう戻ってるかもしれないし」


「はいっ!」


 返事こそ元気がよかったが、ミワの体力はそこが限界だったらしく、ぱったりと倒れてしまい、メイシアは彼女を動かす為に屋台でミルク粥を買ってくる羽目になった。


 代金は、メイシア持ちだった。









 そして、メイシアの予想は半分当たっていた。


「ーーーーー…………」


 二つある寝台の一方に、はみ出す勢いで眠っている男が一人。


 イリューザが性格と同じく豪快な寝相で寝ていた。


「お一人……ですわね」


 ミワはメイシアの後ろからひょっこり顔を出し、珍しそうに部屋の中を見回す。


 そう、シオはどこにもいなかった。


 床の上に彼の杖だけが転がっていたので、もしかすると一度戻った後、再び出かけたのかも知れない。


 だが、メイシアはシオの帰りを待つよりも、この大男を起こした方が事情を知るには早いと思い、早速実行する。そこには捜し回った分の苛立ちが多分に含まれていた。


「ちょっと、イリューザ」


 かける声が妙に低い。後ろで室内の様子をうかがっていたミワが、彼女の発する雰囲気にびくりと肩を震わせる。


 メイシアはずかずかと大股で寝台に近づき、乱暴にイリューザを起こしにかかる。


「起きなさいってば!!」


「……んぉ、どうした嬢ちゃん」


「どうしたもなにも、昨日はどこに行っていたのよ!」


「おー、ちょっと飲み過ぎたみたいだ。もうちょっと寝かせてくれ」


 ひらひら手を振って、イリューザは隅っこで丸まっている毛布を手探りで取ると、頭からかぶろうとする。


 メイシアはその手をつかむ。


「その前に答えて。シオはどこ?」


「ーーーー……」


 イリューザはメイシアの手をほどこうともせず、ただ、目をそらす。


 それは悪戯を見つけられた子供が母親の前でやる動作に良く似ている。その様子に、メイシアはものすごく嫌な予感を覚えた。


 と、そのとき、イリューザはメイシアの背後からちょこんと顔を出している女に気がつく。


「おい、嬢ちゃん。そのお姉ちゃんは?」


 指さされ、メイシアはあぁと動き、ミワを前に押し出す。


「そこで会ったの。イデア教団の神官さんだって」


「ミワです、初めまして」


 ミワはぺこりと頭を下げる。それにイリューザは大した感銘を受けた様子もなく、面倒くさそうな顔をして頬を掻く。


「おいおい、どうして神官がここにいるんだ?」


「なんかシオに用事があるみたいなの」


 で、シオはどこ? とメイシアは更に詰め寄る。


「おぉ、そうだったな……」


 イリューザは難しい顔をすると、


「あいつなら先に行ったぞ」


 言って、あさっての方向を指さす。


「なんかよ、急にぱっと動き出してな。じゃあ、後はよろしくと」


「はぁっ! ちょっとそれ、どういうことよっ!! どーして止めなかったのよ!」


「だから、止める暇もなくな……」


「暇も何も、酔っぱらっていて気がつかなかっただけでしょ!」


 メイシアの手厳しい指摘に、イリューザはかなわねぇな、と頭をかく。


「そんな、せっかくの手がかりが……」


 ミワはよろよろとその場にしゃがみ込む。だが今は、女神官に構っている余裕はない。メイシアは寝台に乗り上げる勢いでイリューザに突進する。


「先に行ったって言われても、シオは荷物も杖も。おまけにペットの竜まで置き去りなのよ、どれだけ唐突なの!」


 信じられない、とメイシアは頭を振る。


 彼の旅に自分は邪魔者でしかないという事は承知していたが、これではあんまりだ。


「まぁ、そういうなよ。ほら、急げば未だ追いつくぞ」


「……どこに行ったのかもわからないのに?」


「北に行くって言ってたじゃねぇか。街道に沿って歩いて行ったのは間違いないんだ、この山を越えたら村がある。そこで聞けば、なんかわかるはずだ」


 イリューザの言葉に、メイシアもいったん引き下がる。それでも納得できたわけではないが。


「そうですわっ!!」


 ミワが勢いよく立ち上がる。どうやら放置していても自力でショックから立ち直ったらしい。


「北ですわね。それだけわかれば大丈夫、すぐにでも追いついてみせますわ。待っていて下さいアネクシオス様っ!!」


 言葉の最後には、既に走り出していた。


 ばたばたと忙しい足音にメイシアが呆気にとられていると、じゃあそれでとばかりにイリューザが再び寝に入ろうとする。


「……ちょっと待ちなさいよ」


「シオの行方は喋ったじゃねぇか。もう寝かせてくれよ」


「そーじゃなくて、あたし達も行かないとっ!」


「あー、無理無理。全力疾走したってシオの奴には出会えねぇよ」


「どういうこと?」


 メイシアはぎろりとイリューザをにらみつける。彼は大げさに「おぉ、怖い怖い」とおどけてみせるが、メイシアに無言で迫られる。


「さすがに今からかったのはまずかったか……」


 すまんと引きつった笑いを見せて降参のポーズを取る。だがメイシアはイリューザの謝罪を無視し、どんよりと低い声で言った。


「…………もしかして、嘘ついたの?」


 その言葉に彼は顔を曇らせ、メイシアから視線をそらした。


「悪いな。どう説明していいやら……」


 上半身を起こし、イリューザは重い息を吐いておもむろに毛布を手に取ると……頭からかぶってごろりと転がる。


「え? ちょっと、イリューザ?」


「眠くて頭が回らなくてな。とにかく話は夕方にでも……」


 メイシアはぴくぴくとこめかみを引きつらせるとーーー


 容赦なく毛布をはぎ取り、耳元で盛大に叫ぶ。


「いいから、とっとと起きるっ!!」










 イリューザの話は大して長くはなかった。


 昨晩、シオと一緒に階下の食堂で集まった男達と賭け事をしていた。そこまでは、メイシアもよく知っている、問題はそこからだ。


 掛け金も小遣い程度のものだったが、イリューザの一人勝ちで次々と集まった人間から金を巻き上げていた。それに周りの男達は更に熱くなり、もう一回、もう一回と何度も食い下がってくる。


 そして彼の手元に集まった小遣い程度の金額が、しばらく食いつなげる額まで膨れあがったとき、一人が言った。「そこまでついているなら、もっとレートの高い賭場に行こう」と、


 ずいぶん酒も入り、懐も暖かくなっていたイリューザはあっさり承諾し、止めようとするシオを逆に引きずって宿場町の外れにある、地下の賭博場に向かった。


 向かったのだが……


「そこで大負けしちまってな」


 イリューザはからからと緊張感なく笑ってみせる。


 そう、声をかけた男どころか、実はあの時カードをやっていた男達は全員グルで、イリューザを適当に勝たせておいて、気分のよくなった頃合いに連れ出し、その地下賭博場で一気に負け分を取り返すという作戦だったのだ。


 それどころか負け続けたイリューザは有り金全て奪い取られたあげく、終いには借金がふくらんでとんでもない額になった。


 メイシアは、その金額を聞いて目眩がした。


「そんなお金……想像も出来ないわ」


「この辺なら、庭付き一戸建てが新築、専用井戸付きで買えるな」


 と、イリューザに説明してもらっても、金に縁がなかった彼女にはどうにも実感が湧かない。


「途中でやばいとは思ったんだけどよ、せめて元金くらい取り返しておかねえとこれから無一文で旅はきついからな」


 そう言う事を考える人間が、一番危険なのだが。


 とにかく、さぁ払えと場にいた屈強そうな男達に詰め寄られても、ないものはない。どうやって相手をぶちのめしてこの場から逃げようか算段していたところ、その宿場町を仕切る首領の娘とやらが現れ、殺気立っていた場を収めてくれたのだ。


 それでも借金は借金として残り、一週間以内に払うように言われてとりあえず解放された。


「ーーーー……なんか、根本的に解決してないし」


 メイシアはぐらぐらする頭を抑える。


 目の前のこの男は、そんな莫大な借金を背負って戻ってきておきながら、呑気に眠っていたのだ。


「いやぁ、あの娘。もう何年かすれば俺好みの良い女になるぞ」


「……で、シオは金策にでも駆けずり回っているの?」


「いや、人質にとられた」


「はぁ?」


「だからよ、俺がこの宿場町から逃げださねぇように差し押さえられた」


「ーーーー期限内にお金が用意できなかったら?」


「川かどっかの裏路地で、男の死体がひとつ発見されるな」


「どーしてそう呑気なのっ!!」


「嬢ちゃんなら、娼館にでも売り飛ばされるのがオチだな。よかったな、殺されなくて」


「全然よくないっ! あんた、自分の雇い主をなんだと思っているわけっ!?」


「いやな、シオの奴。あんな見た目の割りに結構な金を持っていたぞ。これなら今まで野宿ばっかりしなくてもよかったな」


 イリューザはどうも、自分の持ち金どころかシオの財布にまで手を付けたらしい。


 そして、全部持って行かれた。


 一応、この宿屋の代金は二泊分前払いしてあるのですぐに追い出されはしないだろう。


「あのねぇ……どうするのよこれから。雇い主のお金までスッカラカンなんて。今までも迷惑だってわかって旅に同行させてもらっていたっていうのに、人質だなんて……」


 ものすごくシオの境遇に同情したい気分になった。


 自分なら、すぐさまこの傭兵をはり倒して借金を押しつけ、さっさと出て行くだろう。


「そこだよ嬢ちゃん。いい機会だ。あいつについて行くのはやめちまえ」


「え……」


 かけられた言葉の調子がいつもと違った。顔を上げると、イリューザは人を食ったような笑みを収め、ひどく真摯にメイシアを見つめていた。


「故郷が滅ぼされたことを忘れろとはいわねぇ。けどよ、いい加減、踏ん切りつけて嬢ちゃんのこれからってやつを真剣に考えてもいい頃だ」



 言って、イリューザは頭をかく。こんなのは苦手だと、照れたように笑っている。


「なんなら俺の家に来いよ。ーーーなに、変な顔するな。他にも子供はいるんだ、遠慮するな」


「イリューザ……」


 メイシアは肩の力を抜く。


 そして……微妙な笑みを浮かべ、とろりとした目をイリューザに向ける。


「……イリューザに子供がいるのもびっくりだし、誘ってくれるのもありがたいんだけど…………シオの事、忘れないでね」


 イリューザがぴしりと顔を引きつらせたのをメイシアは見逃さなかった。









(2)



 メイシアはイリューザを連れてとある邸宅の前にいた。


 シオの行方を尋ねたところ、借金男は「あー、多分、そのボスの所だな」と、相変わらず眠そうに言った。


 彼らが……正確には、イリューザが山盛りの借金を作った相手はドゥエルグ商会。この宿場町の支配者とも言える存在だ。


 本拠地は西側の港町にあるのだが、内陸部へ商品を運ぶ際の拠点として、街道の要所にある宿場町を幾つか押さえている。


 だが現在、この町に商会の会長はいない。代わりに娘のマリオンが商隊を仕切っているのだ。


「ーーー娘、ねぇ。まさしくとんだお荷物ってわけね」


「そういうな。その娘がいなかったら、俺達全員今日の朝日は拝めなかったかもしれねぇんだ」


「どう考えてもイリューザ一人の責任でしょ! とにかくシオのことが気になるから、さっさと入るわよ!」


 門構えも瀟洒な屋敷が、二人の前に建っている。ドゥエルグ商会に行きたいと宿屋の主人に尋ねると、あっさりここを教えられた。


 さすがに宿場町一番の権力者である。


 貴族のような、とは言い過ぎかもしれないが、それでも入るのに一歩ためらう程度には立派な屋敷だ。


 最初に彼らを出迎えた使用人は、あからさまに二人に不審そうな目を向けたが、イリューザが事情を適当に歪曲して説明すると、最終的には中に入れてもらえた。


 入って正面、どうやらこの屋敷は仕事場も兼ねているらしく受付用のカウンターがあり、それを挟んで両側に螺旋階段がある。賭博場を持っているような組織なので、もっとこう、いかがわしい様子を想定していただけに、メイシアは上品な内装に内心で驚いていた。そして田舎者丸出しとわかっていても、ついつい色々と見てしまう。


 と、螺旋階段の右側に人影が生まれる。赤みの強い紫のシンプルなドレスをまとい、亜麻色の緩やかな巻き毛を高く結い上げた、二十代前半の美女だ。


 メイシアはひと目でこの女性がイリューザの言っていた会長の娘だとわかった。


「あら、誰かと思えば昨日の傭兵じゃない」


 女は気の強そうな目を細め、艶やかな笑みを見せる。


「悪いが、まだ金の工面はできてねぇんだ」


 イリューザは肩をすくめる。


「でしょうね」


 女はさして気にした様子もない。それはそうだ、もともと、違法な荒稼ぎででっち上げられた借金なのだから。


「借金の返済でないのなら、その延長の申し込みかしら?」


 女は優雅な足取りで螺旋階段を下りてくる。多少芝居がかった挙動が目立つが、どれもよく似合っていて、メイシアは同じ女性として劣等感を覚える。


「まぁ、それは是非にもお願いしたいところだが、預けている奴は元気かと思ってな」


 そこで女はようやく合点がいったのか、「ああ、彼ね」とつぶやく。


「俺の後ろにいる嬢ちゃんが、どうしても会いたいとよ」


「あら、そうなの。……妹さんかしら?」


「あたしはメイシア。シオとは旅の同行者よ!」


 そうなの、と小首を傾げる女の態度はそっけないものだ。メイシアなど歯牙にもかけていない。いや、恐らくイリューザに話を向けられなければ意識にも入れなかっただろう。


「ーーーマリオンさん、お客さんですか?」


 彼女が現れたのと同じ位置から、ひょっこりと男が顔を出す。


 すらりとした長身、ゆるく束ねられた銀髪が白い衣装に映える。肩にかかった布を軽くひるがえし、男は薄氷色をした切れ長の瞳を階段下に向ける。


 と、場にいた人物を視界に入れるなり、その表情がぱっと明るくなる。


 はて、とメイシアは首を傾げる。


 怜悧な印象を受ける青年だが、自分たちを見つけたときに受かべた表情は親しみに溢れている。


 今も嬉しそうにたかたかと階段を下りて来るではないか。


 まるで尻尾を振った大型犬のようだとメイシアが思っていると、男はにこやかに告げた。


「イリューザさんにメイシアさん、来てくれたのですね」


「…………は?」


 見覚えのない銀髪の青年の言葉に、メイシアは目と口を丸くする。


「ん? なんだ、お前さんシオか? ずいぶんさっぱりしちまったな」


 イリューザは首を傾げる。青年……シオは困ったように笑うと、「いや、なんだか見苦しいとか言われまして」と、言ってきれいに切りそろえられた頭に手をやる。


「洗ってもらったり、香料を塗られたりで昨日は大変でした」


 イリューザは面白そうにほうほうといいながら、すっかり様変わりしたシオを正面や斜めから見ている。


「しかし服が変わればずいぶん印象も変わるもんだな。うっとおしい前髪も短くなって、ようやくお前さんの目ん玉を拝めるぜ」


 と、不躾なまでにシオの顔を覗き込む。シオはそれに戸惑いながらも、不快には思わないのか、


「あ、そうですか。それはすみません」


 ぺこりと頭を下げる。


「いや、謝る必要はねぇけど。ーーーしかし、お前さん腰が低い割りに目つきは悪いな」


「はぁ……顔は生まれつきですから」


「そりゃそうだな」


 からからとイリューザは笑う。


「……本当にシオなんだ」


 メイシアはそんな二人のやりとりを通りの向こうのような遠さで眺めながら、呆然とする。


 イリューザの言ではないが、今のシオは全く別人に思えた。


「そりゃあ、口を開けばいつものシオだけど……」


 何故かどこか違和感を覚える。はっきりと言葉にする事は出来ないのだが、髪や重苦しいローブがなくなったことで露わになった彼の素顔が、何か食い違っているように思える。その落差が納得できず、メイシアは首を傾げた。


「それよりイリューザさん、私の杖を知りませんか?」


「ああ、それなら宿屋にあるぜ。んだよ、借金のカタに売り飛ばしたとでも思ったのかい?」


「いえ、そういうわけでは……」


「シオってば、私を放り出すのはやめてよ」


 マリオンはするりとシオの腕に自分の腕を絡ませ、そのまましなだれかかる。


 そしてごく自然な動作で、彼女はシオの細い顎に指を滑らせた。シオはマリオンの腕を解かず、そのままされるがままになっている。困惑しているようだが、不快でもない……特に嬉しそうでもなかったが。


「この人、最初はものすごく汚くてどうしようかと思ったけど、出来上がってみれば割と好みの顔をしていて驚いたわ」


「そいつはよかった。けどよ、この衣装代も借金に追加なんてのはなしだからな」


「そこまでケチくさいことは言わないわよ。ただ……払えなかったら、わかっているわね」


 マリオンは婉然と微笑む。イリューザも負けじとばかりに太い笑みを見せた。


「おう。その時はこの男は一生あんたのものだ。犬とでも呼んで好きにこき使ってくれ」


 得意げに言って、笑声を上げる。


「イリューザっ! そうじゃないでしょ!!」


 思わずメイシアはイリューザに食ってかかる。


「……はぁ、犬ですか」


「そこっ、自分が売り飛ばされようとしているのに呑気にしているんじゃないのっ!」


 危機感とか、状況の把握とかが抜け落ちている男達を前に、メイシアは頭をかきむしって叫びだしたい衝動に駆られる。


「まぁまぁ、ほれ嬢ちゃん落ち着けよ。これでシオの無事もわかったことだ、もう帰るぞ」


 どうどう、とイリューザは動物をなだめるようにメイシアの肩を掴むと、そのまま扉に向かって引きずる。当然、彼の力ではメイシアが抗ったところでどうにもできない。


「ああっ、待ってよイリューザ!」


「え、もう帰ってしまうのですか」


 手足を振って暴れるメイシアを、イリューザはひょいと小荷物のように抱え上げてみせる。


「ちょいとこれから忙しいんでな。なぁに、お前さんはマリオンにかわいがってもらえ」


 メイシアの抗議も無視すると、イリューザはひらひら手を振って出て行った。


 門を出たところで、メイシアはイリューザの肩から下ろしてもらえた。すぐに屋敷を振り返ったが、扉はぴっちり閉ざされている。


「……これからどうするの? まさか、本気でシオを置いて行くんじゃないでしょうね……」


 メイシアは「でも、この男ならやりかねない」と、変に納得している自分がいた。


 イリューザの方は至って呑気に笑っているだけだ。


「おいおい、俺はそこまで非道な男じゃねぇぞ。まぁあの姉ちゃんは、美人だがまだちょいとばかし経験って奴が足りてねぇみたいだ。ここからは、俺に任せておけ」


「…………ものすごく不安なんだけど」


 ある意味、この事件はここで打ちきりにした方が色々と平和な方向に話が転がるのでは、とメイシアは思ってしまった。







 ランプの明かりにグラスを透かしながら、マリオンは上機嫌だった。


 ひとつは仕事が思っていたよりも順調な事。


 実を言えば、商隊ひとつを任されるのは初めての事で、それなりに緊張した日々を送ってきた。幾つか気になる点は残っているが、それでも数日の内にここを出て、次の目的地へ進む事が出来るだろう。


「これでようやく父も私を認めるわ」


 他の男兄弟はすでに自分たちの旅団を持ち、各地を巡って財をなしているというのに、マリオンは末の、しかも初めての娘という事で父親は彼女を溺愛し、それこそ金箔の箱に入れて育てられた。


 だが、彼女は周囲からもてはやされるだけでは満足できなかった。


 しっかりと自分の実力を内外に知らしめ、ドゥエルグ商会の娘ではなく、マリオンという個人として信頼を集め責任を果たしたかったのだ。


 父は彼女の願いに笑顔で首を振ってきたが、マリオンは諦めず、父をなだめたり脅迫まがいの真似事までしてようやくまともな仕事をもらった。


 とはいっても、買い付けなどではなく、港に集まった荷物を別の街に運び、代金と指定された商品を持ち帰るだけだ。


 簡単だとは思ったが、それでもなめてかかるような真似は許されない。実際、兄たちもこういったお使いのような仕事をこなしてこそ現在の姿があるのだ。


「それに、思わぬ拾いものもあったし」


 それが彼女の機嫌をよくする二つ目の出来事。


 酒宴の場は、彼女一人だけではなかった。


 隣の長椅子に座っている、銀髪の青年。


 たまたま顔を出した地下の賭博場で拾った、自称魔導士の男。


 マリオンは賭博場にいた男達が、イカサマまがいで膨大な借金を押しつけた事には気づいていた。だが賭博場は彼女の管轄ではないので、うかつに手は出せなかったのだ。それで支払いの延長と、人質として青年を預かる事でいったん場を収めた。


 借金も、一週間という短期間で払えるものでないとわかっているので、あの傭兵男が泣きついてきたら適当な仕事を押しつけてチャラにしようとも考えている。


 そして連れてきた男なのだが。


 魔導士だというので、マリオンの護衛についていた術者と競わせてみたのだ。


 彼は杖がないので、と断ろうとしていたが、有無を言わさず術者に攻撃させた。


 すると、結果は青年の圧勝で終わったのだ。


 術者の方は、弾き返された己の術に身を焼かれ、しばらくは動けないだろう。青年は「杖がないので威力を制御できなかった」とひどく悔やんで落ち込んでしまった。


 その様子に、さすがに彼女の良心も多少痛んだので、代わりの護衛を引き受けさせる事で借金の割引を提唱した。

 そして借金が減っても落ち込んでいる青年を、「見た目がうっとおしい」と使用人に命じて服を変え、身なりを整えさせところ、思わぬ結果が待っていた。


「ここまで化けるとは思わなかったわ」


 感心しながら、マリオンは杯をあおる。


 元々、下地は良さそうだとは思っていたのだが、女中に連れられて来た青年に、思わず見とれたほどだ。


 輝く銀の髪、色がないのかと思うような薄氷色の瞳。


 比喩に使われる女のような美貌という言葉がそっくり事実として当てはまる、白皙の青年がそこに立っていた。


 整いすぎて、血の通っていない彫像のような容貌。色素の薄さと怜悧な印象があいまって、人間離れしたある種の超然とした近寄りがたい雰囲気を持っていた。


 ーーー最も、その印象も口を開くまでという制限付きだが。


 よく言えば気の優しい、悪く言えば単純で呑気なこの青年は、見かけの美しさとは正反対に、時々とんでもない大ボケを披露する。


 どうにも緊張感というものがなく、言動もずれていて、先ほどもまじめな顔をして酒を飲んでいるマリオンに、飲み過ぎだと説教を始めたりした。


「本当、変な男……」


 普通……というか、彼女の今まで相手にしてきた男達は、酒の飲み過ぎを注意したり、丈の長い衣装に蹴躓いて階段を落ちたりはしなかった。


 何より、自分に媚びない男は初めてだ。


 彼女の美貌と、その後ろ盾に数え切れないほど男達が彼女に近寄ってきたが、それらはすべて一蹴した。


 歯の浮くような甘い台詞と、高価な贈り物は彼女の心を動かす事はなく、相手はマリオンの冷笑をもらってすごすご引き下がっていった。


 だがこの青年は、マリオンを持ち上げるような真似もしなければ、下心むき出しにして迫って来る事もない。


 最初は護衛役に徹しているだけで、本心を抑制しているのかとも思ったが、逆にマリオンの方が刺激するような態度を取っても平然としたもので、拍子抜けしてしまった。


 最も、そこでシオが手を出してきたならば、即、叩き出した上に借金の上乗せを計っただろうが。


 マリオンは杯を卓に戻すと立ち上がり、ふらりと揺れる。そんな軽い酩酊感を楽しみながらシオの隣に座った。


「……マリオンさん、そろそろ休んだらどうです。明日もお仕事が忙しいのでしょう?」


 彼は体重を預けてきたマリオンに、心配そうな顔を向ける。


「ふふっ、またお説教? 雇われているくせに、お節介はやめてよ」


「はぁ、けれど飲み過ぎはよくないですよ」


 マリオンは笑って取り合おうとはせず、肩に流れる銀の髪を指先でもてあそぶ。


「あなた、本当にきれいね」


 髪から手を離し、今度は頬に手を添える。上半身にもたれかかるような格好になっていて、端から見れば恋人達が絡み合っているように思えるだろうが、シオの方はマリオンが椅子から落ちないように軽く身体を支えてくるだけで、それ以上の意思はないとばかりに静かにしている。


「今までも自分に負けないと思うような女は何人かいたけど、あなたはそれ以上ね。悔しいけど、女のようなじゃなくて、女より美しいわよ」


「そうですか……」


 シオの言葉は素っ気ない。最も、女より美しいと言われて手放しで喜ぶような男は、単に自分の美貌に自惚れているだけの阿呆だろう。


「私の言う事が信じられないみたいね。けど、事実よ。まるで人形みたいに美しいわ」


 マリオンが言うと、シオはその言葉にわずかに反応する。


 うつむき、眉根を寄せる。初めて見せる表情に、マリオンは奇妙に思うよりも好奇心が先に立った。


「あら、もしかして怒った?」


 シオは頭を振る。だが、歪んだ表情は晴れない。


「……いいえ。ただ、昔のことを思い出しただけです」


「同じことを言われたのね。けど、ずいぶん嫌な思い出みたいね。きっとその人も、あなたの美貌をうらやんでのことよ」


 だから、気にする必要はないとマリオンは笑う。


「違いますよ。私は美しいなどと言われたことはありません、むしろ、逆でした。毎日のように醜い、汚れていると罵られていましたよ」


「そうなの? あなたってずいぶんひねくれた環境で育ったみたいね」


 信じられないとマリオンはあきれる。どんな人間が彼の側にいたのかは知るよしもないが、この青年を前にそこまでの暴言を口にする事が信じられなかった。


 不意に、シオは自嘲気味に笑う。


「いつもいつも言われ続けました。私は醜い化け物で。人形のように、意思のない肉塊であれ、と」











(3)




 メイシアは途方に暮れていた。


「イリューザ……どこに行ったのよ」


 彼女が歩いているのは、すでになじみになった宿場町の市場。時刻は昼過ぎ。物売りの声が、高く晴れた空に響く。


 しかしメイシアの気分はそのまま地面に沈み込んでしまいそうなほど、暗く淀んでいた。


 シオと別れた後、イリューザは「俺に任せろ」と言って出て行ってしまい、それから二日、まったく音沙汰がない。


 一日目は、一人でどうにか耐えた。


 そして二日目の朝……つまり、今日。ついにメイシアはしびれをきらした。


 だがイリューザの行方はようとして知れない。仕方なく、メイシアは当てもなく宿場町をうろうろと歩き回り、イリューザを探しているのだ。


「……宿に戻ろうかしら」


 メイシアは重い息を吐く。


 最初に泊まっていた宿は、すでに引き払っている。今泊まっているのは、本当に最低ランクの宿屋だ。彼女としては、所持金が乏しいので以前やっていたように橋の下で寝泊まりしようと思っていたのだが、イリューザが強固に反対した。「若い娘が橋の下なんて言語道断!」と迫られたのだ。


 それでも、肝心の宿泊代がない。メイシアの手持ちは、数日分の食費程度だ。


 そう反論すると、イリューザは「金がないならあるところから作ればいい」と、妙に不安をあおる笑みを見せつけて、高価そうなブローチを懐から取り出した。


 どうやら、あの時シオの服からかすめ取ってきたらしい。さすがにメイシアも、その手癖の悪さに唖然とした。そして当然、盗品で生活費をまかなう事に反対した。


 だがしかし。


 彼らに与えられた期限は一週間。


 問題は、今の懐事情では、借金返済どころかその一週間も乗り切れそうにない点だ。


 そして……。


 仕方なく……本当に仕方なく、メイシアは故買屋でブローチを換金するイリューザを見逃し、その金を受け取った。


 良心や良識を押し込め、それもこれも、一週間先の借金返済の為なのだと自分に精一杯言い聞かせながら。


「ごめんなさい……誰に謝ったらいいのかもわからないけど、とにかく神様ごめんなさい!」


 メイシア自身あまり信心深い方ではないが、思わず神に向かって祈ってしまった。


 そして戻って現在。


 彼女もただ歩き回るだけでなく、一緒に仕事も探していた。借金も切実だが、やはり生活費くらいは自分で弾き出さなければと思っての行動だが、間が悪いのか、頼み込む先はことごとく断られ続けた。


 とぼとぼと力無く道を歩きながら、メイシアは何度目かの重い息を吐く。


 ろくに櫛も通していない、くしゃくしゃになった髪をかきあげながら、メイシアはぽつりとつぶやく。


「もしかして……逃げた?」


 もう何度そう思ったかわからない。その度に、メイシアは自分に言い聞かせるのだが、さすがにもう限界だった。


「ーーーあの!」


 だから、かけられた声に最大限の怒りと憎しみのこもった顔で振り返ってしまった。


 突然、そんな殺気のこもった顔を向けられた女は、ぴしりとその場で硬直する。


「……あ!」


 涙目になっているその顔には見覚えがあった。


 メイシアは慌てて取り繕う。


「ごめん、ちょっと機嫌が悪くってね。……えーと、ミワ……だっけ?」


 半泣きの顔で、女神官ミワはこくこくと頷いた。


「先日は、どうもお世話になりました……」


 杖を握りしめて立っている姿は、前回よりも薄汚れている。


「あーうん。……えと、確か山向こうの村に行ったんじゃなかったっけ」


 メイシアはわざとらしい引きつった笑みを見せるが、ミワはその焦った様子には気づかないのか、しょぼんと肩を落とす。


「それが……村の方に尋ねても、そのような人物に心当たりはないと。それで、道を間違えたのかと思い、一度こちらの街に戻って来たのです」


「そうなんだ……」


 道が違うも何も、ミワの探し人の行方などメイシア達は知らない。


 山向こうの村なんて、全部イリューザの出任せだ。


「また、あのおじさんのせいなのね……」


 ふらふらとメイシアは頭を抱える。


 もちろん、すぐに追いかけて訂正しなかった自分も悪いのだが。


 とにかくメイシアは申し訳ない気持ちで一杯になり、思わず、近くにあった屋台を指さす。


「お腹空いてない? あたしがおごるから、ちょっとそこで食べながら話でもしましょうよ」


 正確には、その支払いはイリューザが売り飛ばしたブローチの代金なのだが。


 ミワはよほどお腹を空かせていたのか、目を輝かせ「はい!」と力一杯頷いた。







 屋台の脇には小さな椅子とテーブルが備え付けられ、数人が座って食事できるようになっている。しかし今は、食事時からはやや外れている為、客は他にはいない。その軋んで表面がぼこぼこと波打っているテーブルに、豆と脂身のスープ、そして薄焼きパンが並べられると、ミワはそれこそよだれを垂らさんばかりの勢いで目をきらきらさせる。


「まるで、ご飯を前にした犬ね……」


 思わず、「おあずけ」と言って待ったをかけそうになったが、メイシアはそこはこらえて素直に「どうぞ」と声をかけた。

「はい、いただきます!」


 ミワは早速スープを口に運び、幸せそうな顔をする。


「もしかして、出て行ってから食事してなかったの?」


 がつがつむさぼるような真似はしないが、それでも黙々と匙を運んでいる。その勢いに、メイシアは目を丸くした。


「そうなのです、勢いで宿場町を出てしまったので携帯食料もなく、水がつきたときは本当にどうしようかと思いました」


 行儀よくパンを一口大にちぎって食べながら、ミワはさめざめと涙を流す。


「食べるか泣くか、それか喋るかどれかにすればいいのに」


 思ったが、ミワの忙しく動く手と口は止まりそうにない。


 メイシアはもそもそとパンを咀嚼する。早くしなければこちらの分まで取られそうな勢いだ。こちらが代金を支払う以上、半分はきっちり食べておかなければ。


 それに、話をしたかったのも事実だ。


「え……と、ミワは人を探しているのよね。……なんか、長い名前の」


 一応、名前は聞いたはずなのだが全く思い出せない。しかしミワは気を悪くした様子もなく、こくりと頷く。


「はい。アネクシオス様と仰いまして、同じイデア教の神官です」


 口の中が食べ物で一杯だったので、ミワは飲み下してから答える。


「けどさ、そのイデア教って、もっと南の方が本拠地じゃなかったっけ。なんでこんな北の方まで探しに来たの? 本当に、こっちに来たの?」


 う、とミワが苦いものを飲んだように顔をしかめる。


 さすがに多少、気が咎めたが気になるのだから仕方がない。


「立ち入った事を聞くようだけどさ、そのアネクなんとかって神官……ミワはどうして探しているの?」


 ミワの手が止まった。


 匙を木の台に戻し、うつむいてしまう。


 そしてやや間があった後、ぽつりと漏らした。


「ーーーー殺人です。あの方は『中央』の神官を殺し、逃亡している疑いがあるのです」


 膝の上で組まれた手が、固く握りしめられる。


「……そう、なんだ。あのさ、話の腰を折って悪いけど、『中央』って確か、宗教の聖地だっけ?」


「あら、ご存じないですか」


 軽く首を傾げてメイシアを見つめる。まるで小動物のようなあどけない仕草に、メイシアは思わず微笑を漏らす。


「あたしさ、そういった宗教関係はうとくって」


「そうですか。『中央』とは、イデア教の聖地です。太古にはそこに、悪しき邪法に取り憑かれた国が存在しました。それを滅ぼしたのが竜の化身、最後の天帝です。私たちはその伝説を後世に伝える為、竜を象徴として崇めております」


「へぇ、国を滅ぼしたのに神様なんだ」


「消滅したのは危険な邪法にむしばまれた国家だと聞き及んでおります。放置すれば、そのまま世界規模の危機に至っていたと。……確かに、なんら関わりのない者達の営みも、そこにはあったのでしょう。それでも私は……私たち、イデア教団は竜の行いが正しかったと信じております」


「そうかしら、なんか納得できないけど」


「滅亡に追いやったのは、竜神の力を借りた者。その力こそが神です。それに、竜の力は破壊だけでなく、創造も導くのですよ」


「ふぅん」


 メイシアのように、特定の宗教の信者でもない者は、こんな現実味の薄い話をされても、幼い頃に聞いたお伽噺と大差ない。


「そして『中央』のアネクシオスといえば、近隣諸国で知らぬ者なし。我がイデア教はじまって以来の法力の持ち主です。もちろん、人格の上でも申し分のない方でした。そんなお方が……殺人を犯すなど……私には、信じられません」


 服の裾を握りしめ、奥歯を噛む。


「あの方はその実力を認められ、神官の最高位、大神官に抜擢されました。イデア教では、ここ百年ほどその座は空位のままでしたので、周囲は期待で湧きました。しかしその任命式の前夜……神殿にいた神官や、女中までもが殺害されたのです。そして当時、地方に殉教に回っていた私たちの一団だけが、難を逃れました。そして……生き残った者達は、この惨事を引き起こした者に、アネクシオス様の名を挙げたのです」


 任命式に間に合うよう、急ぎ総本部に戻ったミワ達が見たのは、血潮に沈んだ神殿。そして突然の異常事態に混乱する中、ミワは生き残った先代神官長の命を受け、行方をくらませた男を追う旅に出た。


 己の中に渦巻く疑念が、すべて偽りだと信じて。


「アネクシオス様は、優しく聡明なお方で、私のあこがれでした」


 ミワは懐かしむように微笑むが、次第にその肩を落とす。


「それが、あんなことになるなんて……」


 ミワはくしゃりと顔を歪ませる。泣くのかと思ったが、彼女は手を白くなるほど握りしめ、必死に込み上げる感情を抑え込んでいる。


「私はあの方を捜し出し真実を確かめろと、そう言われました。ですが何ヶ月も旅を続けても、あの方の噂ひとつ聞く事もなくここまで来てしました。……この北の地では、イデア教もさしたる影響力はなく、『中央』が現在どうなっているのか見当もつきません」


 ミワは一度そこで言葉を切ると、思い詰めたような顔をする。


「教団を離れた今、もしかすると、神殿での出来事は全て何かの間違いだったのではないかと思うようになりました。……そう思う自分を心底卑しいと軽蔑したくなるのです。だからこそ、私はあの方に追いつくまで神殿に帰る事は出来ません」


 絶対に、と自分自信に言い聞かせるようにミワは強く繰り返す。それでも言葉を繋ぐたびに細い肩が震え、ついに耐えきれないとばかりに青い瞳から透明なしずくがこぼれ落ちる。


「私は……あの方が罪を犯したと信じたくないのです。けれど、あの状況と、目撃者である先代様の言葉が、すべてを示しているのです。だからこそあの方に直接尋ね、確かめたい、でも……怖いんです」


 寒さに震えるように身体を丸めてしまったミワに、メイシアはいたたまれない気持ちになる。


 メイシアは当然、ミワが追う人物を知らない。それでも彼女の思いは同じ女として、共感できるところはあった。


 どれだけミワが相手を思っているのかも、理解できた。


 だが、その想い人だが……


「シオが、そんなすごい神官だなんて思えないんだけど……」


 確かに捜している神官も、黒竜を連れているのかも知れない。


 だがミワの話を聞けば聞くほど、どうしてもシオと件の神官とが噛み合わないのだ。


 魔導士と神官という違いを差し引いても、何か納得できない。


「けど、シオの場合。確かに陰気な魔導士の格好をするより、道端で嘘くさい説法でもしている方が似合いそうだけど」


 シオがいつものどこかぬけたような調子で語れば、どんなに空々しい人類愛の話でも信じてしまうかも知れない。


「まぁ、会わせてみればはっきりするか」


 メイシアはそう結論づけて、ミワの肩に優しく手を置く。


「ねぇ、ミワはその人が犯人だって信じたくないから、それを確かめる為にやってきたんでしょ。だったら本人に直接聞いて、それから考えてみなさいよ」


 その言葉に、ミワは真っ赤になった顔を上げると急に表情を輝かせる。


「はい、そうですね。その為にも、早くアネクシオス様を捜し出さなければ! そういえば、今日は黒竜を連れておりませんわね」


「あ、うん。他の人に怖がられるから、宿屋に置いてきたけど……」


「まずは手がかりです、その黒竜に会わせて下さい」


「会って、どうするのよ」


 相手は竜。会話の出来る存在ではない。


 しかしミワにとって、そんなことは些末な事らしい。


「大丈夫です、アネクシオス様の連れていらした黒竜は、とても頭がよかったのです。話してみれば、もしかするとあの方の所まで案内してくれるかもしれませんわ」


「まぁ、やりかねないけど……」


 一応、クロツもシオの居場所は知っている。


 問題は、ミワの探している人物が、本当にシオなのかという事だ。


「あたしは絶対に違うと思うんだけどな」


 もしあのとぼけた魔導士がミワの語る神官なのだとしたら、彼女は相手の事を相当程度美化して考えているのではないか、とメイシアは思った。










「間が悪いわよね……」


「はぁ、そうですわね」


 二人は大きく息を吐く。


「ったく、よりによってちょうど二人揃って出かけているなんてっ!」


 メイシアたちは、宿場町の中心の、大きな広場の真ん中に立ち尽くしていた。


「……どこ行ったのか、全然わからないし……」


 あの後、二人は連れだってドゥエルグ商会の屋敷まで足を運んだが、そこの使用人に「二人は出かけた」とつっけんどんに追い払われたのだ。


 その後、シオと彼を連れ回しているマリオンを探してはみたものの、ただ当てもなく歩き回っていたのでは、この広い街中で、すんなり見つかるはずもなかった。


 かと言って、女二人があちこち男の事を聞いて回る、というのも、何となく気が引けた。


「……けど、あの女の事を聞いて回るのも、なんかしゃくに障るのよね」


 思わず本音が漏れる。


 確かに、銀髪の男を目印に捜すより、街の有力者であるマリオンの目撃情報を求めた方が早いのかも知れない。


 それでも……嫌なものは嫌なのだ。


 メイシアはもやもやとした不明瞭な気持ちのまま、大きく溜め息をつくと、水の出ていない大きな噴水の縁に腰を下ろし、それに習ってミワも隣にちょこんと腰掛けた。


「これからどうしましょう」


「そうねぇ……」


 決まっている。


 メイシアもミワの捜し人は気になるが、何時までもかかずらっているわけにはいかない。


 借金に追い回されている身としては、一刻も早く金を稼ぐ手段を見つけなければならないのだ。


「もっとも、その借金だって他人がこしらえたものなんだけどね」


 それに、どう考えても一週間やそこらで用意できる金額ではない。最初から、無理な話なのだ。


 思わず頭を抱えたくなると、ふと、隣に座っている神官の姿が目に入る。


 ミワは通りを行き交う人たちの姿を眺めていた。恐らく、その中に目的の人物がいないか捜しているのだろう。


「そうよ、この神官さんが、神のお力とかで借金をチャラにしてシオを返してもらえば良いのよ。そうすれば、ミワもシオに会えるし、一石二鳥じゃない」


 うんうん、と我ながら素敵なプランだと思ったが……そう思った瞬間にあまりにも馬鹿げていると気づいた。


「……駄目だ、疲れてきてる」


 ふと顔を上げると、通りの向かいに屋台が見えた。


 暖かそうな白い湯気が立ち上る屋台で、売り子らしい中年女性が客寄せなのか、手に持った鐘をからからと軽快に鳴らしている。


「何か、暖かいものでも飲もうかな……」


 シオをもう一度探す元気が出るだろうし、気分転換になるかもしれない。


 そう思って、メイシアはポケットから、数枚の硬貨を取り出す。


「ねぇ、ミワも何か飲む……」


 言いかけた、その時。


 視界の端にちらりと映ったのは、純白のような銀髪。


「あっ……!」


 あの背の高さと、特徴のある容姿。


 間違いない、シオだ。


 思わず駆け出そうとしたメイシアだったが、次の瞬間、その足を止める。


 彼の横、親しげに話しかけている、一人の女性を見たからだ。


 華やかな容姿の女性……マリオンだ。


 遠目にも分かる程、にこやかに笑っている。


 そして、シオも。


 彼は目を細めて優しい笑みを浮かべ、マリオンに応じていた。


 彼女が楽しそうに声を上げて笑い、そのままするりと自分の腕をシオの腕に絡める。


 二人は連れ立って、通りの向こうへ進んで行き、そのまま人並みに紛れて消えていった。


 メイシアはそのまま彼らを見送った。ミワはシオに気がつかなかったのだろう、突然立ち上がったまま硬直している彼女を、不思議そうに眺めている。


「なんなのよ……」


 何故か、声をかける事がためらわれた。


 あまりにも二人の様子が自然に見えたから。


 誰の目にも彼らは、仲睦まじい恋人同士に見えただろう。


「だから、なんだっていうのよ……」


 自分がどうして遠慮しなければならないのだ。


 それでも……言葉とは裏腹に、メイシアは彼らの後を追いかけて行く事が出来ず、呆然と、その場に立ち尽くしていた。












(4)





「あーーーっ!!」


 ミワの叫びに、メイシアはかくりと肩を落とす。


 見れば、隣に座っていたはずのミワは、近くの掲示板前で叫んでいた。


「今度はなに……?」


 どうもシオを見つけて騒いでいるわけではなさそうだ。


 メイシアはなんとなく嫌な予感がしたが、そのまま放置するわけにも行かないので彼女の指さす場所に近づく。


 どうやら役所前の掲示板に、彼女の興味を引く何かがあるらしい。


「これ、これを見て下さい!!」


 彼女が必死になって指さす先には、絵入りの手配書が何枚か貼られている。


「はぁっ、すごい金額。これだけあれば、借金返済の手付け金にはなるわね……」


 いかにも悪党面という人相書きと、そこに記された金額にメイシアは息を吐く。


「違います、その男性ではなくてこっちです!!」


 ミワが掲示板をばしばし叩きながら、一枚の手配書を指し示す。


 その手配書はまだ貼られて間がないらしく、比較的きれいな状態だった。


「えーと、なになに。アネクシオス、職業……神官。ーーーはぁっ!?」


「ああっ、アネクシオス様が指名手配犯に……」


 ミワはがくりとその場にしゃがみ込んでしまう。


 しかしメイシアはミワに構っている余裕はない。


 彼女が驚いているのは、ミワの捜している神官が指名手配犯と一緒に張り出されている事ではなかった。


「なによ、これ……」


 メイシアはその手配書を食い入るように読む。


 そこにはざっと荒く描かれた人相書きに、特徴が記されている。


「これは……」


 息が荒い、メイシアは思わず胸を押さえる。


 その神官服に身を包む青年に、見覚えがあった。


 銀髪、二十歳過ぎの男性。


「シオ……?」


 描かれた姿は、先ほど通り過ぎた男とそっくりだった。


 まさか、と思った。


 メイシアもあの薄汚れた魔導士姿のままでは他人のそら似だと一笑に伏しただろう。


 だが、あの着飾った衣装を、白の法衣に置き換えてしまえば……


「ひどいですわっ!」


 ミワの声に、メイシアは意識を引き戻す。


 彼女はメイシアのつぶやきを聞いていなかったのか、一人、憤慨している。


「このような……まるで罪人のように人相書を回すなど、『中央』は何を考えているのでしょう」


「……ねぇ、この人が捜している神官なの?」


 硬い声に、ミワはなんの躊躇もなく頷いた。


「はい。間違いありません。ここに描かれているのは、アネクシオス様です」


「そう、そうなんだ……」


 メイシアはふらりと彼の行き過ぎた方向に顔を向けたが、ふと思い立つと手配書を破る勢いではがし、それを握りしめて歩き出した。


 シオが向かったのとは、全く逆の方向に。










 メイシアは宿屋に戻っていた。


 ここに辿り着くまで、ミワが後ろで何やら叫んでいたようだが、全て無視した。さすがに部屋の中までは追ってこなかったので、メイシアはそのままばったりと寝台に倒れ込んだ。


 しばらくはうつぶせのままでいたが、やがて息苦しくなり、そのままくるりと反転する。染みだらけの天井を眺めて、ふと、手配書を握ったままだった事を思い出す。


 メイシアは皺の入った紙を、もう一度広げ直した。


 手配書には、具体的な内容……罪状などは記されてはおらず、ただ本人を役所まで連れて来た者には謝礼金が出る、とだけあった。


 神殿としては、事をおおっぴらにしたくはないのだろう。それでも、これではミワの言うように、罪人だと思われても仕方がない。


「シオ……アネクシオス……」


 そもそも、シオという名はアネクシオスの略称だ。


 一般的には、アネクと区切るのだろうが。


 魔導士と、神官という違いはあるが、元々魔力と法力に縁のない彼女にはその差がよくわからない。


 それにシオ自身、魔導士だと公言していた様子もない。


 ただ、魔導士がよくするような黒ずくめの格好をし、おまけに魔法も使って見せた事があった。


 それでも……


「似ている、なんてもんじゃない」


 思いこみの分を差し引いても、この絵姿とシオは良く似ている。


 だが、この絵が示すのは、アネクシオスという名の神官。


 そうなってくると、答えはひとつしかない。


 わかっていても、それを口にする事はためらわれた。


 代わりにメイシアは、ここにいない青年に向かって問いかける。


「あんたは……何者なの?」


 ぱさりと脇に手配書を落とすと、部屋の隅に動く気配を感じた。顔を向けると、床の上に黒竜が寝そべり、顔だけ上げて自分を見つめている。


「クロツ……あんたのご主人様は、シオなの、それとも……アネクシオス?」


 深紅の宝石のように深い色をした瞳は、なんの感情も浮かべることはなかった。クロツはメイシアなど興味ないとばかりに顔を背け、そのまま丸くなってしまう。


「…………」


 動かない黒竜の様子に、メイシアは嘆息する。


 最初は、自分の故郷を滅ぼした〈竜〉の正体が知りたくて、彼に近づいた。


 だが、それを知っているであろう彼自身もまた、多くの謎を持っていることはすぐに気がついていた。


 しかしそれらは自分には直接関係ない事なので、今までは見て見ぬふりをしてきた。



<ーーーー殺人です。あの方は『中央』の神官を殺し、逃亡している疑いがあるのです>



 女神官は、はっきりとそう告げた。


 彼女自身は、逃亡した神官が罪を犯した事を否定したがっているようだが。



<はい。間違いありません。ここに描かれているのは、アネクシオス様です>



 メイシアとミワ、互いが知る者は、共に同じ年格好の青年。


 異なるのは、外見以外の全て。


 一人は、何者かと会う為、北の地へ向かう魔導士。


 一人は、大量殺人の嫌疑を持った神官。


 彼の正体は、真実はどちらなのだろう。


「……わかるわけ、ないじゃない」


 考えたところで答えは出ない。


 メイシアは途中で考えを放棄し、そのまま眠りに落ちていった。













 翌日は、雨だった。


 季節の移り変わりに降る、長い雨。


 昨晩から降り出した雨は、勢いを緩めないまま昼になり、宿屋の主人も今日は晩までこの調子だろうとぼやいていた。


 メイシアは雨を理由に外出せず、昨日から部屋に閉じこもっていた。


 ミワの行方は気になったが、捜し人をこれ以上増やすわけにもいかない。


 狭い部屋に、メイシアと黒竜のクロツだけ。彼女は寝台に座り、壁面に背を預けたままぼんやりと雨の音を聞いていた。


 と、どかどかと重い足音が聞こえる。


 全体的に安普請で、隣の部屋の物音など丸聞こえの安宿なので、階段を上がる音くらいで今さら驚きはしない。


 だがその足音が自分の部屋の前で止まり、そのままノックもせずに扉が開けば、さすがのメイシアも身構えてしまう。


「なっ!」


 手近に武器になりそうなものを探したが、この部屋には寝台以外は何も備品がない。とりあえず枕をひっつかんで投げられるように構えたが、それよりも先に入ってきた相手が声をかけてきた。


「よう、嬢ちゃん。こんな安宿に泊まっていたなんて、探すのに苦労したぞ」


 太い笑みを浮かべ、イリューザは滴のしたたる髪をかき上げる。


「イリューザ……」


「ん? どうした、そんな驚いた顔して」


 言いながらイリューザはさっさと部屋の中に入ると、どっかり床に座り込む。狭い部屋なので、体格のある彼がそこにいるだけで圧迫感を覚える。


 彼は羽織っていたマントで濡れた身体をぬぐうが、元々布地が濡れているのであまり効果は上がっていない。


 その様子に呆気にとられていたメイシアだったが、ややあってから、我に返って叫ぶ。


「ど……どうしたもなにも、今までどこに行ってたのよ!」


「どこと言われてもなぁ、色々だ。しかしよぉ、先に落ち合う先を決めておけばよかったな、この雨の中、街中の宿屋を片っ端から探したんだぞ」


「あー、うん。それはご苦労様……」


 寒い寒いと言いながら、イリューザは懐から酒瓶を取り出して早速あおっている。どうやら、メイシアを探す傍らに買ってきたらしい。


 そんな様子に、メイシアは息をつく。


 昨日から……いや、イリューザの借金騒動からずっと、振り回され続けていたメイシアの思考は、完全に煮詰まっていた。


「……あー、もう。なんだかわけがわかんない。もういい、あたし、イリューザのところの子になるわ。うん、きっとそれが良いのよ……」


 突然頭を抱え、やけっぱち気味に声を上げるメイシアに、イリューザは目を丸くする。


「おいおい、シオはどうするんだ」


「あいつはあの女の所に置いていけばいいのよ。かわいがってもらっているみたいだし、そのままあげるわ」


「あげるってそんな、犬猫の子じゃあるまいし」


 イリューザはあきれながらも一気に酒を飲み干すと、空瓶を床に置き、いつもの妙に自信のある笑みを浮かべる。


「それに、借金ならもう片が付いたぞ」


「ーーーはぁ?」


 メイシアはいかにも胡散臭そうな顔をする。しかしイリューザもそんな反応は見越していたのか、にやにやともったい付けるように懐に手を突っ込むと、多少皺の入った数枚の書類を取り出してきた。


「なによ、それ。また新しい借金を増やしてきたんじゃないでしょうね」


「まぁまぁ、ちょっと読んでみろよ」


 ぴらぴらと目の前に突き出され、メイシアは嫌そうに顔を背けながら、汚い物を指でつまむようにして書類を受け取る。


 それは多少書式が崩しているが、何かの契約書のように見えた。


 メイシアも一応、読み書き程度は出来るが、こういった小難しい内容が書かれた書類は読んでも内容が頭に入ってこない。


 それでも、メイシアにもわかりやすい項目が一カ所あった。


 それぞれの書類に記された、金額。


 しかも、簡単に斜め読みしただけだが、どうもこれは借用書ではないらしい。


 むしろ、逆のようだ。


 メイシアは書類を手にしたまま、思わず手が震える。


「な……なによ、この莫大なお金は!」


「なにって、稼いだ」


「あのねぇ、絶対にばれる嘘はやめなさいよ」


「おいおい嬢ちゃん、俺の努力の結晶を一瞬で否定するなよ」


「こんな事ありえないから。ちゃんと納得いく説明をお願い」


 また悩みの種が増えたと、メイシアは頭を抱える。


 イリューザはすっかり疲労しきっているメイシアの有様に、どうしたものかと頬を掻く。


「説明ってもなぁ、賭けには賭けだ」


 彼の説明は簡潔だった。


 メイシアと別れた後、イリューザは街中を歩き回り、地下賭博場で借金を作らせた張本人達を見つけ出したのだ。


「腰を据えてじっくり話し合ったら、あいつらも自分たちのやった事が道理に叶っていないとわかってくれてな。借金返済の為の協力も約束してくれた」


 イリューザは腕を組んで、自身のねばり強い説得とやらを自慢げに話す。


「…………へぇ」


 メイシアは胡散臭そうに相づちを打つ。


 説得など、それこそ絶対に嘘だ。


「どんな平和的な話し合いをしたのよ」


「そうだなぁ……最初は手の指全部へし折ってやれば言うこと聞くかと思ったが、さすがにひどいと思ってやめた」


「そうね、その方が無難だわ」


「最終的には三人合わせて十本にまけておいた。で、そのままドュエルグ商会とは別の賭博場に行ってな、そこでこいつらのイカサマ技術を駆使して、これだけの金額を稼いできたってわけだ!」


 どうだ、すげぇだろう。と、イリューザは得意げに胸を張る。


「………………」


 メイシアは、ぱったりと寝台に倒れ込んだ。


「おい、嬢ちゃんどうしたんだ?」


「どーしたもなにも、もう、何がなんだか……」


 このまま毛布をかぶって眠ってしまいたい。


 むしろ、借金騒動は全て夢で、目覚めれば宿場町を後にして、また旅が始まるのだ。


 そう思いこみたかったが、悲しいかな、今、目の前で起こっている事は避けようもない現実なのだ。


「まったくもう、なんでこのおじさんは行く先々でトラブル起こさないと気が済まないわけ? そりゃあ、こんな莫大な借金、それこそあこぎな真似でもしないと稼げた額じゃないけど、そもそもその借金だってイリューザがこしらえたんじゃないっ!」


 メイシアは半泣きになって、自分でもよくわからない叫びを上げる。


「おいおい、借金が片づいたってのに。どうして泣くんだよ」


「あー、もう、あたしの好きにさせてよ。泣くくらい自由でしょ!」


「そりゃそうだが、どうせならもっと素直に喜んでくれよ」


「こんな後ろ暗い方法で借金返済しておいて、ありがとう、イリューザさん、なんて言えると思うのっ!?」


 手にした書類でぺしぺしとイリューザを叩くが、すぐに自分の行動の無意味さを悟り、メイシアは元通り書類の皺を伸ばしながらもぶつぶつつぶやく。


「良いのよ、もう。めちゃくちゃな事態になるなんて、ちょっと考えたらわかることじゃないの。気づかなかったあたしが馬鹿だっただけ。ううん、それでもイリューザが自分で自分の借金を片づけたんだから、そこはほめてあげるべきよね……。借金返したら、速攻で縁を切りたいくらいの心境だけど……」


「……なんか、ものすごい言われようだな」


 鼻をグスグス鳴らしながら、丁寧に書類の皺を伸ばしていると、そこに記された内容に気がつく。


「これ、お金の支払先がドゥエルグ商会になってるけど?」


 その指摘に、イリューザは軽く笑う。


「どうせあの姉ちゃんに払うんだ、その方が手間がねぇだろ。この書類ごとやっちまえばいいんだよ」


「けど、それだと大分お釣りが出そうだけど」


 計算は苦手なのできっちりとはわからないが、それでも負わされた借金を差し引いた残りがあれば、これからの旅路でイリューザの言うような安宿に泊まる必要もなくなるだろう。


「まぁ、それはそうなんだけどよ」


 イリューザは珍しく言葉を濁し、頭をかく。


「差額分をもらおうにも、実際の支払いは再来週だからな。姉ちゃんの気前がよければ先払いでもらえるだろうよ」


 つまり、今この書類は文字通り紙切れ同然で、実際に効力を発揮するのは再来週、支払期限が来てからになる。


「ちょっと、それじゃあ借金の返済期限に間に合わないわ」


「そこはまぁ、俺が姉ちゃんと話を付けるからよ」


 だから心配するな、とイリューザは軽く手を振る。


「じゃあ、そういうわけでシオを返してもらいに行くか」


「今から……?」


 メイシアは思わず勢いよく雨が降り続ける窓外に視線を向ける。


 イリューザはメイシアの嫌そうな顔に、それもそうだと思い直したのか、


「よし、明日の朝にするぞ!」


 あっさり予定を変更した。












 雨は夜になっても勢いを緩める事はなかった。


「嫌な雨ね」


 マリオンは、窓ガラスにできた雨粒の流れを指でたどる。ガラスに映り込んだ顔は、不機嫌そうに眉根を寄せている。


「今晩中にはやみますよ」


 シオは茶器を片手にやって来ると、彼女の執務机にそれを置いた。温かそうな湯気が立ち上るそれを、マリオンはちらりと眺めると、窓から離れ陶器のカップを手に取る。


 そしてカップを口元まで持ってくると、軽く香りを確かめ、一口飲んだ。


「ーーーまだまだね。お湯の温度が高すぎて、葉の香りが大分逃げているわ。あと、もう少し抽出時間を長くして。薄いわよ」


 その後も、この葉の産地はどうの、配合がいまいちだのと一通り講釈をたれながらも、カップ一杯の紅茶を空にする。

 文句は付けながらも、夕方から冷え込んできたので、温かい飲み物が欲しかったところなのだ。


 そして散々言われながらも、シオは平然としたもので、


「はぁ、お茶を入れるのは難しいですね」


 と、何とも呑気に笑っている。


「そうよ、とても複雑なの。この機会にしっかりマスターする事ね」


「はい!」


 素直に返事をし、シオは片付けにかかる。


 その様子を、マリオンは珍獣でも見るような目で眺めていた。


「……あなたって、本当に妙な人ね」


「そうですか?」


「普通、大の男が年下の女に顎で使われてお茶くみするなんて、耐えられないと思うけど」


「はぁ、そんなものですかね。私はお茶を入れた事がないので、とても楽しいのですが」


 シオの言うように、彼は当初、お茶くみそのものができなかった。一通り教えた後は、割と手際よくやっているので物覚えは良いのだろう。


 だが、マリオンが首を傾げた事は、それ以外にも多々ある。


 数日一緒にいてわかったが、この男は、人として必要な事が色々と欠落しているのだ。


 彼はとにかくものを知らない。


 いや、正確に言えば、とりあえず、知ってはいるのだ。


 この男は頭の中に書棚でも詰め込んでいそうな程、その知識は豊富だが、それらを実際に活用したことがないため、応用が利かないのだろう。


 極端に言えば、最初のお茶くみも、茶葉は茶葉、茶器は茶器と、物のひとつひとつは認識できても、それらを組み合わせてお茶を入れるという行為になると、途端にどうして良いのかわからなくなってしまうらしい。


 他にも細かい事を掲げたらきりがないのだが、とにかく、よくもここまで生きて来られたものだとマリオンも思わず感心したほどだ。


 最初は、どこかの上流階級出身者で、全てお仕着せの生活を送っていた為に、そういった世俗的な行為が身に付いていないのかとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。彼の過去を聞き出す事は出来なかったが、人にはそれぞれ、今までの経験で培った無意識の行動というものがある。彼女は彼の中に、いわゆる貴族的な部分を見出す事は出来なかった。


 それでも……町や村で暮らす、労働階級者にも見えないのだが。


 行動にも奇妙な点が多く、彼女が夜中にふと目覚めて庭をのぞくと、この男は芝生の上に立ってぼんやりとしていた。翌朝にそのことを尋ねると、「月が動くのを見ていた」と、いう返事が来てあきれかえったものだ。


「……本当、あなたは変わっているわね」


 マリオンは自身の考察を終了し、大きく息を吐く。


「それより、あなた。本気でうちの使用人にならない? もちろん、お給金は出すわよ」


 色々と問題は多いが、マリオンは彼の事を気に入っていた。


 ものは知らなくとも覚えは良いのだ、きっちり仕込めばお茶くみからもすぐに昇格するだろう。


「はぁ、ですが借金の方が……」


「あんなもの、どうにでもなるわ。それに、あの傭兵もこんな額、払えっこないわ。今頃荷物まとめて町から出ているわよ」


「イリューザさんは、ちゃんとお金を返しに来ますよ」


 シオの穏やかな物言いにマリオンは苛立たしげに髪をかき上げる。


「あのねぇ……素人が一日や二日でどうやってあの額を弾き出すの。他人を信用するのもたいがいにして、あなたもこれからの身の振り方を考えたら?」


 そう言われ、シオはきょとんとした顔をする。


 しばしそのまま黙考するが、すぐに答えが出たらしく、彼は笑った。


「でしたら、私の行動は決まっています。今までと同じように旅を続けますよ」


 あっさりと自分の誘いを断られ、マリオンはむっとした顔をする。


 自分がここまで目をかけてやっているのに、なんて恩知らずな男だと思ったが、この男の性格ならやりかねないと変に納得している部分もあった。


「旅暮らしなんて、続けても面倒なだけよ。定期的な収入を得られなければ、すぐに食うに困るわ。ここいらで見切りを付けて、少しは安定した生活というものを考えてみたらどう?」


「そうはいかないのです。私には会わなければならない人がいるので」


「待ち合わせでもしているの? それにしては、焦っているようにも見えないわね。誰なの、その人?」


 マリオンの指摘に、彼は少し困ったような顔をする。


 何か、言いにくい事情でもあるのだろうと思ったが、ここまで自分の誘いを邪険にされては、マリオンも半ば意地になってくる。


「特に、約束をしているわけではないので。けれど、行かなければならないのです」


 まただ、とマリオンは苛立つ。


 彼は穏やかに笑い、話すが、自分の喋りたくない事はどれだけ突っ込もうとも決して口を割らない。それでも話術で相手の注意をそらす事も出来ないのか、最終的には笑って黙りを通す羽目になっている。


 今日のマリオンは、自分でもわかるほどかなり意地になっていた。


 どうやっても、この青年から全てを聞き出したい。


 好奇心というより、はっきりと彼に興味があった。


「なんの為に、会いに行くの?」


 マリオンはうつむいた彼の正面に回り込み、無理矢理彼と目を合わせる。


 急に接近した彼女に、シオの薄氷色の瞳が戸惑いに揺れていた。


「それは……」


「会って、どうするの?」


 マリオンは半歩後退した彼の腕を掴み、これ以上逃がさないとばかりに詰め寄る。


 しかし返ってきた答えは、


「ーーーどうしましょうか」


 何とも言えないもので、シオは自分でもわかっているのか、情けなく笑う。


「会って、何を話すのか。そもそも、会うような理由など、ないのかもしれません」


 一瞬、彼は顔を歪める。


 その表情に、マリオンは胸に突き刺すような痛みを覚えた。


 ーーー泣くのかと思った。


 だが彼は何事もなかったように微笑むと、ゆっくりマリオンの腕を解いた。


「あなたの申し出は大変嬉しいのですが……。それでも、私は行きます」


 申し訳ない、と彼は軽く頭を下げた。


 そんな様子に、マリオンは呆れたような表情を向けた。


「……本当、変なのを持って帰ってしまったわ。まぁいいわ。仕事の件は、考えておいてね」


 彼女は踵を返し、執務机の上に置いていたベルを鳴らす。


 一日中書類とにらめっこして為、すっかり身体が強張ってしまった。


 湯にでも入って温まろうと思い、入ってきた使用人に湯浴みの用意をするよう告げた。










(5)





 翌朝、快晴の空の下、メイシアとイリューザは書類片手に屋敷に乗り込んだ。


 午前の、それもかなり早い時間帯だったが、二人は追い返される事も待たされる事もなく応接室に案内され、マリオンもシオを連れてすぐに現れた。


 使用人の報告がよほど信じられなかったらしい。


 早朝だというのに、マリオンはきっちり身だしなみを整えてから現れた。それでも出て来るまでに大した間もなかったところを見ると、常に朝起きてからすぐに着替えて化粧しているらしい。


 こういった突発的な訪問者の為の用意なのか、彼女の性格からなのか……メイシアは、勝手に後者と判断した。


「借金を返しに来たと聞いたのだけど、もし冗談なら返済日を早めるわよ」


 マリオンは、驚きと多少の苛立ちを交えた顔で腕組みする。きつい印象を与える顔立ちだが、そんな表情も迫力があって美しいと感じる。


「美人って、どんな顔をしても様になるのね」


 正直、メイシアは彼女の美貌がうらやましかった。


 マリオンは勝手に上座に座っているイリューザを一瞥すると、空いているソファーに腰掛ける。シオは付き人よろしくその後ろに控えていた。


「で、本当のところはどうなの?」


 相変わらず威高げな態度だが、それでもイリューザの持ってきた話が気になるらしい。


「おう、姉ちゃん。そのことでちょいと話があるんだがよ」


 ちょいちょいと手招きされ、マリオンは嫌そうな顔をしながらもイリューザの側に歩み寄る。


「あの、借金が返せるとは本当ですか?」


 話に入れないシオとメイシアは、自然と二人だけ小声で会話を始める。


「そうね。大体は、本当のことよ」


「……は?」


 メイシアの言葉がわからないと、シオは首を傾げる。


「うーん。とにかく、イリューザがあの人を説得できるかどうかにかかっているわ」


「そうですか。それはがんばっていただかなければ」


「別に、借金返せてもそうでなくても、シオはここに残って良いのよ」


 メイシアは息を吐くと、何も置かれていないテーブルを眺める。あまりに早く主人が現れた為か、そこにはお茶のひとつもない。


 シオはメイシアの言葉が意外だったのか、困ったような顔をした。


「あの、私にそんなつもりはありませんが。それに、私がここに残ったとして、メイシアさんはどうするのです」


「……イリューザについて行こうかな、とは思ったけどね」


 本当に、一瞬だけだが。


 それでも、その誘いを断る事を惜しいと思っている自分もいた。


 逆に、真実を知りたいとわめき散らす自分もまた、しっかり存在しているのだが。


「シオって案外口が堅いのよね。この分だと、あたしの一生を使ったってあんたから話を聞き出せそうにないわ」


 メイシアはお手上げのポーズを取る。


 シオはそこでようやくメイシアが自分についてきているわけを思い出したのか、あぁ、と呟く。


「そうでしたね。ですが、私もあなたの国を滅ぼした存在を直接見たわけではありませんよ。ただ、後からやって来て、起こった事から推測しただけに過ぎません」


「けど、それが間違っているとは思っていないんでしょ」


「はい」


 いっそ清々しいほどきっぱり言い切られ、メイシアはがくりと肩を落とすが、逆に怒りも湧いてきた。


「あのねぇ、それじゃあ見てきたのと同じ事よ! いつまでも隠してないで、そろそろ白状しなさいってば!!」


 思わず振り返ってシオの襟首を掴むが、揺さぶられながらも彼は平然とした顔をしている。


「ですが、駄目なんです」


「別に、あんたの旅の目的とかまで話さなくて良いから、ただ、テュリエフを水没させた犯人を知りたいの。それだけなんだからっ!」


 水に沈んだ街。


 メイシアはそこに〈竜〉を見た。


 だがきっと、あの街を滅ぼした存在は他にいるのだ。


 その犯人を……全ての背景を、この男が握っている。


「……すみません、どうしても言えないのです」


 シオは寂しそうに笑うと肩を落とす。


 メイシアはそれでも引き下がらないと、口を開きかけたが、彼のかたくなさにその手を離した。


「じゃあ、あたしはやっぱりあんたについて行くわ。嫌なら、振り切って行く事ね」


 そこでイリューザとマリオンの話も終わったらしい。






 大雨でぬかるんだ地面に靴を汚されながら、それでも一行は歩を進める。


「いやーもっとこじれるかと思ったが、あの姉ちゃん案外聞き分けが良かったな」


 わはは、とイリューザは無責任に笑っている。


「……その分、お釣りは貰えなかったけどね」


 メイシアは残念と、肩を落とす。


 証文の支払期限まで返済は待ってもらえたが、その分、多額の釣りはマリオンの懐に収まる事になった。それでも、一行が今からでも街を出ることは了承して貰えたが。


「だいたい、見たことない借金を作らされたあげく、稼ぎは全部相手の懐の入っちゃうなんて、骨折り損のくたびれもうけよ」


 一応、最初の掛け金……つまり、彼らの元あった所持金分は、返してもらえたので、旅を続ける事は出来る。


「でも、服は返してもらえましたよ」


 シオは上等な絹の服より、元着ていた魔導士風の黒ずくめの格好が気に入っているらしい。


 元のように杖を持ち、肩には黒竜のクロツを乗せ、先ほどから妙に機嫌が良い。


「まぁ、あんなひらひらした服じゃあ旅には向いてないだろうけど」


 だがしかし、彼が着ていた服を古着屋に売れば、もっとましな服が買えた上、結構な差額が出たはずだ。


 シオの端がすり切れたマントを見て、メイシアは息を吐く。


 と、それにしてもとシオが首を傾げる。


「イリューザさん、やけに急いでいませんか?」


 三人は屋敷を後にした後、泊まっていた宿屋に戻り、荷物を手にしてそのまま街を出ようとしている。


 先ほどまでは、足りなくなっていた消耗品や携帯食料を購入する為に歩き回っていたが、それにしたところで、いつもなら何かにつけて寄り道をしたがるイリューザにしては珍しいことだ。


「あぁ、お前らもせっかく上手く事が運んだんだ。これ以上厄介ごとに巻き込まれたくはないだろう」


「そうだけど……。あ、そうだ、厄介といえば、シオを捜している人がいたのよ!」


 メイシアは金髪の女神官の存在を思い出す。


 考えてみれば、昨日うやむやのうちに別れてから音沙汰がない。


「あんたはどうか知らないけど、アネクシオスって神官を捜している、同じ宗教の女神官がいるよ。名前はミワ」


 知ってる人? とシオの反応を見る為、顔をのぞき込むが、彼はあっさりと首を振る。


「いえ、そのような方に会った事はないのですが」


 メイシアは彼の言い方に、憮然とする。


 思わず手配書を突きつけて、アネクシオスとシオとの関係を白状させたい衝動に駆られたが、この様子ではのらりくらりとかわされるか、知らないの一点張りだろう。


 それでも一応、引き下がってみる。


 シオはこんな様子でも、その女神官に会わせてみればはっきりするだろう。


「まだ街にはいると思うけど、どうする、捜してみる?」


「やめておけ。それよりさっさとここを出るぞ、でないと日のある内に次の宿までたどり着けねぇぜ」


「んもう、今日はやけにせかすわね。イリューザもさすがにこりたの?」


「言ったろ、厄介ごとに巻き込まれないうちに、逃げるが勝ちさ」


 彼の様子に、さすがにシオも口を挟む。


「イリューザさんがそういうのなら、また何か起こるのですか?」


「起こるはずだ。けど、そこはあの姉ちゃんの手腕に任せた方がいい」


 だから俺達は行くぞ、とイリューザは先を進もうとするが、メイシアはイリューザの服を掴んでその足を止めさせる。


「イリューザ……何があるの?」


 彼は面倒くさそうに頭をかくと、言った。


「賭博で負けた奴が、いつも引き下がるとは限らねぇよ」


 イリューザは膨れあがった借金を、新たな場所で調達した。つまり、金を奪われて怒りを覚えた者達がいる。


「レートの高い場所は、それ相応に荒っぽい奴らが集まるからな。それに、イカサマに気づいた奴もいる。そうなったら……黙っちゃいないよな」


 昨日は折しも大雨。


 いくら頭に血が上っていても、相手の所にずぶ濡れで乗り込んでは格好が付かない。


 そして、明けて今日。天気は快晴。日も中天から傾き始めている。最近は日が短いのでもう少し経てば人通りも少なくなるだろう。


「夕方から晩にかけてはやばい。だから俺達はさっさと出て行くに限るのさ」


「だけど……」


 メイシアは言葉を詰まらせる。


 イリューザは自分の言っている意味がわかっているのだろうか。


 これから相手に何かが起こる。それを知りながらも……いや、自分からけしかけておいて、起こる事を無視して出て行こうとしている。


 もしかすると、これが彼流の仕返しなのかも知れない。


 それでも……


「私、行ってきます」


 シオは素早く身を翻し、通りの向こうに走って行った。


 行き先は聞かずとも、マリオンの屋敷だろう。


「ちょっと、シオ!」


 止める暇もなく、彼の姿は雑踏の向こうへ消えていった。


「やれやれ、だから早めに出るって言っただろうに」


「………………」


 確かに、危ないとわかっている場所に戻るのは愚かだし、恩義を感じるような相手でもない。


「シオ……」


 シオが有無を言わさぬ勢いでマリオンの元へ戻った事に、メイシアの胸はちりりと痛みを覚えたが、それでも……彼の行動に、どこか安堵している自分がいた。






 砕け散ったガラスの破片が、鋭利な光を弾いて室内に殺到してきた。


 窓ガラスを割り、床の上でごろりと転がったものに、マリオンは戦慄する。


 それは酒瓶の口に布を詰め込み、そこに火を点けたものーーー火炎瓶だった。


 ごろごろと床を転がる瓶の中に揺れる液体は、可燃性のある液体か、度の強い酒だろう。


 そこまで考えた後、マリオンは舌打ちする。


 窓に駆け寄って外の様子を確かめたい衝動に駆られたが、屋敷の各所から同じようにガラスの割れる音と、使用人の悲鳴が聞こえてきた為、諦めた。下手にここに人がいる事を示しては、そこを集中的に狙われかねない。


 マリオンの部屋に入ってきた火炎瓶は、火の勢いが弱かった為、そのまま消えた。


 だが安心は出来なかったので、近くの花瓶を取ってくると生けてあった花を捨て、中の水を瓶にぶちまけた。そして花瓶は適当に机の上に置くと、彼女は状況を確認する為に部屋から出て行った。






 予想通り、屋敷の、それも通りに面した側の窓は、ほぼ全滅だった。


 使用人達をひとつの部屋にまとめ、ざっと屋敷の被害を確認した後、彼女もまた、同じ部屋へ戻った。


「……囲まれているわね」


 マリオンは、厚い生地のカーテンの隙間から外をうかがう。


 既に夕闇が訪れている為、はっきりと人数まではわからないが、松明を持った人間が見える範囲だけで十人はいる。恐らく、屋敷の外壁に沿って見張りが立っているのだろう。


「狙いは、あの証文ね」


 マリオンは舌打ちする。


 うかつだった。


 いくら賭博を行ったのが通りすがりの傭兵でも、支払いがドゥエルグ商会では彼らの怒りの矛先はこちらに向いてしまう。


 恐らく、相手も命を取ろうとまでは思っていないはずだろうし、そこまでするメリットがない。


 いくら小娘でも、マリオンはドゥエルグ商会の者だ。もし、会長の怒りを買えば、即座に何らかの経済的な制裁が加えられる。そうなると、街をねぐらにしているチンピラ達にはかなり都合が悪い事になるだろう。


 故に、恐怖で押さえつけ、マリオンが証文を破り捨てるのを待っているのだ。


「こんな紙切れ、別にいつだってゴミにしてあげるわ」


 本当に手に入れたいものは、さっさと出て行ってしまった。


 マリオンは深く息を吐く。


 と、ものすごい勢いで身なりの良い老人が転がり込んで来る。


「お嬢様!」


 幼い頃から家に仕えていた為、今でもマリオンを「お嬢様」と呼ぶ。その為に、未だに自分が小さな少女のような気がして多少腹立たしい思いをしていたが、言っても聞かないし、幼い頃から自分を知っている分、色々なところで頭が上がらない。


 そして彼は荷を管理する為、朝から屋敷を出ていたはずだ。


 良く無事に屋敷に入ってこられたものだと安堵していると、老人は息を切らしながらも悲痛な声で叫んだ。


「倉庫に火がかけられました! 消火を急がせていますが、恐らく、荷は全滅でしょう!」


「なんですって!」


 思わずマリオンは柳眉をつり上げ、その美しい顔を歪める。


 初めての仕事だというのに、このなんたる有様だ。


「……よくも」


 マリオンは奥歯をかみしめる。


 これでは自分はなんの為にこの街までやって来たのかわからない。


 それにこのまま仕事を完遂させずに戻っては、一族のいい笑い者だ。


「よくも、やってくれたわね!」


 マリオンの中で激しい怒りが吹き出す。


 今までは、証文や損傷を受けた屋敷など、気にもとめなかったが、彼らはとうとうマリオンの逆鱗に触れてしまったのだ。


 だがいくら怒りに震えても、マリオンは爪も牙も持たないただの小娘だ。


 今屋敷に残っているのは、ほとんどが自分の世話をする為に連れてきた女中ばかり。雇っていた術者はシオにやられ、役には立たない。この街に来た当初、何人か腕っ節の強い者を雇ってはいたが、どうやらこの騒ぎが始まった最初に逃げ出したらしく、どこにもいなかった。


 悔しかった。


 証文を破れば彼らは引き下がるだろう。


 だが、燃えた荷は戻らない。


 マリオンは怒りに震える手でカーテンを勢いよく開け放つ。


 後ろで老執事の制止の声が聞こえたが、マリオンの耳には届かない。


 窓を開け放ち、怒りにまかせて叫ぼうとした、その時。


 何かが視界の端をかすめる。


「ーーー鳥?」


 黒いそれは中空で庭を一周すると、急降下する。


 その先には何者かの姿があった。


 遠くて人相までははっきりしないが、白っぽい髪をしている。


「っ、シオ!?」


 まさかと思いながらも、マリオンは反射的に駆け出していた。






 屋敷まで届かなかった火炎瓶は、周囲の樹木に火を点け、庭はかがり火を焚いたようになっている。


 炎の照り返しの中、男は飛来した生物ーーー黒竜に片手を掲げる。すると、竜はそこが定位置とばかりに、素直に男の肩に収まる。


 そこに立っていたのは、銀の髪を長く伸ばした男だった。


 マリオンは息を切らしながら男に駆け寄ろうとし……あと少しのところで、足を止めた。


 背を向けている彼に、違和感を覚える。


 何かが違う、と頭の中で警告する声が上がった。


「あなた……誰?」


 思わず、そう問いかけずにはいられなかった。


 男はかけられた声に肩越しに振り返ったが、質問には応えず、ただ口元だけを笑みの形につり上げると、マリオンに背を向けて歩き出した。


 彼女は呆然と、男が去って行くのを見送っていた。


「いたぞ!」


 突然の声に弾かれたように顔を上げると、塀の上から男が自分を指さしているではないか。


「女はあそこだ!!」


 塀を乗り越えた男達が目を血走らせ、殺気を放出しながら近づいてくる。


 マリオンは身を翻して駆け出したが、足がもつれ、思うように走れない。


「誰が、こんな奴等なんかに!」


 こんなところでもたついている暇はないのだ。


 自分はもっともっと先へ進まなければならない。


 甘やかして娘の機嫌を取る事だけしか考えない父親。


 女だからと笑って相手にしない兄たち。


 彼女の上っ面だけしか見ない者。


 今までの積もった感情に、マリオンは身震いする。


 だが今の彼女は無力な、ただの女だった。


 足を引っかけ、よろめいて倒れた彼女に荒々しい靴音が迫ってくる。


「……いやっ!」


 小さく悲鳴を上げてマリオンは固く目を閉じる。


 そして次の瞬間、周囲の視界は光によって閉ざされた。


 地面に重く何かが倒れる音が複数、そして駆け寄ってくる足音がひとつ。


「マリオンさん!」


 かけられた声の意味がわからず、マリオンはびくりと肩を震わせると、そこに労るような仕草で手が置かれた。


「大丈夫ですか?」


 優しい声音に目を開けると、そこには銀髪の青年がいて、膝をついて自分をのぞき込んでいる。


「あなた……シオよね」


 信じられない、とマリオンは男の去った方向と、自分の目の前にいる青年とを見比べる。


「はい、そうですよ」


 怪我はありませんか、とシオの言葉はどこまでも優しい。


 そこでマリオンの中で何かが弾けた。


「……っ!」


 思わずマリオンは、シオの胸に倒れ込むようにしてすがりつく。シオはそれをしっかりと受け止め、子供を慈しむようにゆっくりと背をなでた。


「マリオンさん、遅くなってすみませんでした」


 遅いも何も、戻ってくる事が信じられなかった。


 マリオンは彼の存在を確かめる為、ますます腕に力を込める。


 そして、言った。


「私……さっき、あなたを見たわ」


 しがみついている彼の身体が、わずかに反応する。


「その人は、肩に小さな黒い竜を乗せていたの」


 今、彼の肩に黒竜はいなかった。


「ーーーそうですか」


「何も言ってくれないのね」


「すみません」


「いいのよ、謝らなくて」


「……行きましょう。いつまでもここにいては危ないですよ」


 マリオンはシオに支えられて歩き出しながらも、視線は男の消えた方向から離れなかった。






 シオに連れられて再び屋敷の中に戻ると、そこには先ほど別れたはずの傭兵と、一緒にいた少女がいてマリオンは首を傾げた。


「どうして戻って来たの? 借金の話なら終わったはずよ」


「おいおい、こんな状況でもまだ意地はってんのか」


 イリューザがおどけたように肩をすくめ、マリオンがひと睨みすると「おお怖い怖い」とわざとらしくメイシアの後ろに逃げる。


「なによ、シオに助けてもらったのに。少しはお礼とか言ったらどうなの?」


 言われて初めてマリオンは、自分の後ろに影のように付き従っていたシオを振り仰ぐ。


 彼はマリオンが顔を向けると、微笑する。


「マリオンさんが無事で良かったですよ」


 その柔らかい物腰に、マリオンも肩の力を抜く。


 そうだ、彼らとの話は既に終わっている。


 故に、戻ってくる義理などないし……今までの経緯を思えば、むしろ手を叩いて喜んでいても不思議ではない。


 それでも、彼は戻ってきてくれた。


 あのまま男達に追いつかれていれば、自分はどうなっていたかわからない。


 助けの手が、嬉しかった。


 だからマリオンは素直に頭を下げた。


「ありがとう、シオ」


 言葉を受け、シオは嬉しそうに笑った。


「……それにしても、こうなることは、はじめから予測していたの?」


 マリオンはイリューザに向き直る。


「ここまで上手くいくとは思わなかったけどよ。けど、さすがに今ここにあんたを置いていくわけにはいかねぇな」


 ちらりと見た外には、松明を掲げた男達の姿がある。


 先ほどよりも、妙に殺気だった声が聞こえると思っていると、イリューザが屋敷に突入する際、かなり無理を押し通してきたかららしい。


「けど、どうするの。入る事は出来ても、逃げ切るのは難しいわよ」


 マリオンの言葉に、イリューザはにやりと人を食った笑みを見せる。


「俺を雇わねぇか? どうせこうなった以上、あの書類は無効だろう。だから、払えなくなった借金の代わりに働いてやるよ」


 彼は得意げに胸を反らし、後ろでメイシアが肩を落とす。


 マリオンは傭兵と、場に残っている者達を見て、腹を決めた。


「ーーーもう少し同行者を増やして構わないかしら。ここにいる者達全員を連れて行きたいの」


 専属で屋敷を見ていた者達は、とっくの昔に逃げ出している。残っているのは、土地勘のない、マリオンが自分の身の回りを世話する為に連れてきた、比較的若い女中ばかりだ。


 少ないといっても、逃げる者と守る者を合わせると、一行は十人以上になってしまう。


 しかしイリューザは全く気にせず、シオに向き直る。


「どうするよ、先約の雇い主さん」


「私は構いませんよ」


 シオもまた、まったく躊躇せずに言った。






 街の中、一角だけが赤々と昼間のように明るくなっている。


 火がかけられた屋敷、炎が闇をなめるように空を赤く染めている。


 マリオンはそれを真っ直ぐに見据えていた。


「気丈な女だ」


 イリューザは感嘆する。


 何もマリオンを侮っていたわけではないが、なにぶんまだ若い。本人の自尊心もあるのだろうが、一緒に連れ出した女中などうずくまってすすり泣いているというのに。


 先ほどなど、彼女は女達の肩に手を置いて、何やら話していた。


 恐らく、元気づけていたのだろう。


 高飛車で、傲慢な女性だが、逆に自分よりも弱い存在には優しさをかい間見せる。


「本当にいい女だ」


 あと五年もすれば誰もが一目置くーーーそれは、外面ではなく内面的なものも含めてーーーそんな存在に化けるだろう。


「さて、行くか」


 いくら哀れに思えても、いつまでもこの場に留まっていても仕方がない。それに彼女たちの向かう港町は、北に進路を取る彼らと方向が違う。


 イリューザの声に、マリオンは顔を上げた。


 そして彼の側まで歩み寄ってくると、苦々しげに吐き捨てる。


「私の完敗だわ。今あなたも、小娘の醜態をあざ笑っているのでしょう?」


「そこまでは思ってねぇよ。ただ人間って奴はつまんないミスはするし、何より……感情ってもんがある。自分の思い通りに運んでみせると思っていると、何時どんなところで足下すくわれるかわかんねぇぞ」


「肝に銘じておくわ」


「まぁ、この宿場町は駄目かもしれねぇが、あんたの組織が押さえているのはここだけじゃねぇはずだし、機会があればまた取り戻せるさ」


「……そうね」




 そして彼らは街道の分岐点まで進んだ後……それぞれの道を進んで行った。











(6)





「あーーーっ!」


 メイシアはその声を聞いた途端に走り出した。


 例の宿場町を出てから五日。一行は街道沿いにある小さな村にいた。小さいといっても、それは前回のような宿場町と比較しての話で、その村はなかなかの規模があった。そして、一行がなぜこの村に足を止めたかというと、宿場町から逃げるように出て行った為、町でそろえきれなかった消耗品を買う為だった。その為に一行は拠点となる宿を取り、シオはイリューザと買い物に行った。だが、きっとシオはイリューザに引きずり回され、当分帰って来ないだろう。それならとメイシアも一人、露店をのぞきに出たのだった。


 そしてのんびり歩いていたところ、あんな叫びを耳にしてしまったのだ。


「…………」


 その声を無視し、ただひたすらにメイシアは歩く。焼けた肉の香ばしい臭いが漂ってきても、遠い地方の布地を見せびらかす店員がいても、銀細工を安く売る露店があってもとにかく無視してメイシアは進む。


「どうして無視なさるのです。折角もう一度会えたのに、この間のお礼もまだですわ」


「ふふふ……一体どんなお礼かしらね……」


 背後の声にメイシアはげんなりと肩を落とす。


 村の市場を端から端まで歩き、さらに二往復してもまだ声はついてくる。いっそのこと一度村を抜けて、全力疾走でまいてしまおうとさえ思った。


 だがいつの間にか声は消え、代わりにこんな言葉が耳に入る。


「おい、姉さん大丈夫か?」


「神官さんが倒れたぞ」


「なんだい、行き倒れかよ」


 あの時、強固な意思を持って振り切っていればとメイシアは後々後悔することになる。


 だがメイシアは薄情になりきれず、色々と考えて悩みながらも踵を返す。


 振り返った先。地面にうつぶせに倒れている女神官は、どう客観的に見ても行き倒れにしか見えなかった。


「……ミワ、大丈夫?」


 メイシアの後悔は、既に始まっていた。






 先日、うやむやのうちに別れてしまった女神官ミワは、宿屋の食堂で思う存分食欲を満たしていた。


 そして旺盛に食べつつ、これまでの経緯とやらを聞きもしないのに語ってくれた。


「あの日、晩から雨が降り出したのでしかたなくあの方を探すのは諦めて大人しくしていたのですよ。そして、また翌朝から探しに出たのですが、その時にはもうメイシアさんは宿を引き払った後でしたのね。間が悪かったですわ」


 そう、メイシアとイリューザはイカサマ賭博でこしらえた架空の借金を返済する為に朝からドゥエルグ商会の屋敷へ向かったのだ。その時、ミワとは入れ違いになってしまったのだろう。


「ずいぶんあの街でもあの方を探し回りましたが成果は上がらず、しかもなんだかあの街も火事が起こったりと不穏な雰囲気になってきたので宿場町を出て、ひとまず北へと進路を取ったのです。でも、その後は街道に出るまでさんざん道に迷い、食べるものもなく。本当に死ぬかと思いましたわ」


 ミワは笑顔でスプーンを握りしめる。メイシアは笑うのに、片頬が引きつるのがわかった。


 この女神官が人捜しをしている事は、メイシアも聞いた。そして、その相手が、シオに良く似ている人物だという事も彼女は気づいていた。気づきながらも、街を出る際にミワを捜さなかったのは、それだけ余裕がなかったからだ。


 メイシアは懐に入れている件の神官が描かれた手配書の存在を思い出し、そして、シオとの関係を……自分の想像を語るべきか考え込む。


 そう、魔導士シオと神官アネクシオスは同一人物かもしれない。


 あくまでそのことはメイシアの想像でしかない。だが、一笑に伏すには互いの外見特徴はよく似通っている。


 だがその想像も、実際にこの女神官と魔導士を会わせてみれば解決するだろう。


 別人ならば、それでかまわない。もっとも、大量殺人の嫌疑をかけられた神官に似ていると本人に告げるのはいささかためらいがあったが。


 もしかすると、二人を引き合わす事でメイシアが求める真実に近づけるかも知れない。


 メイシアは無意識のうちに、懐にある手配書を押さえる。


「あの……」


 控えめにかけられた声に、メイシアは意識を引き戻す。


 見るとミワは出された料理をパンくずの欠片ひとつ残すことなくきれいに皿を空にしていた。


「あ、ごめん。ちょっとぼんやりしていた」


 メイシアがミワの方に向き直ると、女神官はきょろきょろと落ち着かない様子で周囲を眺めている。


「ミワ、どうかしたの?」


「いえ、その……今日は、黒竜を連れていないのですね」


 ミワの言葉に、メイシアはあぁ、とつぶやく。確かに、初めて会った時は護衛代わりに肩に黒竜のクロツを乗せていたが、今日はシオがそのまま連れて行ってしまった。


「あの竜なら、飼い主と一緒に買い物中よ」


「そ、そうなのですか……」


 落胆と動揺の表情を浮かべ、ミワは肩を落とす。


(すごくわかりやすい人ね)


 恐らく、この場に黒竜の飼い主がいない事で気を落とし、それでも相手に近づいている事で落ち着かなくなっているのだろう。


「あいつなら、もうじき帰って来るわよ」


 心の中で、あの押しかけ傭兵がまた問題を起こさなければ、と付け足す。


「…………はい」


 短い沈黙の後、ミワはぽつりと呟く。


 細い肩が、小刻みに震えている。服の端を握りしめた指が筋に見えるほど力が込められている。


 そのまま、互いに交わす言葉もなく、どうにも落ち着かない静寂が互いの間に流れる。


 いい加減、それに耐えきれなくなった頃……ほんの少し、太陽が傾いた時分、戸口からやけにうるさい足音と声が乱入してきた。


「よお、嬢ちゃん帰ってたのか」


 無遠慮に入って来たイリューザは、上機嫌でこちらに手を振りながらテーブルに近づいてくる。その巨体の後ろを地味に歩いて来るのは、件の魔導士だ。


 メイシアはようやく痛々しい間から解放され、笑顔で手を振る。


「シオ、イリューザ。お帰り。えーと、シオは初対面だと思うけど、この間ほら、言っていた神官のミワよ」


 手で女神官を指し示す。と、がたんと大きな音がしてメイシアは振り返る。見ると、ミワが立ち上がっていた。勢いがついていたのか、椅子が後ろに倒れている。当人は、まるで自分のやった行動やメイシアの言葉が聞こえていないのか、立ちつくしたまま呆然と一点を見ていた。


 黒衣の魔導士を。


「……ミワ?」


 怪訝に思って彼女をのぞき込む。しかしミワは口元に手を当て、心なしか震えているように見えた。血の気が失せつつある唇は、ただ黙している。


 場にいた全員、動けなくなっていた。


 長い……いや、実際には感じているよりももっと短かったのかも知れない……迷いを帯びたような間の後、ミワはやっとという感じで呟く。


「……ア、アネクシオス様……」


 その言葉に驚いたのは、メイシアだけだった。しかし残り二人も事態の異常さは理解出来たらしい。


「おい、いったい何がどうなったんだ?」


「えぇっと……」


 メイシアはミワとシオの顔を交互に眺めながら、事情を説明する為の言葉を探したが、どうにも適切な文句が出てこない。


「なんて言ったらいいのかわからないんだけど、その、あの……」


 ちらりとミワを見やると、彼女は杖を握りしめ走り出したところだった。


 今まで見てきた、どうにもとろくさい動きではない。素早くテーブルの間を駆け抜けると、杖を振り上げーーーその先にいた人物に向かって振り下ろす。


 立ち尽くしている魔導士に向かって。


「っ、シオっ!?」


 避けられなくもない距離と早さだったのだが、シオがよほどぼんやりしていたのか、彼の反射神経が鈍いだけだったのか……。


 シオは脳天に一撃を食らった。


 その勢いのまま、ばったりとシオは後ろに倒れて動かなくなる。慌ててメイシアが駆け寄ったが、彼は失神していた。


「ちょっとシオ、大丈夫!? イリューザも見てないで部屋まで運んでよっ!!」


 一人錯乱するメイシア。


 それを面白そうに観察するイリューザ。


 そして、殴った本人であるミワは杖を持ったまま呆然としていた。


「ミワっ! 神官がいきなり人を殴っていいと思ってるのっ!?」


「いえ、あの方ならこれくらい避けられると思いましたし。それに、この程度では死にませんわ」


「死ななくても痛い!」


「ーーーあら?」


 ミワは悪びれた様子もなく倒れたシオに歩み寄ると、しゃがみ込んでその顔をのぞき込む。


「あらあら……」


 そして、髪を引っ張ったり頬をつねったりしてみる。


「ちょっと、どうかしたの?」


 メイシアの剣呑な眼差しと声を受けても、ミワは平然とした様子でシオをいじっていたが、やがてすっと立ち上がる。


「すみません、人違いみたいです」


 ミワはにっこり笑ってそのまま走り去ってしまった。


「な……何だったの、一体……」


「さてね……」


「人違いって、シオは神官アネクシオスじゃなかったわけ?」


 その疑問に答える人間は、この場に存在しなかった。


「なんだかよくわからんが、とりあえずこいつをどうにかするか……」


 腕を肩に回し、気を失ったシオを脇で抱えるようにしてイリューザは歩き出す。


 そして、シオを部屋に寝かせた後、メイシアは宿屋の主人にミワの食事代を請求された。


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